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由無し一家  作者: しめ村
9/43

緊迫の鳥小屋

 蜂の巣狩りから20日ほど経った。

 貯蔵室から、甘みと酸味の混じった妙なにおいが満ちるようになってきた。おじさんの蜂蜜酒が順調に発酵しているらしい。おかげで、おじさんの機嫌はすこぶる良い。

 蜂の巣から巣の中に残っていた蜂の死骸や汚れを手作業で取り除き、水を足して蜜ろうごと沸騰させたら、あとは覆いをかけて発酵させるだけという何とも原始的な手法のお酒づくりを経て、その甕は日を追うにつれ空気を吸うだけで酔いそうなにおいを放つ。食材を取りに行く時に少し困る。でもウルリカもおじさんもけろっとした顔で心地よさそうに鼻を蠢かせている。

 合間に、お兄さんとイズリアルさんが慌ただしく来て、風のように去って行った。なんでも、年の瀬が近くて、年明けのお祝いにあわせてお休みを確保するために、色々急ピッチでお仕事を消化しているらしい。

 そっかー、この世界でも年の瀬年明けの概念があるんだ。そしてその時期はやはり祝日としておおいに期待される期間であると。暦があるらしいから当然っちゃ当然か。そういや敬清の誕生日、あっちの暦ではもう過ぎてるかな。

 二人は、私たちみんなで苦労して採ってきた蜂の巣の詰まった甕を4つも持って行った。いつもたくさんの生活必需品を持ってきてくれるから、こっちからあげられるものがあるのはいいことだ。

 そういえば、蜂蜜は向こうでは遠心分離器にかけて液状の蜜だけを取り出して売られていたけど、こっちでは巣の蜜ろうごと齧って食べる。それはそれで、蜜の甘みとさくさくほろほろとした歯ごたえを同時に楽しめて乙なものだ。



 私は図鑑を開き、フォルクのページを見た。

 質の悪い厚みのある紙に、インクの染みを交えて写実的な画風で描かれているフォルクは、シンリンオオカミそっくりだ。ただし、前後の足の脇にあたる部分に、畳まれたカーテンの襞みたいなものが付いている。人間で言うならドルマンスリーブの服を着たみたいな感じで、ビロードみたいな艶してて、ある程度の厚みがあるように見える。あとは、泳ぐ時に舵をきるためにか、尻尾が太くて長い。

 辞書と首っ引きで読み解いたフォルクの項目によると、水中で自在に泳ぐために、フォルクの四肢は他の四足獣にはない関節稼働域を誇り、人間が両腕を広げるように背面にまで広がるんだそうだ。更に、絵ではわからないが注釈によれば、足指の間に水かきがついてて、耳には中栓があるらしい。この分だと鼻もそうかもしれない。

 ほんとに水陸両用仕様なんだな。

「シオネ、髪の毛を直しましょう」

 どんだけ適応力高いんだここの生き物と呆れていると、ウルリカが剃刀を手にやってきて言った。

 いつものように目が眩みそうな美少女の微笑みだ。今まで同性が周りにいなかったせいで、髪型とか服装とかに女の子らしい気を配る機会がなくて、私の世話を焼けることが嬉しいんだろう。もうにっこにこしてる。

 家の外に出て床几に座り、洗濯前のシーツで首から下をてるてる坊主にする。目を閉じて大人しく座っていると、ウルリカの少しかさついた、あかぎれとさかむけのできた指先が頬や額を掠めていった。痛くも不快でもないけど、皮膚に僅かに引っかかる。もう冬なんだもんな。私の指先も同じように霜焼けとあかぎれができている。保湿クリームみたいなもの、あればなあ。生憎そういうものを自作できるような知識の蓄積は私にはないし、今度イズリアルさんたちが来た時にそういうのがないか訊いてみて、あれば持ってきてもらうか、自作するならこれから勉強するしかない。

 となると必要なのは教材だ。でもってその調達にあたって頼りにできるのは、またしてもイズリアルさんとお兄さんしかいない。何から何まで人様におんぶにだっこだよ! 不甲斐ない!

 ……でも基礎知識すらない分野の勉強をするには、独力では不可能だ。つくづく人は一人じゃ生きられないんだと痛感する。

「シオネの髪は、癖がないわね」

 ウルリカが我が家唯一の歯の欠けた櫛を通しながら、私の髪質を褒めてくれる。

 たまにしか頭を洗えてないので、ヘアケア用品のCMみたく、さらりと指の間を流れ落ちていくというわけにはいかなかった。

 でも、部屋に盥とお湯を持ちこんで温かい室内で体を洗うようになったし、頭も、お酢を稀釈した水で洗ってからすぐに火にあたって乾かすようにしているから、汚れも控えめだし、あれから風邪はひいていない。

 しかしながら、身繕いのために高価(らしい)調味料を消費し続けるのは、発案者として非常に居た堪れないので、これもなんとか代案を捻り出したいところだ。

「ウルリカの髪は、やわらかくて、きらきらです」

 ほんとにね。いつもは後ろで一つ括りにしてる髪を下ろしたら、まさしく後光が射してると錯覚するくらいだ。

 私の髪は肩につくくらいにまで伸びた。サイドの髪もほっぺたを覆い尽くすくらいになっている。ウルリカがこまめに整えてくれるから、それがなければ肩のラインを突破していただろう。こちらの世界では女の髪が短いのは異色らしいので、特に髪型に拘りがあったわけでもないし、郷に入っては郷に従えと伸ばすことにした。

 しかし、ただ闇雲に伸ばしてもしょうがない。どんな髪型にしたいかによって前髪やサイドの髪をどれくらい、どんな風に伸ばしていくかも変わってくるし、そろそろ目的とする髪型を決めておいた方がいいかもしれない。

 こっちの世界の流行なんて知らない。どんな髪型が一般的なんだろう。次にイズリアルさんたちが来た時にでも訊いてみようか。あああ、またしてもイズリアルさんたち頼みだ。唯一の外部との接点がもたらす情報は計り知れない。文明から離れて暮らすのって難しいなあ。

 一つだけ決めていることがある。それはウルリカと同じ髪型にはしない、ってこと。素材のレベルが違いすぎるので、同じ装いをすれば痛ましい真似っこにしか見えなかろう。弟の憐れみに満ちた生温かい目つきすらありありと想像できて、嫌過ぎる。



 ある日、一度戻ってきて一緒に晩ご飯を食べたおじさんが、その後またお仕事の恰好で出て行った。

 私も弟も詮索しなかった。私の急病で薬草を採りに行ってくれた時のように、何か緊急の事態があったのだろう。

 仕事から帰った後に欠かさず記入する日報を、いつもより長く、細かい字でたくさん書き込んでいた。ご飯の後、ウルリカを側に呼びつけて低い声でなにやら通達していた。多分私と敬清に聞き取れないように意識して聞き取りにくい早口で『花池』とか『足跡』とか言ってるのが聞こえた。花池って、前に蜂の巣採りに行ったとこの近くの池だよね。前にあそこでフォルクの足跡を見た。私の掌くらいある足跡は、犬科の動物の足跡としては相当にでかい。見てみたかったなあ。

 ウルリカは翌朝、おじさんからの言いつけを通達した。

「今日はしっかり戸締りをして、おとうさんが戻るまで出てはいけません。一度だけ、私はドバを飛ばしに出ます。そうしたら、家の中に戻って、閉じこもります」

「今日は、外に出る、危ないですか?」

 敬清は、ウルリカが朝から胸当てを着け剣を帯びているのを見て、気づかわしそうに言った。おじさんから与えられた木彫りの剣を握ってついていこうとしている。

 それを見るウルリカの目は、かわいいものを見守る眼差しで――敬清には不本意なことに――母性愛そのもの。

「それでは、お洗濯や鳥のおうちの世話は、ないですか?」

「鳥のごはんは、どうしますか?」

「それは、私がします。ドバを飛ばさなければいけないので、それと一緒に」

 本当はおじさんが毎朝、お仕事に行く前に放つ習慣だけど、昨夜暗いうちに出て行かれたからこれは仕方がない。ドバは鳥目なので、夜には飛ばせない。

「すぐに戻ってくるから。シオネとケイセイは家の中にいてね」

 ウルリカはおじさんが昨夜したためた日報を手に、家の戸口に立った。ウルリカの剣は、本物の剣だ。私には鉄か鋼かまでは判別できないが、重たくて冷たくて、磨けば顔まで映り込む金属でできている。

 敬清と一緒にする鍛錬では木刀を使っているから、私はウルリカがそれを振るうところを見たことはない。寝る前に部屋で手入れをするところを見て、少し触らせてもらったことがあるだけだ。

 小さい頃から、訓練していたと聞いている。ひきかえ、私たち姉弟には戦闘経験どころか訓練経験もない。だから、何か非常事態が起きた時には、戦えるウルリカが私たちの代わりに前に出ようとする。敬清はそれを不甲斐なく感じて、自分がそれを軽減しようとしているのだ。もしくは肩代わりしたいんだろうな。男の子としては、自分が守ってやりたいくらいの気概でいるのかもしれないが、とりあえず手合わせすらしてもらえない今の弟の実力は、ウルリカの足元にも及ぶまい。

 ウルリカは戸口に手をかけ、ゆっくりと外開きの扉を押しやりながら耳を澄ませた。ピンと張りつめた冬の冷気と、風の音が流れ込んでくる。

 私たちまで息を詰めて、しばらく薄く開いた扉の外の気配を窺った。特別異常は感じられない。

「すぐ戻ります。何か出てきても、私が開けてと言うまで戸を開けないでくださいね」

 木剣を握りしめたままの敬清が、何も言い返さず肩を落として頷いた。溢れる好奇心と、憧れのお姉さんへの心配でさぞかしやきもきしているだろうに、ここぞという時にくどくどと質問を重ねて時間を費やそうとしないところは我が弟の美点だ。ただしその聞き分けのよさは実の姉に対しては発揮されない。うん、不条理だ。

 ウルリカは手を伸ばして敬清の頬を撫でた。ここいらへんは日本民族じゃない民族性の表れなのかね? ウルリカは清楚系の見た目の割に、スキンシップに寛容な性質だ。おでこにチューとかも平気でやるから、耐えられなかったらしい敬清が必死で線引きをして、今ではウルリカも唇の接触は私たちの文化的にNGなんだろうという認識を持ってくれ、チューはしなくなった。うん、私は全然オッケーなんだけどね? 美少女の親愛のでこちゅーほっぺちゅーどんとこい。

 でも私と敬清との受け取り方やら抵抗感の由来やらがどう違うのかを説明するのは難しいのだよ。言語力的にも、弟の名誉的にも。

 うちは、大昔にお母さんにしがみついてたこととかお父さんに肩車してもらったこととかのぼんやりした覚えがあるくらいで、チューなんて家族間でも皆無だ。古風な育ちの日本人だから。

 じいちゃんは鉄拳制裁はすれど、狎れ合いとしての触れ合いはしなかったしな。じいちゃんの鉄拳だって、指折り数えられるくらい少なかった。

 ……じいちゃん。

 開いたままの戸口の隙間から、一際冷たい風が吹きこんで来て、背筋が震えた。

 それが、本当に寒風による悪寒だったのか、私にはわからない。

 ただ、隙間風を浴びた瞬間、強烈に嫌な予感がしたのだ。

 いつもと違う空気を感じた。それがなんなのかわからない。肌を刺す針の痛みのようにも、頭をぐらつかせる鈍器の一撃のようにも感じられた。

「ウルリカ」

 思わず、出ていこうとしていたウルリカを呼んだ。彼女は安心させるように笑顔で振り返ると、戸口の隙間から家の外へと滑り出る。

「ねーちゃん?」

 私はだだっと踵を返した。

 家の間取りを頭の中で思い浮かべる。

 私とウルリカの部屋の窓から、鳥小屋を視界に収めることができた。一番近くは裏手の勝手口だけど、覗き窓もついてないし、出ちゃいけないってんなら窓から外を窺うしかない。

 蔀戸をもどかしく引き上げ、外を見渡す。

 右手数歩の距離に鳥小屋。その前にウルリカがいてドバに伝書筒を装着させているところだった。

 ドバもティフススも、ちゃんといる。異状なし、とは残念ながら言えない。明らかに怯えて小屋の隅っこで身を寄せ合っていたからだ。昨夜、私たちが家の中で寝ている間に、何者かが現れて脅かしたのだろうか。

「ごめんなさい。今から飛んでほしいください。急いで届けてほしいお手紙です」

 ウルリカはドバを両手でそっと掴んで、外に連れ出す。空に翳すように差し上げ拘束を緩めると、心得たものですぐさま上空へと飛び立っていった。まるで逃げ出すように。

 やっぱりおかしい。話しかけてくる森の生き物もいない。

 ううん、木が、漠然といつもの静謐が破られたと告げている。でも漠然としすぎていて、何が起こっているのかわからない。なのに、ただならぬ空気だけはわかる。

 鳥小屋の鳥たちは説明をしてくれる気はないようだ。単調に、こわいこわいと繰り返している。

「ねーちゃん、なにやっとん」

 敬清が後ろから不審そうな声をかけてくる。この窓から鳥小屋の周りの様子が見えるのはやつにもわかったんだろう。女性陣の部屋に踏み入ったことのない彼は躊躇いがちに部屋の入口で足を止めていた。

「敬清、なんかおかしくね? やばい気がする」

「はあ?」

「……ウルリカ!」

 敬清を無視して窓の外へ叫ぶと、掃除道具を手にしていたウルリカが首を巡らせてこっちを見た。

「シオネ? どうしましたか?」

 私の視線が定まらずそわそわと泳いでいるのに気付いてか、彼女も不思議そうに周囲を見回す。

 視界に入るものはいつもと変わらない家の周囲の景色だけ。でもなんだろう、すごく居心地悪い空気だ。

 私は懸命に聞き耳を立て、とりとめもなく流れてくる森の木々からの警告を拾おうと努めた。

「ウルリカ……わかりますか? なにかがいます」

「なにか? なにが?」

 ごもっとも。

 どこか物寂しい風の音。傷ついている。木の葉の莢めき。我を忘れている。私たちの潜めた吐息。敵意に満ちた存在が近くにいる。

 そうだ、敵意だ。これほどに強い敵意なら、殺意と言い換えてもいいかもしれない。

「ウルリカ、そこは危ないのです! 早くおうちに帰ってきてください」

 また一際強い風が吹き込んだ。

 ぴりぴりと肌を刺す敵意。こっちを窺っている。危ない。ウルリカを狙っている。

「ねーちゃん、ねーちゃん。どしたんなら!? また具合悪いんか?」

 敬清が心配そうに私の腕を掴む。そうされて見下ろしてみて、窓の縁を掴むその指先が白くなっていることに気付いた。

「なんかおる。ようわからんけど、なんかおるんじゃ!」

「なんならそれ!」

「わからんけど!」

 田舎弁丸出しの日本語が私と弟の間を飛び交う最中にも、支離滅裂な思念の羅列が耳朶を打つ。

 言葉としての体も成していない、我を忘れた無意識からの感情の迸り。その断片がただ無軌道に漏れて、風に乗って私のところに届くだけのそれは、あえて言葉に変換するなら、苦悶とか憎悪といったものだ。

 懸命に、その出所を辿った。発生源が近くにあるのだから、より濃厚な方を突き止めればいい。

 その作業には自分の中の根性を総動員しなければならなかった。気持ち悪い。石でも飲み下したように胸が詰まり、その重苦しい感覚が喉元からせり上がってくる。目がくらみ、寒気を感じて体が震えてきた。

 自分から飛び込んだのだからしょうがないが、その殺意の全てを私だけが受け止めなければならないかのように感じられ、歯が鳴った。

 怯む心でどうにか踏み止まり、なおも特定の存在を知覚しようと試みていると、だんだん五感で認識しようとしているのか、自分という入れ物を逸脱して俯瞰で捉えようとしているのか、自分でも区別がつかなくなってきた。それを見つけられたのも、そのどちらの網に引っ掛かったのかわからない。

 まっすぐ前に20歩ほど、枯草の茂みの中に、上手に潜んでいる生き物を見つけた。

 見たのではなく、感じ取った。

 こんな季節だというのに、枯れた下生えの中にはいまだしっかりと根付いて緑色を残す草もある。野生の生命力は見事だと、場違いに思った。

「ウルリカ、いるのです! 枯草の向こうにいるのです! お腹が立ちます。危険思います」

「わかりました。すぐに戻ります。そのまま中にいて、窓も閉めて」

 ウルリカが励ますように声をかけてくれた。鳥小屋の掃除も済んでないのに、私の様子を見て考えを変えてくれたらしい。鳥小屋の施錠をしっかりとする。

「ウルリカ。早く帰ってきてください」

 姉の様子に当てられたのか、敬清も焦った様子で促した。手はまだ私の腕を掴んでいる。結構力籠められてるのに、さっきは敵意の源を探るのに必死で、全然気にならなかった。

「痛い。敬清。離しい」

「あ、ああ……ねーちゃん、だいじょぶか?」

「……うん、あんがとな。大丈夫じゃけん。それより今はウルリカじゃ」

 ウルリカも何かを察したようだった。剣をいつでも抜けるようにして、鳥小屋からじりじりと離れ、家の壁を背にした。向こうの茂みに目を凝らす。

 今や全員に、その気配を察することができた。

 視線で木立の奥をなぞっていたその時、茂みの縁で、のそりと茂みを割って現れる大きな動物の姿を捉えた。

「フォルク≪狼≫?」

 呟いた。喘ぐような口調は答えを求めていると感じたのか、ウルリカが「そうよ」と大きな犬科の動物を見据えたまま言った。

 今までテレビの中でしか見たことのなかった、そしてごく最近図鑑で見た狼そのものの姿は、でかかった。

 ぶっとい頑丈そうな脚をさっぴいても、牛くらいでかいんじゃないだろうか。あれ、雄だよね? ちゃんと成体だよね? まさかまだ子供で、これから魔境でおじさんにやっつけられた巨大な猪なみに育ったりとかしないよね? あんなもん、人間なんて一噛みされるだけで昇天するぞ。危険な動物と評したウルリカの言葉は正しかった。

 足音一つ立てずひたひたと滑るような動きと、黒味の強い灰色の毛皮と相俟ってまるで影のようだ。狩人としての性質を備えるその獣は、本来なら身を潜めた茂みから飛び出す直前まで、獲物に自身の存在を知覚させないに違いない。

 でも今日遭遇したこの個体は違っていた。

 手負いだったのだ。

 左の首元と前脚の毛皮を染める黒ずみは、まだてらてらとしたぬめりを帯びている。低い唸り声と気配を殺す努力を放棄した重い足踏み。

 既に殺気立っていて、やり過ごせそうにない。

 私を押しのけて、敬清が窓に取り付いた。おじさんからもらった木刀を心の拠り所のように握り締めている。

「ケイセイ、家から出ないでください。フォルクを刺激しない。大丈夫。私が必ず守ります」

 ウルリカが冷静な声で、こちらを振り向かないまま言った。

 戦うと決めたのだとわかった。

 剣を抜き鞘を放り捨て、はらはらして窓に張り付く私たちの前に立ちはだかる。

 密やかな足取りで歩いてきたフォルクは、一足飛びにウルリカに届くぎりぎりの距離で一旦足を止めた。

 鳥小屋の鳥たちが一際混乱した喚き声を上げている。混乱の極致で、もはや意味不明の叫びしか聞き取れない。

 くすんだ毛皮からすらりと伸びる太い四肢の側面から脇にかけて、艶々とした襞のようなたぐまりが見える。水中にあっては、あれがぴんと張って、水鳥よりも素早く水を掻いて泳ぐのだ。

 陸上でのその巨体の質量と鋭い牙と爪を活かした狩りの仕方は、私たちの世界の狼と変わらないだろう。本来は群れで連携しながら狩りをするというのも同じらしい。ただ、こちらの世界のフォルクがより恐ろしいのは水の中。しばらく息を止めて潜水もできるというんだから、水中に引きずり込まれれば逃れられない。昔テレビで見た、ヌーの大移動。ワニに食らいつかれて水中に引きずり込まれる命がけの渡河が思い出される。でもここには溺れるほどの水場はない。普段、池や川など水が近くにあるところで狩りをするフォルクが自らの領域を外れてまで人を襲おうというのは、怒りと痛みですっかり我を忘れているからなんだ。

 フォルクはこちらの土俵での戦いに応じるつもりのようだ。

 しばらくの睨みあいの末、再びじりじりと脚を動かし、少しだけこちらへと近づいた。

「やめてください!」

 私は叫んだ。少しでもフォルクに通じればいいと思った。

 でも、駄目だ。聞く耳を持ってない。フォルクは何の反応も返さない。呪詛を繰り返しながら、相対するウルリカを憎々しげに見つめるばかり。

「大丈夫よ。あなたたちを危ない目には遭わせない。絶対に窓から出ないで」

 ウルリカと敬清は、今の私の叫びをウルリカに対する言葉だと思った。逆に気を遣った台詞が帰ってくる。

 私の足で十歩弱の距離。ウルリカとそれだけの間を残し、そこで再びフォルクは止まる。脚をたわめて身を低くし、うるる、と唸った。

 こちらからは届かないけど、向こうはひとっ跳びで詰められる距離。

 ウルリカは冷静だった。気迫に漲った背を私たちに向け、両手で構えた剣先をフォルクに向け、壁から背を離して周囲を空ける。

 一瞬の交錯を窺っているかのような沈黙と緊張。

 実際に一撃必殺の隙を狙っているんだろう。

 手負いの獣を更に死に物狂いにしてしまえば、却って事態を複雑にしかねない。飛びかかって来させて、射程内に入ったところを迎撃する気なんだ。

 フォルクの攻撃範囲に入るには跳躍するしかない距離を維持しながら、その動きを待っている。

 私と敬清も固唾を飲んでそれを見守る。

 やがて、痺れを切らしたフォルクは四足のばねを思いっきり伸ばし、太い前脚を大きく広げ、猛烈な勢いで飛びかかって来た。正確にはウルリカに飛びかかって行った。

 くわりと開かれた大きな口腔は真っ赤で、ずらりと並んだ牙は白くきれいに生えそろっていて、やはりまだ若いフォルクだと知れた。

 私たちに背を向けたウルリカは、フォルクが宙を舞うと同時に位置が高くなった喉にあわせて切っ先の位置を滑らせた剣を、フォルクの巨体が飛びかかってくる軌道に沿って顎を掻い潜るように突き出した。剣先が喉に食い込んだのかどうかこちらからはわからないうちに、両手を胴に引き寄せながら身を屈める。

 指を広げて爪を全開にした大きな前足が、寸前までウルリカの頭があった位置を通り過ぎた。

 彼女の頭を爪が掠めたように見えて、喉に石が詰まったような圧迫感に見舞われる。両手で窓枠に縋りついてへたり込みそうになる脚を支えた。

 ウルリカは剣を手放し、身を低くしたまま前に跳ぶ。伸ばした上体に下半身を引き寄せるようにして前転して、上を通り過ぎた巨体の股下をくぐり抜ける。

 フォルクは口から血泡を吹き零し、前足で剣の柄を掻き毟りながら、赤い血を撒き散らし転がり回った。

 跳ね起きたウルリカは向き直りとバックステップを同時に行いながら短剣を抜き放つ。

 きらびやかな金髪は血の穢れなど一切なく、動きも機敏なことから、怪我はしてないようだ。

 彼女が油断なく身構えながら見届ける前で、フォルクは四肢をぴくぴくと痙攣させ、やがて動きを止めた。

 たっぷり数十回は呼吸したくらいの時間が経ってから、ウルリカは短剣を収めると、仰け反ったフォルクの喉を片足で踏みしめて押さえ、力を込めて剣を引き抜いた。

 面を上げ、まっすぐにこちらを見た。いつもの柔らかい雰囲気を纏う、煌めくウルリカの微笑みを形作る。

「もう大丈夫ですよ。怪我やショックはありませんか?」

 正直言えば、あった。

「ウルリカ」

 呼んだ。唾を飲み込んだ。表情が強張っている気がする。

「フォルク、生きる、ない?」

「ええ」

 ゆるゆると詰めていた息を吐いていった。フォルクを凝視していた目をひっぺがし、深々と頭を下げた。この数カ月で伸びた髪が、その頬を覆い尽くす。

 その前にちらと見えた湖面の瞳は漣が立つように揺らいでいて、私と同い年とは思えない大人びた、不思議な感情に彩られていた。

「ウルリカ、ありがとうございます。フォルク、死ぬ。私と敬清、生きる」

 深い安堵と感謝、それに敬意を精一杯伝えようとした。私たちのために剣を抜いて戦ってくれた。怖さを抱いている様子は微塵も見せなかったから、単に場馴れしているのか虚勢だったのかはわからない。棍棒みたいな前脚に殴られたかもしれない危険を冒して獣を引きつけ、一息に喉を突いたやり方も、事態の長期化と流血沙汰を避け、私たちに与えるショックを少しでも減らそうという気遣いの表れだと思う。

 そして今、いつもと同じ笑顔で、なんでもないことのように私たちを気遣ってくれる。



 ……後から知ったが、フォルクは腕を後ろにまで引ける関節を持っているので、その分攻撃範囲が広いのだが、前足を振り抜くという攻撃動作を完了するには若干余計に時間がかかる。

 この待ち受け戦法はフォルク相手でなければ危険が大きくて選択できなかったが、だからこそ攻撃を確実に当ててから確実に回避できるのよとウルリカは語った。

 だから安心してねと言われても、素人目にはわかりません。


 これまで、じいちゃんから生き物の生命活動を断って食べることを教わっていた。

 もがく鳥を絞める時に指にかかる感触とか、生きた温かい血肉に刃物を当てて引く時の抵抗感とか、羽を毟ったり皮を剥ぐ時の生身を次第に暴いていくと感じるどこか不気味さを伴う厳かさとか、剥き出しの体の形をあらわにしたそれが一回りも二回りも小さくなって、身を守るもののない生き物の姿は正視しがたい無残なものだとか、教わり始めの頃に覚えていたそれらに手が止まることはもうない。自然の恵みに感謝し、生命の循環と割り切っているつもりだった。

 それに関係しない生き物があっけなく死んでいくことに違和感を覚えたのは確かだ。

 でも、それらの何が違うかというと、なんにも違いやしないのだ。

 身を守るために戦って殺す。やらねばやられる単純な生存競争が、私たちの気構え以上に身近な暮らしで、そこで彼女はずっと生きてきたのだ。

 その気構えとの差分が、私たちとウルリカたちの違いだったというだけのことだ。ここで暮らしていくなら、それはいずれは解消されるだろう。


 一息ついて考えてみると、なんでフォルクは手負いの状態でうちにやってきたんだろう。それもおじさんが急ぎの様子で出かけたタイミングで。

 考えてみてもわからないし、弟に話を振ってもどーでもよさそうに「さあ」としか言わない。

 敬清はフォルクの血に濡れたウルリカの剣を見ていた。否定的な感情は伝わって来なかったけれど、なにか、衝撃のようなものを感じた。

 ウルリカに訊けば一瞬考え深げに目を瞬いたけど、「私にも説明はできません」と答えられた。

 多分彼女の中では推測程度は組み上がってるんだろう。でも話すには気が進まないようだったので、追及はやめた。



 その日、いつもと大差ない時刻に戻ったおじさんは、物置から引っ張り出した古びたござを被せておいたフォルクの死骸について、任侠の人みたいな顔を五割増しに厳めしく顰め、ウルリカばかりでなく、私たち三人全員に説明を求めた。

 私はありのままに起こったことを話し、他に何ら問題はなかったことを強く主張した。他二人も同様だった。

 三人とも無事でよかったと、やっと愁眉を開いて言ってくれて、ミーティングはそれでおしまいだった。

 その後、寝る前のくつろぎタイムにて、おじさんとウルリカが深刻な顔で私たちには聞き取れない打ち合わせをしていたのも、まあ、仕方のないことなんだろう。

 またも花池とかフォルクとかに加えて、忌々しそうに吐き捨てられる聞き慣れない単語が何度も登場していたけど、それについて私たちに明かされることはないのだろう。

 今は、まだ。

 たぶん。

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