おたまを持ったまま、赤と黒の世界に転移しました。
「香澄、もうすぐできる?」
母の声がホールから響く。
ホールなんていっても、小さなちっちゃな定食屋さん。五組入ったら満席で、テーブルと椅子は年季が入っていて、安定が悪い椅子もあるくらい。映えもしないし、地味で。だけど、私にとっては大事な場所。
丁寧にテーブルを拭いている母に向かっておたまを振ってみせた。同時にサバの味噌煮の落としぶたを少しずらして、煮汁の確認もする。うん、いい感じにできそう。
「あとはお味噌を溶くだけ!」
息を深く吸いこんで、うまみ成分たっぷりのだしの空気を胸いっぱいに吸いこんだ。くつくつと揺れる愛用のお鍋におたまをそっと落として、上澄みをすくいって手にしていた小皿に注ぐ。ごく僅かに色づいただしをコクリと飲んだ。
「うん、おいしいっ」
鍋の中には、ぷっくりしたしめじと、シャキシャキ食感のエノキ。彩りに鮮やかなにんじんのお花を浮かべてある。にんじんはさっと火の通るキノコと比べて、火が通るまでに時間がかかる。見越して先に入れておいたもの。かわいいお花形が楽しそうに揺れているお鍋を見ていると幸せな気持ちになる。
本当なら包丁で細工をするのがスジらしいけど、クッキーの型抜きで抜いて、時短と手抜き。さてお味噌を溶かそうと振り向いたとき、何かが浮かんでいるのに気がついた。厨房の中にふわふわ浮かんでいて、わたあめみたいなまんまるに、小さな羽で上下していた。
「……えええっ」
「ピィ」
生き物は可愛い声で鳴いた。
あ、鳴くんだ。
ピンクの体に、澄んだ水色の目はパステルカラーのスイーツみたい。ふわふわで、ゆめかわな色。だんだん、頭の中が混乱してくる。
でも、どうしたらいい? これは何? 頭の中がパニックになって、言葉を探した。あ、その前にガスの火を止めなくっちゃ。サバの味噌煮が煮詰まっちゃうから。
「あ、えーと……君、美味しそうな色してるね」
絞りだした言葉がこれだった。
「ピピピ!」
羽を動かして、慌てた様子で左右に動く。
言葉を理解するのかもしれないけど、こんな生き物が小さな厨房にいるわけがない。大体、厨房は生き物ご法度。毛の生えた生き物の入っていい場所じゃない。手を洗ってから入ってきて欲しいし、そもそも動物? 手っていうか、羽って洗えるの?
「あんまり飛ばないで、お料理に羽が入っちゃう! それに、手、洗った? 羽?」
「ピ?」
おたまをビシッとつきつけたとき、どこからともなく紫色の煙がたちこめた。
「えっ……」
煙は生きているみたいに体にまとわりつく。
「仕込みの最中なんだからね。いい加減にしなさいっていうの!」
「……ピ」
わたあめ生き物が悲しそうな声をだした。
「わ、すごい煙、大丈夫?」
わたあめ君を逃がそうと、おたまで煙を払ったその時だった。
強い光に全身が包まれる。刺すような閃光が足元を包む。とっさに目を閉じた。
ゆっくりとまぶたを開けた。
パイプオルガンが鳴っている。このメロディ、どこかで聞いたことがある。スマホの広告で見かけたゲームだ。黒と赤で飾られた大広間。空席の王座、見あげる天井には漆黒のシャンデリア。ゴシックっていうんだっけ。ちょっと不気味で、ハロウィンみたいな、ダークな感じ。
でもこのシャンデリア、ちょっと大きすぎない? 悪趣味っていうか……。私ならもっとシンプルな照明がいいけど……。周囲を見渡すと、赤いキャンドルの炎が揺れている。シャンデリアといっても、電気は通っていないのかもしれない。
「うーん」
腕組みをしながら、持っていたおたまを上下に振ったその時だった。
「ようこそ」
空席だったはずの王座に(これも黒。座る部分は真っ赤で、なんかドギツイ感じ)誰かがいる。男の周りを、美味しそうな生き物がパタパタと旋回していた。
「え? これ……夢? 」
漆黒の髪、黒ずくめの軍服……みたいな詰襟の服に真っ赤なマント。黒と赤のコントラストに、正直目がチカチカする。
「よくぞ来た我が城へ」
「城? はぁぁ?」
思わず手から離れたおたまが、ふかふかの赤い絨毯に転がっていく。ステンレスのおたまの上で、真っ黒なシャンデリアが光っていた。