Vol.34 雨上がりに
昼間は晴天だったのに、今はどんよりとした黒い雲が広がっている空をオフィスの窓越しにながめて、小さなため息をつく。
今日も天気予報で夕立に注意って言っていたから、雨が降る前に仕事を終えて帰れたらいいなぁっと思っていたけど、そう都合よくはいかないみたい。
新年度になったのと、三月末に桐谷君と企画していたカフェとのコラボ企画は好評で、すでにコラボ企画第二弾の話が持ち上がっててその準備にと忙しい日々だった。
蓮君がいなくなってから、もう二週間が経っていた。
何も言わずに出て行ってしまった蓮君を信じて待とうと決めたけど、このまま会えないんじゃないかっていう不安な気持ちは拭えなかった。
私から連絡しようかと迷ってみたりして、蓮君との唯一の繋がりであるインスタを眺めていると、蓮君のアカウントに投稿があることに気づく。
もともと、蓮君はインスタをやっていたわけじゃなくて、私との連絡を取るためにインスタのアカウントを作ったと言っていた。だから、たまの写真を時々インスタにあげている私とは違い、蓮君は何も投稿していなかったのに、そこに投稿があることに気づいて見てみると、それは一緒にお花見に行ったときに老夫婦に撮ってもらった蓮君とのツーショットだった。
そういえば、老夫婦の写真を撮ったお礼に私達の写真も撮ってくれると言われて、蓮君のスマフォで撮ってもらったことを思い出す。
あの時は突然のことに動揺してて、写真を撮ってもらったことをすっかり忘れていた。
インスタに載っているのは、顔を赤くして戸惑った表情をしている私と、そんな私を包み込むように抱きしめて、息も触れそうな距離で満面の笑みを浮かべている蓮君。
微妙な顔の自分に眉根を寄せつつ、たくましい腕で抱き寄せられたその時のことを思い出して顔に熱が集中してきてしまって困る。
しかもよく見ると、この写真が投稿されたのは蓮君が出て行ってしまった翌日、二週間という約束の日だった。
それがなんだか、蓮君からのメッセージのような気がして。
胸に湧き上がる気持ちに押されて、私はすぐさまたまの写真を撮ってインスタにあげた。
直接、蓮君の投稿にコメントするのは気が引けて。
でも、『見たよ』って伝えるために、それからはたまの写真を毎日投稿した。
もちろん、蓮君の投稿はそのお花見の時の写真の一度きりだったし、たまの写真に対してコメントがつくわけでもなかったけど、『待ってて』って言われている気がして、それまでよりも心が穏やかでいられた。
トントンっとプリントアウトした書類を揃えてファイルにしまって、帰り自宅を済ませる。
すっかり定時を過ぎてしまった頃にやっと仕事が一段落して、今日はここまでにして帰ろうと思う。
雨まだ降ってるかなぁ、もうやんでるかなぁ……
そんなことを考えながらエレベーターに乗り込んで、一度、蓮君が雨の日に会社まで迎えに来てくれたことを思い出す。
こんなふうに些細なことをきっかけに、私はいつでも蓮君を思い出して、胸が締め付けられる。
エレベーターホールからエントランスに向かい外に出たところで、ぴゅ~っと吹き付けた湿った冷気に身震いをする。
まだ雨降ってる……
手に持っていた傘をさそうとした時、エントランスの横の植木のそばで傘をさして立っている人がいることに気づいて、息をのむ。
「れ、ん、君……」
エントランスの明かりが届かない薄闇の中、蓮君がたたずんでいた。
「はぐちゃん」
そう言って、蓮君が一歩ずつ近づいてきて、目の前に立つ。
蓮君は思いつめたような神妙な表情で何かを言おうとして、口をつぐんで視線を斜めに落とした。それからちらっと伺うように見るから、胸の奥がぎゅうぎゅう締め付けられる。
蓮君に会えたら言いたいことがいっぱいあったのに、そんなのどうでもよくなるくらい、蓮君に会えたことが嬉しくてどうしようもない。
私は蓮君の傘を持っていない方の手をそっと掴んでビックリする。
そのあまりの冷たさに、反射的に蓮君の顔を仰ぎ見る。
「いつからいたの?」
四月中旬で暖かい日が増えたとは言っても、雨の日はまだまだ肌寒い。手がこんなに冷たいということは、長い間外にいたということだろう。
心配で尋ねたのに、蓮君は何も言わず、なんとも言い難い表情をして私を見ていた。
なんだかそれが、初めて会った日を思い出させて、私は苦笑をもらす。
傘をさして、握った蓮君の手を引っ張るように歩き出そうとして、先に歩き出した蓮君に引っ張られるように歩き出すことになってしまう。
しばらくは黙って手を引かれるままに歩いて、どうやら駅に向かっているのではないことに気づいて蓮君に声をかける。
「蓮君、どこ行くの?」
ちらっと私を振り返って、それでも蓮君の歩みは止まらない。
「うちに、帰らない?」
希望も込めてそう言ってみたけど、蓮君は何も言ってくれない。
その代わりというか、ゆっくりと歩みが止まっていく。
永遠にも感じる沈黙をやぶって、蓮君がぽつりと話し始める。
「はぐちゃん。俺、いろいろ、はぐちゃんに黙っててごめん……」
振り返って言った蓮君に、私はそんなこと気にしなくていいよって気持ちを込めて首を左右にふる。
「もう知っちゃってると思うけど、俺の父親はS区の区長やってる。俺が小学生の時に初当選して、それからだんだんと、俺は“春原 蓮”じゃなくて“区長の息子”って見られることが増えて……、それが嫌だった。
はぐちゃんと初めて会った日も、“区長の息子”っていうフィルターを通して見られることに嫌気がさして、喧嘩して、今思えばバカなことしてたなって思うけど、どうしようもなくて。
たぶん、その時は自分を“区長の息子”って知らないならだれでも良かったんだ。
何も知らず“ただの蓮”として、俺のことを一人の人間として見てくれるはぐちゃんの優しさにつけこんで、家に居座って、でも、このままじゃダメだって、はぐちゃんと過ごして気づいた。
俺は“区長の息子”として見られるのが嫌だと思いながら、どうせ“区長の息子”としか見られないからって初めから見切りをつけて、他人と一線を引いて、自分のことに踏み込ませないようにして。今まで“区長の息子”ではなく“春原 蓮”っていう一人の人間として見てもらうためになにも努力をしてなかった。
“区長の息子”というフィルターがあったとしても、“春原 蓮”という人間を認めてもらうために頑張りたいと思った。だからバイトを始めて、まあその結果、はぐちゃんに“区長の息子”ってバレるし、親に見つかって連れ戻されることになっちゃったんだけど……」
そこで言葉を切った蓮君は、眉尻を下げて切なげに微笑む。
「俺が区長の息子って知って、もし、はぐちゃんの態度が変わってしまったらと考えると怖かったけど、もう逃げてばかりいるのはやめたくて、はぐちゃんにはちゃんと伝えたかった。
何事にも一生懸命で、はぐちゃんの照れたように笑う顔が可愛いくて、俺ははぐちゃんには“区長の息子”じゃなくて“春原 蓮”として見てほしかったから――」
蓮君の視線がまっすぐに私を見つめる。その美しい瞳の中でうっとりするほど甘い光がきらめいて、私を射とめ誘うように揺れていた。
向き合って立つ私と蓮君の距離はほんの少しで、傘にあたるささやかな雨音なんて聞こえない。
「好きだから――、はぐちゃんには“春原 蓮”として見てほしいんだ」
艶やかな余韻を含んだその声にどきっとする。
真剣な眼差しに射抜かれて、気づいたら「私も」って言っていた。
「私も蓮君のことが好きだよ――
蓮君が誰かなんて関係ない。私が知っているのは、優しくて、料理が上手で、猫と甘いものが好きな蓮君だよ。蓮君が誰の息子だって、それは変わらないでしょ?」
蓮君が二人の距離を縮めるように一歩踏み出して、とんっとお互いの傘が当たった音に、二人同時に傘を振り仰いで、ふふっと二人で笑ってしまう。
傘の外に手を出せば、すっかり雨はやんでいた。
「雨、いつのまにかやんでるね」
「そうだね」
そう言って、傘を閉じているとふわっと腕が回って、後ろから抱きしめられていた。
「これからもはぐちゃんは俺のそばにいて――」
耳元で、真剣で切なげな声で囁かれて、鼓動が駆け出す。
「はぐちゃんのことが好きなんだ――」
壊れ物に触れるように優しく抱きしめられて、私も心から思う。
蓮君のことが大好きだって。
私だってそばにいたいって。
胸の前に回されている蓮君の腕をぎゅっと握りしめて、私の気持ちが全部伝わればいいと思った。
やっぱり言葉にしたくて。
私の想いも蓮君に聞いてほしくて、振り向いたら。
「わ、っ――」
言葉を発した瞬間、蓮君の端正な顔を近づいてきて、唇で唇がふさがれていた。
触れたと思った唇はすぐに離れて。
斜めに私をみつめた蓮君の美しい瞳に、少し強引な光がきらめいてめまいがするほど素敵だった。
二度目のキスの予感に、私は瞼を閉じて。
優しく触れただけの一度目とは違い、噛みつくようなキスに翻弄されて、体の力が抜けそうになった私を蓮君は激しく抱きしめた。
このまま溶けてしまうのではと思うほど激しいキスがやみ、そっと蓮君の顔が離れていく。
名残惜しさに見上げたら。
向かい合って私を抱きしめる格好のまま、うっとりするような艶めかしい瞳で蓮君が私を見つめて言った。
「拾った責任、とってよ――」




