平安ア・ポステリオリ
美人で名高い「蝶」が死んだ。雪の残った内裏の真ん中で、鮮やかな血を携えて死んでいた。矢で射抜かれた跡がある。淀んだ空気のせいか、時鳥のさえずりが少し低く聞こえる。宮中がどよめく。
「これは大変だ。すぐに判官さまに知らせねば。」
「判官」は現場を見ると、蝶の手に、何やら紙の切れ端のようなものを認めた。どうやら、手紙の一部らしい。部下を呼び、手当たり次第に当たらせる。幾分時間がかかったが、手紙の主は、「半」のもので間違い無いと解った。半は、美男で知られる貴公子で、蝶とは恋仲であった。
「すぐさま取り調べを行う。大事にならないよう、聴取は秘匿とする。彼はいま武器を持ってはいない。私も丸腰で臨むつもりだ。」
半は生真面目で知られていたから、判官は動揺を隠しきれていなかった。その日の辰の刻、定刻通り、取り調べが始まった。判官が重い口を開く。
「君は、皆が認める真面目な役人だ。何か、彼女との間にあったのか。」
「いや、何もありません。」
「私とて君を疑いたくは無い。君とは10年来の付き合いだ。本当に、話すことはないのか。」
「私が、蝶を殺しました。」
「なんだと。」
「そうです。」
「君たちは、来世でも結ばれ得るような、固い絆で結ばれていたではないか。」
「来世など信じていません。ただ、蝶は死んだのです。」
しばしの沈黙ののち、判官は続けた。
「君の動機が知りたい。そもそも内裏は、何人も武器を持つことは赦されておらん。」
半は最初、言葉が出なかったようであるが、ひねり出すように言った。
「雪…です。」
刹那の静寂が走った。ここでいう刹那は物理的な時間ではない。もっと多くを含んだ、密度の濃い、両者の対峙を指す。
「雪とは…、雪とはなんじゃ。」
「雪は雪でしかありません。」
半は怒りのこもった口調で言った。
そこから、半の饒舌は凄まじい。眼には涙を蓄えていた。
「この日の雪が、美しくて仕方がなかったのです。まさに、この世のものとは思えないほどに。私にとって、この美しさは何物にも変えられない。これは黄泉から降ったものにちがいない、私はそう思っていました。この雪は永遠に降りつづけるだろうと。そして気づくと、彼女が雪の中で死んでいたのです。私は弓を射た記憶はない。だがしかし、彼女は確かに死んでいる。私の弓に射られて。どうしてなのか私にも正直よく解りません。」
判官は何も解らなくなった。視線の行き場も定まらぬまま、無理やり口先を動かした。
「…弓はどこで?」
「解りません。気がつくと、私の手に弓が。」
「おぬし、わしを弄ぶつもりか。」
「滅相もございません。私はただ、貴方様の問いに真摯に答えているだけにございます。」
その眼に嘘はなかった。黒目に小さき判官の姿が映る。
「うむ、これは奇怪なことゆえ、わしの手に負えるものではないかも知れない。だがしかし、どうにかわし自身の手で、全て収めたいところだ。」
1日置いて、判官はもう一度、半と話がしたいと思った。
悶々とする中で彼は自身の妻を思った。彼の妻は、5年前に他界している。流行病だった。治療法も見つからず、苦しみ続ける妻の手は、大変に白く、絹のようであった。
ある日彼女はこんなことを口にした。
「あなた、そろそろ椿が咲く頃かしら?」
「ああ。そうだ。お前が好きだった花だろう。」
「ふふ…。いつまでもそれを覚えてらしてね…。」
彼女は途端に冷たくなった。
…嫌な記憶を手繰ってしまった。判官は眠るに眠れなかった。
翌日、同時刻、2度目の聴取が行われた。
「君が、彼女を愛していたのは、事実だな。」
「はい。これ以上の女はいないと私自身思うておりました。こんな形で別れるとは夢にも。」
「殺した瞬間は、覚えていないのだな。」
「はい。何も。気づけば手に弓が。」
「調べたところ、弓は君自身のものであったと判明した。…半よ、なぜ殺したのだ。正直に申し上げよ。」
「それは…。雪のせいです。雪が彼女を殺したのです。」
「雪が殺しただと…。昨日も雪がなんとかと申していたな。」
「はい。時に雪は…、雪は、人を殺してしまうものなのです。」
「…にわかには信じられん。私はあまり和歌に深くはないが、雪とは、そなたのいうように、かくも妖艶なものなのか。」
「はい。その通りでございます…。古来より、人々が本当に情緒を感じたのは、雪なのでございます。近頃は秋こそあはれと申される方が多いと存じ上げていますが、それは根本的に、雪への畏怖が生むものなのです。美しすぎるがゆえに。」
「そうか…。わしにはよく解らんが。」
「おもしろきという言葉があります。面が白い、つまりそれは雪そのものなのです。いくら秋の山が壮麗であっても、面赤きとはなりますまい…。真紅の赤でさえ真白には及びませぬ。」
「わしにはまだ判らない。そなたも繰り返すように、雪、雪か。そういえば今はもう春の終わりなのにも拘らず、突然の降雪であったな。」
「私も少し嫌な予感はしておりました。夜から降り始めた雪は、生まれたての赤子のような、それでいて母のような、ただ一つで、それでいて無限にあるようなものを湛えていたのでございます。月をもはるかに凌ぐほど。」
「おぬしの話は難しい。」
半は少し落ち着いてきたようだ。
「話を戻すが、蝶は手に手紙の切れ端を握っていた。それはなんだったのだ。」
「私が書いた恋文です。それも相当昔にしたためたものです。5、6年前に遡る。」
「何か過去の話にふけっていたのか。」
「いや、そのようなことはございません。いつものように、蝶と愛撫を交わしていたのでございます。」
「そうか。あの手紙は偶然だということか。」
「はい。全くの偶然にございます。」
「…調べは以上だ。」
またしても全く解らなかった。判官は取り調べを終え、帰路に着いた。その道中、職場の仲間に出会った。主計寮の「簪」である。文化人との交流の深い彼は、宮中でも名が知れ渡っている。判官は例のことを話そうと考えた。
「なんだ。藪から棒に。お前は今、事件で忙しい身だろ。」
「いや。それが、どうも判らずでな…。」
「なんだい。そんなこと、俺に聞くことかい。」
「…お前は歌を嗜んでいるな。どれ、雪とはなんだと思う。」
「そんなこと、聞いてどうするんだ。」
「それが、犯人と疑われし半がしきりに雪のせいと申しておってな。雪とはなんなのだ。私にはさっぱり判らぬ。ぜひ、お前の意見が聞きたい。」
「雪…。雪か。俺には想像がつかねえ。三十一文字で俺たちが語るのは少々早すぎたものかもしれないな。」
「早すぎるのか。」
「そう、早すぎるんだ。俺たちに雪が解るのはおそらく、ずっと後のことだ。もしかしたら、永遠に解らないかもしれない。どんな神がかった絵師でも雪は描けやしねえ。あれは時間と空間を両方に持っているんだ。降っている雪、積もっている雪。俺たちにそんな大きなことが解るかい。神にしか解らないんだよ。」
なるほどそうだと思った。私は言葉の行き所を失った自分を恨んだ。一晩中眠れなかった。
次の日、半は実に落ち着いた様子で私の前に現れた。
「もう覚悟はできています。私とて貴族の端くれだ。潔く、すべて受け入れるつもりです。」
「まて。私は君に最後に問いたいことがある。」
「この期に及んで、何を問われるおつもりですか。」
「君は、本当に蝶のことを心から愛していたのだな。」
「はい。その通りでございます。…こころから。」
「そうか。相わかった。半、お前を無罪とする。」
二日後、半から長い手紙が届いた。貴族の職を辞し、蝶の供養にその人生を捧げるという。彼らしい固い字であった。書き損じなど一切なかった。彼が今、どこで何をしているか、私には到底わからないことである。