2 どうして、あっさり引いたんです?
「どうして、あっさり引いたんです?」
全ての荷運びを終えて、文官たちは三々五々に散っていった。残っているのは、腹心とも言える二人の文官だ。
「え?」
「私たち文官には、魔王様方のような制約はありません。…貴女が拒否するのでしたら、加勢しましたよ?」
ああ、とダンタリオンは笑った。結局押し切られて運び込まれた、お気に入りの寝椅子の上で。
「自分でも、わかりません。ただ、…あれに逆らっても弱いもの苛めのようで、嫌だなと」
「…言いますね、妖皇相手に」
フェネクスから贈られた揺り椅子に揺られつつ、ジルは苦笑した。
「だってわたしが反旗を翻したら、この国乗っ取れますし」
「そのほうがー、幾分ー、ましかとー?」
「嫌ですよ、そんなの。妖皇なんて、面倒なだけじゃないですか」
きっちりと勤められる能力はある。それを前提にしての答えであるが、二人はそれを否定しない。
「あははー、向いてませんよねー。でもー…」
フェネクスから贈られたティーセットで茶を入れつつ、メリッサは首を傾げた。
「うーんー…あの子ってー、もうちょっとー、賢かったと思うんですよー?」
まあ確かに、とダンタリオンも思う。彼が二代目妖皇を継いだときに、安心したのだ。彼なら務まるだろうということと、自分が継がなくていいこと、その両方に。実際、文官たちからも反論は出なかったから、皆が問題はないと、考えたはずだ。
椅子を揺らすのに飽きたのか、フェネクスから贈られた机に頬杖をつき、ジルも首を傾げる。
「そうなんですよねぇ。何があったんですかね、あれ?」
「どうでもいいです。もう、関わる気になりませんし」
フェネクスから贈られた抱き枕に顔を埋めて、ダンタリオンは首を振った。そんな彼女に、二人の文官は苦笑する。
「お疲れのようですし、そろそろ退散します。またそのうち、伺いますけど」
「…無理はしなくていいですよ。睨まれたら、面倒でしょう」
「あははー、何も出来やしませんしー」
「ええ、出来やしませんよ。私たちは、”妖皇宮の文官”ですからねぇ」
そう、とダンタリオンは微笑んだ。それ以上の声をかけないのは、…たぶん、泣いてしまうからだ。大丈夫、彼らは何もされない。それが、初代妖皇が作った”妖皇宮の文官”だから。
「なのでー、贈り物は横流ししますねー」
「このことも、フェネクス様にお伝えしておきます。…半年後の夜会でお会い出来るんですから、そこまでは粘って下さいね?」
ぎゅ、と枕を抱きしめる手に力が込められたことに、文官たちが気づく。気づいたからこそ、立ち上がらない。彼らが認めた主の一言を聞きたくて。
「ね?」
「ねー?」
「……っ」
顔を上げないまま、声も出さないままに頷いた彼女に満足し、二人は部屋を出た。
独り、残されたダンタリオンは潰れそうになるまで枕を抱きしめる。
(どうして、いないんですか……?)
世界中を飛び回っているだろう彼に、呼びかける。如何に魔王と言えど、その答えも、問いかけも届くはずはない。あと、半年。建国百年の祭には必ず戻ると、約束はくれたけれど。
何もすることもなく、ただ待つだけの半年はきっと、永遠にも等しい。
この部屋の調度がほぼ全て、彼からの贈り物だ。季節に触れての挨拶とともに贈られてきたものだから、特別な思い出はない。それらに囲まれていて幸せだとは思うけれど、それでも彼は、いないのだ。
(会いたい…早く、貴方に……)
彼は今、何処にいるのか。妖皇はきっと、知っている。いや、ことによるとあの王女の国にいるのかもしれない。何か、後始末を押し付けられて。
会いに行ったら、怒られるだろうか。それとも、嫌われる? そしてあの王女に、心を移すのだろうか。
そんなことを考えてから、苦笑する。嫌われても、怒られてもいい。けれどあの王女にだけは、取られたくない。そんなことにはならないと、困ったような顔で自分を受けいれてくれるだろうとは思うけれど、それは今、自分の願望でしかない。
(ああ…でも本当に…疲れてしまいましたね……)
建国間もないころから、内政に携わってきた。何れは誰かに譲って旅に出たいと思っていたけれど、まさかこんな唐突に、…捨てられる、なんて。
怒りは、ない。ただ、自分を知らない二代目妖皇が、哀れなだけで。知っていればこんなことは、考えもしないだろうに。必要もないとただ、待つだけでよかったのに。
「哀れな二代目。初代が見出した側近に、貴方は含まれない――存在が、違いすぎるから」
だから、彼は知らないし、理解できない。自分が何者であり、どんな存在なのかを。
知ることすらも出来ないのだと、彼にはわからない。
「ねえ、初代さま…貴女は…何処に…」
ふっと、ダンタリオンの手から力が抜けた。部屋の中も同時に暗くなり、沈黙の帳の中で彼女は眠りについた。
※ ※ ※
「話はついたか?」
「はい。予定通りにお願いします」
「でもー、いいんですかー? 思い切り、裏切りですよー?」
「フェネクスの阿呆が放置出来なくて、魔王になった身だからな。あの馬鹿に忠誠を誓った覚えはない」
「歓迎ですー。セーレさまの荷物移動、便利ですしー」
「ま、せいぜいこき使ってくれ。妖皇宮の配置も、把握したいしな」
「にしてもダンタリオンさま、セーレ様に気づきませんでしたね」
「あれほど落ち込むとはな。…嬉々として送らせるかと思ってたんだが」
「あはー……って怖いこと、言わないで下さいー!? セーレ様に出来るのって、無生物の転送ですよねぇ!?」
必要な物資を、しかるべきところへ。それが、魔王セーレの権能である。
※ ※ ※
「――貴方が、魔王フェネクス?」
執務室に迎え入れた来客に、ダンタリオンは笑いかけた。
「ああ、お初にお目にかかる。二代目妖皇側近筆頭・魔王フェネクス。貴女には、…いろいろと迷惑をかけているかと思う」
すまない、とフェネクスが深々と頭を下げた。くす、と笑ってダンタリオンはその頭を上げさせた。
「迷惑も何も、それが仕事ですから。それに、貴方関連で面倒事があった覚えはありませんよ?」
それは事実である。彼が何をしているのかは、報告書が上がってくるから知っている。中には秘されたこともあるのだろうが、そのほとんどを彼は自己解決してくるので、本国まで騒動に巻き込まれたことはない。
「――だが、私の経費は貴方の精査が入ると」
「ええ、それが仕事ですから。…ああ、そう言えば娼館の領収書が非常にたくさんありましたね」
笑いながらダンタリオンは認めた。
「旅費はある程度多めに見積もってありますが、足りますか? 持ち出し分も、請求してくださってます?」
「それは、もちろんだが……」
戸惑ったような彼が面白い。娼館にかかった金額を経費として申請してくるのは、それが本当に経費でしかないからだろう。そういえば、宿と間違えてはいないかと思うほど、長く滞在した娼館もあった気がする。
「娼婦や男娼――そういう職業の方々は、情報をしっかりとお持ちですものね。それが目当てだということくらい、わかりますよ。そういう職業に、嫌悪もありません。…人間の体と同じつくりというところが、まさかそんなふうに利用出来るとは、思いもしませんでしたけど」
「そうだな。…ああ、まったくだ」
はあ、とフェネクスが溜息を吐く。
「正直、他の情報源があるならその方がいい。女たちから情報を聞き出すのは、…疲れるんだ」
「あら。百戦錬磨の魔王さまと、徒名される方らしくないですね?」
「おいちょっと待て。誰がそんな徒名をつけた!?」
あ、とダンタリオンは口を覆った。ついでに視線を逸らし、窓の外を見る振りをする。
「そうですね、控えるように言っておきます。この国で浮いた噂は一つもありませんし、すぐにおさまりますよ」
「当たり前だ、好きで通ってるわけじゃないっ」
「わかっておりますよ。寝台の中では防御が甘くなるもの、ですよね」
「――、そのとおりだが」
何故知っていると、フェネクスは胡乱な瞳を彼女に向ける。妖魔の知識は、辞書の内容が予めインストールされたようなもの。今のような結論に結び付けるには、何かしらの追加情報が必要となる。自分のように諸外国を巡って人々と触れ合う機会があればまだしも、彼女のように国に篭りきりの魔王では、それを望めない。
「わたし、書を読むのが好きなんですよ。娯楽物も。文官たちが気を配ってくれるので、かなりの量になってしまいましたが」
そう言って笑う彼女に苦笑しかけて、ふと、思い出す。そう言えば、指令書の中に書物を適当に購入せよという依頼が入っていたような。そう、そうだ確かあれは、書庫を充実させたい魔王がいて乱読型だから何でもいい、娯楽物でもいいと書いてなかったか?
「…お前か、幻の書庫を作った魔王って!?」
フェネクスの指摘に、あらあらとダンタリオンは笑った。
「あれはわたしの私室なので、入室出来る人員が限られるだけですよ」
「立派に幻だと思うが?」
「古代の書物らしきものもあるので、開放するわけにいかないんですよ。あ、ご存知かもしれませんね、小片に収められたものがあるんですよ。旧世界の遺物と言われていますが、中には生きているものが――」
「生きてる?」
説明を途中で遮らったフェネクスが慌てて取り出したそれを見て、ダンタリオンは息を呑んだ。
「なんで持ってるんですか、それ!?」
間違いなく、古代の情報が詰まっているはずの小片であると認めて。
「ときどき遺跡巡りをするから、そのときにいくつか。ものが分からなくて持ち歩いてたんだが…そうか。それなら、預けていいか?」
「ええ、もちろんです。いずれ、解析して差し上げます」
「ああ、頼む」
嬉しそうにそれを受け取る彼女に、意外な一面を見た気がしてフェネクスも微笑した。
「――それの対価と言ってはあれかもしれないが、書庫へ招待してもらえないか?」
ふと思いついて、フェネクスはそんなことを聞いてみた。私室だというから、断られるかもしれないが…まあ、それは仕方がないことだろうと承知のうえで。
案の定、ダンタリオンはしばらく考え込んだ。
「無理にとは言わないから、断ってくれても」
「あ、いえ。招待は構いませんよ。…ちょっと、お手伝いをお願いできれば」
「手伝い?」
「はい。情報を引き出す手管を、お持ちですよね?」
※ ※ ※
彼はそれに、どう応えたのだったか、思い出せない。そんなことを考えつつ、ダンタリオンは目を覚ました。自分が何処にいるか思い出せなくて、そのままで周囲を見回して、そこが書庫――私室だと理解する。
「ああ…だから、こんな夢を……」
懐かしい、と微笑する。フェネクスに初めて会ったときのことを夢見たようだ。彼はほんの数日の滞在で、また外遊に出た。自分の何が気に入ったのか、書に加えて各地の特産品などが贈られるようになって、どれだけ嬉しかったか、彼は知っているだろうか。
彼はその後、不定期ではあったが帰国するようになった。そのたびに土産を持ってきて、書庫で寛ぐものだから、文官たちにずいぶんとからかわれたものだ。
彼には部屋がないから、と二人して同じ理由を挙げていたけれど、空き部屋などいくらでもあるのだから、通じなくて当たり前だ。けれど、本当に彼は数日を寛いでまた出て行くだけで、自分たちの間には何もない。なんならいきなり尋ねておいでと入室許可を出したこともあるが、ジルでさえ入ってこようとはしなかった。それが現実だと、理解はしたようだったが。
(でもね…何かあったら、よかったと思うんですよ)
本当に、何もなかったのだ。物言いたげに自分を見る彼には気づいていたけれど、そのたびに視線を逸らされた。思い切って問い詰める――ほどの勇気はなくて、だから思い出と言えるほどのこともない。それがあったら、まだもう少し強くあれたのだろうか。少なくとも、支えとしてはもう少し、強くなったかもしれない。
「何も言わないつもりでしたけど……やっぱり、欲しいですね……」
呟きながら起き上がったダンタリオンは、クッションについた跡を見て顔を赤くした。頬を触ると肌が突っ張っているので、顔を洗おうかと考えた後、いっそ湯浴みのほうがいいかと思いなおして隣室へ向かう。
そこは浴室というわけでもなくて、ただ湯船が置いてあるだけの部屋だ。実はこれも、フェネクスからの贈り物である。
「可愛いですよね、猫足…」
すらりとしたデザインの支えを撫でるのは、もう癖になっていた。そういえばしばらく会いに行っていないなと、フェネクスが連れてきた山猫を思い出す。とても賢くて、大人しくて、…そう、とても大きい妖化猫を。
「仕事もありませんし、会いに行きましょうか……」
湯船にちょうどいい温度の湯を満たしながら、ふと思う。せっかく暇になったのだから、少しは遊んでもいいだろうと。
服を脱ぎ、スタンドにかける。下着は術で作ったものだから、脱がずとも消えてくれる。服も本来は作れるから脱ぐ必要はないのにと考えて、笑った。そう、あれもまた、フェネクスからの贈り物だった。
「あの人からの贈り物ばかりですね」
でも、考えて見れば当たり前なのだ。この国は成り立ちが特殊だし、自分たちは本来食事すらも必要としない存在だから、欲しいものなど自分で創りだせてしまうのだし。
彼はそうして作ったものではなくて、職人による手作りのものを用意してくれる。そのどれもが使いやすくて、感謝とともにそのことを伝えると、次には文官たち全員分が贈られてきたりもした。流石にあのときは皆が恐縮したので、そこまでしなくていいとあわてて伝えなおした覚えがある。
「会いたい」
湯船の中に身を沈めて、ダンタリオンは呟いた。ぽろぽろと、涙を零しながら。