第2章 黄昏の決断
# 第2章 黄昏の決断
翌朝、東の空が白みはじめる頃、勇は藤枝宿の東の出口に立っていた。腰には父から受け継いだ小刀を差し、背中には着替えと簡素な食料を詰めた風呂敷包みを背負っている。夜明け前の空気は冷たく、息が白く霞んだ。
「おう、来たか」
馬子の親方・善八が声をかけてきた。彼の隣には、裕福そうな商人が一人と、すでに二人の護衛らしき男が立っていた。
「こちらが川村勇。腕は確かだ」と善八が紹介すると、商人は勇をじっと見た。
「若いな。本当に護衛が務まるのか?」
商人の懐疑的な目に、勇は真っ直ぐに応えた。
「私は武家の出です。父から受け継いだ剣術の心得があります」
商人は半信半疑といった表情だったが、善八が保証するなら仕方ないと言わんばかりに頷いた。
「では行くぞ。遅れるな」
一行は出発した。最後に一度だけ振り返った勇の目に、朝もやに包まれた藤枝宿の姿が焼き付いた。
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東海道は思っていた以上に賑やかだった。行き交う旅人、荷を運ぶ馬や牛、時折通り過ぎる武士の一行。江戸から京へ、京から江戸へと、人や物資が絶え間なく流れていた。
勇の任務は商人の護衛。盗賊や野武士から荷物を守ることが主な仕事だった。商人が運んでいたのは高級な反物や薬種といった価値の高いものばかりで、道中で狙われる危険性は十分にあった。
「川村、後ろを歩け」先輩格の護衛・与平が命じた。四十を過ぎた与平は、かつては浪人だったという。皮膚が日に焼けて黒く、顔には傷跡があり、一見して剣の道を歩んできた者だと分かった。
「お前はまだ若い。何も起こらないことを祈れ」
勇は黙って頷いたが、心の中では違っていた。
「何も起こらなければ、自分の力を示す機会もない」
その思いは、勇の胸の内で次第に膨れ上がっていった。幼い頃から聞かされてきた川村家の誇り。没落した今も、血の中に流れる武士の矜持。それらが彼の理性を少しずつ蝕んでいく。時折、自分が手に入れるべき栄誉を他の者が享受している光景を想像すると、胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
「俺にも、機会が必要なのだ……」
勇は無意識のうちに小刀の柄を握りしめていた。指の関節が白くなるほどに。
商人の荷物を運ぶ馬が四頭、それを先導する馬子が二人、そして護衛が計三人。小さな一行は、東海道を西へと進んでいった。
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昼過ぎ、一行は島田宿に到着した。島田は大井川の手前にある宿場町で、川を渡る前に一泊するのが通例だった。
「今日はここで泊まる。明朝、大井川を渡る」
商人の命令で、一行は旅籠に入った。昼食を済ませた後、勇は町を少し見て回ることにした。ここでも藤枝と同じように情報を集めれば、あの家老の行方が分かるかもしれない。
島田の茶屋で、勇は噂話に耳を傾けた。
「昨日、駿河の志太藩の家老様が通られたそうだ」
「ああ、大井川を渡って、もう掛川宿まで行かれたとか」
聞き耳を立てていた勇の心が沈んだ。すでに先に行ってしまったのか。このままでは追いつくのは難しい。大井川は増水していることが多く、渡るのに一日以上待つこともある。
「くそっ…」
そのとき、茶屋に別の旅人が入ってきた。彼らの会話が勇の耳に入る。
「志太藩の家老様の一行、大井川が増水して渡れなかったそうだ」
「ええ、川止めで掛川には行けず、今日はまだ川向こうの宿にいるとか」
勇の顔に希望の光が戻った。これはチャンスだ。明日、大井川を渡れば、家老の一行に追いつけるかもしれない。
夜、勇は旅籠の一室で父の巻物を広げた。疾風一閃の型を何度も頭の中で反復する。外では雨が降り始めていた。
「あの『鷹』という武士と戦えば、自分の力を証明できるはずだ…」
巻物に描かれた型の一つに、"雨垂れ石を穿つ"という技があった。相手の防御を少しずつ崩していく技だが、真の達人相手では通用しないと父は言っていた。
勇は巻物を握りしめ、指先が震えるのを感じた。
「いや…通用する。絶対に通用させてみせる」
彼の目は異様な光を放っていた。宿屋の薄暗い部屋の中で、勇はひとり剣術の型を繰り返し、汗が滴るまで練習した。鏡のない部屋の中、自分の姿を見ることはできなかったが、もし見ていたなら、そこには狂気に近い執着が浮かんでいたことだろう。
「『鷹』の首を取れば、俺の名は一気に上がる」そんな幻想が脳裏に浮かび、勇は笑みを浮かべた。「それとも…たとえ負けても、そこに家老がいれば縁を繋げられるかもしれない」
勇の頭の中で、様々な思惑が交錯していた。理性はまだかろうじて保たれているものの、野心と焦燥が彼の判断を次第に曇らせていく。
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翌朝、雨は上がっていたが、大井川は予想通り増水していた。
「川止めだ。今日は渡れない」商人が苛立った様子で言った。
一行は再び島田宿に戻り、もう一泊することになった。この機会を逃すまいと、勇は馬子の親方・善八に声をかけた。
「善八さん、少し相談があります」
人気のない場所で、勇は自分の思いを打ち明けた。駿河の志太藩の家老が剣の達人を探していること、それが自分にとって大きなチャンスであることを。
「なるほど、それで京に行きたがっていたのか」善八は納得したように頷いた。「だが、護衛を捨てて行くわけにはいかんだろう」
「いいえ、護衛の任は果たします。ただ…川向こうの宿で家老に会えれば」
善八は考え込んだ。「実は明日も川は渡れそうにない。だが、少し上流に渡し守の知り合いがいる。金次第では、少人数なら渡してくれるかもしれん」
勇の目が輝いた。「お願いします!」
「だが、俺たちが先に渡れば、商人に不審がられるだろう」
「そうですね…」勇は一瞬考え、「ではこうしましょう。明日、私だけが先に渡り、家老に会って、すぐに戻ってきます。商人には『見張りに行く』と言っておけば…」
善八は不安そうな顔をしたが、若者の熱意に押され、最終的には協力を約束した。
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翌朝早く、勇は善八と共に上流へと向かった。大井川は確かに増水していたが、渡し守の知り合いは小さな船で二人を対岸へと渡してくれた。
「日が暮れる前に戻って来いよ」善八は船から降りると、勇に小声で言った。「それと、無茶はするなよ」
勇は頷き、すぐに宿場町へと向かった。川向こうの宿は千金という小さな宿場だったが、志太藩の家老一行という大きな客人で賑わっていた。
「まずは家老がどこにいるか…」
勇は宿場の情報を集め、家老が上級武家向けの本陣に泊まっていることを突き止めた。さらに、家老は今日も川の様子を見に来ているという情報も得た。
昼過ぎ、勇は本陣近くの茶屋で待機していた。そこに立派な身なりの武士の一行が現れた。中央にいる年配の武士が本間家老に違いない。その後ろには、鋭い眼光を持つ中年の武士が控えていた。
「あれが『鷹』か…」
勇は息を呑んだ。その武士からは底知れぬ強さが感じられた。型通りの試合なら、勝ち目はないだろう。しかし、ここで引き下がるわけにはいかない。
勇は茶屋を出て、彼らの後をついて行った。一行は川へと向かい、増水の様子を確認すると、本陣へと引き返し始めた。
勇にとって、これが最後のチャンスだった。
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夕暮れ時、勇は本陣の周囲を偵察していた。庭には二人の武士が立っており、彼らは家老の護衛に違いない。
「今だ…」
勇の鼓動は早鐘を打ち、耳の奥で血の流れる音が轟いていた。理性の声が彼に止まるよう警告していたが、より強い別の声がそれを押し殺す。幼い頃から父に言われ続けてきた「武士の誇り」と「家の名誉」。没落した家の息子として、勇の中には常に自分を証明しなければならないという強迫観念があった。
彼の手のひらは汗ばみ、視界の端がぼやけて見えた。まるで熱に浮かされたように、勇の思考は正常でなくなっていた。
「俺にはできる…勝てる…勝たなければ…」
口の中で何度も呟きながら、勇は小刀を握りしめ、影から飛び出した。彼の目は異様な輝きを放ち、口元は引きつった笑みを浮かべていた。
「われに勝てるものあらば前に出よ!」
勇は最初の護衛に向かって切りかかった。しかし、勇の小刀が空を切る前に、護衛の侍は素早く反応し、抜刀術で応戦した。訓練された武士の動きは予想以上に速く、勇の攻撃は簡単に受け流された。
「下郎が!」
次の瞬間、鋭い痛みが勇の右腕を走った。護衛の刀が彼の腕を深く切り裂いたのだ。
「うっ…!」
勇は悲鳴を上げ、小刀を取り落とした。もう一人の護衛が背後に回り込み、刀の鞘で彼の背中を強く打った。勇は地面に倒れ込んだ。
「この者、何者だ!」
家老と思われる年配の武士が現れ、厳しい目で勇を見下ろしていた。その後ろには「鷹」と呼ばれる武士の姿もあった。
「すみません、家老様。この若造が突然襲いかかってきました」
勇は地面に押さえつけられたまま、恐怖に震えていた。無謀な行動がどれほど愚かだったのかを痛感していた。
「名を言え」家老が命じた。
震える声で、勇は自分の名を告げた。「川...川村勇です...かつては武家の...」
家老は冷ややかな目で勇を見つめ、「武家の名を語るにふさわしくない行為だ。罰を与えねばならん」と言った。
死を覚悟した勇の脳裏に、突然、ある記憶が蘇った。護衛の仕事を引き受けた際、与平から「万が一の用心」として渡された煙玉が懐に隠してあったのだ。「盗賊に囲まれたら、これを使え。逃げる時間ぐらいは稼げる」という言葉とともに。皮肉にも、今それを使うのは武士相手という状況に、勇の心の奥底で薄ら笑いが浮かんだ。
「申し訳ありません...」と言いながら、勇はゆっくりと懐に手を忍ばせた。護衛たちは、勇が降参の意を示したと思ったのか、わずかに警戒を緩めた。
その瞬間を逃さず、勇は煙玉を地面に叩きつけた!
「何!?」
突然の煙と閃光に、護衛たちは一瞬混乱した。勇はその隙を利用して、負傷した腕を押さえながら、庭の塀を乗り越えて逃走を開始した。
「捕らえよ!逃がすな!」背後から怒号が聞こえてきた。
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命からがら宿場町の路地に飛び込み、勇は闇に紛れて走り続けた。腕からは血が滴り、息も絶え絶えだった。しかし、生き延びるために足を止めるわけにはいかなかった。
「くそっ…何てことをしてしまった…いや、違う…あいつらが悪いんだ…」
勇の頭の中は混乱していた。家老の前で自分の力を示すつもりが、まるで暗殺者のように振る舞ってしまった。しかし、彼の心の中ではすでに現実を捻じ曲げようとする力が働いていた。
「もっと真剣に俺と向き合っていれば…俺の力を認めていれば…」
逃げながらも、勇の心には被害者意識が芽生え始めていた。自分の行動の責任を認めることができず、外部の要因に責任を転嫁する心理メカニズムが働いていた。血の滴る腕を押さえながら、彼の目には戦慄すべき決意と狂気が入り混じっていた。
しばらく走った後、追っ手の声が遠ざかったことを確認し、勇は人気のない納屋に身を隠した。暗闇の中で、彼は低く笑った。狂気の縁にいることすら自覚できないほど、彼の精神は徐々に崩壊の道を辿り始めていた。
「ここは…千金の外れか…」
苦しい呼吸を整えながら、勇は現状を整理した。今や自分は指名手配される身となったに違いない。対岸の島田宿に戻ることも、善八の元へ戻ることもできない。さらに、腕の傷は深く、早急に手当てが必要だった。
夜明けを待つわけにもいかない。すぐにこの町を出なければならない。しかし、行き先は?そして、この傷は?
勇はじっと考え込んだ。そして、ある決断をした。父の旧友で、藤枝宿の外れに住む佐々木源蔵を頼ることだ。父が生前、たびたび語っていた佐々木は、隠居した剣の達人だという。
「源蔵叔父上なら…助けてくれるかもしれない」
勇は決意を固め、納屋を出た。まず、何とかして大井川を渡り、藤枝宿へと戻らなければならない。
夜の闇に身を隠しながら、勇は川へと向かった。腕の痛みに顔をゆがめながらも、彼の足は前へと進んだ。
その瞳には、恐怖と後悔の色が混じっていた。しかし、それ以上に、生き延びようとする強い意志の光が宿っていた。若き武士の運命は、これからどのような道を辿るのか―。
闇夜の中、川村勇の苦難の旅が始まった。