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由無し一家  作者: しめ村
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ある晩秋の日

 シオネとケイセイが我が家にやってきて二月。

 秋も深まり、朝夕のみならず日中の空気にも刺すような冷たさが感じられるようになってきていた。

 そろそろ霜が降りるだろう。薪を多めに用意して、毛皮の服を増やしていかないと。


 そんなある日、いつもより食卓が静かだと思ったら、シオネがやけに黙々と夕ご飯を食べていた。

 夕飯の支度を一緒にしていた時にはいつも通りだったのに、どこか思いつめたような目でお皿を睨み、食べ物を咀嚼している。

 ケイセイが最初は怪訝そうに、やがて気がかりそうに喋りかけるも、気難しい顔つきと上の空で返事をするばかり。

 どうしたのかしら。私も気になって声をかけた。

「シオネ? どうしたの?」

「ん。どうもしません」

 こちらを見もせず答えた彼女の髪は、まだ湿っていた。

 この時、彼女の頭を火に突きつけてでも乾かしていれば、少しは違ったかもしれない。

 父様が眉間に皺を寄せ、重々しく仰った。

「シオネは暖かくして早く寝なさい。ウルリカ、今晩は気を付けてやれ」

「はい。かたづけます、寝ます」

「今日はお片付けしなくていいから、寝て頂戴」

「ノエチャ、0dt@7Zto,;!」

 私が止め、ケイセイも彼らの間の言葉で恐らくは『自分が代わりにしますからお姉様は休んでください』とでも言ったのだろう、真剣な顔で姉の体を私の方へと押しやった。

 ケイセイがシオネに呼びかける時にだけ口にする『ノエチャ』という言葉が『お姉様』を意味することは、この二月で自然と理解した。

 父様のことはシオネとケイセイで『オズィサ』『オチャン』と、微妙に呼び方が違う。普段はこちらの言葉でお父さんと呼んでいるけれど、時折彼女たちの言葉が口を衝いて飛び出すのだ。尊称や呼ぶ側の性別の違いか何かなのだろうが、残念ながらそこまでは確かめられない。

 ちなみに私のことは二人とも『ウルリカ』と呼ぶ。わかりやすくていい。

 手を引いて私とシオネの共用の寝室に導くと、ふらふらと危うい足取りでついてくる。

 これは風邪に罹ったのかもしれない。

 辺境の風邪は中央の風邪より重いという。それが単に辺境が北の地だからなのか、魔境に程近い地だからなのかはわからない。うんと温かくして解表効果の高いものをたくさん摂ってもらって、初期で食い止めなければあっという間に重篤になるのは、幼い頃の自分の経験からも確かだ。父様と兄様がとても心配してくださったのはおぼろげに覚えているのだが、どのように快癒したのかは記憶にない。どうしたのだったか。

 念のため毛布と毛皮でぐるぐる巻きにして、上に布団を被せて、一旦部屋を出た。

 白湯を用意して部屋に戻った時には、もうシオネは布団の中で身じろぎもせず眠っていた。


 それから家の所用を済ませ、熱冷ましの薬湯をいつでも飲んでもらえるように支度して、床に就く前にまたシオネの様子を窺った。

 熱が出ているようだった。息が熱く、顔が赤い。額に脂汗が滲んでいる。

 そっと声をかけたけれど、彼女の眠りは深く、目を開かない。

 丸まっていた体を仰向けにし、濡らした手巾を額に乗せる間も、目を開けなかった。

 そして、総身ががたがたと震えていた。

 私は息を呑んだ。シオネが体調を崩してしまったのは明らかだった。

 慣れない住環境で二月近く過ごしていた無自覚の疲れがたまっていたのかもしれない。そこに、冬に移り変わろうとしている時期に体が冷えて風邪がついてしまったのだろう。

 彼女はとてもきれい好きで、毎日の水浴びを欠かさない。

 私は汗をよくかく夏場は毎日小川に入っていたけれど、秋口からは頻度を減らして、森の木の葉が色を変えるようになってからは、体を拭くだけに留めている。髪を洗う回数は更に少なくする。

 頭が乾かないとすぐに冷えてしまうし、怪我や病気をしてもすぐに医師にかかれないこの僻地では予防が第一だからだ。

 シオネは昼の空気が身に沁みるようになってからも、頭のてっぺんから爪先まで沐浴を怠らなかったぶん、念入りに体を拭いて火に当たっていたのだけれど、やはりこの時期の小川の水に入るのは無理があったのだ。辺境の冬は訪れが早い。


 しばらく見守っていると、どうやら熱が上がってきたようだ。静かだった息も荒く、不穏な掠れが混じるようになってきた。 

 私たち一家には医療の心得などない。

 我が家にある生薬は父様の仕事柄、外傷の手当てに効果を発揮するものや毒素を無効化するものが大半で、内側から回復を働きかけるものは薬膳に用いる程度のものしかない。

 兄様たちが持ってきてくださった製薬の中に風邪の症状向けの内服薬はあったけれど、意識のない、あるいは眠っている状態の人に飲ませるには困難な大粒の丸薬しかなかった。


 私は居ても立ってもいられず、父様とケイセイが眠る部屋に走った。

 父様にだって治療に関する知識は私と大差ない。そも、私に応急処置や薬草の知識を教えたのは父様なのだ。

 それでも、どうしようと途方に暮れた時、私が頼りにできるのは父様しかいない。

 私が部屋の前に立つと、声を出して呼んだり扉を叩くまでもなく父様は出てきてくださった。

「シオネがどうかしたのか」

「父様。そうなのです。シオネがひどい熱なのです。何の反応も返ってきません。どんどんひどくなっているのです。どうしましょう。どうしたらいいのですか」

 私はだいぶ動転していたと思う。

 扉の向こうにいるケイセイを起こさないように、声を荒げないだけの分別は辛うじて働かせることはできたけれど、我ながら支離滅裂なことを繰り返して、地団太を踏み、手を揉み絞ってひたすらにおろおろした。答えを求めていたわけでもなく、ただ混乱を受け止めてもらえることを期待して父様に訴えかけていた。

「落ちつけ、ウルリカ。お前が正常な判断力を失ったところで、事態は変わらん。しっかりしろ」

 父様の決断は早かった。

「父さんは魔境に行ってファソを採ってくる。あり合わせでいい、歩きながら食える弁当を拵えてくれ。明後日の夜明けには戻る」

 きっぱりとそう言われ、部屋からご自身の装備品を抱えて出ていらした。

 玄関口で身繕いを始められたのは、ケイセイを起こさないためだ。

 私がすぐに恐慌状態から脱して指示に従えたのは、それが自分にできることだったからであることと、父様が強く心を支えてくださったからだ。

 ファソは優れた効能に見合った希少な薬草で、魔境でも殊に奥深くまで踏み込まなければ手に入らない。鮮度が効能に大きく影響し、乾燥が進むにつれ治療効果は減少していく。保存方法が確立されていないからこそ乱獲を免れているが、炮製しても摘みたてと同様の効果を得られるものならば、密猟者が殺到するだろう。今でさえ密猟者の間では人気上位の品だという。

 管理人が私情に任せて魔境の物を持ち出すことは本来禁じられている。それでも魔境の奥深くに赴き、シオネを治す薬草を手に入れると父様は宣言なさった。

 父様がそうまでしてくださるのだから、シオネは治る。もう大丈夫。

 掟を破る後ろめたさよりも喜びの方が勝った。

 そうだった。

 もっとずっと小さかった頃、私が同じように辺境風邪に罹ってうんうん唸っていた時、やっぱりこうして父様がファソを採ってきてくださったのだ。

 兄様が枕元で『頑張れ、ウルリカ。父さんが万能薬を持って帰るからな。それまでの辛抱だ』と何度も励ましてくださっていた声を思い出した。



 それから一刻も立たないうちに、父様はいつもの仕事に向かう備えで、真夜中の辺境の森に出て行かれた。

 いつもの時刻に戻らぬ予定の翌日の定時連絡用の報告書を、いつもの時間にドバに持たせて放つよう、書き残してくださって。



 シオネは二日間朦朧としていた。

 私は備蓄していたありとあらゆる薬草を試そうとした。

 けれど彼女は起きている時間の方が短く、食事はおろか薬液すらなかなか飲み込んでくれなかった。

 それでも水分は与えなければならなかったから、小さじや布を駆使して少しずつ口に含ませるのはほとんど一日中の仕事となった。

 見る見るうちに洟と痰がひどくなったので、鼻の通りをよくする草を水に浸した鍋をたくさん沸かして、その蒸気を部屋に満たした。

 シオネが目を覚ますのは、息が詰まって洟と痰を出す必要に迫られた時だけだった。

 毛布がじっとりと湿ってくるくらい絶え間ない汗をかく体を、何度も清拭した。そちらはもちろん私の役目だったけれど、他はケイセイと交代で行った。

 辛いくらい引き延ばされた時間だった。


 三度目にシオネの体を拭き終えた手巾を洗って窓辺につり下げ、手桶に新しい水を張って部屋に戻ると、ケイセイが膝を抱えて寝台脇の床に座っていた。

 見るからに沮喪していて、一回り小さい気がする背中を見ると胸が痛んだ。

 蒸気に満ちた部屋は、換気のために半分開いた扉と窓からの隙間風をも圧して暑いくらいで、あの子の頬からも汗が伝っていた。

 薄暗くなった室内に一つだけ、シオネの枕辺近くに据え付けた松明の明かりに照らされ光るそれが涙のようにも見えたので、よく見えないよう前を向いたまま隣に座る。

 二月のつきあいでしかない私にさえ、ケイセイを苛む不安が手に取るようにわかった。

 慣れない土地で暮らし始めたばかりの年端もいかない姉弟にとって、その片割れの容態は人生の岐路をも左右する最重要事項に違いない。

 この日ケイセイは、朝から何も口にしていなかった。

 なんとかしてあげたくて、このままではこの子も具合を悪くすると気がかりで、でも何か飲み食いしろなどと言うのは、彼の張り詰めた心の糸をあっけなく断ってしまうのではないかと思えて切り出せない。

「父様がね、ファソを採りに森に行ったわ。万能薬よ。父様が帰ってきたら、シオネは元気になるわ。明日の朝、帰ってくるから。一緒に待っていましょうね」

「……はい」

 左腕で肩を抱いてあやすように揺すると、こちらに引く動きに沿って、ケイセイの頭が私の肩口に落っこちてきた。

 右腕を回して顔を隠すように頭を撫でる。視界が揺らめくほどの蒸気のせいか、汗のせいか、黒髪は少し湿っていた。脂の臭いが鼻を衝いた。

 シオネはこれを嫌って、毎日寒風吹き荒ぶ冬近い小川で髪まで洗っていたのだろう。

 女の子として、それは咎められない気がする。

 ケイセイが、湿っていながら乾いた掠れ声で、ぽつりと言った。

「お姉さんは、風邪したこと、ないでした」

「ええ」

「ぼくも、風邪、ないでした……ので、びょうき、こわい、知らないでした」

 その時私は、彼を支配する恐怖と絶望が私の想像以上に強いことを理解した。

 風邪ですら一人の人間をこんなにも打ちのめすものだと知らなかった彼が初めて味わった、病によって肉親を失うのではないかという恐怖と、それに際して何もできないという絶望。かつて兄様も、私の病床に付き添いながら、こんな気持ちと戦ったのだろうか。

 どうしたらいいのだろう。どうすれば支えてあげられるのだろう。

 それまで無縁だった事柄だからこそ、突然降りかかったその可能性を受け止められず、混乱し怯えているこの子を。

「病気、こわい、こんなに……ジッチャ……」

 私に話していたことを忘れたのか、ケイセイは立てた膝の間に顔を埋めてしまった。

 更に濡れた声で滔々と流れ出たたくさんの嘆きはもはや全て彼らの言葉で、私にはその後の意味を知ることはできなかった。

 それがなんだか、彼の心が閉ざされていく様を見るようで、私は何とか引き止めようとその体を抱き締め、私が側についていること、独りぼっちにならないでほしいことが伝わればいいと願った。

 悲痛な思いだけは胸を引き絞られるまでに伝わってくるのに、この子の心を慰める術を何も持っていなくて、それがもどかしくて悲しくて、私はただ小さくなったケイセイを両腕で抱き締めてその総身を苛む震えを共有することしかできずにいた。

 すごく、泣きたくなった。



 父様は宣言通り翌々日の朝、ファソを手に戻っていらした。

 縛り上げる手間暇も惜しかったのだろう、首元と蔦と根っこを一纏めに豚縛りするようにしてわし掴んだ左掌で口を塞いでいた。

 平均3日はかかるという道のりを一日半弱で戻られたのだから、余程に急がれたのだ。魔物との遭遇率も跳ね上がり、戦いは熾烈を極めたことだろう。それでもひどいお怪我もなく、装備もファソに掌を何度も噛まれたらしく皮手袋に無数の穴が開いていた他には、見て取れるほど明らかな傷みはない。さすがは父様。

 帰る途中の小川で水洗いを済ませたと仰ったので、湯を沸かしておいた鍋に即座に突っ込み、身の毛のよだつ悲鳴と暴れて零れる熱湯の飛沫を無視して蓋で抑え込みながら、黄緑色の煮汁が出尽くすまで湯掻いた。

 ファソの叫びには人間の精神を錯乱させたり体の自由な動きを阻害する効果があるのだけど、それどころじゃなかったこちらは楽々と抵抗することができた。

 念のためケイセイには事前に耳栓をさせておいたけれど。

 ケイセイが『……薬草?』と呟いた声は聞こえてはいたけれど、向こうの言葉だったので私は気にしなかった。



 その甲斐あって、シオネは見事回復した。

 見ていて居た堪れなくなるほど恐縮してお礼とお詫びを重ねるので、こちらも対応に困ってしまった。

 おろおろして手を取って肩を抱いて背をさすって涙を拭いて、気がつけばお互いに縋って涙ぐむ始末。

 どうしてだろう、悲しいわけでも遣る瀬無かったわけでも、ましてや感涙に咽ぶような嬉し泣きだったわけでもないのに。

 ううん、それは、シオネが元に戻ってくれて嬉しかった。

 嬉しかったけれど、そういうのではなかったの。

 ただ、こんなに改まって頭を下げられるようなことではないのにという反発めいた気持ちだとか、だからそんなことしてほしくないすごくじれったい気持ちだとか、やっぱり元気になってくれてすごくうれしかったとか、シオネが人事不省に陥っている間にケイセイがどんなに辛そうだったかが思い出されて、頭の中がぐちゃぐちゃになってしまっていて。

 だから、なんだろう、感極まっていたのかしら。

 ただ、泣きやんだ後に、とてもすっきりしたことは確かだった。


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