Vol.8 おかえりと言われること
「えっ……、ああ……」
まさかの真珠さんの勘違いに、私は視線をさ迷わせてしまう。
まさか、拾ったのを猫と勘違いされるとは思わなかった。でも、普通に考えたら人間の男の子を拾ったとは思わないか……
猫を拾ったって勘違いでもこんな騒ぎ方をされて、人間の男の子を拾ったって訂正したら、真珠さんに捕まって今日は帰れないかもしれない……
この際、誤解を解かず、猫ってことにしておこう……
「そ、うなんです。だから、たまと仲良くしてるか心配で、今日は早く帰りたいなぁーって……」
真珠さんの様子を伺いながら、恐々と説明すると、あっさりと真珠さんは「お疲れ様~」っと言ってくれたのでほっとする。
私が早く仕事をあがる理由が恋愛がらみでないと分かって、興味を失ったのだろう。
真珠さんは、私が入社したときに指導してくれた先輩で面倒見がいいのだけど、恋愛絡みの事が大好きで、その手の話を聞きつけたり察知するアンテナが半端なく鋭い。
それがなければ本当にいい先輩なんだけど。
まあ、そう考えると、真珠さんに蓮君のことがばれなかったのは良かったのかもしれない。
オフィスを出て、その暖かさに羽織っていたスプリングコートを脱ぎ、長袖のカットソー一枚になる。
天気予報で、今日は四月上旬並みの気温と言っていたことを思い出す。一昨日は、まだ冬物のコートを着るくらいの寒さだったのに、昨日今日で一月分くらい季節が飛んでしまったような気温だった。
まだ太陽は西の空で照り付けていて、空も明るく夕方という感じがしなかった。
駅に向かって歩いていたら、後ろからガラガラとキャリーケースを引く音が追いついてきて、桐谷君に声をかけられた。
「森」
「あれ、桐谷君も上がり?」
「俺、出張帰りなんだけど。さすがに今日はもう帰るよ」
「そっか」
「タクシー拾うからさ、一緒に帰ろうぜ」
大きめのキャリーケースを引いた桐谷君を見上げる。確かに、その大荷物を持って帰宅ラッシュの満員電車に乗るのは無理があるだろう。
私の家は方向的には桐谷君の家と一緒で、会社から桐谷君の家に帰る途中にあるから、一緒にタクシ―に乗せてもらってもそれほど桐谷君が帰るのに遠回りになることはない。
一緒に飲みに行った時に何度かタクシーで送ってもらったことがあるから、今日も素直にお言葉に甘えさせてもらうことにする。
大通りに出るとわりとすぐにタクシーを捕まえることが出来て、桐谷君は私を先に後部座席に乗せ隣に乗り込んでくると、タクシードライバーに慣れた様子で私の家の近くで目印になる建物を告げた。
私自身はあんまりタクシーって使わないから、桐谷君が行き先のただ住所を告げるだけでなく、目印になる有名な建物や道路の名前を告げているのを見て、感嘆のため息が出てしまう。
桐谷君の今回の出張の話や次の交渉の話を聞いていたら、タクシーはあっという間に家についてしまった。
わざわざ桐谷君は一度タクシーから降りて、私を玄関前まで送ってくれた。
桐谷君のこういう紳士的な行動がちょっとむずがゆく、でも桐谷君は天然でやってるっぽくて注意するのも違うかなって思って何も言わないでおいた。
「お疲れ様」
「明日な」
そう言って桐谷君は、私を玄関の中に促すように手を振った。
私が家の中に入るまで桐谷君もタクシーに乗り込みそうになくて、軽く手を振り返して玄関に向かった。
いつも通り玄関のカギを開けて、いつもの癖で誰もいないのに「ただいまー」っと言ってしまったのだけど。
「……おかえり、はぐちゃん」
ぱたぱたっとリビングから足音が聞こえ、待ちわびたように玄関にかけてきた蓮君に満面の笑みで迎えられて、なにか胸をかき乱されるような気持ちになる。
おかえりって言われる――そんな些細なことが嬉しくて仕方がなかった。