第5章 海の向こうの約束
# 第5章 海の向こうの約束
「長崎への旅」—その言葉が源太の心を強く捉えたのは、単なる商機への期待だけではなかった。それは彼の中に潜む「川村勇」から、さらに遠く逃れる可能性を意味していた。
清兵衛の書斎で、源太は茶を啜りながら、静かに話を聞いていた。
「長崎での交易は危険も大きいが、利益も大きい。田村殿ならば」清兵衛は穏やかに微笑んだ。「その才覚で、鈴屋に新たな富をもたらしてくれるだろう」
源太は丁寧に頭を下げた。「恐れ多きご信頼、心より感謝申し上げます」
「最初は小規模な投資からだ。反物や染料の仕入れを中心に」清兵衛は言った。「もし上手くいけば、定期的に長崎詰めの担当としてお前を遣わそうと思っている」
源太の心は高鳴った。長崎—幕府の厳しい鎖国政策の中で、唯一外国との窓口となっている場所。そこには新たな可能性と、過去からの脱出路があるかもしれない。
「何卒、お任せください」
源太の言葉には、単なる商人としての野心を超えた、切実な思いが込められていた。
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準備期間を経て、源太は長崎行きの旅に出た。道中、京都から九州までの長旅は、彼に様々な思いをもたらした。
東海道を西へ進み、山陽道へと入る頃、源太は馬の背に揺られながら、過去を振り返っていた。あの日、藤枝宿を出てから三年。彼は「田村源太」として立派に生きてきた。商才を認められ、信頼を得て、そして今、鈴屋の重要な使命を任されている。
「俺は...成功したんだ」
しかし、その思いの奥底には常に不安と罪の意識があった。夜になると、必ず佐々木の幽霊が夢に現れる。そして時折、渡し守の老人も。彼らは源太を責め立てることはなく、ただ悲しげに見つめるだけだったが、それがかえって彼の心を苛んだ。
「逃げ続けるしかないのか...」
瀬戸内海を船で渡る頃、源太は海の広さに心を奪われた。水平線の彼方には何があるのだろう。日本を出て、遠い国へ行けば、もっと自由になれるのだろうか。そんな思いが、彼の心に芽生え始めていた。
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長崎到着。源太は出島近くの宿に滞在することになった。窓からは、出島とそこに停泊するオランダ船が見えた。異国情緒あふれる光景に、源太の心は奇妙な高揚感を覚えた。
「ここなら...誰も過去を知らない」
源太は宿の窓辺に立ち、深呼吸した。長崎の空気には潮の香りが混じり、遠く異国の匂いさえ感じられるようだった。この地で、彼は完全に「田村源太」になれると感じた。
翌日から取引が始まった。源太は鈴屋の資金を携え、長崎の問屋や商人たちと交渉を重ねた。彼の商才と誠実な人柄は、すぐに長崎の商人たちにも認められた。特に反物の目利きと、適正価格を見極める能力は高く評価された。
「鈴屋の田村殿は目が確かだ」という評判が広まるにつれ、取引は順調に進んだ。当初の目的だった反物や染料の仕入れは予想以上の成功を収め、鈴屋への第一便は大きな利益をもたらした。
「田村殿からの便り、大変喜ばしいぞ」京都から届いた清兵衛の手紙には、源太への信頼と期待が記されていた。「引き続き長崎での任務を続けよ。次回は資金も増やそう」
商人として成功していく実感は、源太に大きな満足をもたらした。しかし、その一方で彼は夜ごと、夢の中で佐々木に会い続けていた。
「まだ、足りないのか...」
源太は目を覚まし、冷や汗を拭った。いくら「田村源太」として成功しても、「川村勇」の罪は消えない。彼は次第に、日本という国そのものから逃れたいという思いを強くしていった。
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長崎での滞在が二ヶ月を過ぎた頃、源太は出島のオランダ商館と接触する機会を得た。鈴屋が扱う高級反物をオランダ人に売り込むという商談だった。
「田村殿、こちらがオランダ商館の通詞を務める楢林徳三郎殿だ」
長崎の問屋が紹介する男は、三十代半ばの知的な印象の男だった。通詞とは、外国人との商談で通訳を務める役職で、幕府に公認された重要な地位にある。
「おはようございます。鈴屋の田村源太と申します」
源太は丁寧に挨拶した。楢林は彼を見つめ、わずかに微笑んだ。「田村殿、評判は聞いておりました。今日はよろしくお願いいたします」
商談は成功した。源太の持参した上質な反物は、オランダ人の興味を引き、予想以上の価格で取引が成立した。商談の後、楢林は源太を茶屋に誘った。
「田村殿のような才覚ある方は珍しい」楢林は茶を啜りながら言った。「特に語学の才能をお持ちだと聞きました」
源太は驚いた。確かに彼は長崎滞在中、オランダ語や中国語の単語をいくつか覚え、基本的な会話ができるようになっていたが、それが評判になっているとは。
「いえ、ほんの少しだけ...」
「謙遜なさらずとも」楢林は笑った。「私は人を見る目があります。田村殿には、もっと大きな可能性がある」
源太は複雑な心境だった。褒められること自体は嬉しいが、「田村源太」という虚像が評価されているという事実に、ふと虚しさを感じた。しかし、その感情を表に出すことなく、商人らしく応対を続けた。
「楢林殿のようなお方に褒めていただき、光栄です」
楢林は左右を見回し、声を潜めた。「実は...田村殿にお話ししたいことがあるのです。もっと...プライベートな場所で」
その言葉に、源太の警戒心が高まった。しかし同時に、好奇心も刺激された。
「承知しました」
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楢林の住まいは、出島近くの小高い丘の上にあった。そこは外国の影響を受けた洋風の建物で、窓からは長崎港と出島が一望できた。
「お茶をどうぞ」
楢林が出したのは、日本茶ではなく、琥珀色の液体が入ったカップだった。
「これは...?」
「紅茶と言います。イギリス人が好む飲み物です」楢林は微笑んだ。「私はオランダ商館で働いていますが、様々な国の文化に触れる機会があるのです」
源太は恐る恐る一口飲んでみた。独特の香りと味に、最初は戸惑ったが、不思議と心地よく感じた。
「さて、本題に入りましょう」楢林は姿勢を正した。「田村殿、あなたのような才能ある方は、もっと広い世界で活躍すべきだと思います」
「広い世界...?」
「そう、日本の外です」楢林の目が輝いた。「オランダ、あるいはその植民地であるバタヴィアなど、あなたの才能が花開く場所は他にもある」
源太の心臓が高鳴った。楢林が何を言おうとしているのか、うすうす感じていた。
「しかし、ご存知の通り、幕府の鎖国政策では...」
「もちろん」楢林は頷いた。「公式には不可能です。しかし...非公式なルートも存在する」
源太は息を呑んだ。それは死罪にも値する重罪だ。しかし同時に、彼がひそかに求めていた逃避の道でもあった。
「具体的に...どういうことでしょう」
楢林は窓の外、停泊しているオランダ船を指差した。「来月、あの船が帰国します。その際、日本人の同行者を求めているのです。もちろん、幕府には内密に...」
「なぜ...日本人が必要なのでしょう?」
「文化交流です」楢林は説明した。「ヨーロッパでは日本への関心が高まっています。言語や文化に精通した日本人は貴重な存在です。あなたのような商才と語学の才能を持つ方なら、オランダでも活躍できるでしょう」
源太は窓の外を見つめた。海の向こうには未知の世界が広がっている。そして何より、川村勇の罪から永遠に解放される可能性が。
「危険すぎる賭けではないでしょうか...」
しかし、源太の声には既に決意が滲んでいた。楢林はそれを察したように微笑んだ。
「もちろん危険です。しかし、人生とはリスクを取ることでもある。田村殿、あなたには何か...逃れたいものがあるのではありませんか?」
その言葉に、源太は息を飲んだ。楢林は彼の過去を知っているのだろうか?いや、それはあり得ない。彼は単に直感的に源太の内面を見抜いたのだろう。
「...考えさせてください」
「もちろんです」楢林は頷いた。「来週までに返事をいただければ」
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その夜、源太は宿に戻り、一人で考え込んだ。窓の外には、今にも雨が降り出しそうな曇り空が広がっていた。
「日本を出る...」
その言葉を口にするだけで、源太の心は激しく揺れ動いた。それは過去の罪から逃れる最後の手段であり、同時に全てを捨てる覚悟を意味する。
源太は鈴屋への忠誠と、清兵衛への恩義を思った。彼は「田村源太」として鈴屋で成功し、信頼を勝ち得ていた。その全てを捨てて、未知の国へ渡るという選択は、新たな裏切りではないのか。
「俺は...結局、逃げ続けるしかないのか」
源太は苦悩した。しかし、夜が更けるにつれ、彼の心は次第に固まっていった。この国にいる限り、「川村勇」の亡霊から逃れることはできない。新しい土地、新しい言語、新しい名前—それらが彼に真の再生をもたらすかもしれない。
雨が降り始めた。窓ガラスを伝う雨粒は、源太の頬を流れる涙のようだった。
「すまない、清兵衛様...」
決断は下された。源太は楢林の提案を受け入れることにした。しかし、その前に最後の仕事として、鈴屋への約束は果たさねばならない。
翌朝、源太は問屋街へと向かい、鈴屋のために最高品質の反物と染料を仕入れた。それは京都に送る最後の贈り物となるだろう。
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一週間後、源太は再び楢林を訪ねた。
「決心がつきました」源太は静かに言った。「オランダへ行く決意です」
楢林は満足そうに頷いた。「そうですか。では、詳細をお話ししましょう」
計画は周到だった。来月、デ・リーフデ号という商船がバタヴィア(現在のジャカルタ)へ向けて出港する。源太は船の倉庫に隠れ、公海に出てから正式に船員として登録される予定だ。その後、バタヴィアを経由してオランダへ向かう。
「オランダに到着後は、私の知人があなたを迎え、住居と仕事を提供します」楢林は説明した。「あなたの商才と日本の知識は、彼らにとって貴重なのです」
源太は深呼吸した。「わかりました」
「そして...」楢林は少し躊躇った後、「新しい名前も必要でしょう。オランダ風の名前を...」
源太—かつての川村勇—は苦笑した。これで三度目の名前変更となる。彼の人生は、まるで何度も生まれ変わるかのようだった。
「新しい名前...」源太は窓の外を見た。雨は上がり、美しい夕焼けが長崎の港を染めていた。「...ヤン・タムラでどうでしょう」
「良い響きです」楢林は微笑んだ。「では、ヤン・タムラ殿。新たな人生の門出をお祝いしましょう」
彼はデスクから西洋風のグラスと瓶を取り出し、琥珀色の液体を注いだ。
「これは...?」
「ブランデーと呼ばれる酒です。西洋では祝いの席で飲むのが習慣です」
源太はグラスを受け取り、その香りに少し顔をしかめた。しかし、すぐに決意を固め、一気に飲み干した。喉を焼くような強い刺激が走り、彼は咳き込んだ。
「強いですね...」
「新しい世界には、新しい感覚が必要です」楢林は笑った。「これから様々な驚きがあるでしょう」
源太は頷いた。ブランデーの熱が体の中を巡り、奇妙な安堵感をもたらした。これから始まる未知の旅への不安はあったが、それ以上に、過去から解放される期待に胸が膨らんだ。
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残された一ヶ月で、源太は準備を整えた。鈴屋への最終報告書を作成し、仕入れた商品を京都へ送った。清兵衛には「さらなる商談のため、しばらく長崎に留まる」と伝え、一部の資金を自分のものとして確保した。
その行為に罪悪感はあったが、もはや引き返すことはできなかった。源太の中で、「田村源太」の良心と「川村勇」の生存本能が激しく葛藤していた。しかし、最終的には後者が勝った。
「これも生きるため...」
源太はそう自分に言い聞かせた。しかし、心の奥底では、自分が選んだ道が新たな罪の連鎖を生み出していることを、薄々感じていた。
出国の日が近づくにつれ、源太の夢は一層鮮明になった。佐々木、渡し守、そして今度は清兵衛までもが夢に現れ、彼を見つめるようになった。彼らは何も言わず、ただ悲しげな眼差しで源太を見続けた。
「俺は...間違っているのか」
出港の前夜、源太は長崎の海を見つめながら自問した。しかし、もう後戻りはできなかった。彼の運命の舟は、既に岸を離れようとしていた。
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出国の日。
緊張と期待が入り混じる中、源太は指定された夜、出島の裏手に現れた。楢林とオランダ人の水夫が彼を迎え、大きな荷物の中に隠れるよう指示した。
「田村殿...いえ、ヤン殿」楢林は最後の別れの言葉を告げた。「これからの人生に幸運を」
源太は荷物の中に潜り込み、船へと運ばれていった。暗闇の中、揺れる船倉で過ごす数時間は、不安と恐怖で満ちていた。もし発覚すれば、即座に処刑されるだろう。
しかし、船が動き出し、やがて何者かが彼を船倉から解放したとき、源太は深い安堵を感じた。目の前には、西洋人の医師らしき人物が立っていた。
「シーボルトです」彼は流暢な日本語で自己紹介した。「ようこそ、ヤン・タムラさん。これで日本の領海を出ました。あなたは自由です」
甲板に立ち、遠ざかる日本の島影を見つめる源太。もはや川村勇でも田村源太でもなく、新たな名前と人生を得ることになる。かつての罪、佐々木への裏切り、それらはすべて海の彼方に置いてきたのだろうか。
しかし、その夜も彼の夢には、やはり佐々木の亡霊が現れた。過去は彼の心の中に残り続けるのだ。そして、それは彼のさらなる選択を導いていくことになる。