第4章 再生の仮面
# 第4章 再生の仮面
島田宿の小さな宿に身を寄せた勇は、鏡に映る自分の顔を見つめていた。髪は乱れ、目の下には疲労の色が濃く、かつての武家の子息の面影は既になかった。三日間、彼は宿から一歩も出ず、傷が癒えるのを待っていた。佐々木から奪った金で部屋を確保し、最低限の食事と薬だけで過ごした。
「これからは…田村源太…」
彼は佐々木の偽名手形を開き、そこに記された名前を口に出した。「田村 源太」という名前には何の由来もなかったが、これから彼の新しい人生を象徴する名前となる。
勇は髪型を変え、武家の面影を消すために、わざと背中を丸め、商人特有の小股で歩く練習をした。鏡に映る姿は日に日に「田村源太」に近づいていった。
「おはようございます、田村と申します。」
「いえ、そのような値では引き取れませぬ。」
「ありがとうございます、またのお越しを。」
彼は商人らしい丁寧な言葉遣いを何度も繰り返し練習した。武士としての誇り高い口調や立ち振る舞いは、死んだ「川村勇」と共に捨て去るべきものだった。
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一週間後、「田村源太」は旅商人としての新生活を始める準備が整った。佐々木から得た金で小さな商品を仕入れ、行商人として身を立てる計画だ。取り扱う商品は、各地の特産品や日用品。特に目立たない、しかし需要のある商品を選んだ。
島田宿の北の市場で、源太(かつての勇)は最初の商談に臨んでいた。
「この木綿は上質でございます。お値段も手頃でね」
彼は自然な笑顔を浮かべながら、品物を勧めていた。相手の農家の主人は半信半疑ながらも、この新顔の商人の熱意に負けて、結局は買い求めていった。
その日の終わり、源太は小さな成功に満足していた。「田村源太」という仮面を着けて生きる彼の新しい一日が終わった。しかし、夜になると、夢の中には必ず佐々木の幽霊が現れた。
「勇…お前は…政次の息子では…」
目を覚ますと、いつも冷や汗に濡れていた。そんな日々が続いた。
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「田村殿、この油は如何です?丹波の特産でね、灯りが長持ちすると評判なのですよ」
丹波から来た商人が声をかけてきた。源太は商品を手に取り、専門家のように匂いを嗅ぎ、色を確かめた。
「なるほど、確かに良い品ですな。少々仕入れましょう」
源太が商いを始めて三ヶ月が経った頃のことだ。彼は東海道を西へと進みながら、次第に商人としての勘を磨いていった。父から受け継いだ機転の良さと、剣術で培った観察力が、思いがけず商売の世界で役立った。相手の欲するものを素早く見抜き、適切な価格で取引する感覚は、日に日に磨かれていく。
「田村さんは目が良いね。商人になって間もないとは思えないよ」
各地の商人たちが源太を認め始めていた。しかし彼自身は、その評価に複雑な思いを抱いていた。
「これは…本当の俺の才能なのか?それとも演技に過ぎないのか…」
夜、宿の一室で源太はそんな思いに囚われていた。彼の中には二つの人格が存在しているようだった。表面的には穏やかで知的な商人「田村源太」と、その奥底に潜む冷酷で計算高い「川村勇」。時として、彼はどちらが本当の自分なのか分からなくなることがあった。
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ある日、源太は掛川宿で一人の武士と顔を合わせた。その武士は志太藩の者で、かつて勇が襲った家老の随行だった可能性があった。
源太の心臓が跳ねた。しかし表情には何も出さず、わざと目を伏せて通り過ぎた。武士は源太に一瞥をくれただけで、特に関心を示さなかった。
「覚えられていない…か」
安堵と、奇妙な失望が入り混じる感情。源太は一瞬足を止めたが、すぐに歩き出した。彼の中の「勇」が静かに笑った。
「もう誰も俺を知らない…完璧だ」
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京都へ続く東海道を西へと進む中、源太は次第に「田村」としての評判を築いていった。時おり武家の行列と擦れ違うとき、かつての自分を思い出すこともあったが、今の彼はもう別の人生を歩んでいた。
「田村殿!久しぶりじゃな」
近江の草津宿で、源太は馴染みの呉服商・鈴木屋清兵衛と再会した。六十代の清兵衛は、京都では名の知られた商人で、源太とは三度目の取引だった。
「清兵衛様、お元気そうで何よりです」源太は深々と頭を下げた。
「うむ。前回買い取った絹織物、京都で良い値で売れたぞ。お前の目利きは確かだ」
清兵衛は源太を食事に誘った。茶屋での会話の中で、清兵衛は次第に源太に興味を示し始めた。
「田村殿、あなたの商才は並ではない。単なる行商人では勿体ない。うちで働いてみぬか?」
源太は一瞬、言葉を失った。「お店で…ですか?」
「うむ。最初は見習いからだが、才覚を見せれば番頭にもなれるだろう。京都は商いの中心地。大きく羽ばたける場所だ」
源太の頭の中で、様々な思いが交錯した。京都は大きな都市であり、身を隠すには絶好の場所だ。一方で、幕府の目も多い。しかし、単なる行商人よりも安定した生活が得られる。そして何より…
「何より、俺は…商人として認められている」
その思いは、源太の心に深い満足感をもたらした。かつて武士として認められることを切望した自分。今は形を変えてはいるが、その願いが叶おうとしている。
「ありがとうございます。ぜひ、お世話になりたく存じます」
源太は静かに頭を下げた。彼の目には決意の色が宿っていた。
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京都での生活は、源太の予想以上に順調だった。鈴屋(鈴木屋の略称)は祇園近くにある老舗の呉服商で、幕府の御用商人としても知られていた。
最初は店先での接客からスタートした源太だったが、その商才と人当たりの良さから、清兵衛の信頼を急速に獲得していった。特に、反物の目利きや値付けについての勘の良さは、店の古参の番頭たちをも驚かせた。
「昔から布地には詳しかったのですよ」源太は照れ隠しにそう言ったが、実は武家の子として、父から布地や染物の良し悪しを見分ける目を教わっていたのだ。
ある雨の日、源太は店の奥で帳簿をつけていた。開け放たれた窓からは、京都の繁華街に降り注ぐ雨音が聞こえてくる。
「田村、ちょっといいか」
清兵衛が声をかけてきた。源太が振り返ると、彼の隣には見慣れぬ武士が立っていた。源太の背筋に冷たいものが走った。
「こちらは駿河の藩士、加賀見殿だ。主君のために上等な反物を探しておられる」
武士は源太をじっと見た。「田村殿と申されたか。商才を買われているとのこと。よろしく頼む」
源太は一瞬の動揺を抑え、丁重に頭を下げた。「微力ながら、お力になりたく存じます」
彼の手は僅かに震えていたが、それを悟られないよう、袖の中に隠した。
「加賀見様、こちらの青色の反物は駿河でも大変人気でございます。藩主様にもきっとお気に召すかと」
源太は商人としての立場を利用し、自然な会話の流れの中で駿河の話題を持ち出した。武士は特に警戒する様子もなく、源太の接客に満足している様子だった。
「そうか、駿河の情報に詳しいのだな」武士は興味を示した。「実は私も久しぶりの帰国でな。最近の駿河の様子を知りたいところだ」
これは危険な話題だが、源太は好奇心を抑えられなかった。
「ああ、駿河の商人たちとはよく取引がございますゆえ。ところで、藤枝宿はいかがでしたか?最近、何か変わったことはございませんか?」
武士は少し考え込むように答えた。「藤枝か...確かに少し騒がしかったな。一年ほど前、家老の護衛が襲われる事件があったそうだ。その後、老武士の殺害事件もあったとか」
源太の心臓が高鳴ったが、表情には出さないよう努めた。
「そ、それは大変でしたね。犯人は捕まったのですか?」
「いや、まだ捕まっていないらしい。だが、最近は手がかりが見つかったという話だ」武士は反物を手に取りながら続けた。「川村という名の若者を探しているとか。どうやら武家の出だが落ちぶれていたらしい」
源太の手が一瞬震えたが、すぐに取り繕った。「そ、そうですか...大変な事件ですね」
武士は源太をじっと見て、「ところで、田村殿。以前はどちらで商いをされていたのですか?」と唐突に質問してきた。
源太は警戒心を高めながらも、事前に用意していた物語をなめらかに語った。
「以前は都の室町で小さな店を営んでおりましたが、二年前の大火で店を失いました」源太は悲しげな表情を浮かべた。「全てを失い、一から出直すつもりで行商を始め、ご縁あってこちらの鈴屋にお世話になっております」
武士は源太の話に同情の色を浮かべた。「そうか、それは災難であったな。都の大火と言えば、確かに聞いたことがある」
源太の嘘が功を奏したようだった。都の大火は実際にあった出来事で、多くの商人が被害を受けたことは広く知られていた。
「命があっただけでも幸いでございます」源太は商人らしく頭を下げた。「さて、藩主様へのご進物、こちらの反物はいかがでしょうか。駿河の海を思わせる青が美しく...」
巧みに話題を戻し、源太は商いに専念する姿勢を見せた。武士は先ほどの警戒心を解いたようで、源太の提案に興味を示し始めた。
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取引が終わり、武士が店を後にした後、源太はようやく緊張の糸を解いた。しかし、駿河での捜査が進んでいるという情報は気になった。川村勇の名前がまだ追われているという事実に、彼は改めて身の危険を感じていた。
その夜、源太は鈴屋の二階の自室で考え込んだ。京都での生活は順調だったが、過去の罪から完全に逃れることはできないのではないか。今日のように、いつ過去が追いついてくるかわからない。
しかし、彼はもう後戻りはできなかった。今の生活、鈴屋での地位、「田村源太」という存在自体が、彼の精神を支える唯一の杖となっていた。
「俺は田村源太だ...川村勇ではない...」
源太は自分に言い聞かせるように呟いた。しかし、その夜も彼の夢には、佐々木の血まみれの姿が現れた。そして今回は、渡し守の老人も加わっていた。
「殺したのか...」
源太は冷や汗と共に目を覚ました。渡し守のことは、自分の中で封印していた記憶だった。あの夜、老人の喉を掴んだ時、彼は本当に死んだのだろうか?それとも意識を失っただけだったのか?
確かめる術はなかった。しかし、その疑念は源太の心に新たな亀裂を生み出した。彼の心の闇は、思っていた以上に深かったのかもしれない。
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一年が経ち、源太は鈴屋の中で確固たる地位を築いていた。番頭代として、大きな取引も任されるようになった。清兵衛の信頼は厚く、いずれは養子縁組の話が出るかもしれないという噂さえ立っていた。
表面上は穏やかで有能な商人として成功していた源太だが、その心の内は常に葛藤に満ちていた。昼は「田村源太」として完璧に振舞いながらも、夜になると「川村勇」の記憶と罪の意識が彼を苛んだ。
「このままでいいのか...」
源太は夜空を見上げながら、自問自答を繰り返していた。表の顔と裏の顔、どちらが本当の自分なのか、彼自身にもわからなくなっていた。そして、その二面性こそが、彼の新たな運命を形作ることになる。
「田村殿」
ある日、清兵衛が源太を書斎に呼んだ。「長崎への旅はどうだろう?」
清兵衛の言葉に、源太の心は大きく揺れ動いた。長崎—それは新たな可能性と、さらなる逃避の道を意味していた。彼はその提案を、運命の導きとして受け入れることにした。