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「はぁ⋯⋯何を言っているんだそなた。私の体はこうして動いておるではないか。ほら、ほら」
雪実は特に狼狽える事もなく、私の肩や腕をペタペタと触り始めた。
セクハラだと言いたいところだが、まだ自分を正しく認識できていないようなので言葉を飲み込む。
「この腕はそなたに触れておるし、この目も鼻も耳も、すべて機能しているではないか」
「あーはい、そうですね」
典型的な幽霊になりたての症状である。
彼らは皆、自分の身体が存在し、周りに触れられる事に違和感を覚える。
──こんなことができる私は幽霊では無い。
それが、大体の人が幽霊になった自分に抱く感情だ。
だがそれは私も最もだと思う。
昔は知らないが、近代日本では人は死ぬと火葬されるのだ。
火葬されれば、残るのは骨だけとなる。
なら幽霊が被っている肉体は一体どこから生まれたのだろうと考える。
「みんなそう言うんですよ死んだ人って。私の学校にも時々新しいのが来ますけど、みんな雪実と同じ反応です」
私の肩を抱いたまま、雪実の体が硬直する。
「なんでそなた⋯⋯既に呼び捨てにしておるのだ。しかも名を⋯⋯私の名を」
「いやだって、幽霊なら気を使う必要も恐れる必要も無いかなって。雪実多分平安くらいの人でしょうけど、死んでたら諱とか気にしなくていいですもんね。だって死んでるんだもん」
「平安⋯⋯? 平安京のことか。私が知る限り鎌倉の方が実質都になっていたぞ。まあ鎌倉は滅ぼされたがな。あと私は死んでいない」
ということは、この男は鎌倉から南北朝くらいの時代の、約700年ほど前の人間のようだ。
幽霊達の出現でいちばん不可思議なことは、死んですぐ幽霊になる人もいれば、何十年、何百年も前に亡くなった人がある日突然幽霊としてこの世に現れる事案があることだ。
「いや、認めてくださいよ。まずこの部屋の予想で鎌倉じゃないことに気づきますよね? 今の元号は令和。あなたの時代からざっと7-00年くらい経ってるんです」
「な、700年⋯⋯まあたしかに⋯⋯さっき外を鉄の鳥が飛んでたし、道には牛のいない牛車が高速ではしってはいるし⋯⋯そもそも見たことないものが幾つもあるが⋯⋯これは夢では無いのか」
「そこまで見たなら認めてくださいよ。まあ夢だと思ってるならそれでもいいですけど。あと牛のいない牛車はただの車でしょ」
「死んだのか⋯⋯全く実感がわかないが⋯⋯いや、死の実感など無くて当然か⋯⋯」
雪実の手が滑り落ちるように私の肩から離れると、そのまま項垂れてドアの方へ向かっていった。
空きっぱなしのドアを背を丸くしながら通過していくその姿には哀愁や悲壮感が漂っている。
床に着物を擦りながら、階段を降りていくのを、私は部屋から顔を覗かせて確認した。
「いっちゃった⋯⋯」
なぜ学校ではなく我が家にという疑問は払拭しないが、これできっと学校へ行くか、そのまま消えて成仏するのだろう。
机の上に散らばった原稿を拾い集め、全部あるか枚数を確認した。
全て揃っていた原稿を机の引き出しに戻し、しばらく窓の外に見える民家の屋根や、表を通る人を眺めながら黄昏ていた。
怪奇現象が起きていたというのに、酷く落ち着いている。
あの学校に入る前の私だったら、間違いなく叫んで家から飛び出していただろう。
喉が渇いたので、私は階段を降りて台所の冷蔵庫を開けた。
透明なプラスチックの容器にほんの少し残った麦茶をコップに注ぎ、ついでにいくつかのお菓子を持って祖母のいる今に向かう。
「おばあちゃーん、クッキー食べる⋯⋯って、ええ!?」
居間には、先程肩を落としながら部屋を退出した雪実と、おばあちゃんが向き合いながら座って湯呑みの茶を嗜んでいた。
私はテーブルに菓子とコップを置くと、すぐさま台所に引き返し、塩を一掴みして走った。
「悪霊退散! 悪鬼滅殺! 臨兵闘者皆陣烈在前!」
「千夏、それはお化け関係ないよ」
祖母の囁きを背に、私は力いっぱい雪実に向かって塩を投げつけた。
「ぐっ、何をする千夏」
雪実は手で顔を覆って叫んだ。
あんたこそ何私を呼び捨てにしてるんだと、手のひらに残った塩を更に投げつける。
だが雪実の体から煙が出ることも水分が抜けて溶けだす事もなく、目だけ真っ赤にしてそのままの姿でいる。
「こらこら千夏、仮粧坂さんに何するの」
おばあちゃんが小さい子を宥めるように腰を上げて私の腕を引っ張る。
だが力は無く、本気で怒っている様子では無い。
「おばあちゃん! この人幽霊なんだよっ」
「うん知ってる。さっき聞いたよ」
淡然としたまま、おばあちゃんは私が持ってきたお煎餅の袋を開け、雪実に手渡した。
「さあどうぞ。孫がすみませんねぇ」
「いや、気にしなくてよい。童の戯れだ」
手渡された丸い醤油色の煎餅を、頭の上で監査しながら、ひと口で半分ほど口に入れた。
「おぉ⋯⋯美味いなこれは⋯⋯」
たかが煎餅1枚に感嘆の声を漏らしながら、残りも食べる雪実から、視線を祖母に向ける。
「おばあちゃん、なんで雪実のこと受け入れてるの? この人幽霊だよ幽霊」
「まあいいんじゃないの。幽霊でもなんでも、こんな家に来てくれたんだし」
「えぇ⋯⋯」
完全に霊の存在を受け入れてしまっているおばあちゃんに、言葉が出ない。
祖母の横では誰も興味を示していない情報番組が空虚に流れている。
「そういえば雪実、コレ見てなにか思わないの?」
「ん? ああ、絵が動いてるな。人をそのまま描いたような巧緻な絵が」
テレビを指さすと、湯呑みを持ったまま雪実が答えた。
テレビを見ても、特に狼狽える様子は無い。
「な、なんなんだこれはっ!? 箱の中の人が動いておる! おい! お主はそこでなにをしてるんだ!」
というくらいには驚いて液晶テレビを叩いたり、演者に向かって語りかけたりすると思っていたのに、全くその様子がない。
文明を知らない人間が高度な科学技術を目にしても、それ自体を認識できない。と、昔どこかで聞いた事がある気がする。
もしかしたら、雪実の脳はテレビや車と言った文明の利器を、正しく認識することができないのかもしれない。
「うん⋯⋯そうだね、絵が動いてるの」
「まったく、何がいいのだ。全く興も無いではないか。男と女がよく分からぬことを話しては風景が流れるだけではないか」
なぜか情報番組に不満を吐き捨てながら、私が持ってきた煎餅の袋を撮るが、どうやって開けるのか分からず苦戦している。
それにしても、車同士が衝突した事故現場をただの風景と例えるとは、ある意味風雅な感性を持っている。世間では不謹慎と呼ぶのだろうが。
だが彼自身は今、優雅さの欠けらも無い動作で、煎餅の袋を破ろうとしている。
なぜか袋の上下についているギザギザの部分を必死に引っ張ったり、さらには口で無理やり引きちぎろうとしている。
「あのそれ、そこのギザギザ部分をこうやって裂くんですよ」
手でジェスチャーをしながら説明すると、雪実は首を傾げながら見事袋を開けた。
「おお、できたぞ。感謝する」
煎餅に意識を集中させたまま、心が籠っていない礼を言われた。
煎餅が砕ける乾いた音を響かせながら咀嚼する雪実を見ていると、ふと幽霊が食べた物はどこに消えるのだろうかと思ってしまった。
このまま雪実を見ていると、無駄なことを考え続けてしまいそうだ。
持ってきた麦茶を一気に飲み干し、居間から出て2階に戻る。
今度こそ誰もいない自室に入り、椅子に座って大きく息を吐いた。
さて、一息ついたらあの男はこの家を出るはずだ。
ひとりで彷徨ってもらうか、学校に連れて行ってみるへきか。
机に肘を立てて重ねた両手を鼻先に触れさせながら唸った。
「どうしたのだ千夏、悩みでもあるのか」
「ひゃっ!」
声がして振り返ると、知らないうちに雪実が背後に立っていた。
窓の外をぼんやりと見ていたが、雪実の姿は映らなかった。
これは幽霊と人間を見分けるひとつの方法なのだが、幽霊は鏡に映らないし影もない。
もっと言うと写真にも映らないせいか、2枚あるクラス写真に映るクラスメイトは、廃校寸前の学校みたいに少ない。
「どうした変な声など出して。全くはしたない」
「ビニール袋に齧り付く人に言われたくない⋯⋯ていうか、雪実のことで悩んでるんだよ」
「ほう⋯⋯そうか」
雪実は神妙な面持ちをして頷くと、私のベッドに腰掛けた。
お気に入りの真っ白な布団の上に、雪実の華奢な下半身がのしかかる。
椅子に座るように足を地面につけるのかと思いきや、この男はあろう事かベッドの上で胡座をかきはじめた。
さらによく見ると、高そうな着物には煎餅の食べカスがいくつも付着している。
「私のことなど放っておけばよい、好きにする」
「いや、そうは言っても幽霊が街にいたらみんな怖いんだよ。雪実は特に見た目が不審者だ⋯⋯し⋯⋯」
「ん? どうした千夏、そんなに目を丸くして」
その時、私の眼には到底許容できない事態が映し出された。
────コロス。
そんな物騒なワードが、私の脳内に張り巡らされた。
「雪実、お前何してる⋯⋯」
「え、なにって⋯⋯ただ食べカスを払っただけだが⋯⋯」
「ほう、乙女の寝床でか⋯⋯?」
「あ⋯⋯そ、そうかすまない⋯⋯私が悪かった。だがその顔は辞めてくれないか? 大江山の酒呑童子より恐ろしい面になっておるぞ」
「なんだお前、私を鬼だとでも言いたいのか」
怒りが頂点を超え、無意識のうちに立ち上がって雪実に接近した。
私の両手が、雪実の喉に向かって伸びる。
「いや違う、ものの例えだ! 誤解だから頼む、その迫る腕を止めるんだ⋯⋯痛っ」
本気で狼狽しながら後退りして、壁に頭をぶつけた雪実を見て、グっと溜飲が下がった。
伸びた手を引っ込め、私はベッドに両膝を載せた。
涙目になりながら後頭部を撫でる雪実の顔が近い。
近くで見ると、顔はかなり整っていることがはっきりと分かる。
生前の生活習慣が良かったのか、死人なのに肌艶がいい。だがやはり、髪は少し傷んでいる。
「大丈夫なの? まあ死んでるから平気か」
「おぉ⋯⋯千夏か元に戻った⋯⋯」
「なんか失礼な言い方だねほんと」
「いやぁ、ほんとにさっきは鬼より恐ろしかったぞ⋯⋯詳細は言わんが」
「ほとんど言ってるよそれ」
色々と可笑しく思え、顔を見合せて笑みが零れた。
色々残念で失礼な男ではあるが、このまま放置するのも忍びない。
「明日私と一緒に学校に来て。幽霊の扱いに慣れてる人がいるから」
「そんな者がいるのか⋯⋯そなた一体何を学んでおる?」
「ただの中学課程だよ⋯⋯特別なことはしてない」
「ちゅう⋯⋯がく⋯⋯?」
聞きなれない言葉に耳を傾ける雪実にいちいち付き合うほど、私は人間できていない。
「まあそれはいいから、とりあえず明日ついてきて」
「ふむ、まあそれはよいが、なら今日はこの家に居ていいのか」
「まあいいよ⋯⋯なんかおばあちゃんも受け入れちゃってるし。その代わり寝るのは下の部屋ね。私に何かしたら許さないから」
「するわけなかろう。千夏のような女子に」
「⋯⋯そーですか」
悪意のない真っ直ぐな目から放たれたこの言葉に腹が立ったことは、私だけの秘密だ。
「ではこれからよろしく頼むぞ」
「それ寄生する気満々の台詞じゃないですかやだー」
その日、平然と私達と夕食を共にし、風呂まで入った雪実は祖母と共に1階の寝室で眠りについた。
私は今日の出来事に興奮したのか、はたまた積み重なった腹の虫が収まらないのか、中々寝付けずにいた。
時刻は23時をすぎた頃、私は暗い部屋の中、ベッドに仰向けに寝転がってスマホを弄っている。
『もし私の家に顔だけは良い出家した鎌倉貴族の幽霊が居るって言ったら信じる?』
藤原さんがまだ起きていることを期待し、メッセージを送信した。
すると、藤原さんもスマホを触っていたのか、すぐ返事が帰ってきた。
『例が具体的すぎて居るって言っちゃってるよそれ! なにがあったの!?』
吃驚を表す顔文字が添えられたメッセージを確認し、私はうつ伏せになって両手でスマホを持った。
『学校から帰ってきたら家に上がり込んでた』
『泥棒じゃなくてよかったね⋯⋯』
私と同じように自分の部屋にいるであろう藤原さんの顔が引き攣るのが想像できる。
『本当だよ。泥棒だったら無謀な白昼強盗だし』
『そういう問題じゃないと思うよ⋯⋯』
文の終わりの汗を表現する絵文字にまで目を通し、おでこを左手の人差し指と中指で強く抑える。
自分勝手な話だが、藤原さんと話しはじめてすぐ眠気が襲ってきた。
『詳しいことは明日話すよ。雪実学校に連れていくし』
『雪実っていうんだその人⋯⋯苗字は?』
『けわいざか』
『化粧坂かな? かなり珍しいね』
『鎌倉の人らしいからね、なんか清華家のどっかの分家の分家とか言ってた』
『だいぶ別れてるね⋯⋯明日会うのが楽しみだよ』
恐らく藤原さんは眠いのだろう。さりげなく会話を終了する方向へ舵を切った。
『そうだね。じゃあまた明日』
『おやすみ』
眠りにつく顔文字を確認し、私はスマホの電源を落とした。
自分から話しかけてなんだが、藤原さんがそれとなく切り上げてくれて助かった。
暗くて見えないが、ドアのすぐ下に置いた雪実対策の盛り塩に顔を向け、仰向けになって目を閉じた。