シアワセの青いブタ
ふと思った。
自由というものは、それを意識した時点で自由という鎖に縛られた不自由ではないかと。
中学三年生になって半年経ったある日。僕、南野圭はそんな誰も得をしない事を秋晴れの空を眺めながら考えていた。
やがて、それが思春期特有の中二的な下らない考えだと気付き、恥ずかしくなって考えるのをやめる。
教室には数人いるだけで特に変わった事はない。廊下へ出ると、仲の良い同級生たちが集まっている。僕は、そこへ急ぐ事もなく近寄っていく。
「お、圭。肩パンしようぜ‼︎ 肩パン‼︎」
その中の一人。隣のクラスの山田大貴が素人丸出しのシャドーボクシングをしながら僕に言ってきた。
「やるかやるか‼︎」
僕が乗り気だと分かると周りの数人も盛り上がった。
「ジャン、ケン」
突き出した手を見て大貴が「ああ〜」と悔しそうな声を出す。反対に僕は笑顔で拳に息を吐く。大貴はチョキで僕はグーだった。
「痛くしないでくれよ」
不安そうに右肩を出す大貴に周りが面白そうに笑う。
「それじゃあ、意味ないだろ」
僕も笑いながら、目一杯の力を込めて大貴の肩を殴った。パチンと軽い音が鳴り大貴が大袈裟に痛がる。
「いってぇ‼︎」
「嘘つけよ‼︎」
その後、何度か肩パンをして、何でもない話をして昼休みを終えた。次は歴史の授業だった。頭の寂しい教師が何やら黒板に文字や絵を描いている。
ふと思う。
もし、僕が漫画や小説の主人公なら、物語はどんな風に進行していき、どんなものになるのだろうかと。
この思考は、やがて伏線となり、いつかの自分を納得させるのだろうか。
それはないだろう。小説や漫画と違って現実は意味のない事だらけだ。全てが未来に繋がるとは限らないし、物語として出せば駄作だ何だと言われるものばかりだ。
そして、何より今の僕の日常に他人が見て面白いものなんて一つもない。
二年半続けたバスケ部も夏で引退したし、自分の中で燻っていたものに気付いて(そもそも燻っていない)新しい事を始めるわけでもないし、好きな人がいて卒業までに告白したいというわけでもない。
この日常はとても退屈なものだ。きっと本人の僕ですら物語として見せられたら五分ともたないだろう。
だけど、その退屈を僕は愛している。愛してしまっている。
だから。
だからイジメを止める事なんて、僕はしない。
◇
「なあ、今週のジャンブ読んだ?」
家への帰り道。隣にいる同い年の男子、嵯峨輝義が空を眺めがなら聞いてきた。
「読んだ事ないから分かんない。どうしたの急に」
私が聞いてもテルは「おおー」と空を眺めたまま、生返事をするだけだった。最近はずっとこんな調子だ。
私とテルは付き合い始めて一年になる、所謂カップルというやつだった。元々、私とテルは幼馴染で、小さい頃からよく一緒に遊んでいたんだけど、中学生になってからはお互いの気持ちが恋だという事に気付き、付き合い始めた。どちらから告白したかは、もう覚えていない。付き合い始めの頃は、ほかのカップルのように一ヶ月そこらで別れてしまうんじゃないかと不安だったが、特に問題もなく私たちがカップルになって一年という月日が流れた。
だけど最近、テルは変わった。
ボーッとしているというか、考え事をしているようなしていないような顔をよくするようになった。会話も今みたいに私が知らない事ばかりでワザとなんじゃないかと疑ってしまう。
「テル、何か最近ボーッとしてない?」
私が聞くと、テルは相変わらず空を見上げたまま「そうかー?」と同じように生返事をするのだった。
それに対して怒りはない。
ただ、理由が知りたかった。テルが今、何を思っているのか。どんな事がしたいのか。少し前までなら、テルの全てとまではいかなくても心が通じ合う場面が何度かあった。だけど、最近は全く分からない。分かった気になってつけあがる事すらできない。私にとって、それはとても寂しい事だった。前はテルの事を考えると胸がポカポカして自然と口角が上がっていたのが、テルがこんな風になってからは、テルの事を考える度に胸に棘が刺さったみたいに痛く、苦しい。
「なあ、明日香」
不意に、テルが口を開いた。
テルの方を見ると、相変わらずぼんやりと空を見上げたままだった。
「何?」
また、私が知らないような事を聞いてくるのだろうかと心が暗くなった。しかし、テルの口からは思わぬ話題が飛び出した。
「荻原が普段、何してるか知ってるか」
私は驚きで返事に詰まる。
萩原さんは私と同じクラスの女の子で、今はイジメられている。今までも萩原さんに対するイジメに関して気にしている素振りは見せていたが、こうもダイレクトに萩原さんの話題を口に出す事は一度もなかった。二人の間で萩原さんに対するイジメの話をしない事は暗黙の了解となっているところがあると思っていたけど、私の勘違いだったのかな。
「別に。そんなの知らないよ」
彼女と帰っているというのに、関係ない、他の女の子の名前を出してきた事に少しだけ腹が立って、素っ気ない返事をしてしまう。
やっぱり、私の知らない事だったなあ。
「そうか。まあ、そうだよな」.
何やら含みのある言い方をするテルに理由を聞く。
「萩原さんがどうかしたの?」
テルは歩くのをやめて、私の方をじっと見つめる。何だかテルと目が合ったのは、すごく久しぶりな気がする。その感覚が、また私の心を苦しくさせた。
「明日香、好きだ」
本当に突然だった。
突然で、唐突で、突発的な『好き』だった。
「えっ? えっ‼︎ どうしたの⁉︎ 急に」
顔が火照って熱い。きっと、外から見ると紅く染まっているに違いない。腕を団扇代わりにして扇ぐ。どうしたんだろ、本当に。というか、私って分かりやすい女だなあ。
「行くか」
そういうとテルは再びゆっくりと歩き始めた。その時、テルの顔を見た。相変わらず、何を考えているか分からない不思議な表情。
私は目を逸らしたかった。私とテルの、どうしようもない熱量の違いから。
「ねえ、待ってよ」
笑顔でテルの背中を追いかける。ああ、この時間はとても愛おしい。私にとってこの時間が全てだと心から思える。
最近は色々あるけど、それでも。
やっぱりこの人の事が好きだ。
ふと思った。
人は何でこんなにも人を好きになるんだろうと。
苦しくて、切なくて。それでも好きになる。
「あいつは、楽しいのかな」
呟いたテルの言葉は、空気に混ざり消えていった。
☆
ああー、体がだるい。空気が体にベタベタと纏わり付いてくるみたい。昨日も夜遅くまでスマホをいじっていたので眠い。
「ちょっと、聞いてる?」
声の方へ目だけを向ける。真剣な顔でこちらを見ているのは友達の原亜美だ。
「聞いてる聞いてる」
「えー、本当に? じゃあ、私がさっき何て言ったか言ってみぃ‼︎」
どうせ好きなアイドルグループの話か愚痴だろうけど、この感じだと愚痴ではなさそうだしアイドルかな。
「ゲン君の事でしょ」
それを聞いた亜美は口を大きく開けて目を見開いた後、私の方を指差して喋った。
「ほら‼︎ やっぱり聞いてなかった‼︎」
あれ、違ったか。ゲン君の事だと思ったんだけど。ちなみにゲン君は人気アイドルグループのイケメンボーカルだ。
「ごめんごめん、で、何の話だったの?」
「だーかーらー。最近、ここらへんで目撃されてる青いブタの事だよ‼︎」
興奮気味に喋る亜美を見て、またかとうんざりする。ここ何日かで青いブタという言葉を何回聞いただろうか。普通に暮らしていれば青いブタなんて言葉を聞く事はないと思うんだけど。
「もう、それいいよ。どうせ嘘だし」
「あーあー、ロマンがないよ、ロマンが‼︎ ねー萩原さんもそう思うよねー?」
私の右斜め後ろの席に座っている女子、萩原響子に亜美が突然、話を振った。
「…………うん」
萩原は小さく頷くと、逃げるように席を立った。
「萩原さーん‼︎ トイレー⁉︎」
ワザと教室の全員に聞こえるように大声で言う亜美は性格が悪いと友達ながら思う。
「やめてやれよ」
笑いを堪える様子もなく話しかけてきたのは、同じクラスの男子、大石康太だ。誰にでも馴れ馴れしく、そしてうるさいやつ。亜美に気があるみたいだ。
「えーだって面白くないのがいけないんだよ。私たちもトイレ行こ」
「いいよ」
トイレに行くと、萩原と書かれたスリッパが揃えられていた。見ると、一番奥の個室のドアが閉まっている。
「萩原さーん‼︎ 何で逃げるの‼︎ 私たち何も悪い事してないよね⁉︎」
亜美は個室の前で至近距離にも関わらず、大声で喋る。
「……別に逃げたわけじゃ……」
「へぇー? 私たちには逃げたように見えたけど‼︎」
その声に返事はなかった。トイレに静寂が訪れる。
亜美は舌打ちをした後、個室のドアを思いっきり蹴った。
「おもんね」
亜美は機嫌の悪さを隠そうともせずに怖い顔でトイレを出て行った。私も戻ろうと思ったが、この時だけは、少しだけ萩原の事が気になった。
「ねえ、あんた辛いでしょ」
扉に向かって話しかける。何言ってるんだろうな、私。
「辛い事は当たり前……です」
扉の向こうから弱々しい声が聞こえる。
「生きてるんだから辛いのは当たり前。楽しくて幸運。つまらないのは努力が足りないから」
その言葉を聞いて、少しだけ、ほんの少しだけ同情した。
辛いのが当たり前なんて考え方は間違ってるよ。
だって、それは諦観だから。
他の皆は幸せで当たり前だと思ってる。私もそう。だから辛い事や悲しい事、理不尽な事があった時に不満をもつし、文句を言う。それで良い。自分は幸せになるべきだと、信じて疑わないからこそ人生に希望がもてるんだから。
でも、萩原にはそれがない。
辛い事は当たり前で、一々文句を言うのも可笑しな事だと無理矢理、自分を納得させているんだ。そんなのは人として間違ってる。
「そんなの間違ってる」
声は自然と漏れたものだった。言うつもりはなかった。さっさと教室に戻って、暇な授業を寝て過ごして帰る。それで良かった。でも、どうしてか、今だけはここから目を逸らせなかった。逸らして当たり前の場所なのに。
「あんたは。本当にそれでいいの。自分の事、そんな風に思って楽しいの。何なら私があんたを……」
「分かったような事言わないで‼︎」
私の言葉を遮るように萩原が叫んだ。
「あなたには何も分からない‼︎ 何も‼︎ 中途半端な気遣いが一番迷惑なの‼︎ 私には関わらないで‼︎」
萩原のこんな声、初めて聞いた。
けど、不思議と驚きはない。きっと分かっていたんだと思う。普段、私が見ている萩原が本当の萩原じゃない事に。
いや、本当の萩原何ていうものも結局は他人の押し付けでしかないのかも知れない。
私は黙ってトイレを出た。
『つまらないのは努力が足りないから』
この言葉が、まるで自分に向けられたものの様な気がした。努力って何の事だろう。
ふと思った。
私はこの場所この場所で何をしているんだろうかと。
考えれば考えるほど、底なしの沼に沈んでいくみたいに何も分からなくなっていった。
◯
近所に小さな池がある。
静寂という言葉をそのまま持ってきたような所で、私もつい先月まではこの場所の事を知らなかった。今は少し肌寒いけど、夏にはきっと涼しいんだろうなと想像してみる。
最近では、学校が終わってからここに来る事が私の密かな楽しみになっていた。こんな素晴らしい場所を自分だけしか知らない優越感と贅沢感。それが、ここに来る楽しみを倍増させていたのかもしれない。
ただ、ここ数日はこの場所にも騒々しさがあった。
「お前、いつにも増して元気がないぞ。おい、大丈夫か? おい……おいっ‼︎ 無視するんじゃねぇ‼︎」
それはまるで人間のように言葉を話す。声はいかにもおじさんって感じだけど見た目は若そう。
「あ、ごめんなさい。ぼーっとしてた」
私が謝ると、それは不機嫌そうに顔を背けた。
「ふん……ぼーっとしてたのか。そういう時は考え事をしている時だと昔から決まっているんだ……。その、あれだ。あれ。あれだよ、あれ‼︎ 悪かったな‼︎」
謝らなきゃいけないのは私なのに逆に謝られてしまった。
「ふふ、何でブタさんが謝るんですか。悪いのは私ですよ」
笑いを堪えながら言う私に、顔を背けていたブタさんがふがふがと音を鳴らしながら喋る。
「誰がブタさんだァ‼︎ 俺の名前はブルーノ・ナリバブ・タッタカだっつってんだろうが‼︎」
ひどく怒っている様子だけど、一つだけ言わせてほしい事がある。
「初めて聞きましたよ、名前。それに、やっぱりブタさんじゃないですか」
それを聞いたブタさんは時間が止まったみたいに固まって動かなくなる。ふふ、面白いなあ。
「え? 今、初めて名乗ったのか? 俺」
「そうです」
「そうか……何か……悪ぃ」
「また、謝ってる」
私が笑うと、ブタさんは安心した様な顔をした。
「で、どうしたんだよ」
聞いてくる豚さんの声はとても優しくて、同情とか恩着せがましさが全く感じられなかった。目の奥に溜まっていた熱いものが外側に滲み出てくるのを強く感じた。
「私ね、せっかく差し伸べてくれた手を自分から払いのけちゃったの」
ブタさんは何も言わずに話を聞いてくれた。
「散々、今の状況が嫌だって、自分を変えなきゃって思ってたのに。誰かの気持ちを踏みにじったの、私」
話しているうちに自然と涙が頬を伝った。
「結局、ダメなのは自分だったんだ。きっとね、どこかで『悪いのは他人だ』って思ってた。少なくとも自分のせいじゃないってそう思い込んでた。けど、悪いのは自分だった。こうやって話してても自分の事ばかり。ダメだって思っても身勝手な自分を変える事が出来ないの。でも、それが嫌で嫌で堪らないの」
話していると胸が痛くなって、軽くなった。
「でもよ、その手を差し伸べてくれたっていうやつだって今までは、そのイジメってやつを見て見ぬフリしてたわけだろ。それは振り払ったお前が悪いわけでもなく、そいつが悪いわけでもないだろ。ただのタイミングだよ、タイミング」
あと、とブタさんは前足を器用にこちらへ向けて話を続ける。
「お前、さっきから自分の事ばかり考える事が悪いみたいに言ってるけどよ、何も悪くねぇぞ」
熱くなってきたのか少し怒ったような口調になるブタさん。
「いいか、他人は他人だ。そして、自分は自分だ。もし、自分より他人が大事って言うなら自分が自分である意味は何だ。もっともっと自分を愛せ。自分の事を考えろ。自分を愛せないやつは他人も愛せない。自分へ向けられた感情は他人にも向いていく。他人の事ばっかり気にしてるようなやつなんてな、はっきり言って異常者だぜ。まあ、自分の事が完璧で他人を気にする余裕があるってやつもいるだろうが……そんなのはほんの一握りだ。そいつらが凄すぎんだよ」
ぶひ、と緊張感のない音を鳴らすブタさん。
自分へ向けられた感情は他人にも向いていく、か。
「ありがとうございます。何だか元気が出た気がします」
「お、おう。そうか。そりゃ良かった」
照れたように顔を背けるブタさんは、とても愛らしい。
「ところでブタさん。最近、噂になってますよ? 青い豚が歩いてるって」
それを聞いたブタさんは鼻息を荒くして驚いた。
「だからァ‼︎ ブタさんじゃねぇって……何⁉︎ 嘘だろ……どこでバレたんだ」
本気で考え込むブタさん。普通に道を歩いてたところを目撃されたらしいけど……黙っておこう。
「おい、何笑ってんだ。そんなに人の不幸が嬉しいのか」
「いえいえ、ブタさんの不幸ですから」
「屁理屈こねくり回してんじゃねぇぞ‼︎」
その後も腹筋がバキバキになるほど笑った。笑って、笑って、笑い倒した。
「本当に来ねえんだな」
話に夢中になり過ぎて気付くと辺りはすっかり夜に浸かってしまって、視界も覚束なくなっていた。
だけど、何故だかブタさんの姿だけは鮮明に映った。
ブタさんの言葉に私は「はい」と返事をした後、ゆっくりと言葉を返す。
ブタさんはこの世界とは違う別の世界の生き物だそうで、何が起こったのか世界と世界を繋ぐ小さな穴ができてしまったらしい。そしてブタさんはそれに落ちてしまった。初めてこの池にブタさんが現れた時は心臓が頭蓋を貫通して飛び出たと思ったのを思い出す。この池に飛び込めばいつでも帰る事ができるらしいけど、ブタさんはそれをしなかった。なぜか、外を歩いてこちらの世界を見て回っている。食べ物や水は私が持って来たものをガツガツ食べた後『これで三日はもつぜ』と言っていたのでお腹が減っていたわけではないと思う。
そして、今日がこの世界にいる事のできる最後の日で、これを逃せばもう二度と向こうの世界へ帰る事はできないのだと言う。
ブタさんは、私の今の状況を聞いた上で向こうの世界へ一緒に行くか、と提案してくれた。
「私が、このままブタさんの世界に行く事に納得してませんから」
ブタさんは「そうか」と呟いた後、私にお尻を向けて言った。
「お前が納得してないんじゃあ、仕方ねえな」
心なしか、ブタさんが笑っているように見えた。
「じゃあ俺は行くぜ。あばよ」
そう言って、ブタさんは池に飛び込んだ。辺りにあるべき静寂が取り戻される。
私は歩き始める。いつも通りの何でもない道を。いつも通りゆっくりと。
これで良かったのかな。うん。良かった。良かったに違いない。
心に巣食う最後の迷いを、無理矢理押し付ける。しかし、押し付けたら押し付けたで、どうしようもない虚無感が空きスペースに訪れる。今すぐにでも叫びたい気分だった。
不幸で当たり前。でも、私はそれを選んだ。
今は、そこに意味を見出してみようと思う。そして誇ってみようと思う。当たり前の不幸を選んだ私自身の選択を。自分に酔っているだけの私を今は『成長』という言葉で美化してしようと思う。
ふと思ったけどブタさんって人間でいうと何歳くらいなんだろう。私と同級生とは思えないし、やっぱり中年かなあ……。
笑顔と共に熱い液体が頬を濡らした。
☆
あー、ごほん。
突然でとても申し訳ないけど、僕は今とても面倒くさい状況に巻き込まれている。それは不幸と呼ぶしかない出来事だった。
五日前の昼休み。
外は気持ちのいい秋晴れで、空の端に薄い雲が数えるほどあるだけだった。
午前中からほとんどの時間、僕の席には日が当たっていて給食を食べている時にその暖かさに気付いたので試しに頬を密着させてみると、何ともまあ、気持ちがよかった。今まで、机は冷たく僕を引き離し、堕落させる事なくペンを取らせていた。このクラスは席替えが机ごとなので、この机とは半年共に過ごしてきたわけだけど、こんなに机が僕に心を開いてくれた事は小学校合わせて一度もなかった。これが俗に言う『ツンデレ』というやつか……‼︎
そう考えると、急に机が愛おしくなってしまった。だから、せめてこの昼休みくらいは、という事で自分の席で気持ちのいい空を眺めながら、心を開いてくれた机と共に僕は読書をしていた。
そんな時、同じく教室にいた萩原響子に同じクラスの原亜美が大声で絡んだ。
「萩原さん‼︎ 一緒にトイレ行こ‼︎」
机を叩いた音が聞こえる。横目で見ると、教室の出入り口に原の腰巾着三人組(僕が勝手にそう呼んでいる)がニヤニヤして立っていた。
最近、原と特別仲のよかった小野田真由美が他のグループの女子と絡み始めた事で原は腰巾着三人組といつも一緒にいるようになった。喧嘩でもしたんだろうな。多分。どうでもいいけど。
「トイレはさっき済ませてきたから行かない」
萩原は、連れションをはっきりと断る。
これも最近だけど、萩原は何かと原に反抗するようになった。最初は、原はもちろんの事、僕を含めた周りも驚いたものだ。
「いちいち、うざっ。友達が行こって言ったら文句言わずに行こうよ。めんどくさい」
原が腰巾着どもに「ねえー?」と共感を求める。返答は原の望んだものだった。
「ほら、行こっ‼︎」
腰巾着の返答で機嫌が戻ったのか、声が表面上は優しいものになる。しかし、行為は相変わらずの乱暴さで、萩原の手を引っ張り無理矢理教室から連れ出そうとしている。ここまでされても先生に言わないのは何か萩原に言えない事情があるからか、それともニュースで見たいじめられっ子は言った後が怖くて言えなくなるというあれだろうか。まあ、僕を含めた周りも全く言わないからなあ、先生に。だって自分が先生に告げ口したってバレたらイジメの対象は自分になるだろうからなあ、それはとても厄介な事だ。それに、ここまでやられているんだ。いつかは誰かが先生に言うだろうと皆が思っている。いやはや、傍観者効果とは恐ろしい。
でも、それにしたってここまでは日常の一部になろうとしていた。前にも言ったけど、僕はこの何でもない日常を愛している。だからイジメを止めたりはしない。
はずだった。
僕はこの時、とても幸せだった。
僕の愛する何でもない日常。心を豊かにしてくれる本。心を開いてくれた机。気持ちのいい秋晴れ。望んだものがここにある。完璧だった。
その完璧さが、日常に溶け込もうとしていたイジメの本来の汚さを際立たせた。
僕は、まるでピカピカに磨いたばかりの床に汚物を撒き散らされた気分だった。
原の声が、姿が、言動が、仕草が、行動が、全て汚く思えた。
そんな時、どこかから舌打ちする音が聞こえた。そんなに大きな音でもないのに妙に教室に響いた気がしたのを覚えている。
そして、その舌打ちをしたのが僕だと気付くのにずいぶんと時間がかかった。
原はこちらを睨み、腰巾着はこそこそと何かを話している。ああ、嫌だなあ、この感じ。
「感じ悪、文句があるんだったら直接言えよ」
出たよ、イジメっ子あるある、文句があるんだったら直接言え。直接言えるような状況だったら文句の一つや二つ言っているし、だいたい言ったら何してくるか分からないだろ、お前らは。
「うざ」
教室に居づらくなり、腰巾着のいない反対のドアから黙って教室を出た。僕の幸せな時間は僕によって崩された。机が急速に冷えていく気がした。
そこからはイジメの標的が萩原から僕に変わるのに時間はかからなかった。
萩原ほどひどい事はされないが陰口は耳にタコができるほど聞いた。もう本人に聞こえてるから陰口でも何でもないだろとツッコミを入れる毎日だ。
萩原は、と言うと原からのイジメがほとんどと言っていいほどなくなった事で周りの女子と少しずつ話すようになっている。自分がこんな事になってから萩原の気持ちが少しだけ分かった。これじゃあ学校で落ち着いて本も読めやしない。全く、気苦労の多かった事だろうよ。
幸運だったのは僕が男子だったもいう事。
僕の陰口に関する話を仲の良い女子から聞いた同学年の男子が、僕に話を聞きに来たので今に至るまでを簡単に話すと、その子は自分の事のように怒り出して「くそっ‼︎ 何だそれ‼︎」と地団駄を踏んでくれた。後から大貴も事情を知り、そこから学年男子に話は広まり、結果、男子対女子という勢力図が出来上がった。
そこまでくると、一人が背負うものなんてないようなもので、以前ほどとはいかないものの図書室に行けば落ち着いて本が読めるくらいにはなった。
巻き込まれたというか、僕が悪いんだけどさ。
そんな中、男子と女子が陰口を叩き合っている合戦真っ盛りの時期の帰り道で大貴に言われた。
「お前ってさ、なんか他人事だよな」
言われた時はむしろ自分事があっただろうかと考えた。
今回の騒動は以前から原を始めとする一部女子の横暴な態度や理不尽な言動に少なからず不満を持っていた男子が、僕の件を大義名分にして今までの不満を爆発させたに過ぎない。僕はトリガーでしかないのだ。でも、男子が不満を爆発させる前は僕の平穏な日常が崩されていたわけだから自分事か。
「でも、まさか圭が標的になるとはな」
笑いを堪えきれていない大貴。
「何が可笑しいんだよ」
「だって、お前そんなキャラじゃねーじゃん‼︎ 女子とはあんまり喋らないし、かと言って女子から嫌われてるわけでもないし。目立つ方でもなかったし。逆に目立たない方でもなかったし」
褒められているのか貶されているのか、よく分からない言い方をするなあ。
「それにしても気付いたら舌打ちしてたって言うのがな」
また笑う大貴。
「不幸だ、不幸……何か某話術サイド的な何かを感じるぞ……」
「分かんねえよ」
またまた笑う大貴。こいつ何言っても笑うんじゃないか。
「不幸だし、大変だったんだろうな。俺はお前じゃないから本当のお前は分かんねえけど。まあ、人生は楽し事ばかりじゃないって事だな」
またまたまた笑った。自分の発言でも笑うぞこいつ。
「お、もうこんなところか、じゃあな‼︎」
ここからは俺と大貴は違う道になる。大貴は押していた自転車にまたがり、片方のペダルに足を乗せる。
「おう、じゃあな」
手を軽く上げて大貴に別れを告げる。
大貴がいなくなると体にどっと疲れがやってくる。最近は色々あって心が休まる日が中々なかったからなあ。帰って休もう。
生徒会の副会長で先生の手伝いをしていた大貴を待っていたので、空は青から橙色に変色し、夕陽が煌々と輝いている。
夕方の空を楽しみながら、減速気味で歩く俺の耳に誰かが走ってくる足音が聞こえる。全く元気だなあ。今だけは同じ人間とは思えないよ。
「っっあの‼︎」
足音の主が話しかけてくる事を知っていたわけではないし、それが誰なのかも全く分からなかった。
けど、不思議と予感があった。足音の主は、走ってくる影は、必ず話しかけてくるという予感が。
僕は振り向かない。声で誰か分かったからだ。息が荒く、変に声が上擦っているが確かに分かる。
向こうも僕が気付いている事に気付いているのか、単に余裕がないからか、そのまま話を続ける。
「ずっと……言えなくて…….その……」
ようやく、息が整い始める。
「あなたにとっては、『結果的にそうなった』だけかもしれない。けど、私にとってはその結果が『そうなって欲しかった』ものだった。だから……」
そこから、しばらく沈黙が続いた。
僕も疲れていたからか、何も言わずぼーっと空を眺めていた。しかし、いつまで経っても続く言葉は耳に入ってこない。
耐えきれずに振り向くと、そこには必死で涙を堪えている萩原響子がいた。萩原は手や服で涙を拭う素振りを全く見せず、下唇を力強く噛んでいた。
夕陽に重なっている萩原は、まるで、空を照らしているみたいだった。
萩原って、こんな綺麗だったのか。
素直に思った。
堪えきれなかった大粒の涙がボロボロと萩原の頬を伝う。不謹慎だけど、まるで宝石みたいだと思った。
萩原は涙を流しながら、それでも無理矢理笑顔を作ると震える声で言った。
「ーーーーありがとう」
ああ、俺はこれを見るために生まれてきたのかもしれない。
そう錯覚してしまうほどに、萩原の笑顔は輝いていた。
その言葉の後、萩原はすぐに走り去ってしまったけど、今も鮮明に覚えている。風景が瞼にこびりついて離れない。
全く、萩原が、一人の人間があんなに抱え込まなきゃいけなくなるまで俺たちは……。
「何だ、こんな事なら早く動いてればよかった」
その場にしゃがみ込んだ僕は、バカみたいに笑いながら、泣いていた。