未知のダンジョンが載っている地図などない
さあて、春が来ましたよ。
にじあらわる月20日。元の世界の暦じゃ5月中旬くらいになるが、この世界のこの地方においては純然たる春の訪れの時期である。
物陰各所に堆く存在を主張する根雪が残っているものの、雪解け水が一時的な湿地をそこここに作り出し、分厚い積雪の下で越冬した種子たちが一斉に発芽する。葉を付ける前に花を咲かせる植物たちが、他の花に先駆けて辺境の短い春のうちにポリネーションを当てこんだ色鮮やかな花を開く。冬が明けたばかりの辺境の森の中で、それらは宝石を散りばめたみたいに輝かしい。
上方の梢では春の気配をいち早く嗅ぎつけた植物が、凍えて縮こまっていた蕾に和らいだ日光を浴びて、地上よりも一足先に芽吹き始めている。
芋虫の日にこれまた一斉に孵った虫たちが、全力で活動を開始するのもまたこの頃。
私はこっち来て二年目にして初めて芋虫の日を体験した。時を同じくして私とウルリカは18歳になりました。
未だ正確には決めていない私の誕生日とさほどの間を置かずして、芋虫の日が来てしまった。そろそろ私の誕生日が来るから芋虫の日、なんていう認識でいられるのが地味に嫌だ。
いやはやすごかったなあ。お父さんが仕事に行く時にぎりぎりに開いた扉のわずかな隙間から見えた幼虫、幼虫、幼虫! びっしりとログハウスのテラスと柱と壁を埋め尽くし、いごいごうごうごひしめく様といったら圧巻だった。おいしそう的な意味で。ウルリカの謎テンションとも敬清のうげらって反応とも異なる感想だとは自覚してるんで、黙ってたけど。
ウルリカのテンション爆上げは虫そのものに対してじゃなくて、虫を食べに飛び交う鳥の乱舞に対してだった。
確かに、この家での生活の中では、一年で最も色彩豊かなイベントではある。翌日の虫の食べ残しと糞塗れになった家の外装を洗う労苦に見合う光景かと問われれば、そうでもないと思うけどさ。色とりどりの鳥の抜け落ちた羽も、大抵は色んな汚れに塗れてて飾り物としての価値は失われていたし。
出入りの際に扉を開く度に隙間から何匹か這い込んで来たり、開閉動作に巻き込まれてそれ以上に沢山の幼虫が潰れていたので、戸口周りの掃除が一番大変だった。ちなみに開閉の隙に我が家に五体満足(?)に侵入してきた虫たちは、私が拾い集めて軽く炙っておいしくいただきました。
鳥小屋の鳥たちは大喜びだった。その日は餌を補充する必要がなかったくらいだ。
ビタとミンは邪魔そうにしてたけどね。
ビタミンといえば、いつ頃からかははっきりしないんだけど、気付いたらミンが妊娠していた。この頃動作が緩慢になったな、体調悪いんかなと思ってたら、お腹が大きくなってお乳が張ってきたので静かな驚きに打たれたばかりだ。
同時に、年始にお兄ちゃんが言ってた繁殖期という言葉の意味が真に迫って感じられるようになった。春になったら犬姿はやめれと言われていたので、人間でいる時間を増やしてたのが気付きを遅めた原因だろう。
うむ、とりあえず、当面は人間でいようと思う。
ちなみに今年の誕生祝いのプレゼントは、お兄ちゃんとイズリアルさん連名で、ウルリカには鮮やかな緑色が華美過ぎず地味過ぎないマキシ丈のサマードレスだった。育ちのせいか彼女は実務的すぎるから、そろそろお洒落にも気を配ってほしいという兄心が窺える。
そうはいっても日々森の中の一軒家を切り盛りするウルリカの仕事の妨げにならないよう、袖と裾はたくしあげてパレオみたく結んで丈を調節できるようになっている。そこも下品にならないように気を配られたデザインになってて、結んで垂らした時に裾飾りの房が際立つアクセントになっている。
一方、私が貰ったのは鳥の骨格標本だった。この辺ではたまにしか見られないフォルセボという中型の肉食鳥で、先の尖った翼と扇のように広がった尾羽がきれいな鳥だったと記憶している。
これを見た瞬間の敬清は目が点になっていた。ウルリカもなぜ? と言わんばかりの表情をしていた。自分の顔はちょっとわからない。
イズリアルさんはさすがに『私は一応反対したんだけれどね』と苦笑いをしていたけど、お兄ちゃんが強硬にこれを推して譲らなかったそうだ。
お兄ちゃん曰く『いいだろう?』……ええ、ええ、微妙にドヤ顔で言われなくとも意図はわかりますとも。私が喜ぶとは思ってないけど変身の練習にはおおいに役立つはずだとその目が雄弁に語っていましたとも! いや、それとも本当に喜ばれると思っていたのかもしんない。なにしろお兄ちゃんだからな……ウルリカへの贈り物との落差が激しすぎて涙がちょちょ切れそうでしたよ!
お父さんは勿論、お兄ちゃんの意図がわかってたんだろう、頑張れとばかりにちょっと目元を細めて笑ってた。
その日私が起きた時には、ウルリカは戸口からそっと身を滑らせて出ていくところだった。私を起こしたものは、彼女が扉を開いた物音だったようだ。
私たち二人とも、朝日が射す前には起き出すように習慣づいている。どちらか先に起きた方が徐に朝の支度を始めるのが倣いで、特に役割分担はしていない。先に目が覚めたからといって、もう一方を起こしたりもしない。そんなことしなくても、片方が活動を開始すれば、もう片方もじきに起きる。
私はまだまだ底冷えのするヴォジュラの早朝の空気に果敢に立ち向かいながら、枕元に用意していたひんやりした服に袖を通し、しばらく前から人間型で足を慣らしておいた革靴を履く。歩きやすさはスニーカーと比べるべくもないんだけどね、足首までしかない靴じゃ道なき道を行くには不足なんで。虫とか蛇とか下草の露とか泥溜まりに足が嵌った時なんかあるからさ。
土間の片隅で顔を洗ったあとは、朝食とお弁当を作るために動き回っているうちに体が温まってくるから、ここまでが踏ん張りどころだ。
上がり框を境界線に引いた土間と間続きの木張りの床の居間はしんと冷え切っていて、ここに火を入れるところから私とウルリカの一日は始まる。今日はもうウルリカが入れてくれている。
その彼女は、今は台所にいない。先に朝餉の支度を始めた者の倣いとして、家畜小屋に行ってるはずだ。
使い込まれて古びた木材は黒ずんでいるものの、ウルリカと私でよく磨き込んだ床はつやつやとしている。
ガラスのない窓は木製の鎧戸と仕掛け窓との二重構造で、これが閉まっている夜間の屋内は真っ暗だ。森の中の家に陽の光が射すのは朝日が昇ってしばらくしてからになるし、この寒い地域の窓が隙間風対策を講じていないわけがないので、火を起こすか陽が射さないことには、いつまで経ってもこの家には光が射さない。
鎧戸を開けると、まず鮮烈な冷気が雪崩れ込むように入り込んできて、食事の支度をしているうちにやがて淡い朝の光が滲むように屋内に広がってくる。生活必需品だけが素っ気なく置かれた居間に、ウルリカが雑多な小物を煩くない程度に置いているおかげで、薄暗い無人のこの空間に生活感と温かみが生まれている。
その中には、私と弟が手慰みに作った木彫りの動物が含まれている。
敬清は、これに魔法をかけて、なんだっけ、仕掛け紙だか敷き紙だかにできないものかと首を捻っていた。なんで木彫りの置物が紙になるのかと尋ねれば、鼻でせせら笑われてカミはカミでも神様の神の方じゃと言われた。特定の条件下で自律駆動する自宅警備員のようなことをさせられるらしい。私に理解できた範囲で言うなら、付喪神のようなもの、に似ている? ような? ものらしい。うん、よくわかんないや。
我が弟ながらビックリ箱を開くようなその発想力には恐れ入る。自作の拙い木彫りの猫や魚を前にして、よくそんなことを考えつくもんだ。
玄関扉が開いて、家畜小屋の掃除に行ってくれていたウルリカが現れた。開かれた扉から射し込み始めた朝日に縁取られた彼女は、今日もすこぶるつきに美しい。
犬の時なら外の足音と気配の動きがわかったんだけどな。今は五感の全部が鈍くって、突然扉が開いたようにすら思える。ちょいと野生の勘に頼りすぎの生活だったかもしんない。
「おはよう、シオネ。今日は温いわね」
「おはようございます、ウルリカ」
ウルリカの台詞の後半には素直に同意しかねたが、あえて異を唱えることもない。日本の標準的な冬の気配を残すこの気候も、本当にウルリカにとっては温かいのだろう。
「おはよう」
「おはようございます」
お父さんと弟も起き出して来た。
敬清はいつになくそわそわしてて、わくわくが止まらない感じでいる。緊張はしてないようだ。
さもありなん、今日は特別な日だ。玄関口には、三人分の荷物が並べてある。
お父さんはいつも通りだ。少なくとも立ち居振る舞いはいつも通りだったけど、今朝は一つだけ、いつもは持ち歩かない物を持っていた。
「ケイセイ、これを持って行きなさい」
敬清を傍に呼んで差し出した物というのは、今や敬清が片時も離さない愛用の木刀。と、瓜二つの木刀。いや、それより長い。あれ木のくせにくっそ重たいんだけど我が弟は片手で振り回すようになっている。いつその手からすっぽ抜けて明後日の方向を直撃するかと思うと危ないから真剣に怖い。
敬清は怪訝な顔でそれを受け取り、矯めつ眇めつしていたが、ややあって、短い叫びをあげて興奮し始めた。
「おとうさん! これはシコミヅエではございませんか! これをぼくにくれるますか?! 本当にくれるますか?!」
「そうとも。もうおまえに刃を持たせても空絡操るまいと思ってな。探索の道中にこそこのような武器を必要とする思いがけぬ敵が現れることもあろう」
お父さんは厳めしい輪郭の顔を笑み崩れさせて答えた。
どうやら餞別は敬清愛用の木刀より危険度の高い武器のようだ。見た目はただの握りのぶっとい木刀なんだけどな……ああっ、わかった、シコミヅエとは、仕込み杖か! 時代劇のご隠居とか昼行燈とかが杖に擬して持ち歩く、あのスマートなやつか!
なんてこった、かっこいい!
朝ごはんの片付けを済ませて、全員分のお弁当を拵えたら、さあ出発。
今日は、予てより辺境大フントクイの巣穴を探しに行くことになっていた日なのだ。
「お父さん、申し訳ありませんが、私たちが留守をする間、家畜と苗木の世話をお願いします」
「ああ、任せなさい」
畑にはまだ作物を植えていないので、畑までお願いしなくて済んだのはもっけの幸い。多分、主にウルリカの目の届かない時と所では、ちょっとくらい楽をして卒なく用事を済ませてくれちゃうんだろうから、あんまり心配はしてないんだけどさ。ビタミンと鳥たちも、お父さんがよく言い含めて放し飼いにしておくだけで事足りるだろうし。私の言い聞かせにはたいした強制力がないことはこれまでの彼らの態度で立証済みだけど、お父さんの言い付けならみんなよく守るに違いない。
「くれぐれも気を付けてな。多少の無理はしていいが、その見極めを誤らぬように」
「はい」
それにしても、お父さんより早く家を出るなんてはじめてだよ。
いつもは見送られる立場のお父さんは、戸口に立って、見えなくなるまで見送ってくれた。
三人で森の中をてくてく歩いて南を目指す。
無論、道なんてないから、茂みを掻き分けあるいは踏みしだき、思いもかけない所に開いている穴ぼこや段差や水たまりを飛び越えたり、ガレ場を慎重に横断したり、急な傾斜を迂回し伝い下りよじ登りながらの体力勝負をしながらだ。直線距離にして平面の三分の一も稼げていないだろう距離を、えんやこらと南方向へ移動していった。
元々水資源と土壌構造が豊かな土地なので、一旦雪と氷が解けてしまうと、森と池と湿地ときどき空地ありという多様な環境に一変する。
あっという間に下草が生い茂って平地がなくなる。昨年の枯草と落ち葉の湿った塊も方々に残っていて、これを踏みしだいて足場の取っ掛かりにしようとすると、案に相違して柔らかく、膝まで埋まってしまったりする。
地衣の群落が日本じゃ見たことない規模にまで発達している。
顔面から蜘蛛の巣に突っ込んじゃったり、汗で湿った頬に小さい虫が掠めて貼り付いちゃったり。足元をよくわからない小さい生き物が通り過ぎていくのなんて、もはや特筆することではない。
上を見れば、空に蜘蛛の巣を張ったみたいに大きく樹冠を展開する広葉樹。クルミっぽい波状型の木や、ケヤキに似た箒状型の木も入り乱れていて、うきうきしちゃうくらい賑々しい。今は若葉が芽吹いたばかりで、淡い透明な日差しが地面にまでふんだんに降り注いでいる。この隙に下生えがわさわさ繁茂するわけね。
更には、ミンが妊娠したこの時期、森の動物たちもいわゆる恋の季節に雪崩れ込んでいて、どこもかしこも興奮している鳥獣だらけで、やかましいったらない。
それぞれの種の間で美しいとされている歌声を競って雌へのアピールを続けている鳥たちの健気な努力をやかましいの一言で脇へ避けるのもすまないとは思う。しかし、やかましいもんはやかましいのだ。
私が聞き分けられただけでも、デフォルメされたタヌキのイラストみたいなとぼけた顔に似合わないまろやかなメロディーを奏でるクログ。朗らかな鳴き声のカハラ。
他にも木琴を叩くような声で梢の上を通った鳥がいたかと思ったら、管楽器に似たよく響く尾を引く声が別方向から降ってくる。建て付けの悪いドアが軋むような鳴き声に、ゆっくりしたテンポの透き通ったさえずり。まだ個体名と鳴き声を一致させられないでいる沢山の鳥ごとに違った声が、それぞれに違った場所から聞こえてくる。
その大半が雌を呼ぶ声ってのは、どうにかならんもんか。
これがただの可愛い鳥のさえずりに聞こえてれば心和むだけで済むってのに、下手に言ってることがわかるもんだから尚やかましく感じるんである。
大半にあたらないやけに鋭い気迫に満ちた鳴き声はキダラの雄の縄張り宣言で、今まさに同じテンポで響いてくるギェッギェッという耳障りな二重奏はトゥギの雄の闘争音だ。いや、こっちがキダラかな? 逆だっけか? どっちだ?
とにかく、自然界で家庭を持つためには、容姿や鳴き声が優れているだけでは駄目で、妻子を守る強さも必要なのだ。
勿論、見た目や気立て重視の種だってあるよ。さっきからあそこの木の枝をぴょんぴょこ跳び回っているあの鳥は、保護色の雌を追っかけ回して色とりどりの羽を見せびらかしている。四色に塗り分けられた羽毛がうるさいくらい自己主張しているのに、けばけばしくない配色はさすが自然の妙と感心するしかない。雌も枝から枝に跳び移って雄を翻弄してはいるけど、どこかに飛び去ろうとはしてないので、まんざらでもないと見た。恋の駆け引きってやつだろう。
巣作りを始めているのか、同じ枝周りを忙しなく跳び回ったり逆さに吊り下がったりと、小枝を咥えて動き回る鳥がいる。マイホームをセールスポイントにして雌を誘うタイプの鳥らしい。
トゥトゥみたいに、一度番形成したら終生連れ添うってタイプの動物や鳥もいるけど、そうでない種のが圧倒的に多い。だからこんな壮絶なアピール合戦を毎年やるわけだ。それを不毛だと思わない彼らの愚直さに、何とも言えない愛おしさを感じる。
最終的に選ぶ権利があるのは雌なわけだが、中には強引に迫る求愛行動するやつもいよう。根負けした時点で受け入れたも同然の結果に終わるようなのもいるから、雌としては気が抜けないと思う。
大分犬暮らしに慣れた私といえども、さすがにほぼ初対面となる四つ足の亭主との間に、いきなり複数の仔犬を産む覚悟は決まらないよ……
実は私、フントクイの巣穴の場所については、予めリサーチを重ねて、ある程度の目星を付けていた。
折角その辺にピーチクパーチクやかましい機動力のある生き物が飛び回ってるんだから尋ねてみるべと思ったら、これがドンピシャだったんである。
「大きいフントクイが出てきたところ、見たよ。向こうだよ。陽が沈む方向に山三つ分飛んだ崖下から出てきたよ」
「ここから一番近くの水場沿いの棚の端っこからも出てきたよ」
「樹が氷に変わる方向に一日飛んだところにもいたよ」
などなど、みんな知ってることを快く教えてくれた。
あれまあ、結構出入り口あちこちにあるのね。森の端っこから端っこまで目撃情報があまりに多岐に渡るので、どうやら複数個体の複数の巣のようだ。なるべく森の外に近いところにある巣を狙えば、森の外に通じている別の出口を見つけやすいのではなかろうか。
ここからフントクイの巣穴に一番近いのは、今私たちが水場として利用している小川沿いに西に半日ほど行った地点。一方、森の外から一番近い出入り口は、森の縁から人の足で歩いて一日くらいの地点。穴倉をさまよう時間を短縮するなら、後者を採るべきだろう。
私がちょっとした裏技を使って穴の大まかな位置を探知したよと告げた言葉を、弟はちっとも疑わなかった。どうやって情報を得たのかも詮索しなかった。一つ頷き、確信に満ちた口調で言っただけだ。
「うし、ほんじゃ、森の外に一番近い入り口を見つけよか」
そして我が弟は、私の大雑把な位置情報を元にウルリカとお父さんを交えた意見交換会でその範囲を絞り、今そこを目指してしっかりとした足取りで私たちを先導していった。
敬清が冬の盛りに負った怪我はこの4カ月程の間に完治し、遠出をするのに問題ない体調を整えている。体力維持のための運動と根雪の処理、畑の土起こし、冬の間に減った薪の確保に山菜採り、土支度の解除にと精力的に動き回って、探索の日に備えてきた。『やっぱ防御より回避』と嘯きながら。
とりあえず、怪我しないように努めてくれるなら、それに越したことはないと思う。
仔ヤギのゴーディアスも、猫ほどの小さな体に頑張って体力をつけてきたのか、ぴょんぴょん跳ぶようにしてストライドを広く保った歩調でついてくる。彼の短いあんよと跳躍力が及ばない時と体力が底を尽いた時には、敬清が肩に乗っけて運んだ。
道中は割と安全だった。
動物の一部はまだ色気より食い気で、冬眠明けの大型の肉食獣なんかはお腹を満たそうとして獰猛になるそうなので、遭遇した時の対処法なんかをいくつか教えられていたけど、必ず私の前に立つ敬清とウルリカが鈍くなった五感の誤差にもどかしがっている私の分までかなり気を遣って行き先を選んでくれているようで、そんなのに出くわすこともなかった。
人間の侵入者にも遭遇してない。見張りの兵隊さんと森の中の管理人さんが真面目にお仕事してくれているから、そうそう境界破りなんて存在現れやしない。
とはいえ、イレギュラーな事態というものは起こるもので、敬清によると、よその管理人さんの担当地域から入り込んで来たと思われる侵入者を見かけたことはあるらしい。お父さんがとっととふん縛ってしまったからやり合ったりも身の危険もなかったそうだが。
うっかり妖霊人の住処に迷い込んだりもしないで済んでいる。お父さんは猛獣や人間との接触よりも、むしろこちらの方を心配していて、例えフントクイの巣穴が目に見えるところにあったとしても、ここからここまでは絶対に進んではならないという場所をいくつか示して私たち一人一人に言質を引き出して厳命した。縄張りさえ侵さなければ彼らは障害にはならないからと。勿論、助けにもならないそうだけど。
見回りの人は基本、森の中に踏み込んでくることはないので、森の縁から半日分くらいの距離を警戒しておけば問題ないとイズリアルさんが言ってた。むしろ定められた外周部の見回りコースを外れた兵隊さんは処罰対象となるので、精鋭揃いと評判らしい辺境警備隊の皆さんはそんなルール違反はしないという。現段階では兵隊さんに出くわす心配はいらないはずだ。
人間相手ならともかく、動物たちは一部を覗いて単独か番で行動している。向こうも警戒態勢を取っているし、狼みたいに群れで数任せに包囲してくるとか、クマみたいな単独でも圧倒的に強い特別な個体でなければ、まあそこそこのやつなら襲ってはこないと思う。
ちなみに、ウルリカは家を出発した時から、私が渡した覆面を着用している。
食事は極力現地調達することに決めてある。
持参した乾燥野菜や燻製肉は、あくまでも非常用。もし期限内に穴倉に潜り込めれば、そこでも少しずつ消費することになるだろう。
お父さんと話し合って決めた遠征期間は20日。超過したらどうするとはお父さんは言わなかったけど、すぐさま回収に来て、敬清の街行きは白紙になるだろうことは想像が付く。
その辺のことは置いとくとして、どうせ食べるなら新鮮な山の幸がいい。折角森の恵みが豊富に芽吹き始めたこの時期に、それに肖らない手はない。
皆で道すがら山菜や幼虫を採っておき、最近めきめきと狩猟の腕前を上げている敬清が鳥を撃ち落としたり魚を突いたりしてたんぱく質を調達してくる。
私だって一時的にでも四つ足になれば、その辺に落ちてるものを何でも食べて食い繋げる自信があるし、小動物くらい軽ーく狩ってこれるんだけどもさ。私の身を慮って化けるなと言ってくれたお父さんとお兄ちゃんの助言に背くつもりはないので、化けないよ!
だいたい、ちょっとだけだからと自分で自分に言い訳しながらこっそりとする違反など、画竜点睛を欠くに決まっている。どっかで粗が出て、想定外のアクシデントに見舞われることになるに違いない。
炭水化物は芋を掘ることで得た。
私は犬の時には、トリュフ探しの豚の如く地中のかすかな芋のにおいをキャッチして辺境の芋ハンターの名を縦にしていた(そう言ってたのは敬清だけだけどね)というのに、人間型だと鼻もてんで利きゃしない。
しょーがないので、私はそれらしい場所で這い蹲って、土のにおいを嗅いでみた。
すると、嗅ぎつけた芋のにおいは記憶領域の片隅にでもこびりついてるみたいで、覚えのある芋のにおいをかすかに嗅ぎ取ることに成功したのだ!
「やたっ。ウルリカ、ここに芋があります! 掘ります!」
嬉々として前脚を出そ……うにも柔い皮膚の人間の手だったことと、スコップに似た形状のへらを持っていることを思い出したので、一旦手を引っ込めていると、敬清が色を失くしたドン引き顔で飛んできた。
「やめれねーちゃんやめれ! 人の尊厳どこ行った!?」
失敬な。私の人の尊厳は犬の尊厳と共にある。今犬になれないから人の形状で出来る最大限の努力をしているんじゃないか。見た目は無様でも、敬清とウルリカよりは芋を見つけやすいんだぞ! といった旨を熱く説明することしばし、弟は諦めきった表情で小言を絶った。
私の折れない心に敗北したというよりも、ウルリカがはじめから私の行動に肯定的だったことで数の力に屈したように見受けられる。まあ、結果よければ全てよしってことで。
明るいうちに野営場所を定めた後は、明るいうちにごはんの支度をする。
ウルリカは芋を潰して肉や葉物を調理して蒸し焼きにする係。汁物は水を多く使うし取り扱いも後片付けすることになる物の多さでも面倒なので、調理器具を出来るだけ汚さないようにごはんを作る。
私も、道中集めた香草や虫をアルミホイルに包んで灰に放り込んでおつまみを作った。
前の世界から持ち込んだ敬清のアウトドア用品ね、そのうち必要になるんじゃないかって未練がましく温存してたんだけどね、使っていくことに決めたんだ。姉弟どっちも貧乏性なので、無論可能な限り再利用はする。特に土に還らない系の素材は、使い捨てってわけにいかないし。
そこら辺の有効転用でも考えてみるかな? 敬清が木彫りの動物で作ろうとしていたシキガミなる警備システムを、私はゴミで試みればいい。幸いというかなんというか、今まで作り出して行き場のなかった産廃がゴミ箱で眠ってるんで、この探検が終わったらひっくり返してみようっと。
携帯している調味料は塩の塊だけで、あとは私が味の強い虫や草を選んで薬味として供したものを適宜添えて食べる。
基本的に私たち家族に食べ物の好き嫌いはないので、三人がてんでに集めたものは行き場を失ったり譲り合ったりすることもなく、仲良く三人で分け合って完食できている。
眠る時は、毛皮と魔物の革で拵えたツェルトに包まって転がる。お父さんが保温性の高い革を採れる魔物を狩ってきて、きれいになめしてくれたのを使ってるので、重量の割にはびっくりするほどあったかい。ほんと甘いなあお父さんは。
テントを作ろうかという案も出たことには出たんだけど、長い間ちゃんとした手入れが出来ないのと、オプションが嵩張って荷重が増すデメリットの方が大きいと判断して、各々ツェルトを持ち歩くことにした。万一はぐれたりしても個々に使える。野営場所を決める時には、俄か雨にも対応できる穴倉や庇のある場所を選んだ。
火は焚かないことにした。不測の侵入者があった場合、火なんて焚いてたら遠くからでもすぐに見つかってしまう。兵隊さんと妖霊人は遭遇しない前提で(遭遇するかもしれないという可能性は当然考慮している)、でも獣相手には牽制になるということで、三人額を突き合わせてかなり迷った末に決めたのだ。
敬清が危険を感知できる魔法を使えて、一度使えば朝まで途切れないこと、消耗も一晩寝て起きれば補える程度のものであること、維持を必要としないことなどの説明を受けて、私とウルリカは彼の申し出に甘えることにした。
夜行性の鳥も積極的に活動を開始するから、夜も無音じゃない。笛に似たホラーちっくな寂しげな掠れ声を夜通し響かせてこられた日なんかは、さすがに参った。全身うろこ模様という珍しいトラッグという鳥の仕事だ。蛇の尾を持つジャロも、フクロウみたいな鳴き声に加えてジェジェッと空気を切り裂くような変な声を差し挟んでいたっけ。
もし強大な捕食者や人間の侵犯者が近づけば、彼らの鳴き声にも異変が生じるだろうから、こんな時にはむしろありがたいかもしれないと思い直して、私も大人しく寝た。
勿論これらも雌への求愛の鳴き声ですよ。
そんなこんなで、時々道を間違えたり、どうあっても下れない崖に出てしまって迂回道を探したり、それに予想外の時間を食ったり、猛獣の糞をみっけて半日引き返して反対側から進んだりと、とにかく用心しいしい南下すること十日。
「これよ。巣穴破りの巣。超級の大型ね。中で十分に動き回れる広さの巣穴だと思うわ」
ウルリカの断言をBGMに、私たちは自然堤防側面にぽっかりと開いた真っ暗がりを前にしていた。
私の横では、我が弟が今にも感激に咽び泣き出しそうな表情でそれを見詰めている。
よかったねえ、敬清。今日見つからなかったら、何の収穫もなくても一旦家に帰る予定になっていたのだ。なにしろ往路にかけた時間と同じだけ復路に費やさなきゃならない。お父さんと約束した日数を超過したからってペナルティがあるってわけじゃないんだけど、お父さんとの約束を破るという発想は私たちの誰にもなかった。お父さんが怒らなくても後からお兄ちゃんが怒りそうだし。
一度目の探索で目的地を見つけ出せただけでも幸運だったよね。目的地の座標がはっきりしてたって、辿り着ける自力がなけりゃ何の収穫もないままタイムアップで帰らなきゃならなかったんだし。それを思えば地図を完成させられただけでも大きな前進といえる。
私は小学校の裏山にあった、枠木が朽ちて積まれた石も粗方崩れた上に金網を被せられていた枯れ井戸を思い出した。あれを人間が立ったままくぐり抜けられる大きさに広げた感じの穴ぼこがぽっかりと口を開いている。
「思ったより立派な洞窟だねえ」
「超大型の巣穴破りだから。これは土を掘り進んで出来た穴じゃなくて、岩盤を掘り進んで出来た穴よ。その分丈夫な巣穴だけれど、余程頑丈で鋭い爪を持つ巣穴破りということになるわね」
枯草と育ち盛りの黄緑色の蔓がすだれみたいに垂れさがっているので一見しただけでは単なる窪みなのか洞穴なのか判断しづらいが、入口近くにやけに沢山の石と岩が積み上げられて雪崩を打ち、付近は不自然なガレ場となっている。穴に通じる中央部分だけが、明らかに何か大きな平たいものが通った後のように均されていて、意図を感じられる。
「気配らしいものは感じません。近くに行って、中を見てもいいですか?」
ウルリカに聞いてみると、いいでしょうとのことだったので、私は鋭角的な切り口の石が転がる足元を用心しいしい歩み寄っていくと、正気に戻った敬清が私を追い抜いて行った。
枯草グリーンカーテンをかき分ける弟の横合いから中を覗き込むと、中は思っていたより広い。私が通っていた田舎の中学校の廊下より少し天井が低い程度だろうか。
光の届く範囲を見た限りでは、斜め下へややゆったりめの傾斜になっていて、まずは踏み込むなり足場がなくてひゅるりらということはなさそうである。
「やっぱあっという間に暗くなんのな。それに空気……やっぱ火は使えねーな」
「ひとまず松明点けて入ってみて、火が消える辺りから危ないってことでええんじゃないん?」
「そんなんじゃあ、やばいガスとか漏れてるとこがあって、それで火が消えたらどーすんだよ。気付いた時には手遅れかもしらんぞ」
「巣穴破りも動物だから、空気は必要なはずだし、毒への耐性もないはずよ。巣の所々に空気穴を開けてあると思うわ。出入り口を複数作るのもそのためでもあると思うの」
しばらく洞窟の前であーでもないこーでもないと言い合っていた私たちは、期限が迫っていたこともあり、ひとまず同じ道を辿って北の家に帰ることにした。
この遠足での、森の外に通じている辺境大フントクイの巣穴とそのルートを見つけておくという目的は達成した。次の計画は次の段階のものとなる。目ぼしいルートを冬になる前までに確保しておいて、雪が降り始める前に旅立つようにする計画である。
それが今年の冬前になるか来年になるかは敬清の成長次第。
個人的には、森で生き抜く力とか敵を倒す力とかなんかより、街に出た時に人と接する時のための会話力をもうちょっと確かなものにしておいた方がいいと思うんだけどな。




