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第1章 武士の血

# 第1章 武士の血


夜明け前の空気が肌を刺した。川村勇は宿屋の粗末な部屋で目を覚まし、じっと天井を見つめた。藁布団から立ち上がる彼の動作には、下級武士の家に生まれ育った者特有の凛とした佇まいがあった。十八歳の青年の目には、既に多くを見てきた者の深い洞察力が宿っていた。


「武士の子でありながら、宿の下働き…」


勇は苦い思いで周囲を見回した。四畳半ほどの部屋には、着替えの粗末な着物と父から譲り受けた巻物以外、何も無かった。壁の隅には小さな仏壇があり、そこには父・政次の位牌が置かれていた。


「父上…今日も見ていてください」


勇はそっと頭を下げた。父の死から三年、かつては小さいながらも武家として認められていた川村家は、今では母と共に宿場町・藤枝宿で日銭を稼ぐ日々を送っていた。


徳川家継の治世、宝暦三年(1753年)の春。東海道五十三次の宿場町として賑わう藤枝宿は、朝早くから旅人や商人たちの声で溢れていた。


---


「勇、もう起きたのか」


勇が宿の台所に姿を見せると、年老いた女将が笑顔で迎えた。優しい皺の刻まれた顔は、勇にとって三年間の拠り所だった。


「はい、お疲れさまです。今日はどのようなお客様が?」


「昨夜は大名の家老様の一行が泊まられたよ。今朝早く出立したが、まだ随行の方々が何人か残っておられる。朝食の支度を手伝ってくれるかい?」


勇は黙って頷き、手際よく仕事に取り掛かった。米を研ぎ、味噌汁の仕込みを始める。その動作は流れるように美しく、まるで刀を振るう型のようだった。


女将はそんな勇の姿を見て、ふと思い出したように言った。


「そういえば、昨夜の家老様の護衛の侍が、お前のことを気にしていたよ」


勇の手が一瞬止まった。「どのような…?」


「『あの若者は武家の出か』と聞かれてね。私が『はい、かつては』と答えると、何やら考え込んでおられた」


勇の胸が高鳴った。かつて父が仕えていた小さな藩の家老だろうか。もしかしたら父の知己かもしれない。いや、それよりも…


「恐れながら、その家老様はどちらの…?」


「駿河の小藩の方だと聞いたよ。何か心当たりがあるのかい?」


勇は首を横に振ったが、心は既に乱れていた。駿河といえば、父が仕えていた藩に近い。何か縁があるのかもしれない。しかし、今は朝の仕事が先だ。


「少し用事を思い出しました。朝食の支度が終わったら、町を見てきてもよろしいでしょうか」


「ああ、いいとも。今日は客足も少なそうだしね」


---


朝食の支度を終え、勇は急ぎ足で藤枝宿の町に出た。柔らかな春の日差しが、町を美しく照らしていた。しかし勇の心は、妙な緊張感に包まれていた。


東海道の宿場町である藤枝宿は、旅籠や茶屋が立ち並び、旅人や馬子たちで賑わっていた。勇はまず、情報を集めるために茶屋に向かった。


「いらっしゃい、勇さん」


茶屋の婆さんは、顔見知りの勇を温かく迎えた。彼女はこの宿場の古株で、通りすがりの旅人から様々な情報を手に入れる達人だった。


「お茶を一杯」


勇は銭を渡して腰を下ろした。この場所は宿場の中心にあり、多くの旅人が休憩する場所だった。自然と各地の情報が集まってくる。


「婆さん、昨日通った大名行列のことを聞きたいんだ」


婆さんは周囲を見回してから、身を乗り出して小声で話し始めた。


「あれは駿河の志太藩の家老、本間大炊守様じゃ。聞くところによると、藩主の命で剣の達人を探しておられるとか」


勇の目が輝いた。「剣の達人?」


「そうじゃよ。殿様の息子様の師範を務める者を探しておるという噂じゃ。当代一の使い手を探して京まで行くらしい」


勇の心臓が高鳴った。この三年間、夜な夜な父から受け継いだ剣術の型を練習し続けてきた。勇のなかで何かが燃え上がるのを感じた。


「婆さん、今日、その家老様はまだ藤枝にいるのか?」


「さあ…随行の者はまだ何人か残っておられるようじゃが」


勇は茶を一気に飲み干し、立ち上がった。


「ありがとう、婆さん」


---


次に勇が向かったのは、駄菓子屋だった。ここには地元の子供たちが集まり、大人が気づかないような細かい噂話を交わしている。


「ねえねえ、聞いた?昨日の侍たちの中に、すごい剣の使い手がいたんだって!」


「うん、馬子の兄ちゃんが言ってた。一本の木刀で、五人の悪者を倒したって!」


子供たちの話は大げさかもしれないが、勇はじっと耳を傾けた。しばらく聞いていると、その剣の達人は本間家老に仕える「鷹」という異名を持つ武士らしいことがわかった。


最後に勇が訪れたのは、馬屋だった。ここには様々な地域を行き来する馬子たちがおり、時には武士たちの用心棒も務めることがある。


「やあ、勇」


馬子の親方・善八があなたに声をかけた。たくましい体躯と日に焼けた顔の中に、優しさを秘めた目を持つ男だった。


「何か面白い話でもあるのか?随分と慌てた様子だな」


勇は少し考えてから、本当の目的を明かさないことにした。


「実は明日、京へ行く用事があるのですが…」


「おや、それはいい機会だ。実は明日、京へ向かう商人の護衛が一人足りないんだ。剣の心得のある若者を探していたところだよ。日当は三百文。どうだい?」


これは予想外の提案だった。京へ行けば、あの家老に会える可能性もある。しかも日当までもらえるとは。


「それは…ぜひお願いします」


善八は勇の肩を叩いた。「よし、決まりだ。明朝、東の出口に集合だ」


---


夕暮れ時、勇は宿に戻った。女将に明日の護衛の仕事を伝えると、心配そうな顔をされたが、「気をつけて行っておいで」と送り出してくれた。


母には既に伝えてあった。病気がちな母は、隣町の親戚の家で養生していた。勇が藤枝宿で働くのは、その療養費を稼ぐためでもあった。


夜、勇は自分の小さな部屋で父の巻物を広げた。そこには川村家に伝わる「疾風一閃」という剣術の型が記されていた。父は生前、勇にこの型の基礎を教えていたが、本当の奥義は教えられないまま世を去った。


「明日こそ、自分の力を証明する時だ…」


勇は小刀を握りしめ、巻物に記された型を繰り返した。その動きは日に日に磨かれ、今では見事な切れ味を持っていた。しかし、本当の実戦では通用するのか―不安もあった。


練習の後、勇は父の位牌に向かって祈った。


「父上、明日は私が川村の名を取り戻す第一歩となります。どうか見守ってください…」


窓から差し込む月明かりが、勇の決意に満ちた顔を照らしていた。しかし、その心の奥深くには、まだ自分でも気づいていない闇が潜んでいた…。


そして勇は、運命の選択を前に、眠りについた。

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