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由無し一家  作者: しめ村
8/43

遠足の日

 しもふる月に入り冬も本番となって、毎朝霜が降り小川の縁が薄く凍るようになってきた。落ち葉を粗方散らした森は華やいだ色から一転、色身の薄い陰鬱な光景を広げている。

 そんな殊に寒い日も、雨の日も、花の日も、風の日も、芋虫の日も、変わらず真面目にお仕事に精を出されている父様が、珍しく一日の休暇届けを出された。

「花池の蜂の巣がいい塩梅になってきた。採りに行くか」

「まあ! そういえばそろそろですね!」

(ジグ)……のおうち?」

 頬に期待に満ちた笑みを刻んでいる父様と、手を叩いて喜ぶ私を交互に見て、シオネとケイセイが揃って首を傾げた。仕草ときょとんとした表情がよく似ていてかわいらしい。

「そうよ。とってもおいしいんだから!」

 だめだめ、しっかりしなきゃ。浮き浮きして説明が疎かになってしまいそう。

「蜂はね、巣の中に甘い蜜をたくさん貯蔵しているのよ。冬になると蜂が弱るから、その隙に巣を採りに行くの」

「ジグの……おうち。ハチノシュ……ハチミチュ!」

 シオネが何か思い当たることがあるかのように歓声を上げた。それを聞いたケイセイも納得したように顔に浮かべていた疑問符を掻き消す。

「ジグ、巣、似たもの、ありました。甘いの、液体、きらきら色」

 ええ、そうよ。それなら話が早い。

「父さんは明日は休暇を頂いている。明日はみなで蜂の巣狩りに行こう」

 父様がその日の夕食の場を締め括り、私は早速明日のお出かけの支度に取りかかった。善は急げ。乗り遅れたら森の動物に先を越されてしまう。

 巣に蜂が残っていた場合に備えて、手袋と覆面、煙をよく出す草と空いた革袋をありったけと、鉈と鋸を出して、そうだわ、折角の四人揃ってのお出かけなんだから、お弁当もちょっと張り込もうかしら。

 ならいつもより早起きして……と算段をつけていたら、シオネとケイセイが気がかりそうに額を突っつき合わせていた。ひそひそと話し合うその様子は、なんだかすごく疑わしげ。

「どうかしたの?」

「ウルリカ、ジグのおうち、大きい」

「そうね」

「ジグも大きい」

「? 普通の規格の蜂だと思うけれど……毒針があるから危ないって教えたことを気にしているの? なら大丈夫よ、冬になったら蜂は大半が死滅するし、生き残ったものもかなり弱っているから、襲われて危険ということはないわ。毎年蜂の巣を採りに行っているけれど、父様の言いつけを破らなければ危なくないからね」

 安心してもらおうと思い、にっこり笑顔を心がけて保証したら、二人は諦めたように溜息をついたっきり、それ以上は反論しなかった。

 これは二人が、話が通じないと思っているらしい時に見せる顔つきだ。

 イズリアル様は、あくまで推測の一つとして考えられると前置きなさった上で、シオネとケイセイを、魔境が時と空間になんらかの作用を及ぼして過去の時代と繋がった歪みから迷い込んだ、古代からの客人ではないかと推測していらっしゃる。この地で果てた死者が蘇ったという推測よりはありえそうだ。突拍子のなさではとんとんだと思う。

 その生態や習慣は定かではない。原始的な生活の中で自然に親しみ、土着の信仰を持ち、今とは系統の異なる魔法を操り、魔物とも共存していたなどの説もある古代人に関しては、だが定説というものがない。今の世に残る文献もほとんどないのだ。ただ、稀に古い伝奇などにそれらしい描写が散見されるのみだという。

 謎の言葉を話し、馴染みのない道具類で身を固め、現代の生活習慣とは異なる次元の常識を身に付け、もしかしたら魔法の才能もあるかもしれない二人だけど、私はやっぱりそんなおかしな存在ではないと思う。

 だって、いかに聞き慣れない言語を駆使するといっても、それがなんだというのか。

 言語学者の方ならまた違う意見がおありだろうが、私はシオネとケイセイの母国語に特にありがたみを感じたことはない。意味が通じないし、意見の衝突する時なんてこんなものなのだ。

 つまり、私に『お風呂』や『デンチ』なるものについて説明しようとした時の反応と全く一緒。この、言っても無駄という諦めたような、高を括ったような、非常な疎外感を生み出すこの反応。

 私は少しムッとした。

「なあに? 知っていてほしいことがあるのなら、諦めないで話して。わかるまでいくらでも聞くから」

「うーん……いいえ、いいのです。習う、比べる、慣れる、です」

「アタッテクダケロ」

 結局、シオネとケイセイから本音を聞くことはできなかった。

 二人の息の合った黙秘に、ちょっぴり疎外感を覚える。

 二人が二人してはぐらかしにかかれば、私は絶対にそれを突きとめることはできないのだ。遺憾なことに。



 その巣は、父様が魔境との境に向かう際に通る経路から遠目に窺い見られる位置にある。

 家からはやや離れているけれども、今の時期なら下生えも枯れていて歩きやすい。雨にしろ雪にしろ降り出す気配もなく、父様の瞳のような青味がかった灰色の空色が広がっていて、陽射しもこの時期にしては強めで、天気も上々だ。

 小川に沿って少し歩く道は、父様が毎日下生えをかいて刻んだもので、歩きやすいそこを一列になって進んでいった。

 この時期は鳥も無口になるものなのだけれど、今日は囀りたい気分の者が多いらしい。枯れ木の森に幾つかの鳴き声が響き渡っている。

 二拍子のこの声はカハラかしら。亜高木の枝の陰に隠れるようにして黄色いお腹と黒い頭のウォッジがかわいらしい声で歌っている。私の視線に気づくと、囀りを止めて飛び去ってしまう。時折甲高くなるだみ声を響かせるのは、縄張り争いをするトゥギの雄かしら。

 この森の鳥は、今の時期は南へ渡って行ってしまうものも多い。春から夏にかけてはもっと賑やかになる。

 シオネとケイセイはすれ違いと言える程の微妙な時期を外してやってきたから、それを知らない。来年また二人を連れてこよう。

「また来ます? つれられて来ます!」

「楽しみ」

 私はそんなことを解説しながら最後尾を進んだ。二人とも真面目な顔つきでそれを聞き、熱心に周囲を観察していた。

 夏場ならば鳥以上に存在感豊かな虫たちは、今はなりを潜めていて歩きやすい。

 フントに噛まれたりフファの群れに頭からぶつかるのは、毎年のことだけどもその都度もう堪忍、と思ってしまうのは仕方がないと思う。むしろ夏でも毎日この森を突っ切ってお仕事をなさる父様にお疲れ様ですと無性に言いたい気分になる。

 こうして森の奥まった地点にまで踏み込む時には、虫が嫌う草のよく乾かしたものの煙を頭巾と服に焚きしめてから出るものの、その効果は魔境産のメージャイほどではない。

 それに、見回りを任とする父様の装備に余計なにおいを付けてしまうと、狩らねばならない侵入者や魔物に察知され先んじて逃げられたりして任務に支障が出るので、父様には虫除け措置が採れないのだ。

 今は冬篭りの時期なので、蜂の反撃対策にと用意した厚手の覆面や蓑で頭から全身をすっぽりと覆っていても暑さでうだることはないのが幸いだ。

 シオネとケイセイは仮装でもしている気分なのか、妙にはしゃいでいた。お互いに指差し合って『ナマハゲ』という単語を連呼していたから、今の私たちの姿は、二人の知っているナマハゲなる存在に似ているのかもしれない。

 丈の低い木が密集している一角は、光が射さず下生えもないぶん、枯葉ばかりが堆積していて、下ろしたての藁布団よろしく飛び込んでみたい気分に駆られる。

 実際には湿気ているし動物や鳥が食い散らした木の実の殻や腐りかけた食べ残しが混じっているから寝心地がいいというわけにはいかない。でも足の裏に伝わってくる、堆く地を埋め尽くす落ち葉の感触はふかふかしている。話に聞いたことしかない高級な敷物、絨毯とはこのようなものだろうか。帰りがけに堆肥用に集めて持って帰ろう。

 父様が、道行きの途中で足を止めた。

「ここで少し休んでゆこう」

 父様が立ち止り、振り返った場所は、自宅から三時ほども歩いた池の畔にある、ちょっとした広場だった。はなさかう月になると周辺の木々から落花した赤が水面を埋め尽くす様から、私たちは花池と呼んでいる。

 その水辺へとまっすぐに歩いていった父様は、休憩を言い放たれた。

「おとうさん、もうお弁当の時間ですか?」

「おとうさん、ぼくたちは疲れません」

 口々に言うシオネとケイセイに緩く微笑みを返すだけで、父様は油断なく周囲に目を走らせていらした。

「蜂の巣はここから近い。蜜目当ての熊や猿が集まっているやもしれぬから、念のため事前に確かめておく。安全とわかれば呼びに戻るから、しばらくここで休憩していなさい」

 熊も猿も遊興先で遭遇したくはない相手だ。普段ならどちらかが争いを避けてその場を離れれば済むことだけども、目的の採取の場で鉢合わせれば、争いになる可能性もある。

 父様が一緒にいらっしゃるから身の危険はまずないとしても、折角の遠足でわざわざ殺生沙汰に持ち込むこともないと思う。

 冬に備えて食い溜めをしている獣たちには悪いが、父様が予め追い払ってくださるのなら、その方が楽しい休日になる。

「はい、父様。お気を付けて行ってらっしゃいませ」

「気を付けてやれ。シオネとケイセイは、何かあればウルリカの判断に従うように」

「はい、父様」

「「はい、おとうさん、いってらっしゃい」」

 元気よく見送る私たちに背を向け姿が見えなくなるまで一度も振り返らなかった父様の、身を翻す寸前に垣間見た口元は、綻んでいた。



 それから私たち三人は、周辺を気ままに歩き回った。

 近くの木から落ちた種子を拾ったり、まだ食べられそうな茸を摘む。

 丈の長い草の群生が枯れて藁のようになっているのを見つけ、これも帰りに持てるだけ刈っていこうと心に書きつけておく。鎌は持って来なかったけども、鉈でも枯草を刈ることはできる。

 どうしようかしら。今日はあくまで蜂の巣を採ることなので、他の物を所持できる分量はたかが知れている。帰りはここで枯草を目いっぱい刈っておいて、まだ家に近い低木域の堆肥は後日改めて集めに来た方がよさそう。

 私が冬篭りの支度について予定を組み直している間、姉弟は水場のぬかるみに残る動物や鳥の足跡を観察し、足跡の主が近くにいないものかと辺りをきょろきょろとしては歓声をあげている。

 対岸の岸辺には、水鳥が片足立ちをして油断した小魚を狙っていたり、ぷかぷか浮いていたりするのを指差し、名前の当てっこでもしているのだろうか、頻りに喋っている。

「ウルリカ、これはなんですか」

 池の縁のぬかるみに屈みこんで石をひっくり返し、カニや貝を背負い籠に放り込んでいたケイセイが声を張り上げて私を呼んだ。

 姉弟は足跡の当てっこをしていたようで、答えが出なくて私を呼んでくれたようだ。

 どうしよう、私もこの森の生き物全部を把握してるわけじゃないのよ。私にわかる足跡だといいけれど。

 その足跡を見るなり、緊張に身が引き締まるのがわかった。

 水を飲むためにその場に長く留まっていたのだろう、幅広の手根球までくっきりと残っているので間違えようがない。縁が少し凍っているから、昨日できたものだと思う。

「……水狼のものだわ」

(フォルク)? 図鑑で見ました!」

「あしあと、大きい。てのひら同じだけ」

 無邪気に驚きを表したシオネとケイセイは、どうしてか喜んでいる。

「水狼が好きなの?」

「私たちのいたところ、珍しい動物でした」

「セータイケイてっぺん、ロマン」

 よくわからないなりに、二人が水狼という生き物に対して幻想を抱いていることだけは、よくわかった。

「ちょっと待って、二人とも。水狼を見たいなんて言わないでね」

「「ええー」」

 ふと不安を覚えて言ってみたら、やっぱり!

 この辺境の森に危険な生き物は色々といるけれど、水狼もそのうちの一種。陸を駆ける四足と水中を自在に泳ぎ回るヒレを併せ持つ、森有数の機動力を備えた大型肉食獣。

 我が家近辺まで水狼が現れることは、私の知る限りない。家畜を狙ってくることさえもなかった。

 ただ、今いるここは家から大分魔境寄りに離れた地点だ。現段階では、私たちの方こそが彼らにとって侵入者となる。

 父様がシオネとケイセイまで連れて来られる程度には安全な道行きと判断なさったからには、この辺りを縄張りにしている群れはないはず。それに水狼に限らず野獣は、強い群れほど魔境に近い領域に住むものだ。

 となると考えられるのは、頭に率いられた群れではなく、群れを従えるだけの力量を備えるに至っていない若い雄が、種族の縄張りからさまよい出てきたという可能性。

 魔境では魔物化した強力な個体に統率されて、同族だけのそれよりはるかに強力な集団を形成することがあるそうだ。この辺りは魔物が紛れ込んでくるほどには魔境に近くはないし、父様がそんなことはさせない。

「水狼は、とても強くて、危ない動物なのよ」

 とはいえ、はぐれの一匹狼でも、戦うとなれば父様と私はともかく、シオネとケイセイにとっては命の危機に等しいだろう。遭遇しないで済むなら、それに越したことはない。

「オーカミ……」

「ジャンネン」

 二人のがっかりぶりはなんだろう。狼なんてありふれた動物なのに。

 こちらとしては緊迫感に身が引き締まる思いだ。いざとなれば、腰に佩いている剣を抜くことになる。

 周囲に目を配り、気配を探ってみる。幸い、今はこの近くにはいないようだ。

 ああ、父様、早く戻っていらして。



 父様が戻られたので、すぐその旨を伝えた。

「今はこの付近にはいないのだな。用心して、早めに切り上げて帰るか」

「そうですね」

 ぴりぴりとしてはいても、何もせずに即刻引き返すという選択肢は私たちにはない。

 ここまで来たのだから、蜂の巣は採りたい。この機会を逃したら、他の動物に完膚なきまでに食い尽くされてしまうだろう。

 それに水狼がいるからといって、必ず襲ってくるとは限らない。むしろ群れ行動が基本の狼種は、単独での狩りには慎重だ。数で劣るうえに父様という最終兵器が控える私たちに挑んでくる愚はおかすまい。

 花池から少し西へ歩いたニアラの木の一本に、立派な蜂の巣が掛けられていた。周囲に蜜目当ての獣の姿はない。いたとしても、父様が追い払ってくださっている。

 高い枝から根元にかけて、幹に張り付くようにして地を擦るほどに成長している巣。元は木の洞をとっかかりとして掛けられたもののようだけれども、今となっては何の意味もない。地に近い下部は打ち捨てられた廃屋といった風情の有様なれど、上部は一部鳥に突かれた小さな跡の他は割合きれい。外皮が剥ぎ取られた部分から、ほの白く輝く天然の巣板が覗いている。蜂の出入りもほとんどない!

 うん、まだ取り分は十分にある!

 シオネとケイセイは何とも言い難い表情でそれを観察している。

「シュジュメバチジャナ」

「シュジュメバチ」

 その目つきには、呆れが多分に混じっているように見える。諦念に近い感情すら見受けられる。何が二人をそうまで重苦しくさせるのか。

 何かに思い当たったように、父様がそうか、と呟かれた。

「魔境からうちに連れてくる時に、一度近くを通った。それはそれは驚いていたな。辺境の森の外では、蜂も蜂の巣ももっと小さくて、これほどまとまった量の蜜は採れんのだ。そのことをすっかり忘れていた。二人ともこの大きさの蜂と巣を見たことがなかったのだろう」

「まあ、そうだったのですか? 小さいとは、いかほどですの?」

「一般的な蜂は、おまえの指先ほどだ」

 私は絶句した。指先ほどの小さな蜂……それでは、たいして蜜は採れない。第一、そんなか弱い有様でどうやって巣と群れを守っていけるのだろう。

 森の外で蜂蜜の需要が多いことも、その価値が貨幣にして非常な高額に相当する理由も理解した。どうりで毎年、イズリアル様が大喜びで余った蜜の甕を引き取って行かれるはずだわ。

「もしかして、森の外では、生き物はみな小さいものなのですか?」

「みなというわけではない。だがそういった差異のある種はかなりある」

 父様は、それ以上の解説はなさらなかった。いつものことだけど、森の外のことをあまり話しては下さらない。ここの領主様に雇用されるまでは旅慣れた傭兵だったというのだから、当然外の様々な土地の風土や文化をご存じのはずなのに。

 それが残念ではあるけれども、今日はシオネとケイセイのおかげで、それを僅かにでも窺い知ることができた。すこしうれしい。


 道中拾って来た枯れ枝を巣の下で組んで火を起こし、干し草を燻した。たちまちもくもくと煙がたち、破れた巣を包み込む。

 木から離れて様子を窺っていると、やがて巣から数匹の蜂が這い出してきた。

 威嚇行動をするでもなく宙に飛び上がり、戸惑ったように巣の周囲を旋回する。その軌道は不規則で、羽音も途切れそうに弱々しい。何匹かは煙の勢力圏から離れていき、また別の数匹は地に下り立ったまま動かない。

 この調子なら、放っておけばそのうち死ぬだろう。こちらは大丈夫そうだ。

「では、行ってまいります」

 私は荷物から鋸を取り出し腰に提げると、木に取り付いた。上から切り目を入れるのだ。

「ウルリカ、ジグが攻撃かもしれないのです。危ないのです。交代します」

 走り寄ってきて裾を引くケイセイがかわいくて、思わず片手を伸ばし頬を撫でた。私は手袋をしているし、ケイセイは覆面を厳重に被っているから、黒髪も頬の手触りも感じることはなかったけれど。

「私は大丈夫よ。危なくないわ。下の方が人手が必要だから、父様を手伝って差し上げて」

「……はい」

 目を細めて一度こくりと首肯する。本当に素直な、かわいい子だ。

 煙幕の向こうで、父様が目を細めていた。

 シオネはこちらを見ていなかった。

 私はケイセイを促してシオネの元へ戻らせた。目的の位置まで幹を登ると、反対側の枝に跨る。

 父様の指示で、シオネとケイセイがうちにある一番大きな革を広げて巣の横に待機した。随分昔に父様が仕留めた魔物の革で、鳥小屋をまるごと包んでしまえるくらいに大きい。

 父様が鉈を手に獣に荒らされた部分を大雑把に取り除いてゆかれる。

 目詰まりしていた巣の内部の通りが急によくなり、ぷんと甘い香りが広がってうっとりしそうになるも、何度も思い直して仕事に集中。

 シオネとケイセイが、上下に切り離された巣の枝からぶら下がる上部を掬い取るように革を動かして、ぶら下がる巣の真下に移動した。

 父様が革の縁に取り付けた紐を手早く周囲の木の幹と枝に括りつけ、作りかけの茶巾絞りのような緩やかな曲線を描く、即席の器を完成させた。

「手を離してもいいぞ」

 おっかなびっくり革の縁から手を離したシオネとケイセイは、蜜浸しの足元に注意を払いながらその場から後ずさった。足元が粘ついて居心地が悪そうだ。

 私は上体を幹の片方を回り込むように乗り出して、片手で幹を抱き込んで体を支えながら、片手で鋸を巣の半ばに当て、挽き始める。こんな作業、ケイセイにさせられない。

 ゆっくりと、時間をかけて切り目を入れた。

 蜂の巣はとても脆く、鉈を打ちこんで切り分けようとすればほろほろと崩れてしまう。

 振動を与えないようにそおっと鋸を挽いたものの、若干刺激は与えてしまい、歯の入った部分の壊れやすい巣材が潰れて崩れて形を失う。

 新たに蜂が出てきては、いずこへともなく飛び去り、またはへろへろと落ちて焚火から離れようと地を這う。

 万が一と危惧した、追い詰められた蜂が巣を守ろうと捨て身の攻撃を繰り出してくるということもなく、安全に作業を終えることができた。

 私が横に入れた切れ目の橋の下から、父様がこの日のために汚れをきれいに磨いた鉈を慎重に食い込ませ、上へ上へと切れ込みを入れていく。

 新たな切り込みから新たな蜜を零しながら、袋に入る大きさに切り分けられた巣が本体から離れて受け皿の上に落ちた。ぴしゃりと音を立てて落ちた巣蜜は、落下側は無残に潰れてしまったが、上はきれいな六角形を保った部分が多く残った。

 同じ要領で大小5つの巣蜜を切り分ける。

 緩やかに注ぐ滝が革の受け皿を金色の泉に変え、濃厚な甘さに発酵させる前から酔いそうだ。

 シオネとケイセイは驚異に打たれたように息を飲んで、一抱え以上もある塊を見る。

「シオネ、ケイセイ、この袋の口を開いて持っていてくれ」

 父様が手袋を洗い立ての物と取り換え、ドバを掴みだす時のように慎重な手つきで金色の泉に指先を浸し、巣蜜をシオネとケイセイが持つ袋に入れた。

 それを5回繰り返し、受け皿の紐をきつく引いて、巾着状にする。

 私もその間に木から這い下り、周囲の警戒に努めた。

 持ち帰り用に用意した入れ物は革袋が大小5つ。蜜と巣屑の溜まった受け皿代わりの革を含めれば6つ。

 あとは父様のお酒用に魔物の革袋の蜜を火にかけて発酵させて、もう一つ分をうちの嗜好品用に確保したら、残り4袋は兄様たちが次にいらした時にお持ち帰りいただく。

 これで採取はおしまい。

 中身を零さないように口を革で覆ってしっかり縛ったら、父様が3袋を担いで、残りは私とシオネとケイセイで1袋ずつ背負って帰る。

 巣はまだ半分以上残っているけれど、その全てを持ち帰って適切に保存することは我が家の手には余る。残りは森の動物たちにお任せだ。

 それでも今年はシオネとケイセイがいるから、兄様がいらした頃と同じくらい多く採れた。

 あ、そうだわ。枯草、刈って帰る余裕があるかしら。



 来た道を戻る途中、また花池に留まり、お弁当を食べた。

 おいしいおいしいと言って食べてくれるケイセイは本当に私の心を和ませる。

 今は父様がついてくださっているし、食べ物と蜜のにおいをぷんぷんさせていても、何かが寄ってくるかもしれないという不安もないし、何が来ても怖くない。

 ケイセイが花池の水辺に寄って行って靴の裏にへばりついた蜂蜜を石に擦りつけている時に、父様がつとシオネに近寄って告げていらした。

「シオネ。蜂は冬が来れば野垂れて死ぬ。巣を守り切れば冬を越せるものもあるが、この群れはその運に恵まれなかったのだ。そういうものだ」

 シオネは意表を衝かれたように父様を振り仰いで、さっきから眉間に張り付いていたような気がしていた皺を解いて曖昧に笑う。

「そうですね」

 私はなんのことだろうかと採蜜時の出来事を一つ一つ思い返し、それらしいことを探し当てた。

 あの時、シオネの目は地を這う蜂に注がれていた。

 蜂は元々長く生きる虫ではない。巣を失えば、辺境の冬に成す術もない。

 私たちはそれを壊して奪った。奪い尽くしてはない。奪い尽くせもしない。この広大な森に蜂などいくらでもいる。

 森の獣や鳥たちにとっても、蜂の巣は格好のご馳走だ。食べたいだけ採って食べる。

 森の獣たちと私たちの行為に違いはない。

 私は驚いた。私が当然だと思っていたそのことが、彼女には何らかの感慨を齎したのだろうか。シオネの目には、他の何かが映っていたのだろうか。

 私は、それを知ることも、思い合わせることもできなかった。けれど、父様は気付いていたのだ。

 だから私には、父様がシオネに何を言い聞かせようとなさっているのか、よくわからなかった。

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