Vol.29 魔法がとける日
蓮君が区長の息子だと知ってしまった日、落ち着かなくてベッドに入ってもなかなか眠れなくて、寝入ったのは深夜を回っていたけど、蓮君が帰ってきたのは明け方近くだった。
眠りが浅くて何度も目が覚めてしまって、何度目かに目が覚めた部屋がうっすらと明るくなり始めた頃に玄関の開け閉めの音が朝の静けさの中でかすかに聞こえた。寝ているだろう私に気を使って、なるべく音が出ないようにしてくれた蓮君の優しさを思いながら、私はベッドから出ずにもう一度眠りに落ちていった。
朝は強い方なのに、そんな感じで寝不足気味だったせいか、目覚ましが鳴ってもなかなか起きることができず、いつもより時間に余裕がなかった。
蓮君も朝帰りだったから、いつも朝食を食べる時間には起きてこなくて、仕事の時間もあったので蓮君と顔を合わせることもないまま出かけてしまった。
朝のあまり余裕のない時間で、蓮君と落ち着いて話すこともできないだろうし仕方がないとは思ったけど、蓮君に聞きたいことや話したいことがいっぱいで気になって後ろ髪をひかれる思いで、眠気でしょぼしょぼする目に目薬をさしてなんとかごまかして、職場に向かった。
蓮君のことは気になったけど、職場に着いてしまえばやることは山積みで、おまけに週始まりはやることが割と多い。すぐに仕事に集中していき、気づけば時計の針はお昼を告げていた。
両手の指を組んで上に向かってぐーんっと伸ばして、首を左右に回してストレッチをする。
さすがに何時間も椅子に座ってパソコンを触っていたから、肩が痛くなってしまった。
凝りをほぐすように体を少し動かしてから、お財布の入った小さなトートバックを手に取って立ち上がる。
いつもなら真珠さんや他の女子社員と一緒にランチに行くところだけど、今日は楽しく会話をするような気分になれなくて断って、一人でコンビニで昼食を買って屋上に向かった。
晴れているととっても気持ちいんだけど、今日はあいにくの曇り空で、昨日のなごり雪のせいか、気温も低くちょっと肌寒かった。
でもそのおかげで、屋上で休憩をしている人がまばらで、ちょっと安堵の息をもらす。
今は誰かに話しかけられても、愛想笑いすらできる余裕がなかったから。
でも、一人になると考えてしまうのはどうしても蓮君のことだった。
この数日、一緒に過ごした蓮君はどこにでもいるような普通の男の子で、優しくて、人として好感を持てる子で。
だからあの日、蓮君に話しかけてきた三人組の女の子に向ける蓮君の笑顔なのにどこかよそよそしくて一線を引いたような冷たい態度に違和感を覚えて。
自分にむけられる好意を素直に受け止められずに歪めてしまう蓮君に悲しくなって、その矛盾した原因を知りたいと思ったけど――
それは蓮君の口から説明してもらうことが前提であって、こんな風に知りたかったわけじゃなかったのになぁ……
とはいっても、パーティーで会ったのは本当に偶然で、桐谷君から蓮君の出自を知ることになったのも偶然でしかない――
今更考えても仕方がないことで、考えなければならないのは、これからのこと、なのかな――?
『俺の素性、もう知っちゃったよね――? 今日は帰り遅くなりそうだから、明日、起きたらちゃんと話そう』
蓮君のメッセージを思い出す。
知っちゃったよね――、って聞いてくるってことは、やっぱり蓮君が知られたくなかったことがこのことだったんだって確信する。
ちゃんと話そうって言ってくれるってことは、蓮君の口から説明してくれるってことだよね。
家に帰りたくなかったことや素性を隠していた理由。
蓮君がS区の区長の息子だったとしても――
それでも、私が知っている蓮君はこの二週間を一緒に過ごした蓮君でしかない。
ちゃんと感謝をすることができて、気遣いのできる優しい子。他愛無い会話がさりげなくて、笑った顔はうっとりするほど甘やかで、優しげな眼差しをする。
おかえりって言ってくれるそんな些細なことが嬉しくて、料理はほとんどしたことないって言ってたのに料理が上手だったのは器用だからなんじゃないかなって思った。
桐谷君には、中学生女子じゃあるまいし、一緒にいるからってすぐ好きとかそういう考えに結びつけないでほしいな、とか言っておきながら。
私の中で「蓮君のことを知りたい」って気持ちが膨らみ始めていた――
それって、つまりは――……
※
気づいてしまった自分の気持ちの変化に、午後は上手く仕事に集中できなくて、きりがいいとこまでと思ったら定時をかなりすぎてしまっていた。
逸る気持ちと落ち着かなくちゃっていう二つの感情が渦まして、家に帰る道のりさえいつもより長く感じてしまう。
まさか、家に帰ってきたら蓮君がいないとは思わずに――
蓮君が家で待っていてくれるとばかり思っていた私は、電気のついていない家に首を傾げつつ、でも最近蓮君が用事で家にいないことが多かったことを思い出して、出かけていることだけかなって。
玄関に入った瞬間、「にゃーん」っていうたまの鳴き声に出迎えられて、ご飯を催促するようなたまの甘えた鳴き声に、嫌な予感がどくどくと喉の奥からせりあがってくる。
リビングの電気をつけると、最近は蓮君があげてくれていたたまの夕ご飯もまだ用意されていなくて、私と蓮君のご飯も用意されている様子がなくて、嫌な予感が確信に変わっていく……
私は慌ててリビングから廊下に出て、蓮君が使っている部屋へと向かう。
いないと分かっていても一応、入室の許可を求めるようにノックしてから、ゆっくりと引き戸を開くと、がらんっとした和室が広がっていて息をのむ。
端の方に畳まれた布団の上に綺麗に畳まれた浴衣が置かれている以外は、蓮君が来る前となにも変わらない室内に、蓮君の私物はなかった――
最初に蓮君に約束した期限の二週間という期限は明日なのに、蓮君がいないことに動揺せずにはいられないけど、考えてみれば、あれは二週間は家にいてくれるっていう約束ではなかったことに気づく。
蓮君は自分の力で問題を解決して自宅に戻ったんだ――、そうやって自分に言い聞かせて。
それは蓮君にとっては良いことで喜ぶべきことだと思う反面、最後に送られた蓮君からのメッセージの文面の『ちゃんと話そう』っていう言葉に、何も言わずにいなくなってしまったのは蓮君の本意ではないようにも思えて……
ただ、呆然と立ち尽くすしかできなかった。




