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平河さん

作者: 不破 雷蔵

三作目です。

一応、某文学賞向けに書いたのですが…。

縦書きだったのを無理やり横にしてみました。

読みにくかったらスイマセン、では。



 僕がトイレに立って帰ってくると、平河さんは僕のいた席の向かいに座っていた。

 僕は平河さんの前に立って暫くぼうっとしていた。

 そして、平河さんは言った。


「どうか掛けて下さい。間違いなくここは君の席ですよ」


 大げさな身振りで僕に席を勧め、彼は後ろで誰かが両側から引っ張ったみたいに横一文字に広げた口と、皴に押し潰された糸のように細い目をして僕に満面の笑みを向けた。彼はごく上品な仕立ての良い黒いスーツを着、中には卸したてのようにぱりっとした真っ白なワイシャツと派手なワインレッドのネクタイを身につけ、見事にそれを着こなしていた。そのくせやや面長の顔の上部には無造作に長く伸びた黒髪が右から強烈な風をうけたように左に向かって垂れていた。それはまるで河川敷の雑草のように力強く生え揃っている。髭は濃くシャープな顎のラインから頬を満遍なく覆っている。店の照明の加減でチカチカと照り返る金縁のめがねのガラスにはうっすらと色が入っていて、目の奥を見通すことは出来そうにない。左の手首にはいかにも高級そうな腕時計が幅をきかしている。両手を組み背筋よく座る姿はどこぞの会社の面接官のようでもある。

 一見して彼は上品さとワイルドの中間にいる。

 そして僕はその人物の前にいた。


 僕は居心地の悪さを感じながらも言われたとおりに平河さんの前に座った。


 彼は、平河惣一郎という名前らしい。

 最近この辺りに越してきて自分が居心地のいい飲み屋を探して回っているところだ、と彼は言った。初対面という言葉など世界が誕生してから一度としてこの世にはなかったかのように馴れ馴れしく、それでいてごくごく丁寧に平河さんは話し出した。

 僕は無意識に記憶の引き出しを引っ掻き回し、この人物に似た顔を捜していた。

そうして考えてみてもやはり、僕とこの怪しげな人物とは初対面であるような気がする。それでもどこかで会ったことのあるような、何か懐かしいようなそんな感情に襲われるのは人の記憶が起こす間違いであるのか、はたまたこの特殊な人物の持つ魅力のせいなのか、とかく人見知りの僕であっても今までに経験したことのない親近感がテーブルひとつ隔てた対岸の彼との間にはあった。今となっては、何か平河さんには人の持つ絶対的な壁を開ける鍵を持っていたのではないだろうか、そう思えてしまう。


 いまだ笑みを絶やさぬ真新しい知人の前に座り、僕はぎこちなくはにかんでいた。僕は普段からあまり人の目を見て話さない。人見知りなのもあるが、なんだかじっと見ているということはこちら側を見られているということでもあり、自分の中に存在する僕自身の見せたくないものが他人に見えているのではないかと思ってしまうのだ。それでもこのときの僕は恥ずかしい気持ちを抱えたまま彼をじっと見ていた。それは平河さん自身が僕に彼から目を逸らすことを防いでいたからかもしれない。


 あてもなく続く僕の頭の中での考えをよそに彼は一通り自分の話すべきことを終えたようだ。

 そしてそれと同時に頭の中で何度も考えてみたところ、彼と僕は完全にそして決定的に初対面であるという結果に行き着いた。


「では、また会いましょう。」


 僕が彼との関係について結論を出すとすぐに彼はそう言って、椅子が倒れそうなくらいの勢いで真っ直ぐすくっと立ち上がった。それにつられて僕も立とうとした。膝裏にぶつかった椅子がきぃっと嫌な音を立てた。

 平河さんはとても背が高く、僕は彼を見上げなければならなかった。彼は柱のように立った状態から機械的に右手を伸ばし欧米風に僕と堅い握手をした。一方的に僕の腕を取ってではあるけれど。


「わたしは平河ですよ、お忘れなく」


 呆気にとられていた僕をおいて、彼は別の席へと向かった。その後も彼は僕以外の誰もかれもに同じ様に話しかけていた。

 置き去りにされたような僕がそのとき感じた感情といえば、意外にも好奇心にも似たワクワクするような高揚感だった。少しにやけていたかもしれない。僕はゆっくりと席に着きなおし、彼の行動を目で追った。


 予定外のことが起こった人間というものは非常におもしろいもので、俯瞰で行動を見ているとみんなが同じリアクションをしているのに気がつく。まず、何の面識もない平河さんが話しかける。相手は話しかけられたことに驚き腰を引き、見開いた眼を相手に向ける。そして人の良さを前面に打ち出した平河さんの笑顔が相手の引けた腰を僅かに戻す。相手側は明らかに動揺して引きつった作り笑いで対応しているが、そんなことに気付きもしないのか、それとも気にしないようにしているのか平河さんは構わず自分の言いたいことを告げる。それが終わり、また硬い握手をする。そして次の相手に話しかける。話かけられた後の人たちは一様に彼の次の行動をじっと観察し、仲間内とヒソヒソと話しては、にやけ顔で平河さんの動きを追っていた。僕は一人できているので誰かと話し合うことはなかったけれど、皆と同じように平河さんの動きをさらに目で追った。そして何だか少しだけ嬉しくなった。それはなにかとても恥ずかしい感情だったけれど、ひどく懐かしいものでもあった。台風が来るときの気持ちだったかもしれないし、クラスに転校生が来るときの気持ちだったかもしれない。でも昔確かに感じたことのあるあの至極幼稚で陳腐な期待感に似ていた。

ふと我に返ってみると、テーブルに肘をついて掌に顎をのせてだらしなくにやけている自分に気がついて僕はむず痒くなった。そんな気持ちのままで人前にいることに耐えられなくなってきた。酔いはまだ少し足りないけれど、僕は店を出ることにした。

 店を出るとき、ちらっと店のマスターの方を覗いてみた。

 以外にもマスターも僕のほうを見ていて帰ることへの挨拶とでもいうようなにっ、という笑顔を作った。僕は思わず軽く手を上げてそれに返してしまった。手を上げたあとで、また少し照れてしまった。

 普段にはないざわつきを始めたこの店を僕が出ていくそのときにも、平河さんの自己紹介は依然として続いていた。

 このとき僕の中に本当に何かが始まるような予感がしていたかどうかは今になっても分からない。でも何かが起こって欲しいと思っていたのは確かだった。


 僕は足早に外への階段を駆け上がった。



                   *



 僕が次に店に来たときも平河さんは訪れていた。

 その時には、平河さんのこの店での地位はすでに確固たるものになっていた。

 話しかけられる客たちは以前のようなぎこちない笑顔はしていない。それどころか平河さんがすっと相手の肩に手を乗せると相手は満面の笑みで片手を差し出し、硬い握手をかわした。そして一言二言平河さんが言うと、申し合わせたように互いに大笑いするのだ。そしてじゃあまた、と別れの挨拶がてら手を振り、平河さんは別の客の肩を叩きに歩き出した。全てが昔からそうであったように自然に当たり前のように流れている。違和感はどこにもない。僕にさえそれは当然のことのように映った。どうやら今までにこの店には存在しなかったこの流れに僕もすでに飲み込まれているようだ。

 改めて店を見渡す。

 こころなしか、客のほうも前よりも増えた気がした。

 正直、店が混み合う状態はあまり歓迎できないけれど、今の彼が作り出す雰囲気を否定することはもう出来ない自分がいた。空いているテーブル席に座り、ビールを注文する。ビールというものが好きかどうか未だに分からないところがあるけれど、最初の一口だけは格別だった。実際、後はいくら飲んでも同じような気がしている。僕は店に来ると毎回のようにそう思っているが、今日はいつもと違いそのことも考えないで平河さんを見ていた。


 彼は平河総一郎であり、居心地の良い飲み屋を探していた。そしてどうやらこの店がそうなったようだ。彼は派手ないでたちをしているが滲み出る品のよさがそれを嫌味に感じさせない。人を惹きつける魅力があり、社交的である。今までに一度として出会ったことのないユニークさと奇妙な雰囲気を持った人だ。これが平河さんに関して僕の知っている情報だ。他人に興味を持ったことなんて随分久しぶりのような気がする。

 そんな僕の気持ちをよそに彼はといえば、賑わう集まりの中心でおどけた動きと巧みなジョークで笑いの波を作っている。その波の届かない波打ち際で僕はじっと彼の行動を目で追っていた。最初の一杯を飲み干し、程よい酔いがじわじわとやってくるのを感じて店員を呼び、二杯目を頼みながら、僕は彼と初めて会った日のことを思い出していた。


「よく一人で飲みに来るのですか、常連なんですね」


「ここのマスター、高校のときの同級生なんですよ。高校のときのね」


 ここは僕の高校の時の同級生が作った店だ。僕達が高校を卒業し大学をでて、社会人になりたての頃のことだった。3年生の時の担任が今年で退官するということで当時のクラスの学級委員だった二人が幹事となって同窓会が開かれることになった。その時にみんなで飲んでいる席でマスターがこの店を開くことになったのでみんなに是非客として来てくれ、他の仲間にもどんどんと広めて欲しいと言ったのだそうだ。このような不自然な表現になってしまったのは、僕がその同窓会には行かなかったからだ。

 ともかく、マスターがこの店を開いた話を同窓会に来ていた他の友達から聞いてたまたま寄ったのがきっかけで今に至るのだけれど。僕が訪れ始めた頃はまだまだ客もまばらで、店全体的にしっとりと静かな雰囲気だった。最初に訪れたときに、僕とマスターとは高校時代からほとんど係わり合いがなく実際マスターの顔も記憶も怪しかったのだけれど、意外にも彼は僕のことよく覚えていた。思い返せばどんな些細なことでも思い出はあるようで、僕は暫くの間思い出話をしながら、仕事後のいつもならどうにもならないような退屈だった夜をこの店で過ごしていた。マスターは高校時代には見つけることの出来なかった細やかな気遣いと人当たりの好さを持っていたようで、僕はすぐに彼に好感をもった。


 それからは普段なら会社からは真直ぐ家に帰っていた出不精の僕も次第に好んでこの店に訪れるようになっていった。


 僕はいつもカウンターの一番端に座り、賑やかな周りに背を向け、ちびちびと酒を飲み、接客する時間の空いたマスターとの会話を楽しんだ。僕たちが話すことなんて本当に他愛もないものばかりで、昔の同級生が今何をしているだの、あの頃は誰と誰が深い仲にあっただのと今となってはガラクタのような過去に沈むとりとめのないものばかりだった。それでも僕は楽しかった。この当時、近しい友人はほとんどいなかったように思う。昔から仲の良かった友人たちは皆大学へ行くため県外の街へ出て、そしてそのままその街で就職してしまっていた。僕の仲間内で大学を出て地元に帰ってきたのは僕だけというわけだ。だからこそ余計にマスターは僕にとって貴重な友人だったといえる。

 そのうち彼の店にはだんだんと客が増えるようになっていた。それにつれて僕たちが昔話をする時間もどんどん少なくなっていった。一番の盛況時ではカウンターには客がずらりと並び、テーブル客に対応するための店員を三人抱えていた。店は繁盛していた。僕はといえば、店に入ったときに注文がてらに一つ挨拶をして、帰る前にまたくるよという義務的な会話以外全くしなくなっていた。

 客の少なかったこの店に温かみを感じ、客の増えたこの店の雰囲気に孤独感を感じる。

 このときになって自分が特別でない普通の客であることそれは以外に寂しいものだと感じた。

 結局そうこうしながら店の客数も幾分落ち着いて、以前のように二人で会話をすることも出来る位になっても僕らは以前のようには話さなくなっていた。カウンターにも座らず店の端っこにある二人用の小さな丸テーブルの席に腰掛け、頼んだビールを二、三杯飲み、そして店を出る。なんだか本来の意味も質も失ったような行為だった。


 それでも僕はこの店に通っている。

 マスターとの関係に何か少しのいたたまれない気持ちが僕の中でくすぶってはいるけれど、店を変える踏ん切りもつかないし、店を変える意味も見つけられず宙ぶらりんの現状をただただ維持し続けている。そんなときに平河さんはこの店を訪れたのだ。


 僕と出会った日から平河さんは毎日ここへ訪れている。


 今夜も客は程々に多く、そして皆が同じ期待感をもってここにいる。そしてその期待が実現されたことにみんなが笑みを浮かべる。そしてその笑みを湛えた目を一人の人物に向ける。平河さんの宴が賑やかに始まる。平河さんは酒を飲まない。ただグラス一杯の烏龍茶を頼み、それを片手に持ちながら握手と乾杯そして客たちとの粋な会話を繰り返す。


 平河さんは人からその人の身の上話を聞きだすのが上手だった。

 平河さんは話がうまかった。相手を持ち上げ、よい気分にし、言葉でくすぐり、時にはからかいのこもったジョークで毒づきながらも、あくまで紳士的な距離を保った。あのバカ丁寧な敬語も誰に対してもいっしょだった。服はいつも落ち着いた色の細身のスーツで買いたてのような張りがあった。それでいて首元から覗くネクタイ、時にはスカーフを巻き、日によって替えてはいても原色を多用した派手派手しいものばかりだった。でもそれは全体としてみて彼によく似合っていた。靴は個性的な物が多かったけれど革靴はいつも人の顔が映りそうなほどてかてかに磨かれていた。全てが品に満ちていたように思う。それでいて嫌味が無かった。僕や彼の周りの人たちは彼という存在を自分がああなりたいといった目標とする人物というよりは、どこかしら自分達には手の届かない世界に住んでいる一角の人物であって、いつも下から仰ぎみているようなイメージがあった。


 平河さんは自分のことを何一つ話さなかった。


 聞かれたことには誰でも分かるような嘘で答え、それを元に客達を笑わせる内容に変えてしまう。そして結局はみんな聞きそびれてしまうのだ。誰やかれやが彼のことを噂し、尾ビレ背ビレのついた噂は店の中を泳ぎまわった。実はどこぞの社長で若い世代の人たちの情報を得るためにこうして社交を行っているだの、高級クラブのホストで客とのおしゃべりする能力を磨くためにここにきているだのといった噂もあった。

 ただ、僕はその噂にはほとんど加わらなかった。

しばらくは平河さんと会話をすることもなく、ただただ彼の作る輪の外にいて彼の人となりを観察している日々が続いた。そういった行為は、それなりに楽しいものだった。


 いつもより店を訪れる時間が遅くなった時のこと。


 その日もテーブル席は賑やかで(平河さんのせいだが)人が多く、僕は珍しく空いているカウンターの席に座った。カウンターの向こうにマスターの姿が見えた。なんだか居心地が悪かった。なんと話し始めればいいかも分からなかった。そんなときに僕は平河さんに肩を叩かれた。


「や、また会いましたね」


 皆に対してするのと同じように彼は笑みを絶やさず握手を求めた。初めての時には気付かなかったけれど、平河さんの手は驚くほど細く、そして冷たかった。僕は固い握手の後で答えた。


「いつも来てましたよ」


「それはもちろん知っていました。しかし我々がじっくり二人だけで話す機会はといえばあの日以来今日が初めてだったということなんです」


「人気者ですね。あなたの周りにはいつも人が集まっている。あれじゃあ、しかたないですよね。僕に声をかけるなんてとてもできそうもない」


「そんな意地悪なことを言わないで下さい、私はいろんな人と話すのが好きなんですよ。それに皆さんいい人達ばかりで、そうそう邪険にもできないのです」


 彼の言い分はもっともだった。

 僕と話さなきゃいけない理由なんてないし、僕らは話すのもこれでまだ二回目だ。それに意地悪なことを彼に言う気なんてまるでなかったのに、これじゃあ僕がまるで拗ねているようだ。平河さんと話すとやはり変な感じになってしまう。それが特に嫌とも思えないのは平河さんが平河さんであるせいなのだろう。彼が行ってしまうと僕はカウンターに向き直った。そこにはマスターが立っていた。お互い目があったところで、気付いたら僕のほうからしゃべりだしていた。


「すごい人気だね。客寄せのホストとしては最高なんじゃないの」


「確かに。平河さんのおかげでウチは客が増えて助かってるよ」


「知り合いじゃないのか?」


「いや、全然。そっちこそ知り合いじゃないのか?」


「こないだ来た時、初めて話しかけられたんだ」


「ずいぶんと気に入られているみたいだけど」


「そうかな?」


 僕とマスターの久しぶりの活きた会話は以前と変わりなく自然に出てきた。

 なんだか自分だけが大げさに考えていたみたいでまた少し恥ずかしかった。意外と世の中のことは自分が考えているほど大袈裟なものではないのかもしれない。いつもまず最初にそう思えればいいのだけれど。

 僕たちの会話はその日以来復活した。

 僕とマスターとの会話の内容にも平河さんはどんどんと現れるようになってきた。毎日平河さんを見ているマスターから見て僕への平河さんの対応が他の客に対するそれとは少し異なっているようだ。その時は僕には少しばかりほかの客よりも対応が長いのかなくらいしか思っていなかった。それに平河さんは他の客ほぼ全員と会話を交わしているようなので会話が長い短いなどといった差はよほど気にしなければ分からない。ただ、客のほとんどは複数のテーブル席を囲んで平河さんの話を聞いている状態なのでカウンターにいる僕に話しかけるには彼が一度その輪から出なければならない。そのせいで特別に見えているのではと僕は考えていた。

 そういったことを考えている間にも平河さん目当ての客は着実に増えているようだった。


 今度は客が増えていても僕とマスターとの会話が以前のように無くなってしまうことはなかった。客の目当てが平河さんだからだ。


 客の視線は全てがテーブル席とカウンターの間を踊るように歩き回る平河さんに注がれている。ワザと社交ダンスのようにターンを彼がする。そのおどけた姿に客がどっと笑い出すが、その体の中心に真直ぐな一本の軸が通ったように少しの乱れも見せない完璧なターンであるため感嘆の声を上げてしまう人もいた。どんな些細なところにも平河さんの一流さというか、本物である存在感が湧き出て来る。色んなところから来た客が仲良く輪になって一緒に騒ぐ気持ちも分かる気がする。賑わう彼らの傍らにいて僕は、退屈な日常が少しだけ変化したことに少しだけ嬉しくなっていた。

 でもこの時はまだ、その変化の中心に僕が入ることになるなんて考えもしていなかった。



                   *



 ある日、僕が店に来たときに早々と平河さんはやって来てお決まりの握手とセンスのある冗談で僕らは笑い、そして平河さんは去っていった。その日はもう一度平河さんと話す機会があった。


「また来てしまいました」


 店のフロアを滑るようにやってきた平河さんはそう言ってカウンターにいる僕の席の隣へ座った。絶えることのない笑みと爪を立ててカウンターを叩くことでリズムを刻む仕草を保ったまま僕のほうをじっと見た。揺るがないその視線に僕は少し照れた。やはり人と目を合わせ続けるのは好きじゃない。

 僕はビールの泡と平河さんを交互に見ていた。

 グラスについた泡へ視線が落ちたとき、平河さんはしゃべりだした。


「今日はあなたにお話しがあったのです」


「なんだか妙にかしこまった言い方ですね」


 いつもと違う態度に僕まで背筋が伸びてしまった。

 僕は話の内容を促した。


「私があなたを親友とお呼びしてよいかどうかを聞きたかったのです」


「親友?僕とあなたがですか?」


「そうです」


「…、なんだそんなことですか」


「そんなことではないです。大事なことですよ」


「そう、ですか。大事なことですか…」


 あまりに肩透かしな内容に僕は随分ぞんざいな返答をしてしまった。


「ただ…」


 僕の意識を自分に向けようとするように軽くたんっ、とカウンターを叩き平河さんは切り出した。


「ただ?」


「ただ、親友といえども私自身のことは話すことができないのです」


「あなたのことをですか?」


「そうです。私の身の上の話、どこから来たのかといったこと、全てです」


 随分とおかしな話だったけれどこのときの僕の頭の中の関心事は平河さんの親友となること、それのみだった。


「僕は構いませんよ」


「それはどうもありがとうございます」


「でも、そんなことをわざわざかしこまって聞かないでもいいんじゃないですか?」


「そうもいかないのです」


「私にとってはこれはとても重要なのですよ、もちろんあなたにとっても」


 彼はいつもの大げさな身振りで私、といったところで自分の右手を自分の胸に当て、あなた、のところで手のひらで僕のほうを指した。そして話を続ける。


「物事にはなんにおいても善い点と悪い点があるのです」


「親友になるにも悪い点があるのですか?」


「その通りです」


 僕の中にふと考えが浮かびそしてそれを口に出した。


「お金にでも困っているんですか」


 彼は吹き出して笑った。欧米人のような大げさな笑いだった。椅子から落ちるんじゃないかというほど反り返り、大きな手でおでこを覆い、綺麗に生え揃った白い歯の覗く大きな口でゲラゲラと笑い続けた。


「笑ってしまってすいません。確かにこのような話し方をすれば、お金を貸してくださいなんて話し出しそうですものね。でもそんな心配は必要ありません。私はお金には困っていませんし、実際のところお金で困ることは一生ないのです。問題なのはただ純粋に私とあなたが親友となることに対してのみです。それ以外は何も望みませんよ」


 確かに平河さんは謎が多く、といっても全部謎なのだけれど、人間として怪しい部分は残している。しかし不思議と僕には彼の願いを聞き入れることに何の問題も見出せなかった。疑問らしい疑問があるというならば、僕がなんの理屈、理由もなく彼を信用してしまっていることだ。

 そして僕は平河さんの親友という立場になろうとしている。それにしても話し合いで親友になるというのも何ともおかしな話だ。彼がそれにこだわることも変なのだけれど、親友という存在を真剣に考えてみるとどうにも僕にそれらしき存在がいるのかどうか怪しくなってくる。でも平河さんは自らが望んでそれになろうといている。


「どうでしょう。無理にといっているわけではないんですが」


 そういいながら意外にも平河さんはその答えを期待し半ば急かしているようだった。大笑いしていたときの態度は見る影も無くなっていた。僕は結論をだした。


「僕なんかでよければ、かまいませんよ」


 彼の常に一定に保たれた笑顔が一瞬感嘆の表情に変わり、何度も小さく頷いて僕の手を強く握って力強い握手をした。


「これはよかった。親友。とても良い日だ。今日はとても良い日だ」


 彼は上機嫌に輪をかけて喜びまるで踊っているように他の人たちへの接客に赴くのだった。つくづく不思議な人だと思いながら、にやけている自分に気付いてもいた。


 そうして僕は平河さんの親友になった。



             *



 この店に来る全ての人たちは平河さんが好きだった。

 それはある種、彼に対して尊敬の念に近いものがあって、みんな自分の話を彼が興味を持って聞いてくれることや自分に向かって話しかけてくれることに喜びを覚えているようだった。そして事実彼らはそれが実現すると喜び、そしてそれが続くことを望んだ。平河さんの周りにはいつも輪ができていた。


 僕はといえば、彼と不思議な親友契約を結んだにも拘らず、その異常ともいえる輪に入るのだけはいまだ避けたく、いつもその輪を背にカウンターに腰掛けているのだけれど。それでもいつかしら平河さんは一人みんなの輪から外れ、僕に話しかけてきた。

 僕たちが話している間には他の客からの羨望の眼差しを嫌でも感じずにはいられなかった。その時の居心地の悪さはたとえようもないものだったけれど、本音をいえばそこに僕の人生で一度として得られなかったような優越感を感じてしまっている自分がいることも疑いようのないことだった。

 そして店の客はいつも僕に平河さんのことを聞きたがった。

 平河さんに特別視される存在であることが、周りに対する僕の存在を変えてしまった。それはあまりに唐突で僕を混乱させた。誰かも分からない人達が馴れ馴れしく話しかけてくる、それが僕には受け入れられなかった。友人の店であるためむげにあしらうわけにもいかず、かといって店に来るのをやめる気にもなれなく、僕はこの自分にとって異常とも思える役回りを受け入れるほかはなかった。

 そんな僕の気持ちの揺らぎを察することもなく、平河さんはずけずけと僕の傍へやって来る。いままで考えていたことも、そこで全てはどうでも良くなってしまう。

 彼の頭上からは常にスポットライトがあたっているような気がする。

 例え脇役であっても僕もその中にいるような気がしている。


「やあ、親友。人というものはとても面白い存在ですね」


 彼が言う最初の一言はいつも唐突で不思議だった。


「見方によってはそうかもしれませんね」


 互いに敬語でしゃべる親友も滑稽だと思うのだけれど。


「私は人に出会うたびにそう思いますよ。皆顔や服が違っているのと同じように心の中の有様もまたそれぞれ違う。にもかかわらず、同じようなものばかり求めようとする」


「僕には誰も彼もが違っているように見えますけど」


「それは自分が他人とは違うとはじめから思っているからでしょう」


「そうではないんですか?」


「無論、個人や個性という意味ではみなそれぞれ異なっているでしょう。好き嫌い、物事の善悪の度合いだって違いがあると思います。でもね、親友。なぜ人々は一つの場所、この場合この店ですが、ここへ集まるのでしょう。みな自分のプライベートな家という空間を有しているのに、他人同士が肩も触れ合わんばかりに並んで座り、お酒を飲んでいる。ここに何かが存在しているのではないでしょうか。はたまた、同じようなものを持ってここへ立ち寄っているのではないですか」


 僕はここに訪れる人の目的なんか一度だって考えたことも無い。ましてや自分との共通点なんてもちろんのことだ。


「寂しさとか孤独感とかですかね」


「それも含まれていると思います。でも確実になんであるのかはやはり分からないのではないのでしょうか。分からない、というよりもそれ自体が人間を形成する一部なのかもしれない。それだから自分のものは見えづらい。だから人間というのはそれを客観視するために他人を求めて集まっているのではないのでしょうか」


「分からないから求めている?」


 平河さんは同意するようにこちらを見て笑っている。


「あなたは他人を求めていますか?」


「どうなんでしょう。僕は友人の店だから来ているつもりでしたが、でもこうして新しい親友ができている現状を思えば僕にも人恋しかったのかもしれませんね。友達も少ないし。でも、今までの生活に特に不満はなかったようにも思います」


「それはあなた自身が気付いていないあなたが存在しているということです」


 僕の中の自分の気付いてない存在。

 彼の言うことにはいつも哲学的で僕の予想を超えている。尊敬を超えて畏敬の念まで沸いてくる。


「あなたは全く不思議なひとですね。自分さえ見ることの無い存在まであなたには覗かれているようだ。まるで…」


「まるで?」


「地球人と仲良くしにきた宇宙人みたいですよ」


 僕にとってはそれが一番納得できそうな答えだった。さすがに平河さんは予想外の答えにきょとんとしていた。彼に普段どおりでない表情を作らせたことが、なんだか少しだけ嬉しかった。


「宇宙人?」


「ええ、人間らしくないですよ。宇宙人みたいに思えるときがあります」


「宇宙人ですか、さすがは親友と見込んだだけはありますね」


「どういう意味です?」


「私は人間らしくないかもしれないし、宇宙人かもしれません。本当のところ、私は自分が何であるかは正直分からないのです。しかしね、私は存在しているんです。あなたやここに来るみなさんが私を知ってくれている。だから私はここにいると断言できる。たとえ私が宇宙人であってもそれを認める人たちの中には必ず存在している。これ間違っていませんよね?」


「そうですね。あなたはここに存在している。だからこの店の雰囲気が変わった。人も集まってきた。みんな幸せになった。そして僕と親友になった」


「ね。私の存在理由が必ずここにはあるはずなんです」


 最後の言葉は僕に対してではなく自分自身に言い聞かせているみたいに聞こえた。

 いつもにはない平河さんがここにいた。


 存在理由。


 なんとも堅苦しい言葉だ。僕はきっと一度として口に出したこともない。

 あれだけみんなから好かれている人なのに。

 それならやはり平河さんでさえも誰もが持つような孤独感を抱えているのかもしれない。そう思うと急にこの目の前にいるユニークな男の中にこれまで見えなかった影のようなものが見えた気がした。

 僕は動揺した。

 普段、知りたいと思っていたことも知りすぎてしまうとき、知らないことの大きさに少し不安を感じてしまう。そんな不安な感情を僕はこのとき抱いていた。

 なにか他の事を話そうと思った。


「話しは変わりますけど、以前確かあなたと親友となる点にはよくない点もあると言いましたよね」


「はい、確かに言いました」


「あなたが言った親友というものを僕は軽く考えていたのかもしれませんね。僕があなたとごく近しい存在になったことで、この店での僕の立場がすっかり変わってしまいましたよ」


「それについては申し訳なく思っています」


 思いのほか平河さんは僕の言葉を重く受け止めたみたいだった。変な空気を変えようと思ったのに、こういう時は決まってなかなかうまくはいかない。

 僕は少し慌てる様に言葉を継ぎ足した。


「まあ、でもこれが平河さんが言った好くない点であるなら別に受け止められそうですよ」


「その言葉を聞いてとても嬉しく思います。けれど、あなたが今言ったことは私が言った好くない点の中には含まれていません。残念ながらその良くない点は私の口からは言うことができないものなのです。これからあなたは気付いていくのかもしれません。そのことは本当に申し訳なく思いますが」


 この平河さんが言っていたことは後に僕の中で大きくなってゆく問題だったのだけれど、申し訳ないと繰り返すいつもとは違う平河さんの雰囲気を何とかしようと随分的外れな返答をしてしまった。


「僕はたいした人間ではないですが、自分が受け入れたことに対して他人を恨むようなことをしませんよ」


「分かりました。私にはたとえようもない程素晴らしい返答をどうもありがとうございます。ただこのことは覚えておいてください。この世の中の全ては本当に危ういのです。私の存在だってあなたの存在だって目見えて触れることの出来るあらゆるものは実際はいつ消えるとも知れないものなのです。それだけはお忘れなく」


 彼はそう言って立ち上がり、いつものような笑顔に戻って僕の肩をぽんと叩いてテーブル席に待つ彼のファンとも取れる客たちの中に混じっていった。


 いつも平河さんの言葉は意味深だった。なんだか考えさせられてしまう。でもこんな僕らの親友という関係についての話は後にも先にもこの日だけだった。僕と平河さんは何か人間という生き物に関しての会話が多かったように思う。考えてみれば、飲み屋で話すような議題ではないし、僕はその人間というものに対し否定的だし、それに対し平河さんは良い点ばかり見つけようとしている。自分でも少し批判的すぎて余計情けなくなってしまった。

 彼はいつも明るい。社交的で場を明るくする力がある。ひととき彼と語り合ったなら、彼の口からは数え切れないぐらいの哲学的な言葉が溢れるように出てくる。そしてそれらは疑いも無く僕の心に響いてくる。僕にないものばかり彼は持っている気がする。自分と比べてしまうとなんだかとても自分が矮小な人間のように思えてくる。


 それでも彼の隣は本当に居心地がよかった。



                *



 自分が店に訪れる理由が変化してきていることに気付き、それを自分の中に受け入れることができたのは暫くしてからだった。

 飲み屋の雰囲気と人々の会話の雑音の中でアルコールによってもたらされる高揚感と脱力感を求めていた頃の僕は他人へ持つ意識など持ち合わせてはいなかったように思う。

 平河さんへの興味は僕の意識を外へと連れ出した。

 そして僕の周りには僕の知らない世界を知る人達がいて、時には同じようなことを考えていたりする。この店に来る人たちがみんな平河さんを好きでいるように。ふと仕事の合間などに今日は彼がどんな派手なスカーフを巻き、どんなおもしろい話をするのか、と考える。きっと少しだけにやけている。そして仕事を早く終わらせてあの店に行こうと思う。きっと他の誰かもそう考えるのだ。あの分からない人物を分かろうとして。そして分からない自分を分かってもらおうとして。


 僕は今も考える。平河さんがいなくなった今でも。

 何故彼はあんなにも人を惹きつけていたのか。

 何故彼はどこにでもいるような僕に興味を持ったのか。

 僕は思い出す。平河さんがいなくなることになったきっかけを。


 あの日は一日中天気が悪く昼過ぎには重たげな雨音が会社の中までも響いていた。

 いつもとは違うその夜を暗示するように僕の仕事の区切りがうまくいかず、いつもより店を訪れるのが遅くなっていた。店の入り口から店内までの階段は濡れて滑りやすく、僕はゆっくりと壁に手を触れながら降りていった。防音の効いた店内から僅かに音楽が聞こえている。

 そこまではいつもと変らない雰囲気だった。


 僕が店の中に入ったとき、そこにはいつもとは違う異常な光景があった。テーブル席には誰も座っていず、客はカウンター側に体を寄せ合うように立ち上がっていた。そして彼等の視線は一点に集約されている。彼らの視線を追うとそこには平河さんと一人の男が立っていた。

 男はこちらから見て後頭部しか見えなかったが、常連の客ではないようだった。

 マスターも僕が入ってきたことにも気付かない様子で、凍りついたような顔で男と平河さんのほうを見ていた。僕は平河さんを見た。いつものような含みのある笑みは堅く強ばり、頬は引きつっていた。その平河さんの片隅には向かいの男を怯えながらも凝視する女性が見えた。


「およしなさい」


 平河さんが言う。

 いつもの自信に満ちた声からは程遠い擦れた弱弱しい声。


「うるせぇ!」


 男は吠えるような口調でそう叫び、体を引きずるように歩いて怯える女性と平河さんのほうに近づこうとした。


「お前はこいつのなんなんだ。俺はその女にしか用がないんだ。関係ない奴は引っ込んでろ!」


 僕はその場から全く動けず、平河さんに注意を促す声を上げることも出来なかった。


 男が彼女の腕を掴み、強く引っ張る。悲鳴にも似た声で放してと叫ぶ。

 平河さんがその間に割って入った。

 三人がもつれ合っている動きが止まるまでにはそれほど時間は掛からなかった。

 一瞬、男と平河さんは互いに見詰め合っているように見えた。

 そしてゆっくりと互いが離れた。

 男の右手に握られたナイフは嫌味な手品のように銀から赤に変わっていた。

 黙ったまま立ち尽くす男の顔にはこの世の恐怖の絶頂を見てしまったような、絶望の表情が浮かんでいた。自分のしたことに理性が耐えられなくなったようだった。

 恐ろしい思いをした男の口元には微笑にも似た表情があった。

 開かれた口からは壊れた窓から吹き込む隙間風のようにひぃひぃという声とはいえないような音がなっていた。

 操り人形のような足取りで男はふらふらとあとずさった。


 平河さんは目を見開き背中を丸め、男と同様に自体が飲み込めていないような表情で口をぽっかり空けていた。そのうち膝が大きく震えだし、両膝を着いてしまった。

 平河さんの斬られた腹からは大量の血液のほかに何かが飛び出していた。おそらく腸の類だろう。白いワイシャツは音も無く絶望的にどす黒い血の色に染まっていく。


 全てがスローモーションのようで無音の世界の出来事のようだった。

 感情の何一つが目の前で起きている現実に追いついてはいなかった。

 ただそれは自己のごく切羽詰った危機的状況に見られる体感時間の変化でしかなかった。

 状況は最悪だった。

 そして全てが絶対的時間の経過に追いついた。ガタガタと震える足に、カラカラに渇いている喉。僕はそれに気付く。


「平河さん!」


 思うよりも先に僕は叫んでいた。僕の声をきっかけに店の客の呪縛が解けたのか一斉に彼らは動き出した。

 女性は叫び声を上げ、床に打ち崩れた。

 幾人かの男性客が男に飛び掛り、押さえつけて血のついたナイフを取り上げていた。男は抵抗する素振りすら見せなかった。

 他の人たちは平河さんの周りに押しかけた。救急車を、警察をという声が行き交っている。


「こんなはずじゃない、こんなはずじゃない」


 平河さんのかっと開かれたままの両目は焦点の合わないまま宙を凝視している。震える唇は小さな声でぶつぶつと言葉を吐き続けていた。両腕は切られた腹から飛び出たものを支え、元に戻そうとするかのようにお腹に巻きついていた。


 喧騒の中でだんだんと近づく救急車のサイレンの音がする。

 担架を持ったヘルメットの二人組が駆け込んでくる。

 平河さんはそれに乗せられ毛布に包まれ運ばれていった。

 取り押さえられた男はまだ放心したままで警察に引き渡された。事情を説明する男たちがいる。おそらく店の外では野次馬が集まっていることだろう。

 僕はその場にただ立ち尽くしていた。

 平河さんには問題の女性が付き添って行ったみたいだ。客はどうしていいか分からないようすで、血の跡を中心に輪を作る人達。それ以外は壁に寄りかかって立ち尽くしているだけだった。マスターが今日はもう閉めますと言って客を促し始めると彼らは囚人のように力なくぞろぞろと列を作って階段を上り始めた。


 警察が帰った後は、殆ど現行犯のような形で捕まり、現状を保持しておく必要もないのでマスターや店員と僕で片付けることにした。

 人が一人もいないとこの店も結構広いなと思った。

 なんだか現実味の欠ける出来事に遭遇すると人は考える力も鈍るようだ。マスターの様子にもそれは見て取れた。僕らは終止無言だった。このことをどう話し始めればよいのか分からなかったし、話し出したところでどこに着地すればよいのか検討も着かなかった。正直この時点で平河さんを心配するという事柄を自分の中に見つけることができなかった。

 僕はマスターを手伝って血のついた荒いコンクリートの床をごしごしと拭いた。耳には救急車のサイレンの音がまだ残っている。

 事件の問題になった彼女はこの店によく来る客の一人だった。男のほうはたぶん彼氏で別れ話のイザコザに巻き込まれた形だろう。平河さんには相談事をする客たちもたくさんいた。彼女も相談していたクチだろう。


 なにか僕が今までに思いつきもしなかったことが一つ浮かんできた。


 僕の知らない平河さんというものが必ず存在するということだ。

 僕と彼が会っているのはこの店にいる数時間しかない。にもかかわらず僕はそれが平河さんのすべてだと思っていたのだ。こんなことに気付かなかった自分に驚いてしまった。


 僕は彼の何をしっているのだろうか。


 ただ親友になろうといわれて、それに同意しただけだ。僕は彼の存在に酔っていたのだろうか。自分が他の誰かとは違って彼の隣にいるという浅はかな自己満足に。


 血の海に見えた床も雑巾で二度三度と拭いているうちに無くなり、鮮明な赤色はバケツに張られた水の中だけになった。ついでに店の片づけまで手伝っているときにマスターがありがとう助かったよ、と言った。

 場違いな気もするが、なんだか嬉しかった。

 なんて答えていいか分からなかったので、笑顔で頷いておいた。それが友達というものだろう。マスターは店を三日ほど閉めるといった。そのほうがいいよと僕は言った。

 どこか何かが抜け落ちたような夜だった。

 どこをどう思い返しても現実味のないものだった。

 呆けたまま家に帰ると、意外にもその夜は寝付けないことを危惧する間もなく眠りのほうが僕に覆いかぶさってきた。



                      *



 あの事件による日常の変化は、僕にとってにわかには受け入れがたいものだった。 仕事が終わってからはどこへも行かず真っ直ぐ家に帰った。

 電気も付けずに背広だけ脱いで床に大の字になって寝転がっていた。

 僕があの店に行かない日々はなんとも現実味の無いものに感じられる。

 思い返してみて、ここ最近は毎日店に訪れていたことに少し驚いている自分がいる。今までの自分はいったい普段の夜をどういう風に過ごしていたのかと今更ながら思う。


 僕は少しだけ過去を振り返る。

 確か、今年の春先までは付き合っていた彼女がいたはずだ。あの娘とは何が原因で別れたんだっけ。そもそもどうして付き合ったのかも今では怪しくなっている。随分感情的な女性で何かにつけてよく泣いていた。僕は一度として彼女を怒らなかったし、彼女のすることに何一つ文句を言わなかったのに。そもそも僕の存在自体が嫌いだったんじゃないだろうか、とも思ってしまう。それなら何故付き合うことになったのか。

 別れた理由も付き合ったきっかけも何もかもが随分遠い記憶のようではっきりとは思い出せない。

 僕と彼女の過ごした時間の意味さえも。


 まあ、いいか。

 日に日にどんな顔だったかも忘れてしまう存在をいつまでも考えている必要も無い。

 そう思ったとき平河さんとの会話が生々しく思い出される。


 忘れる存在、忘れてしまう存在、忘れられる存在。存在理由。平河さんはそのことをとても重要視していた。

 そして僕は今、平河さんのことを考える。


 店がまた開いたとき減ると思っていた客もいつもと同じように来ていた。それは実際のところ、客たちというのは、結局は事件が起こったにその場に居合わせた客たちで、その時の臨場感を思い出したり話し合ったりするためにここに来たに過ぎないようだった。

 店には重苦しい雰囲気が流れていた。

 まるでここはお通夜みたいだった。平河さんがいるときとは比べようもない。口数も少なく立ち上がっている客もいない。

 それでも結局、彼らは平河さんの話題をするのだ。そして僕も。

 誰も彼もが同じ内容の話を何度も何度も繰り返す。仕方の無いことなのかもしれない。日常であまり目にすることのない状況というのはどこか夢のようで、同じ現場を見ていた人たちとの同意を持ってしか現実味を感じることはできない。

 僕もそうだった。

 なじみの客とマスターとの間で交わされる実況見分のような会話の狭間で僕の意識はいつのまにか自分自身の疑問へと流れ落ちていった。それはこの頃のどこか浮ついた気持ちとはあまりにかけ離れた至極客観的で冷静な疑問だった。


 僕はいつか平河さんがいなくなるなんて考えていなかっただろうか。


 彼があんな目にあわなければいつまでもあの店で彼が魅せるショーを眺めていたのだろうか。

 これからもあの見も知らぬ年齢も職業も全てがあやふやな存在に僕は魅せられ続けていたのだろうか。

 彼は何だ、いや僕にとって彼はなんだろうか。


一日に何度も何度もそう考えた挙句、それでもまた無性にあのおどけた宇宙人の哲学者に会いたくなる自分がいる。


ただその願いは叶えられることはなかった。



                     *



 それから僕は会社の出張で一週間ほど店に行くことが出来ないでいた。


 帰った日はすでに夜遅かったのだけれど駅から家まで乗ってきたタクシーを待たせ、荷物だけ置いて背広のまま店へと向かった。

 店に入ってマスターに挨拶する。さすがに喪に服したかのような雰囲気は消えていたが、一週間たってもこの店にあの異常な賑やかさは戻っていない。僕は最初のビールを飲み終わる前にトイレに立った。


 僕がトイレから帰ってくると、最初に会ったときと同じように僕の席の向かいへ平河さんが座っていた。


「こんにちは」


 彼は言った。

 僕は彼の姿を見てすぐ、作り笑顔をすることに必死だった。


「もう、いいんですか、傷のほうは」


「おかげさまで」


 そう言った平河さんの顔はまだ青ざめていた。

 唇はどす黒く染まりかさかさで白く、所々でささくれていた。あの事件の後遺症のせいなのか、彼の顔にはそれまでの自信に満ち溢れた笑顔は少しも覗いてこなかった。

 それでも彼は得意の笑顔を僕に見せようとしていた。


「実はあなたを待っていたんですよこの一週間」


「僕をですか?」


「そうです。実は私、この町を離れようと思うんです」


 いつもの彼から遠く懸離れたその姿から読み取った不安な予感は、これ以上無いくらい的確に当たった。

 彼は擦れた声を直すために何度か小さく咳払いをした。余命短い老人のように痰が絡まった弱弱しい咳だった。

 そして彼は続けた。


「私はここの人達に喜んでもらいたかった。喜ばせることが私の仕事なんです。それなのに私はここの人達にひどく恐ろしい思いをさせてしまった」


「あなたのせいじゃない」


 僕は平河さんの語尾に被るぐらいのタイミングそうで言った。

 彼はふっと微笑しながら2度頷いた。彼なりの感謝の現し方だった。


「いえ、私のせいです。私はもっとうまくやり抜ける筈だったんです」


 刺した男や男の彼女を引き合いに出す訳でもなく、本当に自分自身を責めているようだ。


 平河さんと僕の間に沈黙が下りた。

 その沈黙を裂いて、僕の随分と間の抜けた質問が割って入った。


「どこへ行かれるんですか」


「…、わかりません」


「すいません、教えたくないわけじゃないんです。本当にわからないんです」


 彼は本当にすまなそうな顔をした。


「私が存在しえる場所は私には選べないんです。ただ、私がいる場所が一度決まれば私はそこにいてそこの人たちを幸せにしなければいけない。それが出来なければ私はそこを離れなくてはならない。これは決まりなんです。」


「あなたは、一体…」


 僕はそれ以上聞くのをやめた。

 平河さんが何者であるかなんて意味をなさないからだ。


 次の沈黙を待たず、平河さんは席を立ちまたすいません、と小さく呟いた。

 彼の何か演劇めいた背筋の真っ直ぐ延びた歩き方も今では見る影もなかった。僕より頭ひとつ飛び出した背の高さも痛む腹を庇うせいか、前屈みになってやけに小さく見えた。店に入ってくる客もその弱弱しい存在を平河さんとは見分けられず、何のリアクションもなく素通りしてきてしまった。

 今の平河さんは僕にしか見えていないのかもしれないと思うほどだった。

 事件のときと同じように、平河さんが出て行く姿を見て僕は立ち尽くすことしかできないでいた。かける言葉も追っていくことも止めることもできないでいた。本音をいえば僕は今日みた平河さんにがっかりしてしまっていた。その気持ちを変えることが出来ないでいる自分が情けなくなった。


 平河さんが去った店の中には今日彼が来たと証明できるだけの空気が毛ほども感じられなかった。


 その夜、僕は酒を飲み始めて以来、これ以上ないぐらい酒に飲まれてしまった。いつもはビールしか飲まないのにウォッカを繰り返し頼み、ぐいぐいと浴びるように飲んだ。

 痺れた頭と熱る頬の間で窮屈に覗く視界から見える店内は次第に水飴の様に溶け始めていった。

 いつの間にかフラフラする体がひんやりとした床の冷たさを感じている。遠くのほうでマスターの声がして、気が付けば僕はタクシーに押し込められていた。

 あやふやな記憶と行動の中で僕が平河さんにすべきだったことや、出来ないでいたことの後悔がぐるぐると体の中で回っていた。




                 * 


                     


 その日以来、平河さんは店には来なくなった。


 客足はとくに変わることはなかったが、平河さんがいたときのような一体感のある盛り上がりはなかった。客それぞれが自分たちの狭い範囲で自分たちだけの会話を楽しんでいた。カウンターに座る客たちは時たま店長に平河さんはどうしたのかな、などと思い出ていどに呟くことがあったのだけれど。


 彼らは驚くほど早く平河さんの話をしなくなった。


 そして僕の存在も店の客の中の一人でしかなくなった。

 それでも来る客に平河さんのいなくなった理由を何度か聞かれることがあったのだけれど、うまく話すことのできない僕を見て彼らは一様に怪訝な顔と煮え切らない感情を向けた。僕はそれを避けるようにカウンターに背中を丸めて座り、賑やかさからは背を向けていた。


 そして平河さんという存在はこの店には存在しなくなった。

 僕の頭の中を除いては。


 僕は平河さんがいなくなってからこの店に来るといつも彼のことを考えている。

マスターとの会話が中断してしまったとき、ピスタチオの殻を取るときに、スコッチに浮かぶ氷が溶けて混ざり合う対流を眺めているそのときに。そしてその問題はいつも同じ処で行き詰まる。


 なぜ僕だけがこの場で平河さんのことを考えているのか。

 なぜ僕だけが親友と呼ばれていたのか。

 存在が、失った存在が僕の中でこんなにも大きな存在感を持つのは何故だろう。彼は僕のなんであったのだろう。彼は僕の何を奪って行ったのだろう。


 彼の意味深な言葉ばかりが思い浮かぶ。


 物事には必ず良い点と悪い点がある、そう彼は言った。

 でももし、ここに来る客達のように平河さんのことを忘れる時がくるなら、時が過ぎるということに良い点なんて何一つないんじゃないだろうか。

 そう思った後すぐに平河さんを引き止めようともしなかった自分がいたことに思い当たり、また考え込んでしまった。


 そして何も変らないまま、ずるずると僕の日常が始まってしまっていた。




                   *



 いつもの時間、僕は店の階段を下りる。マスターに挨拶をする。

 意味さえ廃れてしまって記号としてしか扱われていないような言葉で僕らは話す。いつもの言葉いつもの会話、そこには僕たちだけの暗黙の会話、大げさにゆうのならば、心の対話がある。そのことに僕らは微笑する。

 そしてそれは次のお決まりの言葉へと続く。


「とりあえず、ビール?」


 彼が含みのある微笑を抱えた口で聞き、そして僕は言う。


「とりあえず、ビール」


 僕はこの会話をいつか失うときがくれば、すぐさま人生の最良の時をこの頃だと断言できる。どれだけ永く知り合いであろうと、どれだけ好きでいる恋人であろうと、この阿吽の呼吸というか互いの存在を認め合った会話は出来ないだろう。

 僕はそう信じた。他に信じることもないのだけれど。


 そして僕は思う。


 この世界はくそったれだけれど、自分にとって好いもの、よい時間は必ずある。それが過去ものになっていたとしても、だ。


 でも、ただひとつ。


 その時を僕が得ることができたのはひとえに平河さんのおかげなのだ。

 ただそれでも何か失くしてしまったような気持ちを僕に与えたのも平河さんだ。

 けれどどのみち平河さんはもうこの店にはいない。

 そんな彼に僕は何ができた?


 そして、これからどこにいけばいい?


 具にもつかない考えや思いを頭の中で反芻する。それは何処へもたどり着かず、またどこへも行ってしまわない。等速で僕の中を回り続ける。


 今日はカウンターの席がいっぱいでテーブル席に座った。思い入れのある席だ。

 ビールを飲み干す、定員を呼ぶ、短い会話そしてまたビールを頼み、飲み干す。今度はそれがウイスキーに代わる。アルコールが僕の脳を少しずつ犯し、酔いに支配されていく。

 アルコールが消化器官を通り、排泄物になっていく。

 僕は席を立ちトイレに向かう。


 狭いトイレの壁に肩をあずけ、用を足す。ふらつく足取りで鏡台のほうを向く。

最近あまり気にして見ることのなかった自分の顔を鏡で見た。


 ひどい顔をしていた。


 毎夜店に来て酒を飲み、居座る時間がだんだんと長くなってきているせいで、寝不足ぎみになっているのか、目の下にひどいくまがあった。そのくまのあとを指で触るとほっぺたの皮膚は心なしか乾燥気味でカサカサしている。逆におでこは脂で少してかっている。生え際は昔より幾分後退しているようだ。以前にはなかったシミもどきりとするぐらい増えていた。


 人は年を取る。


 鏡に映る自分の背後に取り戻すことのできない時間を感じた。

 なんだか酷く怖くなって、僕の足はガタガタと震えていた。

 どうしようもないものの塊が僕の体の中で暴れ始め、行き詰ったところで僕の胃を殴る。それを繰り返されて僕は吐きそうになった。嗚咽の後に酸味のある唾液とともに涙がにじんできた。崩れ落ちそうになる自分を洗面台をつかんで支えた。そのままじっと全てが通り過ぎるのを静かに待った。


 誰かがトイレをノックした。僕は弱弱しくノックを返し、顔を洗い、硬いペーパータオルで顔を擦った。チカチカする目を強く閉じ、トイレのドアを開けるとき僕は平河さんを思った。


 もう一度、あの時と同じ席であの時と同じ言葉を。





 同じ席には吸殻の溜まった灰皿と、飲み残したビール、ただそれだけだった。





完読感謝。

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