1.赤い警告
2035年7月15日、夜20時47分。東京の夏の空は蒸し暑く、重たい湿気が街を覆っていた。
オフィスビルの明かりが霞む中、突如として一発の花火が上がった。赤い火花が夜空を切り裂き、鮮烈な光が都心のビル群に反射して広がった。渋谷のスクランブル交差点では、信号待ちの人々が一斉に空を見上げ、スマートフォンを取り出して撮影を始めた。新宿の高層ビルから眺めるサラリーマンたちも、ビールの入ったグラスを手に窓辺に集まった。「祭りでもないのに珍しいな」と誰かが呟いた瞬間、花火が消えた。
その刹那、全国の通信網が途絶えた。携帯電話の画面は「圏外」を表示し、インターネットは切断され、テレビ局の放送は静寂に変わった。政府機関のサーバーが次々とダウンし、霞が関の官僚たちはパニックに陥った。赤い花火の残響が消えると同時に、東京は異様な静けさに包まれた。だが、その静けさは長くは続かなかった。
街角では混乱が広がり、信号が停止した交差点でクラクションが鳴り響き始めた。
首相官邸の会議室では、内閣総理大臣・佐藤和彦が閣僚たちを前に立っていた。54歳、鋭い目つきと冷徹な判断力で知られる男だ。グレーのスーツに身を包み、ネクタイを緩めずに姿勢を崩さない彼の姿は、まるで嵐の中の岩のようだった。会議室の長テーブルには、慌てて集められた閣僚たちが座り、重苦しい空気が漂っていた。
佐藤は低い声で切り出した。「これはテロだ。犯人を即刻特定しろ」彼の言葉には、怒りよりも冷ややかな命令の響きがあった。
テーブルの中央には、一枚の紙が置かれていた。
誰かが官邸の玄関に投げ込んだものだという。
「我々はまぼろしの民。腐敗した権力を打ち砕く。この花火は始まりに過ぎない」手書きではなく、プリントされた簡素なフォント。署名はなく、ただ「民意の執行者」とだけ記されていた。佐藤はその紙を手に取り、一瞥した後、テーブルに叩きつけた。「ふざけた連中だ。民意だと?国民を混乱に陥れることが民意だとでも言うのか?」彼の声に、閣僚たちは一瞬身を縮めた。
佐藤の苛立ちには理由があった。彼の政権は発足から5年、経済再建を名目に大企業との癒着を深めていた。法人税の大幅減税、規制緩和、そして政府系ファンドを通じた企業支援。表向きは「日本再生」のスローガンだったが、その裏で国民の不満は高まっていた。特に若者層の失業率は30%を超え、街頭では抗議デモが頻発していた。3年前、国会で野党議員から「若者の貧困をどうするのか」と問われた際、彼は冷たく言い放った。「若者はもっと努力すべきだ。甘えるな。」その発言はネット上で拡散され、「冷血宰相」のレッテルを貼られるきっかけとなった。今、その言葉がブーメランのように彼を追い詰めていた。
一方、東京の地下鉄網の下に広がる古い排水路を改装したアジトでは、反政府組織「まぼろしの民」のリーダー、田中が仲間たちに指示を出していた。
30代半ば、黒いジャケットに身を包んだ彼女は、鋭い目と静かな声を持つ女性だった。元内閣府の官僚で、5年前に政府の機密文書を盗み姿を消した過去を持つ。薄暗いコンクリートの部屋には、数台のノートパソコンと無線機が置かれ、壁には東京の地図が貼られていた。地図には赤いピンでいくつかの地点がマークされており、その一つが官邸だった。
仲間の一人、20代の技術者Kが興奮気味に口を開いた。「あの花火、僕が仕込んだ電磁パルス装置がバッチリ効いたみたいだね。政府のシステム、全部落ちたよ!」彼の手に握られたタブレットには、花火が上がる直前の通信ログが表示されていた。田中は一瞬だけ微笑み、それから目を細めて答えた。「よくやった。でも、K、なんで赤だったか分かる?」Kは首をかしげた。「派手だから?」田中は小さく首を振った。「赤は警告だよ。血が流れる前に気づけってね」その声には、どこか個人的な響きがあった。
彼女の視線は、地図の赤いピンに注がれていた。
アジトの奥では、もう一人の仲間、ハナが無線機を調整していた。20代後半の彼女は、元ジャーナリストで、政府の検閲に抗議して職を辞した過去があった。「ネットは遮断されたけど、闇のネットワークは生きてる。そろそろ声明を流す?」田中は頷いた。「今だ。民衆に知らせよう。
私たちが戦ってることを。」ハナがキーボードを叩くと、闇のネットワークを通じて「まぼろしの民」のメッセージが拡散され始めた。
その頃、官邸では佐藤が閣僚たちに目を向けた。
「通信が落ちた原因を調べろ。犯人はどうやってこんな大規模な攻撃を仕掛けたんだ?」防衛大臣が慌てて答えた。「電磁パルス攻撃の可能性が高いです。花火に仕込まれていたのかも....」佐藤は眉をひそめた。「花火だと?ふざけるな。誰がそんなものを?」彼の頭に浮かんだのは、かつて内閣府で問題を起こした一人の女性官僚だった。だが、彼はその記憶を即座に振り払った。
「まさかな」と呟き、再び冷徹な表情に戻った。
夜空に上がった赤い花火は、単なる攻撃の合図ではなかった。それは、田中の過去と怒りを映し出す鏡であり、これから始まる戦いの第一幕だった。