月の下で輝く
飢えから脱する事こそが快楽の頂点である。
私は誰よりも自由だと思っていた。それ故に誰にも縛られず誰にも依存せず誰にも媚びる事はない。いうなれば体に収まりきらない程の誇りに満ちていたわけだ。それは部外者から見れば一人ぼっちの強がりに見えただろう。雨宿りなどせず濡れながら歩く道、集団から離れ食らう飯、あえてそれらを選ぶ意思。周りからどう思われようとも構わない。私が進む先には私だけがいればいい。誰かのために生きるなんてまっぴらごめんだ。
私は誰よりも美しいと思っていた。鏡を見て他と比べるまでもなく。これだけ凛々しく生きる私が、これだけ不屈に生きる私が、へこへことご機嫌伺いしているような奴らより美しくないわけがない。そして月夜を思い出す。誰もが息を潜めている夜にこうこうと自らの存在を誇示する、雄大で絶対的な姿、真っ暗な空に光る月を見上げた時に抱く感情は枯れることのない憧れ。月を見るたびに思うのだ。私もいつか、と。
それでも私は実感したのだ。自由だけでは、美しさだけでは、私は生きてはいけない。悲しかった。悔しかった。力なく震える私の体が、四肢が何よりも情けなく弱そうに映った。枯れ葉とつむじ風がじゃれ合う季節はもう死んだのだ。これからくるのは白く、冷たい、死の季節。今まで私はどうやって乗り越えてきたのだろう。思い出せない。なら仕方がない。よくここまでやってきた。よくここまで生きてきた。夜にそっと溶けてしまうだけだ。何も怖いものなどない。最後に、最後に一目あの月を。
よろよろと力なく私は夜空を見上げた。もとより目は良い方じゃない、でもあの輝きを見ることができない程じゃない。どこへ、今はどこから私を見下ろして。
ふと何か音がした。何かの鳴き声か。それとほぼ同時に私の体はふわと宙に浮かんだのだ。温かいものが私に触れているのが分かる。離せ、私は最後にやらなければいけないことがあるんだ。それは抵抗と呼ぶにはあまりにも弱すぎるものだっただろう。意味をなさぬまま私はされるがままになっていた。
「ちょっ、あんまり動かないで。大丈夫だよ」
私も負けじと離せ!と一声上げたが全く伝わらなかったようだ。
「よかった、まだ元気そうだ」
意味の分からない言葉を聞かされ、私は長い間揺られていたと思う。しばらくして扉の開く音がした。抱えられ、中に入れられる。その時ふと巨大な鏡に私の姿が映った。痩せ細り、泥に汚れ、それは私が思っていた私とはかけ離れたとても醜い姿だった。これほど悲しく滑稽だった事はない。月の次に誰よりも美しいと自負していた私がそこらのネズミと変わらないくらい汚れ、無様だったのだ。だが悲しみもつかの間、私は大量のぬるま湯を浴びせられる事になる。どれだけ叫び、拒否したか分からない。それでも止まることはなかった。
「うーん、やっぱり猫は水浴びが嫌いだよね。でももうちょっとだけ我慢して」
さんざん私をひどい目にあわせて満足したのか、やっとぬるま湯は止まった。そして巨大な布の中でこねくり回され、温風を当てられやっと自由になった。と思ったら目の前にぐちゃぐちゃになった魚の身を差し出される。こんなもの、こんなもの!
「よかった~、食べてくれて。だいぶ痩せてたから心配したんだよな」
気が付くと私の目の前には綺麗に空になった皿だけが残されていた。本能に抗うことは出来ず、全てこの巨大生物の思惑通りに事が進んだようでかなり癪だ。だがおかげで腹は満たされた。それでも、私の中ではまだ鏡の中の醜い私が私に重くのしかかっているようだった。この気持ちだけはもう、
「あれ、よく見るとおでこにかっこいいマークがあるじゃん、ほら、見せてあげるよ」
目の前に小さい鏡が出される。やめろ、私は私の姿を見たくないんだ。もう私は。
目の前には艶やかで毛並み美しい黒猫が一匹、凛と立っていた。黒猫の額には白い三日月があった。それは今までずっと憧れていたあの、夜空から照らす月の形そのものだった。一歩、前に出る。鏡の中の美しい黒猫も全く同じ動きをする。
私はもう、いや、私達はもうずっと一緒だったんだ。私が今まで強く生きてこれたのも、夜空のあなたから希望をもらったのも、いつだって私達はこうして一緒にいることができていたからなんだ。こんなに、こんなに嬉しい事はない。
男は自分が目の前に差し出した鏡をじっと見つめる黒猫がとても幸せそうに見えた。理由は分からない。だが、それは確信に近いものだった。満足するまでずっと見せていてあげよう。幸せそうな黒猫を見る男もまた、大きな幸せを感じていた。
部屋の窓からはそんな黒猫と人間を包み込むように月の光が照らしていた。