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第7章 帰郷の代償

# 第7章 帰郷の代償


1858年、夏。日本の長崎港に、オランダ船デ・リーフデ号が入港した。幕末の日本は大きな変化の真っ只中にあった。アメリカのペリー提督来航以降、鎖国政策は崩れ始め、各国との不平等条約締結に揺れる時代だった。


甲板に立つヤン・タムラの胸中には、相反する感情が渦巻いていた。金髪に染め、ひげを生やした西洋人の姿をしているとはいえ、十七年ぶりに見る故国の景色は、彼の心に奇妙な感情を呼び起こした。


「まさか、この国に戻ってくるとは…」


彼の声はオランダ語だったが、心の中の声は今も日本語だった。海風が彼の髪をなびかせる中、ヤンは長崎の街並みを見つめていた。それは彼が去った頃とは違っていた。より多くの外国船が停泊し、町には異国情緒が漂っていた。


「タムラ、準備はいいか?」使節団の団長フェルビークが声をかけてきた。


「はい、団長」ヤンは完璧なオランダ語で応じた。彼の口調には自信が満ちていたが、内心では不安と焦燥が混じり合っていた。


「我々の任務は重要だ。新たな通商条約の交渉だ。お前の言語能力と日本の知識が必要だ」


ヤンは頷いたが、彼の関心は公式任務よりもむしろ、床下に隠したアヘンの箱にあった。港での検査をいかに通り抜けるか。そしてそれを日本国内でどう裁くか。それだけが彼の頭を占めていた。


---


「旦那、お久しぶりでございます」日本語で話しかけてきたのは、出島の通詞だった。彼はヤンを知るはずもなかった。


ヤンは流暢な日本語で応じつつも、西洋人特有のアクセントを加えるよう心がけた。「オ…ハヨウ ゴザイマス。ワタシ、ヤン・タムラ」


彼は意図的に日本語を不完全に話し、時折オランダ語を混ぜた。その演技は完璧だった。誰も彼が日本人だとは思わないだろう。


出島での検査は予想通り厳しかったが、ヤンは万全の準備をしていた。アヘンの箱は特殊な二重底の箱に隠され、さらに公式書類の中にも偽の書類が紛れ込ませてあった。通詞や役人たちは、ヤンを単なるオランダ使節団の通訳官としか見なさなかった。


「検査は終わりました。どうぞお入りください」


役人が頭を下げると、ヤンは内心で笑った。あまりにも簡単だった。彼の周到な計画は、今のところ滞りなく進んでいた。


そのとき、彼の意識の片隅で何かが囁いた。「これでいいのか?」それは「田村源太」の声のようにも思えた。しかしヤンはその声を無視し、使節団と共に出島の宿舎へと向かった。


---


長崎での数日間、ヤンは表向きは使節団の通訳として働きながら、裏では密かにアヘン販売のルートを探っていた。彼は夜、出島から抜け出し、長崎の裏社会とコンタクトを取った。


「これはぁ…珍しい品物ですなぁ」闇商人の一人が、アヘンの小さな見本を手に取りながら言った。


「中国では大人気だ。日本でも需要があるはずだ」ヤンは冷静に応じた。


「確かに…需要はありますがなぁ。しかし、リスクが高すぎる」


「リスクは私が負う。あなたは販売ルートを提供するだけでいい」


交渉は難航したが、最終的にはヤンの提示した高額の報酬に、商人たちは魅力を感じ始めた。彼らは合意し、アヘンは裏ルートで日本国内に流通することになった。


ヤンはホテルに戻ると、窓から見える長崎の夜景を眺めた。街に散らばる灯りは、彼が毒する予定の人々の生活を表していた。一瞬、彼の胸に罪悪感が芽生えたが、すぐに打ち消された。


「心配することはない。これは単なるビジネスだ」


彼は自分に言い聞かせたが、それが本当の理由ではないことを、彼自身がよく知っていた。これは復讐だった。そして、自己破壊への道でもあった。


---


一週間後、使節団は江戸への移動を開始した。これは公式なミッションの一環で、将軍との会見を含むものだった。ヤンにとって、これは密輸計画の第二段階の始まりでもあった。


東海道を北上する道中、彼は十七年前に自分が歩いた道を再び通ることになる。それは奇妙な既視感をもたらした。しかし今や彼は、みすぼらしい逃亡者ではなく、尊敬される外国使節団の一員だった。


彼らは箱根を越え、小田原、藤沢と進み、ついに京都へと至る分岐点に到達した。正規の行程では京都を経由せず直接江戸へ向かうはずだったが、ヤンは団長に提案した。


「団長、京都は天皇のお膝元です。短時間でも立ち寄ることで、将来の交渉に有利に働くかもしれません」


「う~む、確かにその通りだ」団長は考え込んだ。「分かった。一日だけ京都に寄ろう」


ヤンは表面上は冷静だったが、内心では高鳴る鼓動を抑えられなかった。京都—かつて「田村源太」として生きた街。そこには清兵衛もいるはずだ。彼に会うべきか、避けるべきか。


その答えは、彼の心の中ではすでに決まっていた。


---


京都は彼の記憶の中にあった街と同じようでいて、微妙に違っていた。外国人の姿が珍しくなくなり、町には緊張感が漂っていた。攘夷派と開国派の対立が、この古都にも影を落としていたのだ。


使節団は高台寺近くの高級宿に宿泊することになった。ヤンは「明日の会談の準備がある」と言い訳し、一人で街に出た。金髪とひげで完全に変装しているとはいえ、彼は帽子を目深にかぶり、人目を避けるように歩いた。


彼の足は覚えていた。かつて毎日通った道を、体が自然と歩いていく。そして、彼はそこに立っていた。鈴屋—十六年前に彼が働いていた呉服屋だ。店の外観は変わっていなかった。


ヤンは通りの向かいから、しばらく店を観察した。出入りする客、働く店員たち。そして、店の奥から現れたのは、老いてはいるが威厳のある姿の清兵衛だった。


「清兵衛様…」


ヤンの胸に痛みが走った。それは彼が長い間抑え込んでいた感情だった。清兵衛は彼を信頼し、育て、将来を託そうとさえしていた。そして彼はそれを裏切ったのだ。


清兵衛は店の前に立ち、通りを見下ろしていた。ヤンは咄嗟に顔を背けたが、一瞬、彼らの視線が合ったように感じた。清兵衛の表情が変わったのを見て、ヤンは急いでその場を離れた。


「気のせいだ…彼が俺を認めるはずがない」


しかし、彼の心はそれを信じていなかった。


---


夕方、使節団は京都の高官たちとの会食を終え、宿に戻った。ヤンは自室で窓際に座り、京都の夜景を眺めていた。彼の思考は混乱していた。


「彼に会うべきか…」


それは愚かな考えだった。しかし、彼の中の何かが清兵衛に会いたがっていた。懺悔したいのか、それとも単に過去を確認したいのか。彼自身にもわからなかった。


そのとき、部屋に使用人が入ってきた。「タムラ様、お客様がお見えです」


ヤンは驚いた。「お客?誰だ?」


「日本人の老紳士です。鈴木と名乗っておられます」


ヤンの心臓が止まりそうになった。鈴木—それは清兵衛の姓だ。彼が本当に自分を認識したのか?それとも別の用件か?


「通してくれ」


震える声で言うと、使用人は頭を下げて退出した。数分後、ドアが開き、清兵衛が入ってきた。年老いてはいたが、背筋は伸び、目にはかつての鋭さが残っていた。


「失礼いたします、タムラ殿」


清兵衛は丁寧に挨拶した。彼の様子からは、ヤンを「田村源太」と認識している気配はなかった。


「こんばんは、鈴木殿」ヤンはオランダ訛りの日本語で応じた。「何のご用件でしょうか?」


「実は、オランダの反物に興味がありまして」清兵衛は落ち着いた様子で言った。「あなた方が持参された品があると聞き、是非見せていただきたいと思いまして」


それは単なる商談の申し出だった。ヤンは安堵すると同時に、奇妙な失望を感じた。


「もちろん、喜んで」ヤンは微笑んだ。「明日、使節団の荷物の中から探しておきましょう」


「ありがとうございます」清兵衛は頭を下げた。「ところで…」


彼は急に声を落とし、ヤンをじっと見つめた。


「タムラ殿は、以前日本に来たことはありますか?」


ヤンの背筋に冷たいものが走った。「いいえ、初めてです」


「そうですか…」清兵衛はわずかに笑みを浮かべた。「なぜか見覚えがあるような…」


「おそらく勘違いでしょう」ヤンは冷静さを保とうと努めた。「日本人と西洋人は、お互いの顔の区別が難しいと聞きます」


「そうかもしれません」清兵衛は立ち上がった。「では、明日お邪魔します」


清兵衛が部屋を出た後、ヤンは椅子に崩れ落ちた。冷や汗が全身を覆い、手が震えていた。


「彼は知っている…感づいている…」


恐怖と焦燥がヤンの精神を蝕んでいった。


---


その晩、ヤンは眠れなかった。部屋の中を行ったり来たりしながら、彼は様々な可能性を考えた。逃げるべきか、計画を進めるべきか、それとも清兵衛に真実を告げるべきか。


「逃げても無駄だ…いつか必ず過去に追いつかれる」


彼は窓辺に立ち、月明かりに照らされた京都の町を見つめた。十六年前、彼はこの街で「田村源太」として生きていた。今、彼はここに「ヤン・タムラ」として戻ってきた。しかし、彼の魂はどこにも帰属していなかった。


「すべてを終わらせる時だ…」


彼の目に決意の色が宿った。明日、清兵衛が来たとき、彼は真実を打ち明け、すべてを懺悔するつもりだった。それがどんな結果をもたらすにせよ、もう逃げることはできないと感じていた。


しかし、その決意は朝になると揺らいでいた。ヤンは洗面所の鏡に映る自分の姿を見つめた。西洋人の仮面の下には、まだ川村勇の魂が震えていた。


「俺には選択肢がない…俺はもう…」


彼の思考は混乱し、再び極端から極端へと揺れ動いていた。


---


正午頃、清兵衛は約束通り宿を訪れた。ヤンは館の個室で彼を迎えた。テーブルには、オランダから持ってきた高級反物が数点並べられていた。


「これはすばらしい」清兵衛は生地に触れながら感嘆の声を上げた。「実に上質だ」


「お気に入りいただけて光栄です」


彼らは商談を進め、やがて価格と数量について合意に達した。清兵衛はメモを取りながら、時折ヤンの顔を観察していた。


「タムラ殿」清兵衛は突然話題を変えた。「無礼を承知で伺いますが、あなたは本当にオランダ人ですか?」


ヤンの心臓が跳ねた。「どういう意味でしょう?」


「あなたの日本語は、外国人としては不自然なほど正確です。アクセントはありますが、微妙な言い回しまで理解されている」


「長年、日本の研究をしてきました」ヤンは言い訳した。「また、優秀な教師にも恵まれました」


「そうですか…」清兵衛は納得したように見えたが、その目は依然として疑念に満ちていた。


商談が終わり、清兵衛が立ち去ろうとしたとき、彼は振り返り、「あなたに似た商人を知っていました」と言った。「田村という名の…もう十六年も前のことですが」


ヤンは凍りついたように動けなくなった。「偶然でしょう」


「そうかもしれません」清兵衛はわずかに微笑んだ。「明日、契約書を持ってまいります。寺町の茶屋『松風庵』でお待ちしております。二時頃に」


「明日は…スケジュールが…」


「どうか、必ず来てください」清兵衛の声には、命令とも懇願ともつかぬ響きがあった。「あなただけに、お話ししたいことがあります」


清兵衛が去った後、ヤンはテーブルに突っ伏した。「彼は知っている…すべてを…」


その確信は、彼の中で恐怖と決意が入り混じった奇妙な感情を生み出した。


---


その夜、ヤンは最後の準備をした。西洋式の上着の内側に小さなナイフを隠し、懐にはアヘンの小袋を忍ばせた。彼の心は既に決断を下していた。何が起ころうとも、過去が明るみに出るわけにはいかなかった。


翌日、彼は使節団に「日本の商人との大事な商談がある」と告げ、一人で寺町へと向かった。心臓は早鐘を打ち、手は冷や汗で濡れていた。


松風庵は、京都の中心部から少し離れた静かな茶屋だった。ヤンが入ると、店の者が彼を個室へと案内した。そこには既に清兵衛が座っており、窓から差し込む陽光が彼の白髪を照らしていた。


「よく来てくださいました、タムラ殿」清兵衛は穏やかに言った。「どうぞお座りください」


ヤンは言われるままに座り、清兵衛の目をまっすぐ見た。「契約書は?」


「ここに」清兵衛は巻物を差し出した。しかし、それを開くとそこには商品の明細ではなく、一通の手紙が入っていた。


「これは…」


「田村殿、否、川村殿」清兵衛の声は静かだったが、その言葉はヤンの心を貫いた。「二十年前の真実を知りたい」


ヤンの顔から血の気が引いた。彼は逃げ場を求めるように周囲を見回したが、窓の外には庭があるだけで、すぐに逃げられる場所はなかった。


「何のお話でしょう」ヤンは最後の抵抗を試みた。


「昨日、確信したのです」清兵衛は穏やかに続けた。「あなたの目、その見つめ方…髪の色や顔の作りは変わっても、目は変わりません」


長い沈黙の後、ヤンはゆっくりとうなだれた。「どうして…気づいたのです」


「あなたが逃げた後、私はずっと不思議に思っていました」清兵衛は茶を啜った。「なぜ突然姿を消したのか。そして昨日、外国人の姿をしたあなたを見て、すべてが繋がりました」


ヤンは重い口を開いた。この二十年間、誰にも話さなかった真実を。佐々木殺害から密出国、そしてオランダでの生活、今回のアヘン密輸計画まで、すべてを包み隠さず話した。言葉が溢れ出すかのように、長年胸に秘めていた罪と後悔を吐き出した。


「私は…本当に愚かでした。自分の過ちから逃げ続け、さらに大きな罪を重ねようとしていました」


ヤンの告白を聞きながら、清兵衛の顔には様々な感情が交錯した。驚き、悲しみ、そして最後には深い失望の色が浮かんだ。


「川村...いや、田村でも、タムラでもいい。お前の父親・政次は私の友人でもあった。彼が死んだとき、お前のことを気にかけていたのだが...」


清兵衛は茶碗を置き、続けた。「佐々木殿の死は大きな悲しみだった。しかし、彼の死の真相は闇に葬られていた。今、その真実を知ったことで、彼の魂も少しは救われるだろう」


ヤンは震える声で尋ねた。「私を...幕府に引き渡すのですか?」


清兵衛は首を横に振った。「今さらそれが何になる。しかし、アヘンの件は許せん。日本を毒すような真似は、商人としての道に反する」


彼の言葉は厳しいながらも、その目には悲しみと理解の色が浮かんでいた。


「私にはもう力はない。お前を罰することも、救うこともできん。だが、一つだけ助言がある」清兵衛は真剣な表情で言った。「今からでも遅くはない。過ちを償う道を選べ」


清兵衛の言葉が耳に入る中、ヤンの心には別の思いが渦巻いていた。これまで築き上げてきた新しい人生、計画していた富と権力。それらすべてが、目の前のこの老人によって脅かされていた。


会話の間、ヤンは西洋式の上着の内側に隠した小さなナイフの存在を意識していた。使節団の一員として常に身を守るために携帯しているものだった。


「清兵衛様、おっしゃる通りです...」彼は頭を下げ、謙虚な様子を見せながら、ゆっくりと手を上着の内側へと忍ばせた。その指先が冷たいナイフの柄に触れた瞬間、彼の中の何かが壊れた。


まるで自分の体を外から眺めているような感覚。時間がゆっくりと流れ、彼の耳には自分の鼓動だけが響いていた。清兵衛の唇が動き、言葉を発しているのが見えたが、その声は遠く、霞んでいた。


「お前にはまだ償う機会がある。今からでも...」


一瞬、ヤンの手が躊躇した。清兵衛の言葉には真実があった。今ここで立ち止まれば、まだ引き返せるかもしれない。懺悔し、罪を認め、残りの人生をかけて償うという道も—。


しかし、その思考は彼の恐怖によって瞬時に打ち消された。罪を認めるということは、すべてを失うことを意味した。「ヤン・タムラ」という存在も、築き上げた名声も、そして何より生命そのものを。


「できない...俺にはもう...」


次の瞬間、ヤンは素早く立ち上がり、ナイフを老人の胸に突き立てていた。彼自身、その行動を完全に理解していなかった。それは思考の結果というよりも、恐怖に駆られた動物的な反応だった。


清兵衛の目が大きく見開かれ、驚きと悲しみの色が浮かんだ。その目には非難よりも、深い悲哀が満ちていた。


「川村...なぜ...」


最後の言葉を残し、清兵衛はテーブルに崩れ落ちた。血が畳に広がっていく様子を、ヤンは奇妙に冷静な目で見つめていた。彼の心は既に感情を切り離し、生存のための機械的な思考に支配されていた。


「証拠を消さなければ...」


彼は周囲を確認し、誰も見ていないことを確かめると、懐からアヘンの小袋を取り出した。震える手で清兵衛の茶碗に粉を混ぜ、彼の指にもわずかに付着させる。


「アヘン中毒で自害したように見せかければ...」


その行為の途中、突然の吐き気が彼を襲った。胸の奥から何かが込み上げ、喉を焼くような感覚。ヤンは咄嗟に口を押さえ、部屋の隅に駆け寄った。しかし、吐き気は実際の嘔吐ではなく、彼の魂が発する悲鳴のようなものだった。


「俺は...何をしているんだ...」


一瞬の明晰さが彼の心を照らしたが、すぐに自己保存の本能が再び支配権を握った。ヤンは深呼吸し、手の震えを抑えながら作業を続けた。部屋を整え、最後に清兵衛の遺体を正座の姿勢に直した。


死者の顔を最後に見たとき、清兵衛は奇妙に穏やかな表情をしていた。まるで彼の運命を既に受け入れていたかのように。その表情に、ヤンの心は再び揺らいだ。


「ごめんなさい...清兵衛様...」


小さく囁いた言葉は、誰にも届かなかった。ヤンは素早く茶屋を後にした。部屋を出る際、彼の脚はふらつき、冷や汗が背中を伝っていた。


宿に戻るまでの道のりは、ヤンにとって悪夢のようだった。道行く人々の顔が歪んで見え、彼らの会話は意味のない音の連続にしか聞こえなかった。彼の精神は現実から解離し始めていた。


「あの老人は死んだ…俺が殺した…」


自分の行為を認識しようとするたび、心が痛みに震え、思考が遮断された。その痛みから逃れるため、彼の精神は次第に麻痺していった。宿に戻ったとき、彼はすでに仮面を被り直していた。


「商談は成功した」


使節団の仲間に報告する彼の声は、驚くほど落ち着いていた。しかし、自室に戻ると、その仮面は崩れ去った。ヤンは床に座り込み、全身を激しい震えが襲った。


「なぜだ…なぜあんなことを…」


涙さえ出なかった。ただ空虚な目で壁を見つめ、自分の行為の意味を理解しようともがいた。清兵衛は彼を罰するつもりさえなかった。ただ真実を知り、彼に償いの機会を与えようとしていただけだった。それなのに、彼はその命を奪ったのだ。


「俺はもう人間ではない…」


その夜、彼の夢に佐々木と清兵衛が現れた。彼らは何も言わず、ただ悲しげにヤンを見つめていた。彼は夢の中で叫び、謝罪し、許しを乞うたが、彼らは黙ったまま彼の前から消えていった。


翌朝、ヤンは鏡の前に立った。そこに映る顔は彼のものでありながら、まるで他人のように感じられた。彼はその顔に水を浴びせ、髪を整え、西洋人としての仮面を完璧に取り戻した。


「今日は江戸へ発つ日だ」


彼は自分に言い聞かせるように呟いた。過去を封印し、再び前を向くための呪文のように。


---


数日後、江戸での交渉が進む中、ヤンは京都での出来事が報告される新聞を目にした。


「老舗呉服商の当主、アヘン中毒による自害か」


新聞を読みながら、彼の指は震えていた。計画は成功したようだったが、その「成功」が彼に安堵をもたらすことはなかった。むしろ、彼の心には新たな重荷が加わった。佐々木に続き、今度は恩人である清兵衛までも殺害したのだ。


「なぜ自分を認めたとき、彼を殺さなければならなかったのか…」


その問いに対する答えは、彼自身の心の弱さにあった。自分の罪を認めることへの恐怖、責任を取ることへの逃避、そして最も深いところでは、真の自己と向き合うことへの恐怖。彼の選択はいつも同じだった—逃げること、隠すこと、そして必要なら殺すこと。


江戸での交渉は表面上は順調に進んだ。彼の通訳としての能力は高く評価され、条約交渉は予定通りに進んだ。そして裏では、アヘン取引も着々と進んでいた。出島での接触から始まったネットワークは、今や江戸にまで広がっていた。


「タムラ、よくやった」団長が彼の肩を叩いた。「君の貢献なくしては、この交渉は成功しなかっただろう」


ヤンは微笑んで頭を下げたが、その笑顔の下には底知れぬ虚無があった。成功も称賛も、彼の心には響かなくなっていた。彼の魂は少しずつ死んでいたのだ。


日本を去る日、ヤンは甲板に立ち、長崎の港が遠ざかっていくのを見つめていた。夕陽が海を赤く染め、その光景は十七年前に彼がこの国を去ったときと奇妙に似ていた。しかし、彼の心境は全く違っていた。


あのとき、彼の心には希望があった。新しい国で、新しい名前で、新しい人生を始められるという希望。しかし今、彼の心にあるのは空虚だけだった。


「俺は結局...何も変わらなかった」


彼は細い目で海を見つめ、風に乗って漂う自分の金髪に手を伸ばした。染めた髪、生やしたひげ、身につけた西洋の衣服—それらはすべて仮面だった。彼は外見を変え、言語を変え、名前を変えた。しかし、その魂は川村勇のままだった。恐れ、逃げ、そして必要とあらば殺す。


「もはや帰るべき場所はない...」


船がゆっくりと長崎の港を出ていくにつれ、日本の島影は次第に水平線に溶け込んでいった。それは彼の過去が完全に消え去るかのようだった。しかし、過去は決して消えない。それは彼の心の中に刻み込まれ、彼がどこへ行こうとも、常に彼と共にあるのだ。


甲板の上で、ヤンは自分の手を見つめた。それは血に染まっているようにも見えた。佐々木、渡し守の老人、そして清兵衛—彼らの血が、消えることなく彼の手に残っているかのように。


「誰にも言えない...誰にも理解されない...」


彼は肩を震わせて泣いた。十七年ぶりに流す涙だった。しかし、それは彼の罪を洗い流すことはできなかった。


帰路の船の中、ヤンは次第に孤立していった。使節団の仲間たちは彼の様子の変化に気づき始めていた。かつての機知に富んだ会話は消え、代わりに沈黙と時折見せる不安な目つきが彼の特徴となった。


「タムラ、体調が優れないのか?」


同僚の心配の声に、彼は弱々しく笑顔を見せた。「少し疲れているだけです」


しかし実際には、彼の精神は崩壊の縁にあった。夜になると、彼の部屋からは低いうめき声が聞こえることがあった。そして朝、彼の目は常に充血し、震える手でアヘンパイプを持つ姿が目撃されるようになった。


バタヴィアに到着したとき、彼はすでに別人のようになっていた。痩せこけた体、常に何かに怯えるような目つき、そして異常なまでのアヘンへの依存。それでも、彼の計算能力と冷酷さは健在だった。アヘン取引で得た富は、次々と安全な場所へと移されていった。


「オランダへ戻ったら…」


彼は自分に未来があるかのように考えようとした。しかし、彼の心の奥底では、もう何も残されていないことを知っていた。彼の魂は既に死んでいたのだ。生きているのは、ただその殻だけだった。

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