18 時雄は時雄 (檜慈里)
まだ慣れない自分の部屋に戻り、飾ってあるいくつかの写真を見つめる。私とアヤが、どこかの美しい景色をバックに仲良く写っていた。
これは何処で、何時のことなのか?やはり何も思い出せない。
「明日、仕事休みだよね?会えるかな?」
携帯電話にアヤからEメールが届いていた。画像フォルダには予想通り知らない写真ばかりが残され、それらもまた私の記憶の端にかすりもしなかった。
「話しておきたいことがあるんだ。ゆっくりできる場所を知ってる?」
「わかった。明日、お昼頃に家行くね」
自宅まで来ると言われ焦ったが、アヤからすれば当然のことか。この部屋には確かに歯ブラシが2本あったし、女物のパジャマも置いてある。
とりあえず少し片付けておこう。今夜は眠れないかも知れない。
「で、話しておきたいことって?」
アヤとの距離が近い。ソファに二人で座ると、体はほとんど密着していた。私は動揺を悟られまいと頑張ってみているが、おそらくは無駄だろう。
「俺の記憶のことなんだけど。何から言えばいいか……まだ、かなり混乱してて」
「あたしもそれ、高森くんから聞いたよ。昨日、電話でね」
高森はどんなふうに伝えたのだろう。何にしても、隠すことはもう不可能だ。
「……思い出せないんだ。俺が学生の時『ジャンプ』で別れてからの、アヤと一緒にいた全部が」
「うん」
頷くアヤの声色は穏やかで、優しかった。
「今、こうして一緒にいられることが、嬉しいはずなのに、それまでの記憶がまったく無くて、自分がやってきたことじゃないみたいで」
「うん。じゃあ今の時雄が、あたしの目にはどう映ってるか、言ってみてもいい?」
「え?あ、ああ」
アヤは天井を仰ぎ、ゆっくり一呼吸ついてから、その潤った唇を開いた。
「ついこの間までラブラブだった、大好きな彼氏。その人が突然入院して、あたしとの記憶が全部無くなったって言い出して、二人でいっぱい重ねてきた経験を、思い出を、全否定しようとしてきてる」
悲しい笑顔だった。
私の頭から血の気が引き、首筋が冷たくなる。さっき食べておいたパンが、胃の中でズシンと重くなる。
アヤは置いてあった写真立てに視線を動かし、話を続けた。
「なんかさ、最近流行ってるドラマみたいだよね。交通事故で記憶が飛んで、何もかも新しい誰かになっちゃった、みたいな感じ?時雄も」
「いや、ちゃんと覚えてることもあるんだ。はっきりと」
「あたしから言わせてもらうとね。時雄は、時雄なんだよ。もしその記憶が途切れ途切れになってたって、あたしの中では全部繋がってるの。全部、大好きなの。
そのことだけは、受け容れてほしいな」
アヤの眼には涙が浮かんでいた。
気が付くと、私はその頭を撫でていた。それがたとえ上手くできていなかったとしても、今、この私は、一生懸命に撫でていた。