先生とempty状態
「あぁ! えっーと、誰だっけ?」
国語準備室に足を踏み入れた私は、予想していなかった、先生からの言葉に一瞬、唖然とした。
「キムラです」
「そうそう! キムラさんだ」
パイプ椅子をギシっと鳴らし、先生が立ち上がる。私のところまで歩み寄ると、私が抱えていたテキストをよいしょっ、とおじさんくさい声と共に取り上げた。
そういえば、先生は何歳なんだろう。三十代前半から四十代後半といったところだろうか。男性にしては童顔で、年齢が読めない。
なにしろ私は、この先生の授業を受けたことがないので、あまり先生のことは知らない。知っていることは、私たちの学年主任だということだけ。
「重かったでしょ。ありがとう。これは、中谷先生に渡しておくから」
「はい」
「女の子にこんな重いもの持たせるなんて、酷いよねぇ、中谷先生」
人懐っこい笑みを浮かべる彼に、どう返していいのかわからなかった私は、とりあえず愛想笑いをしておいた。
しかし、中谷先生が酷いということには賛成。
普通、か弱い女子一人にクラス40人分のテキストを持たせるだろうか。
私、中谷先生にいじめられているのかな。
「お疲れ様でしたぁ、そうだ、お疲れのキムラさんにコレあげるよ」
差しだされたのは、紙皿の上にのったカップケーキだった。女の子の字であろう、『先生、余ったので、食べてください♡』と書かれた付箋が淵に貼り付けてあった。
「え? いいんですか? これ、貰ったんじゃないんですか」
「ああ、いいの、いいの。ほら、僕ね、家庭科部の顧問だから、こういうのよく貰うんだよね。牛丼とかだったら食べるけど、生憎甘い物は苦手でさ」
丁寧にメッセージつきのところを見ると、これを作った女の子は、先生に食べてほしかったようだが、まあ、しかたがない。美味しそうだし、私が頂くとしよう。
「じゃあ、いただきます」
「うん。ここに座って食べていいよー」
軽く勧められたパイプ椅子に腰を掛けて、カップケーキにかじりついた。
口の中に広がる、心地よい甘さ。ケーキの中には、ブルーベリージャムが入っていて、酸っぱさが良いアクセントになっている。
普通に美味しい。
「美味しそうに食べるなぁ」
カップケーキを頬張る私を楽しそうに見つめている先生。飼育係の小山くんを思い出させるような目をしている。
「ねえ、キムラさん。先生のお話、ちょっと聞いてくれない?」
唐突に話しかけられ、少し驚いた。
この先生、自分のことを話したがる人だったんだ。
でも、カップケーキくれたし、少しぐらい話を聞いてやってもいいだろう…と、判断した私は、コクリと頷く。
嬉しそうに頬を緩めると、先生の口が開いた。
◇◆◇
つい最近の話なんだけどね、キムラさんは、車のガソリンが少なくなった時、ピーピー音が鳴って知らせてくれるってこと知ってる?
先生の車もそうなんだよ。『empty』って表示されるんだけど、そこから、ガソリンスタンドまではガソリンがもつからさ、全然『empty』じゃないじゃん。まだガソリン残ってるじゃんって毎回思うんだよね。
それで、つい最近、『empty』ってなったとき、これはどこまでガソリンがもつのか試すべきであるって、先生の好奇心が告げたわけ。
一日目の朝、『empty』状態の車で学校まで出勤したの。
先生の家、学校から6キロぐらい離れているんだけど、普通に出勤できたんだよ。
二日目も、行き帰り、ちょっとハラハラしたけど全然大丈夫でさ。
これはいけるわぁ、ガソリンなんていらないじゃんって思ったんだ。
三日目はね、もう車を信じて出勤したんだけど、一日目と二日目同様、普通に運転できたから、もうその時点で先生、車が『empty』状態だったことすっかり忘れていたんだよ。
その夜は仕事が残っていてね、日付が変わるぐらいまで学校に残って、中谷先生と作業をしていたんだ。
やっと終わって、さあ帰ろうか、ってなって。
実は、先生と中谷先生、家が近いんだよ。たまに一緒に帰るときとかね、中谷先生の車が先生の車の後ろをついてくることとか多くて、その逆もあった。
その日はたまたま、中谷先生の車が先生の車の後ろをついてきていたんだ。
人気のない大通りの坂道を登り切ったところでね、大変なことに気がついたの。先生の車がプスプスいっているんだ。
そのまま、ゆっくり減速していって。
とうとう止まってしまったんだよ。
その時に思い出した。今、『empty』状態だったってことを。
幸い、まだ早くに異変に気がついた先生は、車を道の端に移動させていたんだ。だから、そのままびくともしなくなってしまった車を降りて、後ろをついてきていた中谷先生の車に向かって手を振った。
驚いた中谷先生は、先生の車の横に車を止めて、「どうしたんっすか?!」って出てきたんだけど、もうその時先生は泣きそうでね。
いたずらがばれた子供みたいな顔をしていたと、後に中谷先生が語っていたよ。
かくかくしかじか… 話した先生は途方に暮れていたんだ。だって、日付が変わる頃に自分の車が動かなくなってしまうなんて思ってもいなかったんだから。
このままじゃお家に帰れない。同じく道連れにされた中谷先生も困り果てていたよ。
その時、「そういえば、この坂道おりたところに、ガソリンスタンドなかったっすか?!」
中谷先生が名案を思いついた。
先生が、自分の車を後ろから押して、中谷先生がハンドルを握るんだ。
あの時、本当に中谷先生を後ろからついてきさせていて良かったよ。
早速、坂道の下に向かって、思い切り車を押してね。ゆっくり車を動かして、重力を利用した先生の車は坂道をごとごと下っていった。
そのまま車の横を走ってね、走行中の助手席のドアを開いて身を投げ込んだんだ。アクションスターみたいにね。
日付が変わる頃だったから、周囲には人っ子一人いなくて、助かった。それで、二人とも完全に油断していたんだよ。
坂道の下に、パトカーがあったんだ。最悪のタイミングだよね。
でもその時、睡魔とパニックに襲われていた大人二人は、「先生の車なのに、免許証を坂の上の車に置いてきてしまった中谷先生がハンドルを握っていたらいけない」という結論にいたり、走行中の狭い運転席と助手席でコソコソ入れ替わったんだ。
これで警察に捕まっても、免許証を持っている先生がハンドルを握っているのだから大丈夫だ! と胸を張っていたんだけど、そこじゃないよね。
でも兎に角、警察から捕まることはなく、一安心したんだけど、ここからが問題だ。
坂の下にあるガソリンスタンド、一方通行の道にあったんだよ!
さっきも言ったように、睡魔とパニックに襲われていた大人二人はそんなことも忘れてしまっていた。
交通規則に従ったら、複雑な道を通って向こう側に行かなきゃならないんだろうけど、そんな正当判断ができるような精神状態じゃあなかった。
だから仕方なく、ちょっとだけ、逆走したんだ。
真夜中だし、交通量が少ないと思っていたんだけど、ちょうどそこに暴走族がやってきてね。正面からくるフラフラした車にガン飛ばしてきたんだけど、そんなことその時の先生には痛くも痒くもない。「ばぁか!」って言って追い払ったよ。
今は、怖くてそんなことできないけどね。
それで、事なきを得たってわけだ。
キムラさんは、何かをチャレンジしてみることは良いことだと思うけど、しっかりと責任をとれるかどうかを判断してからやってね。
絶対に、他人を巻き込んじゃ駄目だよ。
◇◆◇
口を閉じると、疲れたように、ふぅ、とため息を吐いた。
「こんなに自分のことを話したのは久しぶりだな、楽しかったよ、キムラさん」
「私も、先生のお話が聞けて良かったです」
嘘ではなかった。
もう、塾に行く時間が迫ってきているのを時計が知らせていた。
遅れてはいけないと思い、パイプ椅子から立ち上がる。
「もう帰らなければ。ありがとうございました」
「そうか。また遊びに来いよ」
別に、国語準備室に遊びに来たわけではないのだが、笑顔でコクリと頷く。
この先生のことを今日、少し知ることができた。もう少し知りたい、もっと知りたい。そう心が言い出さないうちに、クルリと背を向け、扉の方へと進む。
部屋から出ていくときに聞こえた、「キムラさんは笑顔がいいな」という先生の言葉に、カップケーキを先生に食べてもらいたかった女の子の気持ちが一瞬、分かったような気がした。
ごめんね、カップケーキの女の子。
キムラメモ:
何かをチャレンジしてみることは良いことだが、しっかりと責任をとれるかどうかを判断してから。他人を巻き込んではいけない。
先生は甘いものが苦手。