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第8章 亡霊たちの宴

# 第8章 亡霊たちの宴


オランダに戻ってから三ヶ月が経ち、アムステルダムは冬の冷たい雨に包まれていた。運河沿いの豪邸の一室で、ヤン・タムラはアヘンパイプを手に、ぼんやりと窓の外を眺めていた。雨滴が窓ガラスを伝い落ちる様子は、彼の内面を映し出しているかのようだった。


「タムラ様、お客様がお待ちです」使用人が控えめにドアをノックした。


「誰だ?」


ヤンの声は以前の張りを失い、掠れていた。


「東インド会社のファン・ホーク様です」


「今日は会わない。帰ってもらえ」


使用人は困惑した様子で言った。「しかし、先週からの約束で…」


「聞こえなかったのか?帰ってもらえと言った!」


突然の怒声に、使用人は慌てて下がった。ヤンは再びアヘンパイプに火をつけ、甘い煙を肺いっぱいに吸い込んだ。煙が彼の意識を包み、現実からの逃避をもたらした。


日本から持ち帰ったアヘンは、既に彼の体と精神を蝕んでいた。皮肉にも、他者を破滅させるはずだった毒が、最初に彼自身を毒していたのだ。


---


ヤンは東インド会社の役職を辞めていた。表向きの理由は「健康上の問題」だったが、実際には彼の精神的崩壊を隠しきれなくなったためだった。日本からの帰還後、彼の行動は次第に奇妙さを増していた。突然の激情、長期の失踪、そして会議中の幻覚との対話。


しかし、彼の富は増大を続けていた。日本で築いたアヘン密輸のネットワークは、彼の不在にもかかわらず、あるいはむしろそれゆえに順調に機能していた。彼が構築した仕組みは、もはや創造主の手を離れ、独自の命を持って動いていたのだ。


運河沿いの豪邸は、彼の成功の象徴であると同時に、自己流謫の牢獄でもあった。かつての交友関係は断たれ、彼を訪れるのは金の匂いを嗅ぎつけた者たちのみとなっていた。


「誰も…俺を知らない…」


ヤンはアヘンの幻影の中で呟いた。その言葉には複層的な意味があった。誰も彼の過去を知らない安心と、誰も彼の本質を知らない孤独が入り混じっていた。


---


ある日、ヤンは運河のほとりを歩いていた。冷たい風が彼の金髪をなびかせる。近頃、髪を染める手間さえ億劫になっていた。根元には黒髪が伸び始め、その二色の髪は彼の分裂した自己の象徴のようだった。


「あの建物、売りに出されているのですか?」


彼は立ち止まり、運河沿いの大きな屋敷を指さした。かつては貴族の所有物だったという建物は、今は廃れた様子で佇んでいた。


「はい、ご興味がおありですか?」


不動産業者は、金持ちの東洋人の関心に目を輝かせた。


「内部を見せてもらえるか?」


建物の中に入ると、広い空間と高い天井、そして多くの部屋が彼を迎えた。ところどころ朽ちかけた内装の向こうに、かつての豪華さが透けて見えた。


「ここを買おう」ヤンは突然、決断した。


「建物の状態をご覧になって…修復には多額の費用が…」


「価格は問題ない。すぐに契約しよう」


不動産業者の困惑した表情を余所に、ヤンの頭の中では既に計画が動き始めていた。この建物を、アムステルダム随一の高級娼館「東方楽園」として開業するという計画だ。


それは突発的な決断のようにも見えたが、実際には彼の心の底に長い間眠っていた欲求の表出だった。束の間の快楽と永遠の忘却を同時に提供する場所—それこそが彼の求めていたものだった。


---


数ヶ月の改装工事を経て、「東方楽園」は誕生した。日本、中国、インドなど東洋をテーマにした内装と、ヨーロッパ各地から集められた美女たち。ヤンは東洋の神秘性を売りにして、アムステルダムの富裕層を魅了した。


表向きはヤンが経営する高級クラブとされていたが、内実は極上の娼館だった。彼は客を選り好みし、金と権力を持つ者だけが「東方楽園」の扉を潜ることを許された。


「タムラ殿、素晴らしい場所を作られましたな」


訪れた商人たちは口々に称賛する。それは彼の虚栄心を満足させたが、その効果は一時的なものでしかなかった。


ヤン自身も、美女たちとの逢瀬に溺れるようになった。アヘンを吸引しながら過ごす夜は、佐々木や清兵衛の亡霊から一時的に逃れる唯一の時間だった。しかし、その効果も次第に薄れ、より大量のアヘンとより刺激的な娯楽が必要になっていった。


「もっと…強いものを…」


ヤンの要求はエスカレートし、「東方楽園」は次第に彼の狂気の入れ物となっていった。アヘンだけでなく、阿片チンキ剤やその他の薬物が彼の体内を巡り、現実との距離を広げていった。


---


「東方楽園」の成功に気をよくしたヤンは、さらに二軒の同様の娼館を開業した。表社会では成功した実業家として、裏社会では影響力のある存在として恐れられる彼。しかし、その成功の裏で、彼の精神と肉体は急速に蝕まれていった。


四十歳を迎えた頃、彼は既に老人のように見えた。痩せこけた体、深い皺の刻まれた顔、そして常に遠くを見つめる空虚な目。彼の部屋には常に医師が控え、度重なる発作や幻覚に対処していた。


「タムラさん、このようなペースでは、あなたの命にかかわります」


医師の忠告は彼の耳には入らなかった。彼の魂はすでに半ば死んでおり、肉体がそれに追いつくのは時間の問題だった。


ある夜、彼の娼館に一人の東洋人女性が現れた。


「タムラ様にお会いしたいのです」


彼女は二十代の美しい女性で、名を「雪」と名乗った。ヤンは彼女に興味を持ち、自分の専用の部屋に招き入れた。


「あなたは川村勇ではありませんか」彼女は静かに言った。


その言葉に、ヤンの血が凍りついた。二十年以上も前に捨てた名前。それを口にする者など、もはやいないはずだった。


「私は知りません。あなたは誰だ?」


声は冷静を装ったが、彼の心は激しく動揺していた。


「私は佐々木源蔵の孫娘です」


彼女は袂から古い巻物を取り出した。勇がかつて父から受け継いだ「疾風一閃」の巻物に酷似していた。


「祖父が殺された後、この巻物と共に母が育てました。祖父の仇を討つために、私は日本を出てあなたを探し続けてきました」


ヤンは一瞬、混乱の中で視界が暗くなった。佐々木—彼の犯した最初の罪。その亡霊が、孫娘の姿を借りて彼を追いかけてきたのだ。


「何の証拠もない。出ていきなさい」


彼は震える声で言った。


「証拠なら、清兵衛様から預かった手紙があります」


雪は封された手紙を差し出した。ヤンはそれを恐る恐る受け取った。


彼が手紙を読む間、雪は彼をじっと観察していた。そこに彼女が見たのは、恐怖に怯える哀れな老人の姿だった。黄ばんだ肌、血走った目、震える手—かつて祖父を殺した若く強い武士の面影はどこにもなかった。


「これは…」ヤンは手紙を読み終え、顔を上げた。


「あなたを殺すつもりで来ました」雪は静かに告げた。「しかし、今のあなたを見て考えが変わりました」


ヤンの目に困惑の色が浮かんだ。


「あなたを殺しても、何も変わらない。それどころか、あなたを生かしておく方が、より残酷な罰になるでしょう」雪は冷ややかに言った。「毎日自分の罪と向き合い、亡霊に悩まされながら生きていく…祖父の仇討ちとしては、それで十分です」


ヤンは言葉を失った。彼女の目には憐れみさえ浮かんでいた。敵に憐れまれるほど惨めなことはない。


「私はこれで帰ります。二度と会うことはないでしょう」


雪が立ち去ろうとしたとき、ヤンは突然叫んだ。「待て!」


金庫から大金を取り出し、彼は彼女に差し出した。「これを…持っていけ」


雪は彼を見下ろし、わずかに微笑んだ。「それも必要ありません。あなたのような価値のない人間から、何も受け取りたくない」


彼女の言葉は、どんな刃物よりも鋭くヤンの心を切り裂いた。雪は静かに部屋を出て行き、二度と戻ることはなかった。


取り残されたヤンは、清兵衛の手紙を何度も読み返した。


*「川村殿。おそらくこの手紙が届くのは、私の死後でしょう。あなたの選んだ道は、あまりにも多くの罪を重ねています。私はあなたを許すことはできませんが、あなたの父・政次の友として、最後の忠告をします。罪からの逃避に終わりはありません。いつか必ず、あなた自身の内なる裁きが下されるでしょう。ただ、どうか忘れないでください—あなたはかつて、川村政次の息子でした。」*


ヤンは手紙を暖炉に投げ込まず、大切に懐にしまった。清兵衛の最後の言葉は、彼の心を刺すと同時に、奇妙な慰めをもたらした。彼はかつて誰かの息子だったのだ。


---


「東方楽園」の成功から10年が経ち、ヤンは50代半ばとなった。彼の帝国は拡大し、アムステルダムだけでなく、ハンブルク、パリにも支店を持つようになっていた。表向きは美術品取引という名目で、実際には高級娼館、アヘン、賭博場など、様々な快楽産業を牛耳る存在となっていた。


しかし、富と権力を手に入れたヤンの背後では、徐々に陰謀の網が張り巡らされていた。長年の放蕩と病的な行動は、彼の周囲の人間の忠誠心を薄れさせていった。特に彼の右腕として働いていたファン・デル・ホーフという男は、ヤンの帝国を乗っ取る計画を密かに進めていた。


「タムラの時代は終わりだ」ファン・デル・ホーフは共謀者たちに語った。「彼は単なる廃人だ。我々がこの事業を引き継ぐべきだ」


その日の夜、ヤンはいつものようにアヘンを吸引し、東洋風の部屋で美女たちに囲まれていた。侍女の一人が彼に特別なワインを差し出した。


「主人様、新しく入荷した珍しいワインです」


ヤンは疑問も持たずにグラスを受け取り、一気に飲み干した。数分後、激しい腹痛に襲われ、彼は床に崩れ落ちた。


「助けを…」


彼の言葉は弱々しく、誰にも届かなかった。侍女たちは冷ややかな目で彼を見下ろし、誰も助けを呼ぼうとはしなかった。


「タムラ様、これは我々からの…お別れの挨拶です」


ファン・デル・ホーフが部屋に入ってきた。彼の顔には残酷な満足感が浮かんでいた。


「なぜ…」ヤンは苦痛に顔を歪めながら問うた。


「なぜ、ですか?」ファン・デル・ホーフは嘲笑した。「あなたは従業員を虐待し、パートナーを裏切り、誰も信頼しなかった。そして今、誰もあなたを信頼していない。単純な話です」


その言葉に、ヤンは自分の人生の皮肉を感じた。佐々木を裏切り、清兵衛を裏切り、そして今、自分もまた裏切られる。因果応報とはこういうものか。


毒が彼の体内を巡り、痛みが増してくる中で、彼の心に今まで感じたことのない明晰さが訪れた。人生の断片が走馬灯のように過ぎていく。藤枝宿での少年時代、父の教え、没落した武家の屈辱、そして彼が選んだ逃避の道—すべてが鮮明に浮かび上がった。


「私は…何という愚かな人生を…」


彼の声は弱々しく、部屋に響いた。ファン・デル・ホーフは既に去り、侍女たちも彼を見捨てていた。彼は完全に一人きりだった。


「すべては…私の弱さ故だった…」


その認識は彼を深く震わせた。川村勇として、田村源太として、ヤン・タムラとして—どの人生においても、彼は常に弱さから逃げ続けていた。困難に直面するたびに、彼は立ち向かうのではなく、逃げることを選んだ。他者を傷つけ、裏切り、殺すこと—それらはすべて、自分自身の弱さに向き合えない彼の無力な抵抗だったのだ。


「仮面の下には…何もなかった…」


彼の視界が霞む中、部屋の隅に佐々木、清兵衛、そして父の政次の姿が見えた。彼らは黙って彼を見つめている。今回、彼らの表情には非難ではなく、悲しみと理解が浮かんでいた。


「源蔵叔父上…清兵衛様…父上…許してください…」


ヤンの頬を涙が伝った。一生逃げ続けてきた罪の意識と向き合う瞬間、彼はようやく真実の重みを感じていた。


「人として…生きるべきだった…」


その後悔の言葉が、彼の生涯最後の言葉となった。毒が最後の効果を発揮し、彼の心臓は止まった。最期の瞬間、彼の顔には奇妙な平穏の表情が浮かんでいた。すべての仮面が剥がれ落ち、ようやく自分自身と向き合えた安堵だったのかもしれない。


豪華な部屋に、一人の男の亡骸だけが残された。三つの名前を持ち、三つの人生を生きながら、本当の自分を見出せなかった男の。


---


川村勇、別名田村源太、西洋名ヤン・タムラは、1873年10月15日、アムステルダムの自宅で毒殺された。彼の死は公式には「自然死」と記録されたが、実際には彼の側近たちによる謀殺だった。彼の遺産は莫大なものだったが、すべてはファン・デル・ホーフたちに奪われた。彼らは「東方楽園」と関連事業を引き継いだが、その繁栄は長く続かなかった。ヤンの死から五年後、ファン・デル・ホーフ自身も何者かによって殺害され、帝国は内部抗争によって崩壊していった。


数年後、一人の日本人女性が彼の墓を訪れた。それは雪だった。彼女はすでに中年となり、オランダ人商人の妻となっていた。


彼女は墓前に花を供え、こう言った。


「川村殿、私は復讐を諦めました。あなたは自分の罪によって既に罰せられていたからです。このような結末を見届けることで、祖父への義務を果たしたと思います。どうか、安らかに眠ってください」


雪が去った後、墓地には再び静寂が訪れた。そこに眠る男は、三つの名前と三つの人生を生きた。川村勇、田村源太、ヤン・タムラ—その魂はようやく永遠の安息を得たのだろうか。


彼の人生は、人の弱さがいかに破滅的な結果をもたらすかを示す警鐘として、静かに歴史の闇に溶け込んでいった。しかし、最後の瞬間に彼が得た気づき—自分の弱さと向き合い、すべての仮面を脱ぎ捨てたという瞬間—は、彼の魂に救いをもたらしたのかもしれない。人として生きることの本当の意味を、死の直前にようやく悟った哀れな魂の物語。

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