私はマイクをONにした
「黄色い線の内側にお下がりください」
電車がホームに入ってくる。
マイクで拡声された私の声は、跡形も無く風圧に掻き消された。
「整列乗車にご協力お願いします」
「無理なご乗車はご遠慮ください」
「ドアが閉まります」
ラッシュ時のホームは戦場だ。
誰も私の言葉なんか聞いてない。
割り込み、駆け込み、閉まるドアへの荷物差し込み。何度呼び掛けようが暖簾に腕押しだ。
いつもと変わらない朝だった。ただ一つを除いて。
「よっ、新米車掌」
ラッシュを過ぎた10時台の便。最後尾に乗り込む私に先輩が声をかけた。
今日は私の車掌デビューの日だった。
一応先輩も便乗してくれるが、あくまで監督官である。
「お前、声の仕事が夢だったんだよな。生憎うちは全部自動音声なんだよ。やっぱりホームの方が向いてるんじゃないか?」
「いえ、そっちはもう嫌気が差したので」
昔からアニメが好きで、声優になりたかった。
良く通る声を褒められて高校では放送部に入った。昼の放送では私の声にファンもいたらしい。
卒業して養成学校に入った私はやっと世間を知る。
この程度の声の人なんて、いくらでもいるのだ。
仕事が貰えるかは、いかに個性を出せるかの勝負。
最初のうちは闇雲に頑張っていた。
けれど、ある日オーディションでいきなり違うキャラクターの台詞を読まされて噛みまくり、呆れ顔の審査員に「もういいよ」と言われて心が折れた。
私は早々に方向転換した。
せめてアナウンスっぽいことが出来る仕事をと思って就職したのが、この鉄道会社。先輩には、歓迎会の時に酔った勢いでこの黒歴史を話してしまったのだ。
それ以降度々「お前いい声してるな」なんて言われて、実はリアクションに困っていたりする。
電車が動き出した。
私は自動音声のスイッチを押す。
乗り慣れた人達は、きっとアナウンスなんかちっとも聞いてないだろう。だけど自分の声ではないので気が楽だ。
異動して正解だったと思っていると。
ギギィー、ガタン。
「え?」
止まった。
次の駅には遠いし、停止信号もない。
「緊急停車だ。アナウンスを流せ」
先輩に言われ、慌ててマニュアルをひっぱり出す。
「先頭を見てくる。運転席から無線で指示を出すから、ひとまず書いてある通り読むんだ」
「は、はい」
先輩がバタバタと行ってしまう。
マニュアルを眺めると、その文章量に手が震えた。
初見の文を人前で読むことにまだ恐怖心が拭えずにいたのだ。
乗客を見る。不安そうに立ち上がる人、電話で遅延を連絡する人、ぐずる子供をあやす妊婦さん。
皆が情報を求めている。
私は深呼吸してマイクをONにした。
「お知らせ致します。当車両は安全のため緊急停車致しました。原因を調査中です。ご迷惑をおかけして誠に申し訳ありません」
アナウンスを繰り返しつつ本部に連絡を入れる。
すると、先輩から無線連絡が入った。
どうも踏切内で車が立ち往生していたらしい。運転再開に時間はかからないとのこと。
「ただいま当車両は踏切内車立ち入りのため緊急停車しております。まもなく運転再開の見込みです。今しばらくお待ちください」
本部からも連絡が入った。すぐにマイクに向かう。
「次の停車駅で連絡予定の各列車は、全て当車両の到着を待っての出発となります。お乗りかえ時間が短くなっておりますのでお気をつけ下さい」
言い終えたところで、ぐらりと電車が動き始めた。
胸を撫で下ろしていると、やっと先輩が戻ってきた。
「やっぱお前いい声だよ」
またいつもの台詞。
「戻る途中少なくとも5人はいたぞ。車掌さんの声きれいって言ってるお客さん。もう一回声優目指してみたらいいのに」
「いいんですよ、お金ないし」
先輩は頬を染めて「それなら俺が……」と何やら呟いている。全然聞こえないので、私は自慢の声で「それに」と付け足した。
「私この仕事もう少し頑張りたいんです」
電車がホームに入っていく。
短い乗りかえ時間を懸念した人達が走り出さないか心配だ。
私はマイクをONにした。