ロシア語でデレてるけど全然気付かない隣の氷室君
※短編『時々ボソッとロシア語でデレる隣のアーリャさん』の視点逆転バージョンです。前作を先に読んでから読むことをお勧めします。また、本作は前作にも増して糖分多めです。あらかじめ口直し用のブラックコーヒーをピッチャーで用意しておくことをお勧めします。
私はアリサ・アレクサンドロヴナ・マキ。クラスメートにはアーリャと呼ばれている。
ロシア生まれロシア育ちの日露ハーフで、中学の始めから母の祖国である日本で暮らしている。
そんな私には、今好きな人がいる。
高校で隣の席になった、氷室将嗣君だ。
入学当初、まあ予想通り他のクラスメートに遠巻きにされていた私に、なんの気負いも奇異の視線もなく普通に話しかけてくれた人。
氷室君は、私と他のクラスメートの手を自然と繋げてくれた人だった。
何でもないような顔で、恩着せがましさなど微塵も感じさせずに、さりげなく私がクラスに馴染めるよう気遣ってくれた。
普段、どちらかというとのんびりとしている彼の見せる、その何気ない優しさが嬉しくて、いつしか彼のことを自然と目で追うようになり、気付けば好きになっていた。そのことを自覚したのが……つい、昨日のこと。
そして一度自覚してしまえば、もう気持ちが抑えられなくなってしまった。
今すぐ彼に好きだと伝えたい。そして叶うならばお付き合いをしたい。
でも、恥ずかしい。面と向かって彼に想いを伝えるのはどうしようもなく恥ずかしい。
それに……自分で言ってて悲しくなるが、氷室君は私に対してあまり脈がある気がしない。
これでも、中学時代にはそれなりに男の子に告白されたこともあるから、「男が女を見る目」というものは多少分かるつもりだ。
そして、隣の席でそれなりに会話はするものの、氷室君が今まで私にそういった目を向けたことは一度もない。というか、のんびり屋の彼がそんな目をするところがイマイチ想像できない。
彼のような男性を、日本では“草食系男子”と呼ぶらしいが……うん、似合う。
窓際の席でぼんやり校庭を眺めている彼の横顔を見ながら、牧場でのんびり日向ぼっこをしている彼の姿を想像し、妙に納得してしまう。
「……なに? どしたん、アーリャ」
「え、あ……なんか熱心に見てるから、面白いものでもあるのかなって」
不意にこちらに振り向かれ、慌てて咄嗟に誤魔化す。
すると、氷室君は少し困った顔で校庭の方をチラ見した。
「いや……別に何を見てたわけでもないんだけど……ただ、こんな短い休み時間で遊びに出るやつが結構いるんだなぁって」
……本当にただぼーっと見てただけ? なにそれ可愛い。好き!
「っ! ……?」
な、なにこれ。胸がキュッってなった。なんか恥ずかしいようなむず痒いような……意味もなく悶えたくなる気持ちに襲われ、私は反射的に表情を引き締めると、努めて平静な態度で言った。
「あっそ……そろそろ先生来るわよ? 準備したら?」
あれ? なんか思ったより冷たい言い方になっちゃったような……
「へいへい」
ああっ、違うの! 今のは違うの! 好きなの! でもそれを態度に出すのが恥ずかしくって、あんな言い方に……そうだ!!
その瞬間、私の脳内に素晴らしい考えがひらめいた。
そうだ、恥ずかしいなら……ロシア語で言えばいい!!
ロシア語で言えば、彼には伝わらない。伝わらないなら、恥ずかしくない。よしイケる!!
「今日当てられる日でしょ? 準備してきたの?」
「え……そうだっけ?」
「そうよ」
「やっば、完全に忘れてた」
「やっぱり……ほらここ」
「ありがとっ! 恩に着る!」
「はあ、まったく氷室君は……」
よし、ここ!
『大好き』
ンフーーーーーッッ!! やばいやばいやばい!! 言っちゃった、言っちゃった! キャーーーイヤァーーー!!
「……今、なんか言った?」
「ん? 別に? 『うっかり者ね』って言っただけ」
顔を覆って転げ回りたい衝動を必死に抑えながら、なんでもない顔でサラッと嘘を吐く。
実際には全然違うこと言ったんだけど、氷室君には分かるわけないし問題ないでしょ。小声ですごく早口で言ったし、ほとんど聞き取れもしなかったはず。
「そう……そっか」
予想通り、氷室君は曖昧に頷きながら教科書に目を落とすと、自分が当てられるだろう部分の問題を解き始めた。
……うん、気付いてない。ぜ~んぜん気付いてない。
ウフフッ♪ 気付いてなぁ~い。私、告白したのに。『大好き』って言ったのに。
ほらほら~氷室君、今私告白したんだよ? 今なら「じゃあ付き合う?」って言われたら一発オーケーしちゃうよ? 大チャンスだよ? ムリかぁ~ムリだよねぇ~? だって伝わってないもんねぇ~? ンフフッ♪
胸がキュキュンッっとすると同時に、背筋にゾクゾクとした感覚が走る。
やばい、これ……クセになりそう。
その日、私は初めて氷室君に想いを伝え……同時に、未知のスリルと快感に目覚めてしまった。
* * * * * * *
それからも、私は事ある毎にロシア語で好意を伝えまくった。伝わらないのをいいことに、ここぞとばかりにデレまくった。
「なあ、アーリャ。悪いんだけど教科書見せてくれない?」
そんなある日、氷室君が休憩時間にそう声を掛けてきた。どうやら教科書を忘れたらしい。
(やった! 氷室君と席くっつけられる!)
内心で喜びながらも、私はあえて眉根を寄せて振り返った。
「……なに? 忘れたの?」
声や態度も、わざと迷惑そうにする。
こちらの好意に気付かれないようにするための、これは当然のカモフラージュだ。
「ああ、昨日宿題に使ったまま家に置いてきちゃったみたいでさ。悪いんだけど机くっつけさせてくんない?」
「……まあ、いいけど」
「ありがとっ」
素早く机をくっつけ、こちらへと席を移動させる彼に、心が浮き立つ。でも、それを表には出さない。
「それにしても、あなたいい加減忘れ物多過ぎない? 今月に入ってもう何回目よ」
「いや、自分でも気を付けてるつもりなんだけど……」
「ホントに気を付けてたらこんなに忘れ物しないでしょ」
「仕方ないだろ? 気を付けること自体を忘れちゃうんだから」
「ただのバカじゃない」
「ヒドッ!」
辛辣に言い放ち、心底呆れたように溜息を吐く。そして……
『まあ、そんなところも好きだけど』
ンフゥッ! 言っちゃった、言っちゃった♪
「え? なに?」
「別に? 『こいつホント馬鹿だわ』って言っただけ」
「ロシア語の罵倒やめてくれる!?」
小声で悲鳴じみた声を上げる氷室君にフッと笑みを浮かべると、興味ないとばかりに前を向く。
ちょうどそのタイミングで、チャイムが鳴って先生が入って来た。
「きり~つ、れー」
「「「「「お願いしま~す」」」」」
授業が始まり、私は素知らぬ顔で教科書をめくる。
その間も、脳裏には先程のやり取りが駆け巡る。
(言っちゃった。言っちゃった。ウフフッ♪)
表情は動かさないまま、表向きはクールな優等生を演じる。
そして、そっと横目で氷室君の方を確認すると、やはり氷室君は何も変わらぬ様子で板書をしていた。
(気付いてない。私、告白したのに。ぜ~んぜん気付いてなぁ~い。ウフフ~♪)
私のカモフラージュは完璧だ。
自身の好意を巧妙に隠し、表向きそっけない、でもどこか思わせぶりな態度で男の子を翻弄する私のような女の子を、日本では“小悪魔系女子”と言うらしい。
小悪魔……悪くない。小さい頃からよく「天使みたい」などと言われていたが、実際の私は天使の皮をかぶった悪魔だったという訳だ。うん、いい。とてもいい。
「それじゃあ、ここに入るの。そうだな、氷室。答えてみろ」
「えっと……④のtalking?」
「違う、ちゃんと話聞いてたか? それじゃあ……その隣の牧」
「はい、②のto talkだと思います」
「そうだ。氷室、女子と席をくっつけて気が散るのは分かるが、授業はちゃんと聞けよ?」
先生のその言葉に一瞬ドキッとしながらも、私は動揺を悟られないようすかさず小芝居を打った。
両腕で自分の体を抱き、氷室君からスススッと距離を取る。
「え? なに? 私のことそんな目で見てたの?」
「見てねーわ」
「ゴメン、ちょっと離れてくれる?」
「見てねっつの!」
「ほらそこ、授業中だぞ」
「「は~い」」
先生に注意されたところで切り上げて、席を戻す。
戻しながらも……私は、さっきの氷室君の言葉に軽い胸の痛みを覚えた。
氷室君だって、本気で言ったわけではないだろう。それは分かってる。でも、分かっていても……そうはっきり言われたら、私だって傷付く。だから……
『私はそんな目で見てるけど』
内心で舌を出しながら、ロシア語でボソッと呟く。
フンッ、どうだざまぁみろ。乙女の純情を傷付けるからだ。悔しかったらロシア語で反論してみろ。
そんなことを八つ当たり気味に考えつつも、私は素知らぬ顔で前を向いた。
そう、私は小悪魔。そう簡単に自分の本心は見せてあげないのだ。
しかし、横目で窺ってみると、氷室君も私の内心など知らぬげに普通に授業を聞いている。
それは当然のことなんだけど……なんか、それはそれでイラッとする。逆恨みだってことは分かってるけど、そこまで平静な態度を取られるとな~んか面白くない。
(私だけ独り相撲してるみたいで、バカみたいじゃない……そうだ!)
そっちがその気なら、こっちだって考えがある。
私は全速力で板書を終わらせると、ノートの端に氷室君の似顔絵を描く。
(ふふんっ、私はこれでも似顔絵かなり得意なのよ。見てなさい)
そうして3分程度で描き上げた氷室君の似顔絵は……少女漫画風の、キラキラしい美少年だった。
(ンンーーーーーッ!!? ダメダメこれはダメ!! なし! 今のなし!!)
慌てて消しゴムで消し、今度はあえてギャグ漫画風に崩して描く。
(そう、こんな感じ…………やだ、こんな描き方しててもやっぱりカッコイイ)
どうしよう、どう描いてもかっこよくなってしまう。せめてもの抵抗として、鼻水を描き足したが……これはこれで愛嬌がある感じが出てしまい、やっぱり魅力的になってしまう。
どうしたものか……そう考えてふと視線を上げると、こちらをマジマジと見ている氷室君と目が合った。
(あ、やばっ)
内心で焦りつつ、それを隠すようにフフンっと笑みを浮かべると、手元の似顔絵に向かってググイッと矢印を書き、ロシア語で『好き』『カッコイイ』『可愛い』『優しい』と書き殴る。
ふふふ、こんな乱暴な書き方をしていて、よもや誉め言葉を書いているとは誰も思わないだろう。
「おい氷室、聞いてるか?」
「え? あ、はい」
「じゃあ、問10を答えてみろ」
「えぇっと……えっと……③?」
「違う」
「うげっ……」
「くふっ」
や~い、間違えてやんの。
先生に注意される氷室君に、私は堪らず笑みをこぼす。
「いいか、この場合はだな……」
立ったまま個別指導される氷室君だったが、私のせいにはしない。「牧さんが落書きしてて~」とは決して言わない。
『だから好き』
そうボソッと呟き、似顔絵にこっそりハートマークを書き足すと、私はすばやくページをめくった。
こんな、楽しくて幸せな日常が、これからも続くと思っていた。
でも、冬休みに入って。ある日突然父のスマホに掛かってきた一件の電話によって……私達は、お別れを告げることも出来ないまま離れ離れになってしまった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
アーリャがいなくなった。
クラスの女子が話しているのを盗み聞きしたところ、どうやらロシアに住んでいる祖父母が事故に遭って、その介護をするために家族揃って祖父母の家に移り住むことになったらしい。
「なんだそりゃ……」
窓際の席で、1人呟く。
ふざけんなよ……あんだけこっちが赤面しそうなことを散々やっておいて、やり逃げか? そんなこと許さない。
俺は……まだ、何も伝えてないんだ。一方的に言葉をぶつけておいて、俺の言葉を聞かないなんて許さない。そっちが逃げるんなら、こっちから追い掛けてでも聞かせてやる。
驚きと悲しみに満たされた教室で、俺は1人密かにそう決意した。
* * * * * * *
「氷室……お前、本気か?」
「本気です」
翌日、昨日の内に家族を説得した俺は、早速担任に休学届を提出した。
両親は恋人を掴まえに行くと言ったら即オーケーしてくれたし、じいちゃんはロシアへの同伴を頼んだら二つ返事で了承してくれた。あとは担任の許可だけだ。
しかし、当然というべきか、どうにも担任の反応は芳しくない。
「まあ親御さんの同意は得ているようだが……期間が曖昧なのはどういうことだ? 家庭の事情ということだが、具体的にいつ戻って来れるか分からないのか?」
期間が曖昧なのは、単純にアーリャを探すのにどれだけ掛かるか分からないからだ。
アーリャと連絡が取れているらしいクラスの女子に聞けばいいのかもしれないが、流石にそれは恥ずかしい。
だってそうだろう? 彼氏でもないただ席が隣だったというだけの、アーリャの連絡先すら知らない男子が、学校を休学してまでアーリャを追い掛けて海外に飛ぶ? 客観的に見て普通にキモイ。ただのヤバいストーカーだ。
幸い、手掛かりはある。以前、アーリャが見せてくれた写真だ。俺は、その背景に写っている建物を以前映画で見たことがあった。
ホームパーティーの写真っぽかったので、あれはアーリャの地元だろう。あそこに行けば、アーリャの祖父母の家を知る人間くらいいるはずだ。
「ちょっと……まあ、2週間くらいで帰って来れるとは思うんですが」
「くらいって……あまり突っ込んだ事情を聴くつもりはなかったが、何の用事なんだ? 春休みになってからではダメなのか?」
しつこく聞いてくる担任の質問をのらりくらりと躱すが、そんな曖昧な回答では担任を納得させることは出来ず、だんだん俺はイライラしてきた。
保護者がいいと言ってるんだから、黙って許可を出せばいいものを……なんでそこまでごねるのか。ああもう、面倒くさい!
「急を要さないなら、別に春休みになってからでも……こんな時期に一体、なんのために──」
「愛のためです!!」
「そうか、愛のためなら仕方ないな」
そう頷くと、担任はあっさりとハンコを押した。
え、なにこの人イケメンかよ……危うく惚れるかと思った。
* * * * * * *
その後、俺はすぐにじいちゃんを供に(いや、表向きは俺がじいちゃんのお供だが)、飛行機でロシアへと飛んだ。
アーリャの地元だと思われる街へと向かい、聞き込みをする。が……
「やっぱり、そう上手いことアーリャのことを知っている人は見付からないか……」
「お、なにやら美味そうなマロージナエの屋台があるぞ? ちょっと行ってみよう」
「こんなに寒いのにアイスって……というか、今は聞き込みを……」
「まあまあ、あの屋台が年中ここに出ているなら、アーリャさんのことも知ってるかもしれんだろう? ついでに聞いてみればいい」
「はあ……」
既に屋台に向かって歩き始めているじいちゃんの後を、やむなく追いかける。
ロシアに着いてすぐの頃は、こんな感じで人探しそっちのけであっちへフラフラこっちへフラフラするじいちゃんにげんなりしたが……今ではあまり文句も言えなくなっていた。
なぜならこのじいちゃん、ロシア語力は俺と同レベルのくせに、恐ろしくコミュ力が高い(女性限定)。
禿頭にグラサン、ド派手な毛皮のコートと、見た目完全に引退したマフィアのドンのくせして、ノリと勢いだけでするりと女性の懐に入り込む。
見慣れない異国人に警戒する地元のおばさん達の警戒心をあっという間に解き、いとも簡単に情報を引き出す。そしてそれは今回も。ホントに何者だよオイ……。
「なるほど、アーリャさんの祖父母はウラジオストクに住んでいるらしいな」
「ああ……」
「ふむ、ウラジオストクはわたしも初めてだな。『ああ、貴重なお話をどうもありがとう、素敵なマダム。先を急ぐ身でなければ、もっとじっくり話をしたいのですが……』」
『あらやだ、こんなおばさん相手に上手いこと言っちゃって』
『いえいえ、本当ですよ。もし次の機会があれば、是非お茶でもご一緒しませんか?』
『あらあら……』
『それでは、失礼します。美味しいマロージナエをありがとう、マダム』
『お話ありがとうございました。さようなら』
軽く頭を下げ、その場を後にする。
チラリと振り返ると、そこには上機嫌でこちらに手を振るおばさんの姿が。
おいおいマジかよ、あのおばさんまんざらでもなさそうだったぞ? 相手は絶世の美男子でもなんでもなく、見た目マフィアな72歳のおじいちゃんだってのに。こりゃ、死んだばあちゃんも昔は苦労したんだろうな……。
実の祖父のたらしっぷりに密かに戦慄を覚えつつ、俺はその足でウラジオストクに向かった。
そして、列車を乗り継いで3日。ようやく辿り着いたウラジオストクで……
「「あ」」
俺は、遂にアーリャを発見した。
「いたぁぁぁーーー!!」
思わずそう叫びながら、アーリャの元に駆け寄る。
凍った路面で足を滑らせ掛けながらも、なんとかコケることなくアーリャの前まで辿り着く。
「ハアッハアッ、やっと見付けた」
「う、うん……お疲れ?」
ハハッ、再会の挨拶がそれか。どうやら、アーリャもかなり混乱しているらしい。
「えっと……なんで、ここに?」
驚きのあまり表情が抜け落ちてしまったようで、無表情のままぎこちなく質問してくるアーリャに、俺は笑みを浮かべて答える。
「なんでって……お前に会いに来たに決まってるだろ?」
「い、いや……でも、どうしてここが?」
「前にクラスで、お前がロシアにいた頃の写真を見せてくれたろ? その時写ってた背景にちょっと見覚えがあったから、そこからお前が住んでたところを割り出して、後はまあ……地道な聞き込みだな」
「なっ……なんで、そんなこと覚えて……」
来た。遂にこの時が来た。
今まで散々、一方的に好意を伝えるだけ伝えて、言い逃げしたこいつにそのお返しをする時が。
(ああくそっ、やっぱりいざとなると恥ずかしいな)
つい視線を逸らしてしまうが、それでも適当な言い訳をして誤魔化したりはしない。いいか、よく聞けよ。俺はな──
「そりゃ、確かに俺は忘れっぽいけどよ……好きな女の子が見せてくれたもののことは、流石に忘れねぇよ」
「ひ、氷室、君……」
アーリャの目が大きく見開かれ、その顔に隠し切れない喜びの感情が浮かび──
「ん?」
突如、ストンと表情が抜け落ちた。
「? どうした?」
「さっき……氷室君、ロシア語しゃべってなかった?」
おう……聞こえてたのか。マジか、よりによってこのタイミングでか。
「ああ……あれ」
どうする? いや、どうするも何も……まあ、仕方ないか。どうせいつかは知られることだし。
「悪い。俺、実はロシア語分かるんだよね」
「え──」
俺のカミングアウトに、アーリャが完全に呆ける。
「い、いつから……?」
「いつからって……割と子供の頃から?」
「はいぃ!?」
そして、数秒してようやくその意味が脳に浸透したのか、アーリャは見る見るうちに首から上を真っ赤にし、口をパクパクとさせると──
「な、ば、ババ……」
「ババ?」
「バカァァァァーーーーー!!!」
大声でそう叫ぶと、踵を返して一目散に逃げ出した。
「ちょっ、待っ──って、速いなおい!!」
流石は地元民ということか、凍った路面の上でもビックリするくらい速い。
普通に走ればすぐ追い付けるはずなんだが、こっちは滑らないよう慎重に走る分どうしても遅くなってしまう。
遂にはその背中を完全に見失ってしまったが、幸い居場所はすぐに分かった。
「ア゛ア゛ァァアアァァァァーーーー!!!」
曲がり角を曲がったところで、塀の向こうから奇声が聞こえてきたからだ。
(まあ、無理もないわな……)
思わず苦笑してしまいながらも、俺は門の方に回ると、『お邪魔します』と声を掛けてから庭の方へと入る。
すると、アーリャは庭の隅っこで頭を抱えたままちっちゃくなっていた。穴があったら入りたいっていうのはこういうことを言うのかね?
「お~い、大丈夫か?」
「いぐぅっ!?」
ほっといたらいつまでも叫んでいそうだったので、そっと背後からその肩を叩くと、アーリャは器用にその体勢のまま跳び上がった。
そして、恐る恐るこちらを振り返り……俺の顔を見て、また目をぐるぐるさせ始める。
「あぁ~~その、とりあえず返事が欲しいんだが……」
また半狂乱になる前に、こっちから言葉を投げる。
「……返事?」
「いや、さっきのあれ。一応告白のつもりだったんだけど……」
そう言って頬を掻くと、アーリャは一瞬ポカンとしてから、キッと視線を鋭くさせた。……完全に涙目だったけど。
「バカ!」
そう、いつものように日本語で叫んで、
『好き!』
そう、ロシア語で好意を叫ぶアーリャに、俺は──
『うん、知ってる』
そう、悪戯っぽくロシア語で答えてみせた。
「~~~~っ、もう!!」
「うぐっ!」
そして、鳩尾に拳を撃ち込まれて尻もちをついた。なんでや……
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「もう、信じられない……」
「いや、まあ……悪かったよ」
しばらくして、ようやく少し落ち着いた私は、氷室君と一緒に近くの公園に来ていた。
ベンチに並んで座り、公園で遊ぶ子供達をぼんやりと眺めながら言葉を交わす。
「ホントに信じらんない……もう、恥ずかしい」
両親が祖父母を連れて病院に行っていたせいで、家に誰もいなかったのがせめてもの救いか。
庭先で奇声を上げているところを家族に聞かれていたら、黒歴史の上塗りになるところだった。
「いや、いつかは言おうと思ってたんだけど、タイミングが分からなくて……」
「ふんっ、どうせ伝わってないと思い込んでる私を見て楽しんでたんでしょ? なにが『うん、知ってる』よ。あんな恥ずかしいことよく言えるわね。キザ過ぎて死ぬかと思ったわ」
「ロシア語で即死呪文連発してたお前には言われたかねーわ」
「やめて! 思い出させないで!!」
両手で耳を塞ぎ、ベンチの上で頭を抱えて体を丸める。
そうして襲い来る羞恥心に耐えること数十秒、ようやく顔を上げると、視線の先には私の内心の修羅場など知らぬげにはしゃぐ子供達。
『子供達は無邪気ね……』
思わずそうボソッと呟いてから、自分でも何を言っているのだと思って苦笑する。
場違いなことを言ってしまった。氷室君もキョトンとしているだろう。
そう思い、私は自嘲気味な笑みを浮かべながら、隣に座る氷室君の顔を窺った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
(ん? なんだ? なんでそこで笑う? なんでこっちを見る?)
アーリャの意味ありげな視線に、俺は内心首を傾げる。
そして数秒考え……
(……? っ、そうか! そういうことか!!)
俺は、その意味を悟った。
この笑み、視線。これはあれだ。ロシア語でデレた後、アーリャがこちらを窺っていた表情だ。
つまり……先程の『子供達は無邪気ね』という言葉には、何か隠された意図があるのだ。
日本語で言う「月がきれいですね」みたいなものだ。ふっ、やってくれるじゃないか……普通のロシア語が伝わってしまうなら、特殊な言い回しをしてリベンジをしようということか。
いいぜ、受けて立ってやる。俺だって小さい頃からロシア文学やロシア映画には散々触れてきたんだ。その言葉に隠された意図、しっかり読み取ってみせるぜ!!
俺はアーリャの顔を見下ろしながら、全力で頭を回転させた。過去の記憶をあさり、該当するものがないか検索を掛ける。そして……
(そうだ、あれだ!)
遂に、俺は1つのシーンを思い出した。
小学生の頃に見たロシアの恋愛映画。
公園のベンチで、戦地に向かうことになったことを恋人に告げる主人公。
生きて帰って来れるか分からない恋人を思い、ヒロインは涙する。
そして、何気なく顔を上げた先に無邪気に遊び回る子供達を見て、戦争とは縁遠いその平和な姿に『子供達は無邪気ね』と泣き笑いを浮かべるのだ。
そのヒロインの表情を見て、主人公は……
(なるほどな……そういうことか)
これはもらった。完璧に全てを読み切った。
なるほど、つまりこれはアーリャから俺への挑戦状だ。
言葉に隠された意図を読み取れるか、読み取った上でそれに応えられるかを見ているのだ。
(この表情……どうせ、出来ないと思ってるんだろうな)
フッ、だとしたら甘い。この遠いロシアの地までお前を追い掛けてきた俺を、舐めてもらっちゃ困る。
この氷室将嗣! 普段はぼーっとしてても、決める時は決める男だってところを見せてやるぜ!
「アーリャ……」
「?」
俺は、アーリャの方へと向き直ると、その肩に手を置き……そっと、その唇に自分の唇を重ねた。
「ン……」
「……」
「ン、ンン!? ンンーーーー!!!?」
「っ」
唇を離し、どうだとばかりにアーリャの顔を見返す。
すると、アーリャはその大きな目を零れ落ちんばかりに見開き、震える手で口元を押さえ……
「な、な、なん……」
「?」
あれ? なんか様子がおかしい。
てっきり、呆然とした後にキッと視線を鋭くさせて、照れ隠しの「バカ!」が飛んでくると思ってたのだが……これではまるで、完全に虚を突かれたような……?
「なん、で……」
「い、いや……『子供達は無邪気ね』って言うから……」
「ホントになんで!? 意味分かんない!!」
「え……」
こ、これはまさか……ただの深読み!? 隠された意図なんて何もなかった!?
(や、やばい……これはどう考えてもマズい!!)
この失態をどう取り返そうか全力で考えるも、焦りに加えて唇に残るファーストキスの触感のせいで思考がまとまらない。
そうこうしている内に、アーリャはベンチから立ち上がると、真っ赤な顔でスゥッと息を吸い──
『バカァァァァーーーーー!!!』
「う、おっ」
「わ、わた、私のファーストキスぅぅーーー!! いや、嬉しかったけど! でもなんか思ってたのとちがーう!!」
そして、俺を涙目でキッと睨むと、一目散に駆け出した。
『うわぁぁぁーーーん!! 氷室君のむっつりスケベぇぇーーーー!!!』
「お、落ち着けアーリャ! 日本語とロシア語が逆になってるぞ! っていうか、そんなこと叫びながら逃げるんじゃねぇ!!」
そしてやっぱり走んの速いなおい!
俺は周囲から向けられるツンドラな視線に心を抉られながら、その背中を追って駆け出すのだった。