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今までと同じように茶を1杯ずつ差し出す。
その行為自体に変化は無いし、茶に何かを混ぜたりもしない。
ただ、10杯の茶の組み合わせを工夫しただけだ。
すると、6杯目を飲んだところでその効果が現れ始めた。
雪実は左手の親指と人差し指で頬を下から摘み、源之助さんは頭を掻きむしりながら悩んでいる。
ふたりの様子を確認していた藤原さんと顔を見合せ、小さく頷く。
7杯目、8杯目と進み、いよいよ最後の10杯目を飲むと、ふたりの困惑の色はさらに増した。
ふたりはそれぞれ頬を抓ったり、頭の上に指を置いて頭皮のマッサージをしたりして唸っている。
私の策略に見事嵌ってくれた。
さらにここに、ふたりの焦燥感を煽るため、条件を加える。
「今回は記入時間120秒ね。いまから私が数えるから。その時点で書けなかった分は無効だよ。始め」
スマホのストップウォッチ機能を使って測り出すと、ふたりは慌てて紙を取って考え始めた。
ふたりの鉛筆が中々進まない。
焦りからか、ふたりはどんどん顔を紅潮させながら、残り時間に扇動されるかのようにゆっくりと鉛筆を用紙の上に滑らせていく。
「10、9、8、7⋯⋯」
ラスト10秒を数え始めると、ふたりとも勢いに任せて書ききった。
それはさながら、テスト終了前に無理矢理空白を埋める全国の子供達のようだ。
「2、1、0。はい終了」
ふたりは私達の方に紙を置き、それを受け取って答え合わせをする。
今回の勝負では、事前に紙に入れる順番など書いていない。
だから私は、茶を入れる度に藤原さんにその銘柄をしっかりと見せた。
『静岡茶、静岡茶、静岡茶、静岡茶、静岡茶』
5杯目まではふたりとも正解している。
だがついに、ふたりの解答に相違が生まれた。
『静岡茶』
『宇治茶』
雪実は6杯目も静岡茶を、源之助さんは狭山茶と書いた。
その後はふたりとも全く同じ解答となっており片方は合っている。つまりこの6杯目の正誤で決まることとなった。
結果を伝える前に、私は衝立を持ち、壁際に添わせておいた。
衝立から顔を覗かせながら結末を伝えるのは、どうにも格好がつかないと思ったのだ。
発表の前に衝立を除けたことによって、ふたりとも決着が着いたことを悟ったに違いない。
ふたりは額に汗を滴らせながら、1度お互いを見合わせると、柔らかな目で私を見つめた。
「終わったよ。この勝負⋯⋯」
伝える寸前、私の目線は無意識に勝利者の方へ向いた。
「雪実の勝ちだよ。おめでとう」
その瞬間、雪実は大きく目を見開きながら、長く息を吐いて姿勢を崩した。
今までのぴんと伸びた背筋は後ろに反り、両手を畳につけた。
勝敗を分けた6杯目の茶、あそこで続けて静岡茶を選んだ雪実の選択は正しかった。
今回私は、1から9杯目まで全て静岡茶を入れた。
それは途中で、ふたりを混乱させるためである。
テストの選択問題で同じ番号の解答が続けば不安になるように、同じ茶が続くと勝手に疑心暗鬼に陥ると想像したのだ。
そして最後の1敗に宇治茶を出すことで、源之助さんはこう思ったに違いない。
──もしかしたらさっきのお茶も違っていたかも。
その思考がたまたま源之助さんの場合6杯目の静岡茶に向けられたのだ。
まさか上手くいくとも思わず、源之助さんを出し抜いたことに密かな高揚感が湧く。
「ああ、ようやく終わったか」
雪実の顔は嬉々としているというよりも、安堵に包まれていた。
対して、最後の最後で敗れてしまった源之助さんは、その場で背を丸めて顔を伏せてしまっている。
だが微かに見える口元は、雪実よりも嬉々として笑っている。
「いやぁ、楽しかった」
源之助さんは俯いたまま声を弾ませた。
ふたりの様子だけ見ていると、どちらが勝者か分からない。
「今まで何度も博打を打ってきたが、ようやく最後にこんな心躍る勝負が出来るとは」
そう言って顔を上げると、源之助さんは顔をシワだらけにしながら薄く消え入りそうな笑みを浮かべた。
「はじめて興じたとはいっても、やっぱり勝ちたかったなぁ。でもたとえ勝っていても、この喜びは味わえなかったか」
いや、薄く消え入るというより、身体中がまるで消える前兆を思わせるかのごとく、淡い光を放って色が薄く透明になっていく。
「雪実、千夏、春乃、そしてそこの少年。こんな未練がましい亡者の願いを聞いてくれてありがとう。これでようやく、俺もあいつのところに行ける」
「え⋯⋯ちょ、ちょっと源之助さん⋯⋯」
源之助さんの身体と衣服は小さな光の粒子となって、下半身から徐々に空中に散らばって失われていく。
まさか、満足したから成仏するとでも言うのだろうか。だがそれなら、もっとこの学校の幽霊達は成仏していいはずだ。
「お、おい待て。何処へゆく」
慌てて四つん這いになって身を乗り出した雪実が茶碗をいくつか倒した。
だがそんなこと気にもとめず、さらに茶碗を転がしながら雪実は源之助さんの前に進んだ。
「負けたら隷属すると約束しただろう。逃げることは許さぬぞ」
雪実は消えゆく源之助さんの両肩を掴もうとしたが、その手は源之助さんの身体をすり抜けた。
「何がどうなっている⋯⋯」
雪実は自分の両手を注意深く見ながら、小さく呟いた。
「申し訳ないな、悪いが千夏ちゃん、俺の代わりにこの男に勝った報酬を与えてやってくれないか。俺はもう行かなきゃならないからさ。本当に、君たちに逢えて良かった。ありがとう」
源之助さんはそう言って私に向かって笑いかけると、その身体を完全にこの場から消失させた。
光の粒子となった身体は、風に吹かれて散り散りになることもなくその輝きを失い、この茶室に残ったのは生者3人と死人1人となった。
源之助さんが消えてから、私達が茶室を出るまで、随分と時間を要した。
────
「そうか、あいつは居なくなったか」
翌日、幽霊の為に開放された屋上で寝転がっている信蔵さんに、昨日のことを伝えた。
フェンスで囲われた屋上に風が吹く。
「生前に未練を残した幽霊は、それが無くなると成仏できると言いますけど、源之助さんはそんなに博打が好きだったんですか」
私が隣に腰を下ろすと、源之助さんは頭の後ろで組んだ腕に力を込め、体を起こした。
「いや、あいつが享楽のために博打を打ったのは、おそらく昨夜のが初めてだろう。いや、もしかしたら生前のどの時間よりも、昨日のその時間が1番幸せだったのかもな」
「え?」
それまで薄ら笑を浮かべていた顔が、真剣味を帯びる。
「生前の源之助さんってどんな人だったんですか?」
「まあ、あいつはな」
そう呟くと、信蔵さんは身体と顔を横に向けたまま、俯いて頭を搔き、大きく深呼吸して腕を組んだ。
「俺とあいつは、子供の時から同じ長屋で住んでたんだが、あんまり遊んだりしなかった。あいつは歳が4つ下だったし、なによりずっと働いてたからな」
「働いていたんですか? そんな子供の時から」
「あの頃は別に子供が働くのは珍しい事じゃなかった。大抵の町民は親の手伝いを小さい頃からしていたしな。だがあいつは少し違う。あいつは外に働きに出ていたんだ」
信蔵さんは昔語りをするように、俯いて一点を見つめたまま続ける。
「あいつが生まれてすぐ、あいつの家は商売に失敗して多額の借金を抱えた。借金を返すために働き詰めだった両親は早々に身体を壊し、あいつも朝から晩まで働いていた。だが子供の稼げる銭なんてたかが知れてる。借金は殆ど減らないし、それどころか父親は本格的な病気になり、あいつの稼いだ金の殆どは医者代に消えていった」
私は源之助さんのことをよく知らない。
だが、信蔵さんが今話している昔話が、源之助さんの事だと中々信じられない。
彼の立ち居振る舞いは、そのような悲惨な過去を匂わせるようなことはなかった。
「それでまあ、13くらいの時、あいつは奉公先の輿屋の主人に気に入られて住み込みで働くようになった。家を出ても、あいつは稼ぎの殆どを両親に送っていた。んで、根が真面目だからあいつはさらに輿屋の主人に気にいられて、そこの娘を貰うことになったんだ。それが確かあいつが15の時で、その娘は年上だった気がする。もしかしたら、昨日よりその瞬間の方が幸せだったかもな」
「それはそうでしょう。だって、結婚したんですよ? それまでそんなに苦労してたなら、それ以上幸せなことなんてあるとは思えませんよ」
疑問形で言う信蔵さんに、つい口を挟んでしまった。
だが信蔵さんは苦笑いすると、ようやく私に顔を向けた。
「俺もそう思うよ。俺自身がそうだったから。その頃俺は結婚して、そのまま長屋に両親と嫁と暮らしてたんだが、ある日あいつが帰ってきたんだ。結婚の報告をしにな。その時久しぶりに会うと、あいつはかなり痩せていて苦労してそうだったよ。でも、嬉しそうに言ったんだ。今度結婚するんだって。俺までなんか幸せな気持ちになったよ。でも不幸が続くやつはとことん連鎖するんだってすぐに教えられたよ」
途中嬉々とした顔を見せたが、直ぐにその目に哀愁が漂った。
「結婚して3年ほどたって、あいつに子供が産まれたんだが、1年経たないうちに夭折した。そして程なくして、あいつの嫁も病で倒れた。さらに追い打ちをかけるように、あいつの両親は妹と共に身を投げた」
「っ⋯⋯な、なんで」
「さあな、それ以上あいつの厄介になるのが申し訳なかったのか、嫁の病のために自分達は見捨てられると思ったのか。何を考えて死を選んだのかは分からない」
壮絶な話に、私の喉からは掠れた声しか出ない。
もはや止めて欲しいとさえ思った。
だがこれを最後まで聞かなければ、なぜ源之助さんが雪実に勝負を挑み、負けても満足して消えていったのかわからないだろう。
「俺は正直、あいつの両親が死んだのを聞いて、ほっとしたんだ。ようやくあいつは解放されるってな。だが源之助はそうは思わなかった。あいつは親と子の死も、妻の病もひとりで背負い込んだ。その後からだ。あいつが酒や博打をやるようになったのは。
何故か知らんがあいつは博打が強くて、そのせいで胴元に目をつけられて喧嘩になり、何度か奉行所に厄介になってたりしていた。俺はその頃、仕事が安定して生活が少し楽になっていたから、よくあいつの様子を見に行ってたんだ。それで、酒や博打に溺れてるようなら殴ってやろうと思った。だがあいつは殆ど変わっていなかった。仕事と外に遊びに行く時以外はずっと嫁さんの看病をしていたし、博打と仕事で得た金を医者代や嫁に滋養のあるものを食べさせるため使い、いつも自分はぼろ切れに身をやつしていた。
そしてほんの少し金が余ると、それで酒を買ってひとりで飲んでた。
だが健気な看病も虚しく、結婚して5年ほどで、あいつはひとりになった。すでに輿屋の主人だった義父も亡くなり、あいつはなんの感情も持たずに仕事をこなすだけの存在になっていた。
時々外に出ると、今度は女遊びまで始める始末だった。きっともう、色々限界だったんだろうな。時々俺も酒の席には付き合ったが、あいつは酔って騒ぐことも美味い肴を食って笑うことも無く、ただ黙々と飲んでいた。そんな時間が過ぎて、気がつくと俺はこの場所にいて、少ししてからあいつもここに来た」
気がつくと、目頭が熱くなり、スカートには、私が零した涙が染みていた。
目頭を撫でると、大粒の涙が手を伝って落ちた。
「おいおい、泣くことないじゃないか。ただの昔話だぞ」
泣いている私に微笑みかけながら、信蔵さんが赤くなった目を擦る。
「今なら分かります⋯⋯源之助さんはただ遊びたかったんですよね。子供みたいに無邪気に誰かと、楽しい時間を過ごしたかったんですよね」
「そうだな。きっとそうに違いない。そしてきっと、自分のために世話を焼いてくれる君達の心が嬉しかったんだ。ずっと人のために生きてきた人生だったから。些細な人の優しさで、あいつは満足出来たんだな」
言い終えると、信蔵さんは空を見上げた。
私も顔を上げてみると、空はまるであの人の成仏を祝うかのように晴れ渡っている。
そういえば、昨日の帰り道も空は満点の星空だった。
「そういえば、あいつは最後に何か言ったか」
「ありがとうって言ってました」
私は空を見上げたまま答えた。
「そうか⋯⋯なら俺からも言わせてくれ。ありがとう。あいつを救ってくれて」
「お礼なら雪実に言ってあげてください。彼が源之助さんの思いに応えたのが全てですから」
屋上に出るドアはほんの少し開かれ、そこから浅葱色の着物が靡くのが微かに見えた。
立ち上がってもう一度ドアを確認すると、着物は見えなくなっていた。