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第3章 血塗られた裏切り

# 第3章 血塗られた裏切り


納屋の隅で震える勇の瞳に、月明かりが不気味に反射していた。外では追っ手の声が次第に遠ざかり、代わりに闇の静寂が訪れる。右腕の傷から滴る血は、藁の上に小さな池を作っていた。


「これ以上ここにいるわけにはいかない…」


勇はよろめきながら立ち上がった。頭がくらくらする。失血のせいか、それとも恐怖と狂気の入り混じった精神状態のせいか。おそらくは両方だろう。


大井川を渡り、藤枝宿へ戻る——その一点だけを考えて、勇は納屋を後にした。夜の闇に身を潜ませながら、勇は川へと向かった。


「俺は悪くない…あの護衛どもが俺を試そうとしなかった…家老も俺の才能を見抜けなかった…」


自らを正当化する言葉を呟き続けることで、勇は恐怖から目を逸らそうとした。しかし、その言葉は次第に信念へと変わっていく。現実逃避のための嘘が、彼の中で真実に姿を変えていくのだ。


---


夜中、勇は下流の渡し場を見つけた。増水した川は今にも氾濫しそうだったが、命の危険を感じる勇にとって、それは些細な問題に思えた。


「おい、そこの若い衆。こんな夜中に何をしている」


闇の中から声がした。年老いた渡し守が、提灯を掲げて立っていた。


「…川を渡りたい」勇は震える声で言った。


「馬鹿な。今夜は渡れん。見てみろ、川は怒っておる」


「頼む…命にかかわる」勇は懐から残りの銭を取り出した。「これで…お願いだ」


渡し守は銭を見て、しばし考え込んだ。「若いの、お前…傷を負っているな」


勇は咄嗟に腕を隠したが、既に遅かった。


「俺を殺そうってのか…こんな夜に川を渡れば、お前も死ぬぞ」渡し守は冷静に言った。


「死ぬわけにはいかない…俺にはまだやるべきことが…」


「血だらけの若造がやるべきこと?」渡し守は不審そうに眉を寄せた。「役人を呼ぶべきかもしれんな」


その言葉に、勇の中で何かが切れた。


「呼ぶな!」


次の瞬間、勇は老人に飛びかかっていた。負傷した腕を押さえながらも、もう片方の手で老人の喉を掴み、地面に押し倒す。


「ごほっ…や、やめろ…」


老人の目が恐怖で見開かれた。勇は自分がしていることに一瞬我を失ったが、すぐに正気を取り戻した——いや、正気ではなく、より深い狂気へと沈んでいったのだ。


「俺は…川を渡らなければならない…」勇は呟いた。「誰にも邪魔はさせない」


老人の抵抗が弱まると、勇は彼の体を放した。渡し守は意識を失い、ただ横たわっている。殺したのかどうか確かめる余裕も時間もなかった。


勇は老人の小屋から小さな舟を見つけ、川へと漕ぎ出した。増水した川の流れは予想以上に強く、小舟は激しく揺れた。何度か転覆しそうになりながらも、勇は必死に対岸を目指した。


「俺は…死ねない…」


川の水しぶきと闇の中、勇の目には異常な決意の光が宿っていた。


---


翌朝早く、勇は藤枝宿の外れまでたどり着いていた。一晩中歩き続け、腕の傷は応急処置程度しかできていなかったが、致命的にはなっていなかった。しかし、熱が出始めており、傷口が化膿する前に適切な処置が必要だった。


「源蔵叔父上の家は…確か…」


勇の記憶を頼りに、藤枝宿の北、小さな丘の麓にある佐々木源蔵の家を目指した。道中、人目につかないよう、田畑の間の細道を選んだ。


「もし叔父上に会えなければ…俺は…」


考えることすら疲れるほど、勇の精神と肉体は限界に近づいていた。やがて視界に入ってきたのは、竹林に囲まれた質素な屋敷だった。かつて父が何度も訪れた、親友の家。


門前に立ち、勇は震える手で戸を叩いた。


「誰だ?こんな朝早くに」中から老人の声が聞こえた。


「佐々木殿…私は川村勇、政次の息子です。お願いです、助けてください…」


短い沈黙の後、戸が開き、白髪の老人が勇を見つめた。かつては凛々しかったであろう顔には深いしわが刻まれ、右目は白く濁っていた。


「政次の息子…」老人の目が細められ、勇の姿を確認すると、「中に入れ。早く」と急かした。


---


佐々木源蔵の家の中は、質素ながらも整然としていた。壁には古い刀が掛けられ、床の間には花が生けられている。隠居した剣術の達人にふさわしい、静かな威厳を感じさせる空間だった。


「座れ」


勇は言われるまま座り込み、ほっとした息をついた。しかし、その安堵感は長くは続かなかった。佐々木の鋭い視線が彼を貫いたからだ。


「政次の息子なら、幼い頃に一度会ったはずだ。覚えているか?」


勇は記憶を探ったが、思い出せなかった。「申し訳ありません…」


「当然だろう。お前はまだ五つか六つだった。」佐々木は勇の腕の傷に目をやった。「何があった?正直に話せ」


勇は震える声で、大名家老の護衛を襲った愚かな行動から、煙玉で逃げ出し、川を渡ったことまで、すべてを語った。ただ、渡し守のことだけは黙っていた。


話を聞き終えた佐々木は深いため息をついた。


「愚か者め...」老武士は静かに、しかし厳しい口調で言った。「武士の作法も、剣の道も知らぬまま、名を上げようとするとは…」


「でも、父上は…!」勇は反論しようとしたが、佐々木の厳しい眼差しに言葉を飲み込んだ。


「お前の父、政次は私の命の恩人だ。だから見捨てはせん」佐々木は立ち上がり、古い箱から包帯と薬草を取り出した。「まずはその傷の手当てをしよう」


勇は黙って頷き、佐々木に腕を差し出した。老武士の手つきは優しいが確かで、長年の経験が感じられた。


「傷は深いが、命に別状はない」佐々木は手当てをしながら言った。「だが、お前は大きな過ちを犯した。武士への暴力は重罪だ。明日には幕府の役人が捜索を始めるだろう」


「どうすれば…」勇の声には絶望が滲んでいた。


佐々木は手当てを終えると、勇を真剣な目で見つめた。


「選択肢は二つ。一つは、すぐに遠く離れた地へ逃げること。もう一つは…」彼は一瞬言葉を切り、「私から藩主に直訴する道だ。あの家老は私の古い知り合いでな。お前が本当に悔いているなら、命乞いはできるかもしれん」


勇は佐々木の言葉を聞きながら、状況を冷静に観察していた。この老人は父の友人と名乗り、手当てまでしてくれた。しかし…彼の存在は、勇と事件を結びつける証拠になりうる。


「それに、お前の父は剣術の才能があった。お前にもその血が流れているはずだ。今回の愚行は若さゆえのこと。正しい道を歩めば…」


佐々木の言葉は、勇の耳には届いていなかった。彼の目は老人の背後にある刀と、薬箱の中の金子に釘付けになっていた。頭の中では、全く別の思考が渦巻いていた。


「…どうだ、勇。どちらの道を選ぶ?」


勇はゆっくりと顔を上げ、佐々木に微笑みかけた。その笑顔には、一見すると感謝と安堵の色が浮かんでいた。しかし、その目の奥に潜む何かを、老武士は見逃さなかった。


「勇…お前は…」


佐々木が何かを察したように声を上げた瞬間、勇の決断が下された。夜の闇の中、運命の歯車が回り始める。


---


佐々木が薬箱を片付けようと背を向けた瞬間、勇は決断した。懐から小刀を取り出し、一瞬の躊躇もなく老人の背中に突き立てた。


「うっ…!」


佐々木は驚きの声を上げ、振り返ろうとした。しかし、勇は迷いなく再び刃を突き刺した。今度は首筋に。老人の目が大きく見開かれ、勇を見つめた。


「勇…お前は…政次の息子では…」


彼の言葉は途切れ、床に崩れ落ちた。血が畳に広がり、勇の手も真っ赤に染まっていた。


勇は冷静さを装いながらも、体の震えが止まらなかった。彼の精神は既に狂気の淵を越えていた。


「すまない、源蔵叔父上…だが、これも運命なのだ」


自分に言い聞かせるように呟きながら、勇は部屋の中を急いで物色し始めた。貴重な品々を探し、旅費になる小判、傷の手当てに必要な薬草、そして何より重要な、佐々木が持っていた偽名の手形を見つけた。これで身分を偽ることができる。


佐々木の体から血が流れ続ける中、勇は冷酷なまでの効率で必要なものを集めていった。その目には感情の光がなく、機械的な動きは、まるで別人のようだった。


「証拠を隠滅しなければ…」


勇は火をつけようとも考えたが、それでは大きな騒ぎになり、すぐに追っ手が来るだろう。代わりに、盗賊に襲われたように見せかけることにした。部屋を荒らし、貴重品を奪った形跡を残す。


「そうだ…盗賊が襲って…叔父上は抵抗して…」


勇は自分自身に物語を語りながら、犯行の痕跡を消していった。精神の奥底では、自分が何をしているのか理解していた。父の友人を殺め、恩を仇で返したのだ。しかし、表面的な意識はそれを否定し続けた。


「俺は悪くない…これは生きるため…父上のためなのだ…」


勇は最後に部屋を見回し、血まみれの手袋を外して懐にしまった。そして、夜の闇に紛れて立ち去った。


---


山道を通り、藤枝宿から離れる途中、勇は自分のしたことの重さを感じ始めた。父の友人を殺め、恩を仇で返したのだ。もはや彼は単なる逃亡者ではなく、殺人者となっていた。


「これが…俺の選んだ道…」


月明かりの下、勇の顔には苦悩の表情が浮かんでいた。しかし、その奥には既に冷たい決意が芽生えていた。生き延びるためには、これまでの自分を捨て、新たな人生を始めるしかない。


「川村勇はここで死んだ…」


彼は佐々木から奪った手形を見つめた。これから始まる新しい人生の証だ。


夜明け前、勇は隣の宿場町である島田宿にたどり着いた。ここからは偽名を使い、西へ向かって逃げるか、それとも別の道を選ぶか。


勇の目に映る朝日は、血のように赤かった。しかし、彼の心はもはや動揺すらしなかった。ただ前を見据え、生き延びることだけを考えていた。


川村勇の魂は、その日、確かに死んだ。そして、別の何かが生まれたのだ。

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