Vol.32 会いたいよ
私が蓮君のことで知っていることは、気遣いができる優しい子で、料理が上手で、猫と甘いものが好きで、笑った顔はうっとりするほど甘やかなこと。
あとは、インスタのアカウントが「Ren」ということ。
どこに住んでいるのかも、電話番号もメールアドレスも知らない。
インスタのメッセージで連絡を取れないこともなかったけど、それはどうなんだろうと躊躇してしまう。
蓮君は出かけるときにメモ書きを残してくれたことがあって、でも、昨日は蓮君からのメモ書きもなかった。
最後に送られた蓮君からのメッセージの文面の『ちゃんと話そう』っていう言葉に、何も言わずにいなくなってしまったのは蓮君の本意ではないようにも思えるけど。
なにか事情があったのだとしたら、いつもの蓮君ならメモを残してくれるような気がする。
メモすら残せない状況だったのかとも思うけど、それにしては部屋はきれいに片付けられていたし荷物もなくなっていたことに矛盾が生じる。
状況的に、あえてなにも言わないで出て行ってしまったように感じて、こちらから連絡をとることがためらわれる。
それに、私からなんて連絡するというのだろうか……
桐谷君から蓮君が区長の息子だって聞きました。でも私はそんなこと気にしないよ――って言うの?
蓮君は“区長の息子”ということで苦しんできたかもしれないのに。
それがどんなことなのか想像することもできない私なんかが、容易くそんなことを言っていいはずがない。
蓮君が心に傷を抱えているのに気づいて、蓮君のために何かしてあげたいと思ったのに、かける言葉も見つからなくて無力な自分が歯がゆい。
祖父母を亡くして一人っきりの生活に本当は寂しさを感じながらそれに気づかないふりをして必死に日々を過ごしてきてたけど、蓮君と出会って、蓮君と過ごす穏やかな日々に、その存在に、私がどれほど癒されたことか。
たった二週間だったけど、蓮君の存在は私の中でとても大きいものになっていた。
たぶん、私は蓮君のことが好きなんだと思う――
蓮君のことを考えると胸がドキドキして、それと同時に胸が苦しくなる。
でも、蓮君には、私の好意は迷惑以外の何物でもないかもしれない……
あの時言った蓮君の言葉の本当の意味が、今になって分かる――
『別に本当にそう思ってるわけじゃないし、あの子たちは俺のことが好きなわけじゃないから――』
そう言った蓮君の瞳の中に一筋の憂いの影があって、私の胸をついた。
心底、そう思っているような突き放した蓮君の言い方に胸が痛んだ。
“あの子たちが好きなのは区長の息子だから――”
そういう風に蓮君が思っているから言った言葉なのだと知って、身につまされる。
ほんの数分接しただけだけど、あの女の子たちは普通に蓮君に好意を寄せているように見えた。それでも、蓮君はそんな風にしか受け取ることができなくて、自分に向けられる好意を全力で否定していた。
どうしてそんな風に思ってしまうのか、理由を知ってしまった今だから、それが間違っているとは言い切れない。
もしかしたら、過去に蓮君のことを“区長の息子だから”という理由で近づいてきた人がいたのかもしれない。それが蓮君の心の傷になってしまったのかもしれない。
でも、だからってみんながみんなそうなのだと思って、自分に向けられる好意を歪めて拒絶してしまう蓮君が悲しい。
きっと。
蓮君の素性を知ってしまった今、私が蓮君を好きだと言ったら、蓮君はきっと、私に一線を引くような冷たい眼差しを向けるのだろう――
そう思ったら、怖くて、とても連絡なんてできなかった。
それでも。
蓮君に会いたいよ――……
それが私の一番の気持ちだった。
連絡もできず、身動きもとれない状況にはぁ~~っと大きなため息をついたら、ぱこんって丸めた紙束で机を叩かれて、その音にびくっと肩を揺らした。
「森、聞いてたか?」
「あっ、ごめん……」
向かいのデスクに座った桐谷君に訝しげに言われて、自分が会議中に集中力を切らして、ぼーっとしていたことに委縮する。
「聞いていなかった……」
さすがに仕事中に、考え事で話を聞いていなかったなんてありえなさ過ぎて、申し訳なさに肩を縮こませる。
ただでさえ外回りで忙しい桐谷君の貴重な時間をもらって二人でカフェとのコラボ企画について話し合っていたのに、ケーキの話から、ついケーキを蓮君と一緒に食べたことを思い出して、そこからあっという間に蓮君のことを考えこんでしまっていた。




