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第6章 異国の闇

# 第6章 異国の闇


デ・リーフデ号は揺れる波間を進み、バタヴィアへの航海を続けた。甲板に立つヤン・タムラ(かつての川村勇、そして田村源太)は、西洋人船員たちに囲まれながら、未知の景色を眺めていた。海の広さは想像を超え、彼に自由と孤独を同時に感じさせた。


「新しい人生…」


ヤンは青い空と広がる海を見つめながら呟いた。しかし、その自由は完全なものではなかった。夜になると、依然として悪夢に悩まされた。佐々木、渡し守、そして清兵衛の幻影が、彼の眠りを妨げる。


「あなたは日本語を教えてくれますか?」


オランダ人医師のシーボルトが、流暢とは言えぬ日本語で声をかけてきた。ヤンは微笑み、頷いた。


「喜んで。その代わり、オランダ語を教えてください」


こうして、彼らは毎日言語交換をすることになった。シーボルトは医師であると同時に、日本の文化や自然に強い関心を持つ学者でもあった。彼はヤンに西洋の知識を教え、ヤンは彼に日本の言葉や文化について語った。


「あなたは商人でしたね?」航海半ばのある日、シーボルトが尋ねた。


「はい、呉服を扱っていました」


「それは素晴らしい。バタヴィアでは、東洋の品に対する需要が高まっています。あなたの知識は必ず役立つでしょう」


ヤンは感謝の意を示したが、心の中では別の計算をしていた。西洋での新生活、それは単なる逃避だけでなく、新たな富と権力を得る機会でもあったのだ。


---


バタヴィアへの航海は二ヶ月続いた。その間、ヤンのオランダ語は飛躍的に上達した。彼の語学の才能は、シーボルトをも驚かせるほどだった。


「これはオランダ語で何と言いますか?」


「Dat is een schip.(それは船です)」


シーボルトは満足そうに頷いた。「完璧です。あなたは非常に優秀な生徒です」


ヤンは謙虚に頭を下げたが、内心では語学の才能を持つことに誇りを感じていた。これは新しい土地で生き抜くための武器になる。


---


バタヴィア(現在のジャカルタ)は、ヤンの想像をはるかに超えた景色だった。東洋と西洋が混在する街並み、様々な肌の色の人々、聞いたこともない言語が飛び交う市場。彼はすべてに圧倒されながらも、冷静に観察を続けた。


「こちらがタムラさんです」シーボルトはオランダ東インド会社の役人に彼を紹介した。「彼は日本の商人で、反物に関する深い知識を持っています」


役人は懐疑的な目でヤンを見つめたが、シーボルトの保証もあり、最終的にはバタヴィアの東インド会社倉庫での仕事を提供することに同意した。


「ありがとうございます」ヤンは流暢とは言えないながらも、オランダ語で感謝を述べた。


彼の新しい生活が始まった。


---


バタヴィアでの日々は忙しく、しかし充実していた。ヤンは倉庫で働きながら、オランダ語をさらに磨き、現地の商習慣を学んでいった。彼の勤勉さと正確な仕事ぶりは、すぐに上司の目に留まった。


「タムラ、君は素晴らしい仕事をしている」倉庫長のファン・デル・メール氏は彼を褒めた。「特に東洋の反物に関する知識は我々にとって貴重だ」


ヤンは丁寧に頭を下げた。「ありがとうございます、メール様」


「君の給料を上げよう。それに、もっと責任ある仕事を任せたい」


半年後、ヤンはバタヴィアの東洋商品部門の副責任者に昇格した。彼の商才は、異国でも開花し続けていたのだ。


しかし、夜になると、彼はまだ悪夢に悩まされた。佐々木の幽霊は、どこまで追いかけてくるのだろうか。


「いつになれば…自由になれるのだろう」


ヤンはバタヴィアの夜空を見上げ、遠い日本を思った。そして、かつての清兵衛への裏切りに、今更ながら罪悪感を覚えた。


---


バタヴィアでの一年が経ち、ヤンはオランダ本国へ移る機会を得た。東インド会社の重役が、日本に関する知識を持つ人材をアムステルダム本社で求めていたのだ。


「タムラ、君はオランダへ行くべきだ」ファン・デル・メール氏は言った。「そこでの成功は、君の想像を超えるだろう」


ヤンは深く考え込んだ。オランダへ—それはさらなる距離、さらなる逃避を意味していた。しかし同時に、新たな可能性の扉が開かれるようでもあった。


「行きます」彼は決意を固めた。


---


アムステルダムは、バタヴィアとは全く異なる都市だった。北欧の冷たい空気、整然と並ぶ運河沿いの建物、きらびやかな服を着た貴族たち。ヤンは異質な環境に戸惑いながらも、すぐに適応していった。


東インド会社でのヤンの仕事は、主に日本との貿易に関わる助言と通訳だった。当時、日本との貿易は出島を通じてのみ許されており、彼の知識は会社にとって貴重だった。


「タムラ氏、この反物の価値はどれほどでしょうか」


「この品質であれば、日本市場ではこれくらいの価値になります」


彼の的確な判断は、会社に大きな利益をもたらした。その評価は次第に高まり、三年目には重要な役職についていた。ヤン・タムラの名は、アムステルダムの商業界で知られる存在となっていたのだ。


表向きは尊敬される商人であったヤンだが、彼の内面の闇は消えていなかった。むしろ、成功が進むにつれて、その闇は形を変えて大きくなっていった。


---


「タムラ殿、素晴らしい邸宅ですな」


訪問してきた日本人商人が、ヤンの豪邸を見て感嘆の声を上げた。アムステルダムの高級地区に建つその家は、彼の成功を象徴していた。


「ありがとう」ヤンは微笑んだ。「運が良かっただけだ」


しかし、その家の奥には秘密の部屋があった。そこには日本から持ち出した品々—佐々木から奪った小判、書類、そして小刀が置かれていた。ヤンはときどき、その部屋で一人過去と向き合った。


「俺は…何をしているのだろう」


三年の時が流れ、表面的には「ヤン・タムラ」として完璧に適応していた彼だが、心の奥底では、自分が何者なのかという問いに苦しんでいた。「川村勇」でも「田村源太」でもない、この新しい人格は本当の自分なのか?


その答えを求めるかのように、ヤンは次第に享楽的な生活に溺れ始めた。仕事の成功による富を背景に、彼はアムステルダムの夜の世界に足を踏み入れた。


---


「タムラさん、いらっしゃい」


アムステルダムの歓楽街にある高級店の女主人が、ヤンを出迎えた。ここは富裕層のための隠れた遊興施設で、東洋の雰囲気を売りにしていた。


「いつもの部屋を」


ヤンは冷静に指示した。彼はすでに常連となっており、特別な扱いを受けていた。部屋に案内されると、そこには若い女性たちが控えていた。白い肌の金髪の女性から、エキゾチックな南洋の肌の色を持つ女性まで、様々な人種の女性たちだ。


「今日は、どなたをお望みで?」


ヤンはじっと女性たちを見渡し、一人を選んだ。彼女は東洋人の血を引いているようで、かすかに日本人を思わせる面影があった。


部屋には高価な調度品が置かれ、窓からはアムステルダムの夜景が見えた。ヤンはグラスを傾け、女性を脇に置きながら、遠い目をしていた。


「あなたは日本から来たと聞きました」女性が話しかけてきた。「どうして故郷を離れたのですか?」


ヤンは一瞬、硬直した。そして、にこやかな表情を作って答えた。


「冒険が好きでね。新しい世界を見たかったのさ」


嘘の言葉は、彼の口から滑らかに出てきた。何度も繰り返してきた物語は、今では彼自身も半ば信じているようだった。


夜が更けるにつれ、ヤンはさらに酒を重ね、やがて部屋に用意されていたアヘンを手に取った。東インド会社がもたらした中国の幻覚剤は、富裕層の間で密かに流行していた。


アヘンの煙が部屋に満ちる中、ヤンの意識は徐々に現実から離れていった。幻覚の中でのみ、彼は平穏を感じることができた。佐々木の幽霊も、渡し守の老人も、そこには現れなかった。


「ああ…ようやく静かになった…」


彼の顔には、恍惚とした表情が浮かんでいた。


---


翌朝、ヤンは激しい頭痛と共に目覚めた。豪華な寝室に戻されていたが、前夜の記憶は曖昧だった。彼はゆっくりと起き上がり、窓から差し込む光に目を細めた。


「また同じことを…」


自己嫌悪の念が彼を襲った。まるで別人格のように、ヤンは自分の行動を客観的に観察していた。成功した商人「ヤン・タムラ」の裏で、彼は次第に自己破壊的な生活に溺れていった。アヘンと女性と酒—それらは一時的に過去から彼を解放してくれるが、朝になればまた現実が彼を待ち受けていた。


そして、その現実から逃れるために、彼はさらに強い刺激を求め、より深い堕落へと自ら進んでいく。逃避のための逃避。罪を重ねるたびに、彼の中の何かが死んでいくのを感じていた。川村勇から田村源太へ、そしてヤン・タムラへ。名前を変え、国を変え、言語を変えても、彼の魂の奥底には消せない闇があった。


「俺は何からも逃れられないのだ」


その絶望的な認識が、彼をさらなる極端な行動へと駆り立てていく。まるで底なし沼にはまったように、もがけばもがくほど深みにはまっていくのだった。


使用人が朝食を運んできた。ヤンは黙って受け取り、一人食事をした。かつては勤勉で節制を重んじていた彼だが、今では贅沢に慣れてしまっていた。


「タムラ様、東インド会社からの使いの者がお待ちです」


使用人が告げると、ヤンは急いで身支度を整えた。いくら夜遊びをしても、仕事では完璧な態度を崩さないのが彼のプライドだった。


「お待たせしました」


応接室に降りたヤンは、東インド会社の秘書官と対面した。


「タムラ殿、緊急の用件でございます」秘書官は言った。「来月、日本への使節団が派遣されます。あなたの同行を求められております」


ヤンの顔から血の気が引いた。「日本…へ?」


「はい。あなたの日本語能力と商取引の知識が必要とされています」


ヤンの頭の中で警鐘が鳴り響いた。日本へ戻るということは、過去の罪が発覚するリスクを意味する。しかし、断れば疑われるかもしれない。


「光栄です」ヤンは冷静さを装った。「詳細をお聞かせください」


---


その夜、ヤンは書斎で一人、思考に耽っていた。キャンドルの炎が揺れる中、彼の影は壁に不気味な形を投げかけていた。日本への帰国—それは彼が最も避けたかったシナリオだった。しかし今や、それは避けられない現実となっていた。


「どうすれば…どうすれば…」


彼は同じ言葉を何度も繰り返し、部屋の中を行ったり来たりした。強迫的な動作は彼の精神状態を物語っていた。机の上には何枚もの紙が散らばり、そこには彼の混乱した思考を反映するかのような走り書きや計算が記されていた。


「見つかれば死刑…見つからなければ富と権力…見つかれば死刑…」


極端な結果だけを想定する彼の思考は、中間の余地を認めなかった。すべては白か黒か、生か死か、成功か破滅かだった。そして奇妙なことに、この二択の状況が彼に奇妙な安心感をもたらしていた。


しかし、恐怖が彼の体を支配するのに任せたまま、ヤンは窓際に立ち尽くした。その時、彼の手は無意識にアヘンパイプを求めていた。過去三年間、彼はその煙に現実からの一時的な逃避を求めてきたのだ。


アヘンの煙を吸い込むと、彼の思考は奇妙な明晰さを伴って変容し始めた。かつての「川村勇」が彼の意識の表面に浮かび上がってきた—冷酷で、計算高く、生存のためなら何でもする用意のある自分。


「もし怖いなら…さらに恐れられる存在になればいい」


混乱した頭の中で、ある計画が結晶化していった。当時、イギリス人がインドや中国で行っていたアヘン貿易が莫大な利益を上げていることは、彼も知っていた。そして日本は、まだその市場が開拓されていない処女地だった。


「そうだ…これは運命だ」


瞳孔が針の先ほどに縮まったヤンの目には、狂気の光が宿っていた。手の震えは止まり、代わりに異常な集中力が彼を支配した。過去から逃げるために、彼はさらに深い罪へと自ら足を踏み入れようとしていた。より大きな悪行で前の罪を覆い隠す—それは理性的な判断とは言えないが、彼にとっては完全に理にかなっていた。


「日本を...汚せばいい。俺を追い出した国を...破壊すればいい」


彼の思考は極端から極端へと振れていた。かつての愛国心は憎悪へと変わり、自分自身への失望は他者を破滅させることで埋め合わせようとする歪んだ欲望へと転化していた。使節団の一員として日本に入り、その立場を利用してアヘンを持ち込む。正規の外交使節という立場は、厳しい検査を逃れる隠れ蓑になるだろう。


偏執的なまでの細部へのこだわりで、ヤンは頭の中でアヘン密輸の計画を練り上げていった。毎晩、彼は眠れぬ夜を過ごし、計画の穴を埋めていった。日本の税関制度、出島での検査手順、長崎奉行所の役人たちの習慣—かつて商人として得た知識が、今や犯罪計画に利用されようとしていた。


彼は突然立ち上がり、まるで何かに取り憑かれたかのように秘密の部屋へと向かった。書棚を動かし、隠し扉を開けると、そこには彼の過去の断片が収められていた。ヤンは震える手で佐々木から奪った小刀を取り出し、じっと見つめた。刃に映る自分の顔は、もはや見知らぬ他人のようだった。


「俺はもう…後戻りはできない」


彼は小刀を握りしめ、手の平を切り、血を滴らせた。それは一種の儀式のようであり、彼の中の最後の人間性との決別を象徴していた。


「血には血を…罪には罪を…」


この瞬間、彼の中の何かが決定的に壊れた。ヤンは冷静かつ組織的に、アムステルダムの裏社会とのコネクションを利用して計画の準備を始めた。昼は尊敬される東インド会社の役人として会議に出席し、夜は薄暗い酒場で犯罪者たちと密輸の段取りを整える。この極端な二重生活は、彼の分裂した精神を象徴していた。


彼は時に、自分の行動の異常性に気づくこともあった。しかし、そんな自己認識の瞬間は、すぐに合理化によって打ち消された。「これは生き残るためだ」「日本が俺をこうした」「選択肢などなかった」—彼の頭の中では、こうした言い訳が常に用意されていた。


善悪の区別は、もはや彼の世界には存在しなかった。ただ自分の利益と保身だけが、彼の行動原理となっていた。そして何より恐ろしいことに、彼は次第にこの状態に心地よさを感じ始めていた。道徳という重荷から解放され、純粋な自己保存本能だけで生きることの自由を。


---


出航の日、アムステルダムの港には大勢の見送りの人々が集まっていた。東インド会社の高官たちも来ており、使節団の出発を祝っていた。


「タムラ殿、良い旅を」


会社の重役が彼の肩を叩いた。ヤンは丁寧に頭を下げ、感謝の意を表した。彼は今や、白人社会の中でも一目置かれる存在となっていた。金髪に染め、ひげを生やし、完全に西洋人の風貌に変装していた彼を、かつての知人が見れば誰も気づかないだろう。


船の中、彼の個室の床下には、慎重に梱包されたアヘンの箱が隠されていた。彼はその準備に異常なまでの注意を払い、箱の寸法から隠し場所の湿度まで、すべてを何度も確認していた。その強迫的な細部へのこだわりは、彼の偏執的な性格の表れだった。


ヤンは一人、個室で鏡の前に立った。自分の姿を長時間見つめ、時折笑い、時折表情を変えた。「川村勇」「田村源太」「ヤン・タムラ」—彼はそれぞれの人格を演じ分けるかのように表情を変化させた。そして最後に、彼はすべての表情を消し去り、完全に無表情になった。それこそが、今の彼の本当の姿だったのかもしれない。


船が出港し、アムステルダムの街並みが遠ざかっていく中、ヤンは甲板に立ち、深呼吸した。


「また海を渡る…」


今度は単なる逃避ではなく、より深い何かを彼は感じていた。それは日本という国そのものへの復讐だった。彼を追い出し、彼の人生を狂わせた国への復讐。罪から逃れるために、彼はより大きな罪を犯そうとしていた。アヘンによって日本を汚染することは、彼の歪んだ論理の中では、完全に正当化されていた。


「すべては日本のせいだ…だから、日本が罰を受けるべきなのだ…」


しかし、その思いの奥底には、自分自身への復讐という側面もあった。彼は自分が本当は何者なのか、もはや明確な答えを持っていなかった。「川村勇」でも「田村源太」でも「ヤン・タムラ」でもない、どこにも属さない魂。自己破壊的な行動を通じて、彼は自分自身をも破滅させようとしているのかもしれなかった。


「最後の航海になるかもしれない…」


その言葉には、奇妙な解放感が込められていた。すべてが終わりに向かっているという予感が、彼に奇妙な平穏をもたらしていた。


船は西へと進み、再び東方へ向かうための長い旅が始まった。ヤンの目には、決意と不安が入り混じった複雑な感情が浮かんでいた。


彼の運命の糸は、再び日本へと繋がろうとしていた。

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