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由無し一家  作者: しめ村
40/43

兄ちゃんの冬休み

 きたかぜの月の下旬、歳末の休暇を得たジェオフレイは、宛がわれている宿舎に仕舞ってあった半年使い道がなかった給金を懐に突っ込み、街へと出た。

 空では、今にも圧し掛かってくるかと思われるほど厚く垂れ込めた雲の層が、手を伸ばせば触れられそうな濃い鉛色を一部の隙もなく塗り広げている。はるか北からごうごうと唸りを上げてはそれをここまで伝える風が、正午前にはこの都にも豪雪を運んでくるとジェオフレイに教えている。

 故郷の森では今頃猛吹雪だろうなと彼は思ったが、あまり長くは留まらずに南へ吹き抜けるいつもの辺境風ならば、自分が家に着く頃には通り過ぎてからりと晴れていると予想を付け、少しばかり楽観的になった。

 彼のこの時期の帰省は定期便も兼ねているので、マズリ馬三頭に分乗して運ぶいつもの生活物資と補給品に加え、僻地で暮らす家族の気晴らしになるものをと吟味した嗜好品やぜいたく品を含んで、積荷はいつもより多くなる。前者はヴォジュラ領が代金を負担してくれるうえ、業者が梱包から領主館までの納入まで済ませてくれるが、後者はジェオフレイが自腹を切って調達するものなので、彼が街に出向いて品を選ぶことになる。

 そんなわけで、こんな天気の早朝に、彼は街へ繰り出しているのだった。支度が整い次第、実家へ向けて出発するつもりでいる。

 ヴォジュリスティの目抜き通りを行き交う住人や組合員や旅慣れた商人たちにとっても、この空模様は慣れたもので、人通りは衰えない。降り出す前に屋外で予定している事柄を済ませてしまおうと足を早める者が目立つくらいか。辺境人は悪天候などでへこたれないのだ。

 視界が不足する吹雪に乗じて現れる魔物や魔獣に備えようと、警邏を増員するために観光組合員が道行く同業者に参加を呼びかける声が頭上を威勢よく通り過ぎ、魔術師組合の若いのが街灯に強めの光を入れに走っているのが視界の隅に映る。そんな光景にも非常時の緊迫感はなく、喧噪の中にも秩序立ったよくある日常の一コマに過ぎないという手慣れた挙措と、生き生きとした活気とに彩られている。

 この雰囲気をジェオフレイは嫌いではない。

 しばらく歩いたところで、周囲の喧騒に聞き慣れた声が混じった。

「ようジェオ、お前が発注書の束持たずに街をうろついてるなんて珍しいじゃんか。どこ行くんだ?」

 軽口を叩くためだけに通りを突っ切って近づいてきた後輩に、同じく軽口で以て返す。

「ようヒック、相変わらず詮索好きだな。ほっとけ」

 ヴォジュリスティ生まれヴォジュリスティ育ちのヒックは、当然自宅から通勤している。彼は、普段仕事をする時と同じ使い込まれた武装の下に、辺境の森へ行く時には着ないヴォジュラ軍の制服を着込んでいる。出動直前の年若い士官と言った風情だ。

「お前も休暇中じゃなかったか。休日返上で出仕するような号令でもあったか?」

 それらしい騒ぎを聞き付けなかったことに首を傾げながらジェオフレイがごちると、ヒックは好青年風に整えた短髪を爽やかに揺らして快活に笑った。

「俺? 俺は自主出勤。ほらさ、お嬢様が王都の寄宿学校から友達連れて里帰りされてるだろ? なんかの拍子にでも、話し相手でも仰せつからないものかなっと」

「本来の警備と護衛の者がいるだろう。彼らの仕事を取るなよ」

「だいじょーぶ、その辺ぶらぶらしとくだけだから」

「……暇なやつだな」

「おまえが妹たちを紹介してくれるってんなら、素直に休暇貰ってお前と一緒に行くんだけどなー」

「それはない」

「うわあなんて小気味いい温度差の即答。ま、俺ん家も、親が婚活に精出すのは後継ぎの兄貴と嫁に出さなきゃならない姉貴と妹優先なんでな、俺もこーゆー仕事だから仕事絡みの出会いは期待できねーし、自分のことは自分で、空いた時間にやんなきゃなんねーの」

 この後輩の場合、貴族子弟に付き物の婚姻問題が絡んだ深刻な動機を抱えている風に見せかけるには、わざとらしく眉間に刻まれた皺と釣り上がった口元が全てを裏切っている。

 仮に真剣にヴォジュラ領主家の一人娘との縁を望んでいるとしても、ヴォジュラ貴族の子息であるヒックは、主家の嫡子にあらざる子女が子を成すことの叶わぬ身であることは重々承知しているはず。

 フェルビースト家の血統が分化しないのは大いなる祖の獣の意向だ。当主とその座を継ぐ子だけは何人でも子を儲けられるが、そうでないきょうだいは決して子ができない。男なら女を身籠らせることが、女なら身籠ることができぬようになっている。

 例えは悪いが、毛なし猿が家畜の頭数調整をするために去勢や避妊の処置をするのと同じようなものだろうと、ジェオフレイは考えている。

 イズリアルが嫁取りに消極的な理由の一つには、それもあると思われる。

 合意の上で嫁を貰っても、結婚生活を続けるうちに妻が心変わりして子を望むようになりやがて父親不明の子を孕んで離縁という、過去のフェルビースト家の男たちが辿った悲劇をなぞる可能性もなくはない。

 ジェオフレイは友人のために、今もイズリアルに途切れず手紙をくれている王都の女性に勝手に期待をかけているが、それを口にしたことはなかった。イズリアルにとっても余計なお世話に違いない。

(まあ、いいか)

 自分が深入りするべきでない分野であることは確かなので、人里に出て3年程度のジェオフレイは詮索はしないことにした。

「つかお前こそ女っ気なさすぎだろ。お前が嫁の来手のない寂しい中年男になってもざまあとしか言わねえが、出し惜しみしすぎて妹が嫁き遅れになっても知らねえぞ」

「いらん世話だ」

 ジェオフレイは今まで、ひ弱で釣合の悪い体から不快な人工物の臭いをぷんぷんさせている毛なし猿の雌に対して、その手の欲を覚えたことがない。

 ではどんな女ならいいのかというと、扇形の美しい尾羽とよく手入れされた鋭い鉤爪を持つ察し良く矜持の高い征矢羽鷲(フォルフォラッサ)の雌や、長く走れる丈夫な脚と背から尻尾への曲線が魅力的なさっぱりとした気質の地狼(デュルク)の雌や、襟巻をしたように厚い毛並みが麗しくたいへん慎ましく注意深い青氷雪狐(レティルケーン)の雌などが好みだ。

 人前で表明したことはないが、それが賢明な判断というものだろう。


「ニャア、ジェオ様、ニャア!」

「おお、ジェオではないか」

「ハルどの」

 仕事仲間のハルが、懐に使い魔を抱えて向こうからやってきた。彼が歩いてきた通り沿いには、魔術師組合ヴォジュラ支部がある。

 ハルの使い魔である(ニャンクス)のルクレシアスは、主人の外套の袷から顔だけを覗かせて、盛んに鳴いている。

「おう、おう、ルクレシアスや、うれしいのう。お前はまっことジェオが好きだのう」

 ハルは相好を崩して外套のふくらみを撫でながら、甘やかすように使い魔に語りかける。彼は使い魔の言葉までは聞き取れていないが、懐の猫が二回り歳の離れた同僚に混じり気のない好意を示そうとしていることは理解している。

「土産物を買いに来たのかね?」

「ええ。あとは、魔術師組合に依頼してある品があるので、それを引き取りに」

「ご家族によろしゅうにな」

「ええ。あなたもよき新年を」

「わっしもおるぞーい」

 ハルの隣りにぽすんと落下音を立てて、小さい男が着地した。

 彼の脚は毛なし猿よりも膝の関節の稼働域が広く出来ており、その立ち姿は毛なし猿が見れば脛から折れ曲がった風に見え、背からは一対の直翅を生やした、身の丈が大人の毛なし猿の腰ほどまでしかない妖霊人だ。顔は老人とも中年ともつかず年齢を判じにくい。老年なら相当な若作りであろうし、中年ならば老け顔というより他にない。

 ザンは辺境の森の奥深くに集落を形成する翅の氏族の出身で、ヒックやハルと同じく、イズリアルの直属部隊の一人であり、ジェオフレイの先輩にあたる。見た目の印象の通り身のこなしが軽く、機動力に優れる。

 その特技を活かして彼は、辺境の森管理人の中でも、拠点となる森の入口の詰所から最も遠い地域を担当している。ジェオフレイを除く他の誰もが一月以上を要し、あるいは道に迷って遭難するともしれない行程を、彼はその半分の日数で確実に往復する。体の半分の長さと強靭な筋肉に支えられた脚力と、多用しないが空中を移動できる翅、生まれ故郷の森で培った方向感覚の賜物といえる。

 勿論、そんな彼に確実についていけるマズリ馬たちの能力あっての活躍であることを彼は理解している。毛なし猿の幼子ほどの体躯では、複数人の一月を支える物資を運搬することなどできないからだ。

「わっしからも、皆さまによろしゅうにな」

「ええ。ではまた来年」


 物資を満載した荷車を牽いたジェオフレイがマズリ厩舎にやってくると、収まっていた馬たちが喜んで次々と顔を覗かせる。

「ジェオ、おはよう。足が必要なんだね!?」

「森に帰るのでしょう? 荷物を運びますよ」

「ジェオ、会えて嬉しい。供をさせてください」

「いいや、我輩に! 我輩はもう何年もご主人に伺候しておらぬ」

 俄かに騒ぎ出したマズリたちの巨体が一斉に足を踏み鳴らすと地鳴りが発生し、堅牢な石の土台の上に建つヴォジュラ領主館の厩舎をすら揺るがせた。

「おお、これこれ、騒ぐでないよ。親父さんもそうじゃったが、坊主が来るとどうも馬たちが興奮するのう。出て行ったあともしばらく名残惜しげに鳴いたりして参るんだわい」

 第二の人生を厩番として送る元兵士のミュー爺さんが、口ほど困っていなさそうな顔つきで仕切り棒を押さえたり位置を直したりしながら愚痴った。ここで兵士をしていた頃の父親を知っている彼は、当然ジェオフレイのことも坊主呼びがなんら違和感のなかった幼少期から知っている。

 更には彼らの獣に対して発揮される特質に慣れている。ジェオフレイが命じれば馬たちが従うことを理屈はともかくとして確信しているので、心配していないのだ。

 なにしろ、この厩舎に集められている馬の約半数が、20年ばかり前にジェオフレイの父が野生だったものを捕獲して人に馴らしたマズリたちだ。それらが繁殖して彼を知らない個体も増えているが、前者は今でも自分の本当の主人はジェオフレイの父だと思っている。

「まあいいさ。どの子を連れて行くよ?」

 ミュー爺さんが切り替えよく尋ねると、耳をぴんと立てて大人しく待ち構えていた馬たちが、期待に満ちた視線と訴えの集中砲火を浴びせる。

「リルルを連れていっていいとお館様に言われたんで、まず彼と、」

「まことか、ジェオ、さあ行こう、すぐ行こう! 我輩に任せておけば、いかさま荷を積んでいようとも、風よりも速く到着してみせようぞ!」

 それを聞いて空気を震わせるほど嘶き凄まじい地響きを立て始めたリルルというのは、このマズリ厩舎で一番体が大きく年嵩の個体だ。20年前には、ヴォジュリスティ西部の村から討伐依頼が持ち込まれるほど凶暴な人食い馬として名と図体を売っていたところを、討伐隊に参加していたジェオフレイの父親が屈服させた。

 父は領主家のために、リルルが従えていた野生の群れを丸ごと連れ帰った。それが領主邸の農園で繁殖し、軍用馬として以外にも、あらゆる面において重要な資源となっている。

「ほ。よかったのう、リルルちゃん? あと二頭はどうする?」

 ジェオフレイはずっと続いていた背景音声に根気よく耳を傾けて、実家に行っていない期間が長い者から順に二頭選んだ。同時に満ちた他の馬たちの落胆の溜息は、地を這う生ぬるい風となって厩舎の方々に散っていた乾草の欠片を片隅に吹き寄せた。

 自力で牽いてきた荷車に満載した生活物資や家族への土産物などの荷物を載せる間、三頭のマズリは誇らしげに首を逸らして胸を張り、ジェオフレイが準備を整えるのを待っていた。

「ほいじゃあな、坊主。また来年」

「ああ。また」

 ミュー爺さんは、長年の経験から半日後には外は吹雪いてきそうな雲行きに気付いていたが、注意喚起はしなかった。余計な世話であることを、やはり長年の経験からよく理解していたからだ。


 適当に荷を分担した三頭のマズリの手綱を握ったジェオフレイは、自身は徒歩のまま、領主館の公の出入り口から通りに出た。

 南門にまっすぐ伸びる目抜き通りを無視してすぐに右に折れ、閑静な倉庫街、住宅街をのんびりと歩いて抜ける。歳末の賑わいは外部の組合員や商人のいないこの区画にも及んでおり、通りを行き交う人々は普段より多い。冬篭りの支度に追われている地元農夫や、通りすがりの余所者にささやかな小物を売りつけて小銭を稼いでいる子供が、礼儀正しい挙措でもないのに自然と道を空け、ジェオフレイたちを見送った。

 途中複数個所に配置されている見張り番も顔パス……とはいかず、いちいち通行許可証と持ち出し荷物の目録を提示し検閲を受けてから、西門から街の外へ出る。こういうことを省略した時こそ落ち度が生じるものというヴォジュラの警戒心に富んだ気風にはジェオフレイも同感なので、否やはない。

 走りたがってうずうずしている馬たちを無言で宥めながら、辛抱強く低速で歩いて街を抜ける頃には、朝日がすっかり昇り切っていた。

 しばらく街道を北西へ進む。馬たちの手綱は手放してぶらぶらと揺れるままにしてある。

 ジェオフレイは徒歩のまま、長い脚をゆったりと動かし気ままなそぞろ歩きでもしている歩調でありながら、後方へ流れる景色はどんどんと速くなっていく。

 土を休ませている見晴らしの良い畑には人影一つなく、畦で区切られた畑が一枚一枚書物の頁を繰るように、はるか後方へと置き去りにされる。まるで馬を駆っているのと同じように。

 程なく西方の村へと続く道を外れて真北へ曲がる頃には、ジェオフレイは急ぎ足に踵を上げて、馬たちも軽快な小走りになった。余力を多分に残している風に見て取れるその進み方とはちぐはぐに、周囲を流れる景色は形を持たない色の塊としてしかその体を残さない。

 ヴォジュラの厳しい冬と厚い積雪の下でも強く根を張って生きるソティアの茂みばかりが点在する地割れの走る荒野に変わると、ヴォジュラ北部の人の領域を完全に離れたことを示している。

 それを境に、彼らは走り始めた。景色は、色づいた風となった。

 ジェオフレイは二本足の毛なし猿から、つやつやとした灰色の毛並みの若いマズリへと変わっていた。怪物級の賞金首として数えられたこともあるリルルと比すればさすがに小さいが、他を圧する生命力と優美な均整に彩られた躍動感あふれる体躯は、目撃する第三者がいれば、彼がこの小さな群れを率いる存在であることを一目で知らせただろう。疾走する彼らの姿を見て取れる人外級の視力を持つ者ならば、であるが。

 荒野を走るうち、雪の紗幕に飛び込んだ。本来なら雪が舞い始め、北上するうちに段階を経て質量を増すと感じられただろう。あまりに移動速度が速いので、そうとしか見えないのだ。

 灰色に塗り潰された空を背景に、氷雪を巻き上げて逆巻く風。白黒に沈んだそこにさっと刷毛を滑らせるように行き交う、輪郭のおぼろな人影。

 吹雪に乗ってここまで南下してきた息の氏族の妖霊人たちが、上空で楽しげに雪を回らせている。目が合ったので、彼らの言葉で短い挨拶をすると、向こうも軽やかな笑い声とともに機嫌よく応えて、また空の散歩に戻って行った。

 息の氏族は日当たりが悪く空に溶け込めるように曇った天気のこの時期にしか現れないが、吹雪が広範に亘ると彼らは活性化し活動前線を人里に近くまで広げる。冬枯れの森の上空やら嵐の日の吹き荒ぶ風の合間を靄のような人影が漂っているといった目撃情報が寄せられるのもこの時期で、しょっちゅう魔物と間違えられて調査・討伐依頼が組合に持ち込まれるため、組合職員はその都度対応に苦慮している。

 滝のように降り注ぐ風雪は、ジェオフレイを先頭に地上を北へひた走る一行を避けて吹き、行く手で堆く積もりつつある雪を乾いた砂か何かのようにたやすく吹き散らす。

 ジェオフレイは己の方向感覚と足元のクレバスの位置に関する記憶を頼りに最短距離を蛇行しつつ、北へ駆ける。平時の仕事のような、荷車を運ぶ時の遠慮は一切なく、今や風を超えて速い。

 風景を巻き取り、切り取って跳ぶ。周囲の物を一緒に引っ張り距離を省略する。

 マズリが生まれ持つこの能力を理論づけた毛なし猿の有識はおらず、ゆえに名はない。もしも敬清がその性質を深く知れば、縮地と表現するであろうこれにより、マズリは移動速度で劣るものを従えて引き連れることができる。イズリアル率いる辺境管理人補給部隊がわずか半日で都と辺境を行き来出来る主な理由がこれである。

 その理屈を理解している者はいない。他の隊員たちも実際の距離と体感の所要時間が釣り合っていないことには気づいているだろうが、理由までは知らないでいる。



 二刻とかけずに街から最短の詰め所に到着する前に、ジェオフレイは二本足に戻った。

 彼は心地よい運動をした後の温かい満足の吐息を吐き出し、リルルの足の下で降り注ぐ雪を避けながら、荷物から蓑と頭巾を取り出して身に着ける。

 馬たちがぶら下げるままにしてあった手綱を取り、豪雪の帳に紛れて詰め所に近寄る間に、体は程良く雪と氷に塗れて、いかにもこの悪天の中苦心して辿り着いた人という見てくれになっている。

 ここでも通行許可証と目録を提示し、荷物を検められた。この詰め所の隊長はじめ兵のほとんどとも顔見知りだが、やはり検閲に手抜きはない。

 屋外は未だ吹雪いているが、ジェオフレイは構わず身体検査のため一度解いたまだ氷の粒や雪解け水を滴らせる耐寒装備を再び纏うと、外で荷を背負ったまま待っていた馬たちを引き連れて森に踏み込んだ。

 一年で最も積雪量の多いこの時期に、更には猛吹雪の時もある森に踏み込んでいって期日通りに戻ってくる彼を、詰所の兵士たちも誰一人として止めようとはしない。詮索もしない。


 しばらく進むうち、雪の勢いが衰えてきた。

 霞みがちな視界の切れ目に老いたキツネの姿を認めて、青年は足を緩める。

 長老は、ジェオフレイがこの森に住むようになった頃から同じ姿のままでいる。所々地肌が見えているはげちょろけの毛皮はヴォジュラ辺境の極寒と相性がよくは見えないが、彼がそれを苦にする様子はない。肋骨が浮き、内臓が収まっているとは信じがたい細い腰。目元はヤニが滴り落ちる蝋を思わせる塊を作っており、目は白くかすんでいる。水晶玉のようになった目はやさしいぬくもりを帯びて、まっすぐに接近する子らを見ている。

 ただのキツネであれば老衰で死にかけているとしか表現しようのない体は、長老の常態であり、ジェオフレイには比するものなき偉大な存在と映る。彼は内から湧き出る慕わしさに導かれるように進み出、精一杯の敬意を伝えんとする努力に満ちた挙措で頭を垂れた。

 馬たちも俯きがちに、しずしずと追従する。

 長老が自ら姿を現すということは、こちらに用があるということだ。一同は畏まってそれを待ち受けた。

「おまえの巣の子猿どもが縄張りの外側をうろちょろすると、殻の氏族の者どもが気にしておる。不料簡はなかろうが、話を通しておくといい」

 声は大きくない。周囲に渦巻く風に掻き消されそうな程度。長老はジェオフレイがしているように、風雪を自分が進むに都合よく変更を加えていない。それなのに彼我の間に幾重にも層を更新する風を突き抜けて、確かに聞く者の耳を打つのだ。

「承知いたしました」

 ジェオフレイは従順に答えた。

 件の巣穴はどの妖霊人の部族の縄張りとも外れているが、近在に暮らす妖霊人がいないわけではない。近所を見慣れぬ異種族が繰り返し徘徊すれば不審を招くのは当然のことだ。

 問題の巣穴付近に住む殻の氏族といえばキシュルリ部族であろう。父の管理人としての警戒区域からは大きく外れている地域なので、父が何かのついでに訪ねて便宜を乞うておくこともなかったようだ。子どもたちが妖霊人の領域を侵さない約束を守るという前提ありきの信頼ゆえでもあり、予め根回しをして付近の部族に織り込んでおくことは彼らの一家に対する心証を著しく下げる小細工として、避けたとも考えられる。

 ジェオフレイの返答に満足した長老は、用は済んだとばかり徐に踵を返し歩き去った。痩せた脚が思わせる通りの覚束ぬ足取りで、ふらりと雪煙に紛れたその向こうには、もうその姿はおろか、足跡さえ見て取れなかった。


 帰省経路を変更し、西へ向かう。キシュルリ部族の集落に寄るためだ。

 殻の氏族のキシュルリ部族は、ケイセイたちが目星を付けている辺境大フントクイの巣穴より30シェトレラばかり北西の丘陵地帯に地中を穿って蟻の巣のような集落を張り巡らせている。特に極寒に弱いということはないが、積極的に雪を掻いてまで地表で活動することはない。

 縄張りの境界で、来訪を告げる正式な手順を踏み、見張り役の者が対応に現れるのを待つことしばし。

 風雨をうまく避けられている雪の積もらない一角の凍った土が急速にひび割れ盛り上がり、いくつもの節が分れている複数の腕がそれを破って、天然の装甲をまとった殻の氏族の女性が現れた。このような場所には必ず守衛として十分な人数が配置されている屈強な戦士型の一人だ。

「これは、お役目殿のご子息殿」

 姿は現さぬまでも、仲間が土中の通路に控えているに違いない。

 殻の氏族に限らずこの辺境の森に住む妖霊人は、部族ごとに同じ祖を持つ血縁同士であることが殆どで、このキシュルリ部族は代々女性の族長を頂いて繁栄してきた大規模な集落を辺境の森南西部に築いている。一族の構成員の殆どは女性で、男性の数は全体の一割にも満たない。そうした背景から極端な女性優位の習慣が根付いており、男性に対する評価はきわめて辛辣な傾向にある。

 それを踏まえてジェオフレイは先程の長老との一幕について話し、縄張りの周りを騒がせている件を丁重に詫びた。

「念を入れて、その巣穴からあなたがたの集落に繋がる道は塞いでおいた方がよいと思われます。手間を増やして申し訳ないが、お願いしたい」

 六本の腕のうち四本を有事に即応できるよう力を抜いて、残る二本の腕を毛なし猿と同じように胸の前で考え込むような姿勢に組んだ女は、キチキチと革を擦り合わせた時に出る音に似た笑い声を発した。

「子供の使いに入念であることよ。その情の細かさが、熱い血と肉を持つ部族の性であるのかね」

 表情の変化は見られずとも、ジェオフレイは彼女の磨かれた黒曜石のような複眼が緩やかに黄色と青に明滅しているのと、鋭く湾曲した大あごが細かく揺れているのとで、話し相手の機嫌が悪くないことを察する。

「一族を思う情の深さと団結力であなた方に勝るものをわたしは存じませぬが。祖霊の加護なき毛なし猿の方向感覚、地中では殊に心許ない。わたしも父もついていてやれぬので、尚更間違いが起こらぬようにしたいのです」

「心当たりの新しい道が一つ二つある。それにはこちらで印を付けておこう。もし、うぬの子らが近くまで来たとして、それに気づいて引き返すならよし、気付かず侵入してくるならば、穏便にお引き取り願う、それでよいか」

「ありがたい」

 ジェオフレイは、キシュルリ部族の女人に礼を言ってその場を離れた。



 実家に程近い小道を進む頃には、ちらつく雪もわずかになってきた。

 小さな家が見える場所に到達する前に、肉厚で小さな葉を付ける深緑の梢の下、雪べらを手にしたケイセイが元気よく走り寄って来た。

 皮膚を隙なく覆った耐寒冷仕様で表情はいささかも見て取れないが、愛想のよい仕草と態度で歓迎されていることがわかる。

 ジェオフレイは覆面の下で眉を顰めた。

 義弟はここで、何か魔法を使っていたものらしく、周囲の空気がかすかに荒れている。

「お帰りなさい、お兄さん!」

「メエ!」

 足元では忠実な少年の使い魔が均された雪の上を跳ね回っている。冬仕様なのか使い魔としての進化なのか定かでないが、毛が長い。

「何をしているんだ」

「食べ物を保管する氷室を作っています。雪を固めてぶろっくを作って、積み上げます。連鎖は起こりません」

「そうか」

 一部意味不明な表現があったが、この子ら独自の価値観に基づいた根拠のある目的なのだろうと判断し、追究は差し控える。

「さっき、ゴーディアスが、お兄さんが帰って来たことを気付いて教えてくれましたよ」

 ケイセイが少し得意げにそう言うと、ゴーディアスも同じく誇りかに頭をもたげた。

「そーでしゅ!」

 やや舌足らずなのは、発声器官が未発達なまま留め置かれたのか、精神が乳幼児のままであるからなのかは、判じ難い。他人の使い魔だし、意味さえ通じるなら訂正することもないだろうと、突っ込みはしない。

 それよりも、ここ二年、ジェオフレイが太鼓判を捺していたケイセイの警戒心に富んだ対応が鳴りを潜めていたのは、用心を疎かにしていたからではないと判明して、心中密かに安堵していた。

 いくら三度目だからといっても、全身これ『ケイセイいわくナマハゲ』たる姿をした外来者は必ず兄だと決めつけず、疑ってかかってもらいたい。

「そうか」

 だが、促さずとも機嫌良く近況を報告する義弟の話の腰を折ることもないかと思い、相槌を打つに留めた。小言を言うのが面倒だったからでもない。

「ぼくは、ゴーディアスの目と耳を通して見聞きができるようになったのです」

「でしゅ!」

「そうか」

「ゴーディアスと離れたところにいても、ゴーディアスを始点にして魔法を使うこともできるようになりました」

「なのでしゅ!」

「そうか」

「ウルリカとお姉様は、今日はごちそうを作ります。年末のご馳走に、新鮮なお肉を用意しました。ミネを食べるます」

「でしゅっ」

「そうか」

 自分と血筋を同じくする生き物の末路について頭上で語られても、ゴーディアスは動揺を見せない。

 ビタとミンという野ヤギから産まれたその心身は、もはや家畜として食べられてしまうヤギと同じではなく、ケイセイという魔術師の使い魔という別種の生命体への変化を終えているのだ。

 たった一体で完成された、仕える魔術師ごとに異なる特質を持つ独立した生命体。繁殖の必要がないため、種の、親子の繋がりは意味を失くし、自身も二世を授かる能力を失う。

 そのはずの父と毛なし猿の母からひょっこりと生まれたジェオフレイは、父が契約を交わした祖との繋がりを持つものの、使い魔でなければ、毛なし猿でもない。

 人の身で使い魔となった父ををはじめとした祖の使い魔たちは祖の獣の代理としての側面を持つため、通常の魔術師が一部の感覚とちからを獣と共有する関係になるだけとなる使い魔と異なり、その力を主の許す範囲において引き出し行使することができる。その力は無限であるため、その限度は主に行使者たる使い魔の許容範囲の限界と同値となる。

 父が長い時間をかけて馴染み習得してきた祖の恵みをジェオフレイは受け継いでおり、生まれながらにして使いこなす術を心得ていた。完成した使い魔と同じ特質を持ちながら、成長進化する余地のある肉体を備え、状態を固定する契約者を持たない。

 厳密な同族を一人として持たない彼は、己を父と同じく祖の獣に仕える者と見做している。

 祖は、彼を受け入れた。それでいて、彼に契約者を与えて新しい使い魔にしようともしない。

 実のところ、フェルビースト家とも特別の約定はなく、現在の出稼ぎは信の置ける人手が欲しいイズリアルの希望と父の許しとが一致した結果取り交わした通常の雇用契約に過ぎず、それ以上を求められることもなかった。

 彼は完全に自由の身なのだ。自ら選択して、森を離れずにいる。

 ケイセイは作業を中断し、ジェオフレイの荷運びを手伝う態勢に入るが、途中で何かを思い出したようにあっと声を上げて深刻そうに言った。

「お兄さん、実はぼくは少しずるをして、魔法を使ってぶろっくを作っていました。今、家の中ではお姉様が魔法のお薬を作る鍋を火にかけているので、関係のない魔法が混じるとお薬が失敗します。ぼくはほとぼりが冷めるまで家に入るわけにはいかないので、荷物を下ろすところまでしか手伝えませんが、いいですか?」

「そりゃ構わんが、それなら作業の手を止めてまで手伝わなくてもいいぞ。ぶろっくとやらを作ってろ。その方が効率がいいだろう」

「ありがとうございます、お兄さん! じゃあ、ぼくはそうします」

「メエッ!」

 少年は再び、雪べらを振り回し、先程から近づいてくる家の庭先の光景の中で異彩を放っていた、雪を押し固めて形を整えた煉瓦のような物を積み上げた小山に向かってすっ飛んでいった。ゴーディアスも直ちに主人に付き従う。

 ジェオフレイは微笑ましくそれを見送り、義弟の14歳の誕生祝いが入った荷の搬入に取り掛かった。


「兄様! お帰りなさいませ!」

 華やいだ声で彼を迎えたウルリカは、片手に食肉切断用の大鉈、もう片手につやつやした新鮮な骨付き肉の塊を掴んだまま、小走りに現れた。

 妹の両手が塞がっていてジェオフレイも氷の粒と払い落した雪の残りに塗れていたので抱擁し合いはしなかったが、軽く頬に口づけあって再会を喜び合う。

「いつもは正午にはお戻りなのに、今日はなかなかみえられないから心配いたしましたのよ。ご無事でほんとうにようございました」

 うなじの上で一つにまとめられたきらびやかな金髪が、妹の動きに従って急流の如く流れて渦を巻く。ぱちりと大きな青い目は今は親愛に満ちて細められ、笑顔は輝くよう。人の美醜に拘らないジェオフレイだが、ウルリカは掛け値なく美しい造作だと思う。

 台所にいた人型のシオネは、どこか呆れとも戸惑いともつかぬ顔つきで、いらっしゃいませと言った。近づいてはこない。何か、躊躇いを生じさせる見えない幕が下りてでもいるかのような物堅さを感じる。犬の時とはたいそうな違いである。それだけ四つ足の時は考えなしであるといえる。

 妹たちの手が食材で塞がっているので、ジェオフレイは防寒装備一式を脱いで、いつもは妹がしてくれる水気を切って火の側にかけるところまで一人で済ませた。


 その後、帰って来た父を含めて夕餉の食卓を囲み、食後に家族の前でしても差し支えない範囲で仕事の話をした。

 この冬は西からの風が多く吹く。東への積雪が増えるだろう。どこそこの交通の便が悪くなるか、東の山間の村は雪に閉ざされるかもしれない。いつでも支援できるよう領主も備えている。氷雪レベルが高い時にのみ出現する魔物もいるので、その用意も必要だ。実家に帰りしな、見てきた(ルブラ)の冬眠穴は異常なし、秋の繁殖期にたっぷり肥えた鹿(フォア)の群れが程近いどこそこの地点にいた。氷狼の群れが例年通りのラインまで南下してきている、こちらも異常なし。南へ飛び去った渡り鳥たちも、いつも通りの時期に子育てを終えていた、はぐれた者もなく、万事順調。卵や蛹の形態で越冬する虫の数も今年は多すぎず少なすぎず。倒木や土砂崩れの位置と規模のすり合わせ、大雨大雪で変わった地形。

 ちなみに、放しておいたマズリたちが我先にと迎えに参上して運搬力が飛躍的に向上したため、父は急遽食肉となる大型動物を複数狩り薪の小山を拵え、それを背に積み上げた三頭のマズリ馬を従えてぽくぽくと帰って来た。

 会話が途切れた頃合を見計らいケイセイが言った。

「お兄さんは、巣穴の近くにどんな妖霊人が住んでいるか知っていますか?」

 妹たちは十分な質量の夕食を用意してくれていたが、まだ小腹に何か入りそうなジェオフレイは暖炉の前に椅子を引いてきて、備蓄食料の中から頂戴してきた肉を串に刺して暖炉の灰に刺していた。何も味付けをしていないし、彼自身は生でも平気で食べられるのだが、実家の温かく明るい部屋でのんびりしているうちに、熱々の肉汁の黄金色の輝きと香ばしさが欲しい気分になったのだ。

「ああ。巣穴近くにいたという妖霊人のことが気になるのか」

 夕餉の後片付けを終えて四つ足になったシオネがとことことやってきて彼の足元に座り、何食わぬ顔で肉を見詰めた。人型の時には十分な摂取量だった食事も、体重にして2倍近くにも体が大きくなった今は、物足りないらしい。

「はい。妖霊人には会えませんでしたが、隠れてぼくたちを見張っていたようなのです。会いたかったのです。また行けば会えるかもしれません。でももう冬本番になったのでお預けです」

 ジェオフレイが父を睇視すると、父は気まずそうに小さく微苦笑を口の端に浮かべて目線だけで詫びたので、父がキシュルリ部族に関して何の情報もケイセイに与えていないことを悟ったジェオフレイはしばし、なんと答えようかと思案した。膝をちょんちょんと突っつく前脚はひとまず無視する。

「お兄さん、私にも食後のおやつをください」

「お父さんから聞いていると思うが、妖霊人は、基本的には人間の動向には無関心だ。縄張りのすぐ外側で騒ぎを起こそうが死のうが、自衛のための行動以外は不干渉を貫くだろう。向こうから姿を現すことはまずない」

「そうですわね。一度シオネが臭いを嗅ぎ当ててくれたことがあったのですが、それ以降は臭跡すら残されなくなってしまいましたもの。やはり、森に潜む能力ともなると妖霊人の方が人間よりずっと上手ですのね」

「お兄さんお兄さん、私にもお肉を分けてください」

 空気を読まない発言とともにしつこく膝をつつく肉球の感触は、かつてこの義妹が突然変異を遂げて間もない頃に触れた時からすっかり固くなっていた。

 串から火が通り切っていない肉を一切れ引っこ抜き、放ってやると、シオネは上手に空中で口で受け止めた。嬉々としてばくばくと口を噛み合わせる割には、碌に噛まずに飲み込んでしまう食べ方は、まるきり獣と同じだ。

「人の方から尋ねて行くならば、余程の理由が必要となる。父さんが知っている限りでは、人が訪ねて受け入れられた例は、隣領との緊張が高まって戦を危惧された時や、稀な凶悪魔物が妖霊人の領域人の領域問わず荒らし回った際の警告や伝令の使者が遣わされた時くらいだった。少なくとも、好奇心では無理だ」

「会えませんか……」

「しょんぼりでしゅ……」

 ケイセイは、使い魔ともども阻喪して肩を落とす。ともどもというよりは、ゴーディアスがいちいち主人の真似をして行動をなぞるので、同じ動きをしているように見えるのだ。街の魔術師組合でもちょっとお目にかかれない、共鳴度の高すぎる使い魔だ。

 例えば、ハルの使い魔のルクレシアスはジェオフレイに対しても一定の好意と敬意を隠さない。大いなる存在を契約者に持つ父でさえ、主への忠節と家族を含むその他複数の存在への愛情を分け持っているし、優先順位の首位を適宜切り替えている。

 ゴーディアスは見たところ、敬慕の一切をケイセイだけに捧げている。妹ヤギが食肉に変わることへの抵抗感のなさは、単に使い魔に変化し切ったからというだけの理由ではないのだ。使い魔契約の拘束力が強すぎる。

「お兄さん、もっとお肉をください」

 ジェオフレイの物思いは、シオネの空気を読まない要求で中断された。

 人型の時に比べて気安く接してくるのは構わないが、実に厚かましい。彼や父が形態変化する時にはこんなに知性に緩急付いたりはしないし、シオネも獣の形態に引き摺られる段階は脱したはずだ。この知性を霞ませるほどの食欲は一体どうしたことだろう。

(霊薬を作る作業が思いの外消耗するようだ。倒れぬだけの体力を維持するために、霊薬を作った日はよく食べる。備蓄食料に打撃を与えぬようにしてのことだろう、ウルリカとケイセイに隠れて外で小動物や虫を狩っては食べている。夜食くらい分けてやってくれ)

 義娘を庇うように、穏やかな父の思念がそっと頭の中に滑り込んだ。

 小さな力の歪みはただちに父の内側で処理され切り、ケイセイもゴーディアスも力のかすかな動きに気付いた様子もない。

 ジェオフレイは黙って串を掴み取って肉を全て引っこ抜き、その掌を伸べてやる。シオネは尻尾をわっさわっさと振りたくりながら、それを貪り始めた。

「兄様、お皿をお持ちいたしますわ」

 彼の眉間の皺をどう見てとったか、ウルリカが気づかわしげに踵を返した。

「あの辺りに住んでいる妖霊人は、殻の氏族だ。直立する昆虫や小動物に似ている。腕の数が多かったり角や羽が生えている種族もいるが、輪郭は人と変わらない。間違って遭遇しても魔物と間違うなよ」

「怒らせなければ物静かで論理的だが、一度(ひとたび)敵と見做されれば人が違ったように獰猛になる。殻の氏族は個より集団を尊ぶのが特徴だ」

「巣穴からは少し離れた場所に縄張りを持っているし、向こうから接触してくることはないから会うことはないと思うが」

 父と代わる代わる説明を補足して、大体こんなところだろうかと、香ばしさを漂わせ始めた肉の臭いを吟味する。

 ウルリカが皿を持ってきて、シオネのための肉を取り分けてくれた。兄と違い、ミトンを嵌めて串を取り、肉叉で丁寧に串から外していく。

 串から離れた箇所から食欲をそそる湯気と滴り落ちる肉汁が零れる。食べ頃だ。

 その間、ジェオフレイの指の間から滴り落ちる血の色を残す肉汁を惜しんで、頻りに首を傾け彼の掌をべろべろ舐めるシオネのために指を開いてやりながら、自らも空いたもう片手で暖炉の灰に刺さった串を掴んで齧り付く。勿論ミトンなど使わない。素手だ。そして金串から丸かじりだ。それでこそ食べた気がする。

 ジェオフレイの掌から味がしなくなると、シオネはやっとウルリカが用意してくれた皿の中身に食らい付いた。彼女は夜食にあり付いてからはずっとご機嫌で、尻尾をゆさゆさ振っている。

「……どうした、ケイセイ?」

 ケイセイが筆舌に尽くしがたい表情でこちらを見ていたので、思わず尋ねたが、少年は全てを放棄した諦念の色を帯びて、しばらく何も答えなかった。

 ややあって、

「いいえ、ぼくが言うことは何もありません」

 感情の削げ落ちた声で棒読みも甚だしいことを言った。

「ただ、明日は朝から、お姉様が壁の隅っこと仲良くなるでしょうと思いました」

 そして、ゆくりなく前後の会話の流れとは全く脈絡のない予言をし、理由の説明をしようとはしなかった。

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