ある年末年始のなんということもない日々
ケイセイが行く巣穴破りの巣の入り口探しと散策に、私とシオネも同行することになった。
森の父様の管轄外の外周部近くまで行くとなると、移動にかなりの時間を割くことになる。私たちは三人とも健脚で森歩きに慣れているといっても、野営準備だとか休息も含めると、探索そのものに費やせる時間は思いの外少ないだろう。
私たちは真剣に探索個所を検討し、方針を練った。
巣穴破りの巣を攻略するのなら、実は冬に挑むのが一番いい。
だけども辺境の冬はそんなに甘くはない。
今だって家の外では、朝一番に雪をかいて空けたばかりの空間を埋めつくさんばかりに新しい雪が降り注いでいるところだ。この調子では、翌日にはまた玄関扉からの出入りが困難なほど積もっていることだろう。家畜小屋もこまめに見てやらないと埋まってしまう。
家畜といえば、ビタとミンのために、鳥小屋の側にヤギ小屋を併設した。丈夫な板壁を二重にして、間に藁束を詰め込んだのは姉弟の発案だ。家族全員建築には明るくないので、冬はスイドーカンをタオルで巻いて凍結防止を講じていたというシオネの曖昧な知識をとりあえず実行してみようという程度の工夫だけれども、ひとまずビタとミンは毎日取り換えられる藁の寝床にうずもれて快適そうだ。元々ここからさらに魔境寄りの野生で暮らしていたヤギたちなので、寒さと雪には慣れているはずなのだからきっと大丈夫。
動物たちのように身一つで生き抜ける逞しさを持たない人間にとっては残念ながら、生存を保証する根拠が何もない。
どんなに天気のいい日を選んでも、きたかぜの月に遠出をするのは自殺行為。父様や兄様のように、時には人の身長を超える積雪をかき分けて進むことのできる並外れて頑健なお体を持つ人でなければできない。
その父様と兄様からも、活動は雪解けの時期以降にしなさいとくれぐれも言い含められている。
特にシオネとケイセイは寒さに弱いし、深雪に不慣れでもあるようなので尚更。
だから私たちは何度も話し合って、冬篭りの間に十分に準備を整えて、春になったら探検に行こうと決めた。
「子供のフントクイは、時々見かけました。穴の縁が盛り上がっていて、巣穴とはっきりわかります。大きなフントクイの巣穴も、小さなフントクイの巣穴と特徴は同じですか?」
ケイセイが、ごりごりと乾燥豆を挽きながら言った。
その傍らではケイセイの邪魔にならない位置を守ってくっついている使い魔のゴーディアスが、丸くなって眠っている。
ゴーディアスは、ゆっくりゆっくり一月かけて歯が生えて草を食べられるようになった。それに伴い乳離れと、加えて親離れも済ませてケイセイと一緒に家の中で暮らすようになった。体の大きさそのものは赤ちゃんの頃のまま変わらないので、大して邪魔にもならない。
ケイセイは成長途上の彼には少しばかり大きな臼を動かすために、腰を捻るようにして上半身全体を使っている。額に滲む汗は、彼がこの運動を長時間続けていることを物語っている。冬仕様の重ね着越しにも規則的な肩甲骨の盛り上がりが見て取れるほどの重労働なのに、彼は私の交代しようという申し出を頑として撥ねつけるのだ。
私は燻製肉の塊を手頃な大きさに切り分けようと、剣鉈の背に体重を傾けながら同意した。
「そうね。斜めに穴を開けると上の土が崩れて蓋になることもあるけれど、巣穴を隠す習性はないようよ。巣穴破りは冬眠する動物なの。積雪の頃なら殆ど一か所で寝ているし、起こしてしまっても動きが鈍いからね。でも、それを狙って他の動物も避難所代わりに潜り込んだりもするそうだから、色々な生き物と遭遇するかもしれないわね」
「なるほど……でも、フントクイが一番危ない生き物なので、巣穴を通り抜けるならやっぱり冬のうちがいいですね」
だんっ、と勢いのよい音を立てて肉の塊が分断された。思いがけず余計な力を込めてしまったみたい。剣鉈の刃がまな板に食い込んでしまった。
「早くても来年以降よ?」
つい後度を突いてしまったのは俄かに不安になったからだ。ケイセイが今から急に出て行ってしまったら、私はとても寂しい。
彼の夢を応援すると繰り返した口で、私はなんというあさましいことを言っているのか。
「はい。ぼくはまだまだ実力が不足しています。ほんとうはこの探索も、一人でできなくてはいけません。でも、今はぼくだけでは無理と思います」
そのことを極めて重大に捉えている横顔の上に忸怩たる表情が閃いたのはほんの束の間で、ケイセイはややためらいながら作業の手を止めて私を見た。
「だからウルリカ、手伝ってくれてありがとうございます」
謝意を示す時に姉弟がよくする、頭を下げる仕草。今も私には手入れさせてくれない黒髪はつい先日姉の手で短く切り揃えられたばかりで、額の上に落とした影はごく狭いものだ。その頬が描く角度が少し尖ってきたことに気付く。
頭を上げても視線が合わないのは、ケイセイが意図して目を逸らしているからで、やや気まずそうなのは照れくさいからだとわかった。
「……」
私は無性に彼を抱きしめたくなって、うずうずする両手を意思の力で抑え込んだ。
だめだめ、ケイセイが一人前になるまでは過剰な接触は厳禁って、父様が仰ったじゃないの。耐えるのよ、ウルリカ。
つり上がってくる口角を止められないままじっと見つめていると、やがてこちらを向いたケイセイと視線が正面からぶつかり合う。彼が驚いたように濃い色の目を瞠って、じわじわと頬を赤らめていった。
寝ていたゴーディアスが目を覚まして、主人と私とを見比べて、私に視線を固定した。この子は起きている時には餌をもりもりと食べたり、排泄のためにケイセイが指定した一角に向かったりもするけれど、概ねケイセイの側から離れない。もしかしたら母親のミンより慕わしい存在として認識しているのかもしれない。
横を向いた瞳孔を取り巻く濃い色の目が、じっと私を見ている。
使い魔の行動や心証は主人の考え方に同調し左右されるものだそうだ。同調が強い程反応は似通ってゆく。前にイズリアル様が指摘されていたように、ケイセイとゴーディアスは同調率が高いそうだ。
ケイセイは困ったようにそっぽを向いているけれど、ゴーディアスは一心に私を見詰めている。それは、つまり、使い魔は主人の本心を直截に態度で語っているということ。
ああ、ケイセイったら!
私は歓喜に打ち震える。
「ケイセイ、コレツカイー」
私の意思の力が尽きようとしていた時、無造作に廊下側の扉が開いて、人の姿のシオネが入ってきた。
手にしていた艶のある黒い衣類を掲げて振って見せる。あれは、彼女が我が家に初めて来た時から着ていた上着と靴だ。つるつるとした不思議な素材で織られていて、防風・防水性や透湿性に優れた、生地の厚みからすると意外なほど暖かい衣料であることを私は知っている。お洗濯しても、他の服に比べて段違いに速く乾く。
『おやおや、お邪魔でしたかね、お二人さん?』
ニホン語を楽しげな口吻で放ったシオネは弟と私を見比べて、妙に含みのある笑顔になった。
『じゃかあしいわ。用言え、用』
ケイセイはぶっきらぼうに応じてはいるものの、どことなくほっとしているように見える。
私もほっとした。父様との約束を違えるところだった。
ゴーディアスはちょっとだけ首をもたげて闖入者が見知った主人の姉であることを確かめると、何事もなかったかのようにまたとぐろを巻いた。
『これ着ん? 学校指定のシェルじゃけ男女共通のデザインじゃし、私ゃ自前の毛皮があるけえ寒ないし。靴も最近人型で外出んけん履かんし、あんたが履き潰すまで履いたった方がよかろ。そろそろサイズ合うてきとんじゃね?』
『自前の毛皮て。犬に順応しすぎじゃろ。人間の時不便にならん程度に残しとけぇや。あと、靴はいらん。スニーカーの履き心地に慣れたら足が腑抜けるけえ。またこっちの靴に慣れにゃならん時がしんどいわ』
『さよけ』
「光熱の源は炭と油のどちらを持って行きますか?」
『ねーちゃん、この際じゃけ懐中電灯使い切ってもーてえんじゃね? 電池かて勝手に減るんじゃし。こっちの世界のもんに切り替えてこーぜ』
「ん」
この時期は落ち枝もみんな湿っていて、薪の確保が難しいものね。今年初夏に完成させたお風呂用にと家には薪をたくさん集めてあるけれど、その全てを出先まで持ち運べるわけではないし。
強引に乾かして火を着けることは、ケイセイの魔法でならできてしまう。でもそんな濫用は極力すべきではない。
お風呂といえば、シオネは手指を使う作業時以外は寝る時でさえ犬の姿でいるけれど、唯一と言っていい例外がお風呂の時だ。彼女はお風呂が大好きで、こまめにお湯を沸かしては浴室まで運ぶ作業を率先して支度をしてくれる。そして一度浴室に籠るとかなり長い間出てこない。
初めのうち私は、シオネがのぼせたり溺れたりしているのではないかしらと気を揉んでいた。
彼女は今までなら晩ご飯の後片付けが済んでから暖炉の前でゆっくりお茶を飲んで過ごしていた時間を、暖炉に薬草を煮溶かすための土鍋をかけてその番をして過ごすようになっていた。人の姿で三角座りをしている時もあったし、犬の姿でお座りしている時もあった。
傍目にはじっとしていて、後で細かい作業をするだけでも、彼女は目には見えない魔法の作業をぶっ通しで続けている。その日の終わりに、あるいは徹夜明けに疲労困憊して眠り込む彼女の様子からして、実際は大変な集中と消耗が不可避の入念な作業であるに違いなかった。
だからシオネが疲れを取るために長くお風呂に入ったとしても理解できたし、改めてもらうべきことではないと思ってはいた。
ただし浴槽の中で眠りこんで溺れてしまわないか心配になるのは当然じゃなくて?
するとケイセイが意外そうに『女性はお風呂が長いものです。お姉様はマシな方ですよ。イチジカンもかからないから、たぶんきっと』と言われてしまった。
だって髪を洗って体の汗を落とせばそれで終わりでしょう? たまにシオネに勧められた通り浴槽に体を浸して弛緩させてみたりもするわよ? 確かに凝りや疲労がゆるゆると流れだしていくような感じは心地よいけれど、あまり長らくお湯に浸かっているとくらくらしてきてしまうから、ほんの少しの間だけ。
他にどんな事をすれば仮眠が取れるほどの時間を浴室で過ごせるというの?
そう訴えると、姉弟はしばらく顔を見合わせて、こしょこしょと何やら話していた。シオネはその時犬だったので、犬語での相槌しか打っていなかったのだけれど、不思議とその時は意思が通じ合っていたようだ。
「ウルリカ、わかりました。ウルリカがぼくたちを寒さに弱いと思っているように、ウルリカは暑さに弱いのです」
なるほど、そうだったのね!
調理器具はシオネと額を突っつき合わせて、移動の妨げにならない程度の重量と容量の鍋を持ち出すことに決めた。ケイセイの所有である入れ子状の軽量な入れ物では、3人のお腹を賄うには少々厳しい。
手頃な塊に切り分けた燻製肉を今日の晩ご飯用に取り分け、丁寧に油紙に包んで自分の荷袋に仕舞う。背負い心地を確かめるためだ。
背嚢を背負ってみる。うん、安定している。
重たいものは背負い袋の背の方に仕舞うと安定しやすいとケイセイが教えてくれた。肩に提げるばかりでなく、腰でも帯を締めるといいらしい。
……やっぱり食べ物は別の袋に入れておかないと、衣類に臭いが移ったりしてしまいそうね。
野菜は乾燥させて刻んだものを袋に詰めて持って行く予定なので、他の荷への影響は少ないんだけれど。
ああ、そうだわ、水筒も大容量のものを用意しておかなくちゃ。
衣類の替えは2着分までが精々だ。持ち運べる分量は本当に限られているから、厳選しないと。
……みんなは遠足ではないと口を揃えたけれど、私はどうしても浮き浮きした気分を拭い去ることができない。
だって、家の用事以外での三人以上でのお出かけなんていつぶりかしら!
小さい頃に父様と兄様との三人で、お出かけしたことを思い出した。
季節は春で、私はその時8歳で、今よりずっと小さく弱く疲れやすかった。頑張って歩いたけれど野営の支度を始めるまでに困憊してしまって、父様や兄様の背中におぶわれて舟を漕いだりしながら運んでもらったりした。普段は自分のことは自分でしなさいと厳しい態度を貫かれる父様だけれど、その時は大目に見て、うんと楽させても下さった。
そんな風にして、ここよりずっと北西の方角に何日もかけて歩いて行った深い山間に、大きな湖があった。
ずうっと左手の山の麓から見えうる限りの右手の山の麓まで埋め尽くしていて、手前の山に遮られて見えなくなるまで、谷に沿って長く複雑な曲線を描くように広がっていた。もしも水がなければこの山々はいかさま背が高いのだろうかと思ったものだ。
我が家より更に北に位置するはずのその一帯はまだ地面は白く、岸辺を覆う深い緑の森にもうっすらと雪の粉が散っていて、地上は一面が真っ白に染まっていた。
湖面はよく晴れた空を映して深い青をしていた。対岸の山がくっきりと映り込むくらいきれいな水に投げかける影は更に深く澄んだ青で、私は未だあれほどに深く青い色を見たことはない。
例えばヴォジュラ領南方の平地を仕切る湖は、対岸も見えないほど果てしなく水面が広がる広大な湖であるそうだ。色味も本来の水の色に似て薄く、緑がかっているという。一面が水と空しか見えない世界なんて、想像もつかない。私が知る湖は、地形に沿って折れ曲がった、空と両映しになって輝くあの青の鏡だけだ。
かなりの奥地に踏み込んでいたけれども、危険な大型獣が近くにいる様子はなく、春の気配を感じ取って遅まきながら活動を開始した小鳥の生き生きとした鳴き声が遠巻きに聞こえてきた。その声すらも遠慮がちだったように思えた。
あまりにも雄大な静謐が向こうの山から向こうの山まで横たわってびくともしないでいるから、これを破るなんて不届きな振る舞いをしてはいけないところに違いないと、私は幼心に思ったのだ。
池や川で頭から水に飛び込んで泳ぎ回るのがお好きな兄様も、この時ばかりは水に入ろうとなさらなかった。
見ているだけで心が冴え渡る、あくまでも青と白だけの、気高い、静かな世界。
湖に名前はなかった。人の分け入らぬ秘境だから、人が識別するための名などいらないということだった。
そのように教えてくださった父様は、驚き喜ぶ私の様子に嬉しそうに笑われた。時々私たちの些細な要望を聞いて肩車をしてくださったり、いつもより沢山のお話をしてくださった。
そのうち、俄かに空がかき曇り、談笑する私たちの頭上を、嵐の日の空の咆哮にも似た風切り音を従えて、影が通り過ぎていった。
見上げると、体より大きな翼と体より長い尾を持つ生き物が、湖の更に北を目指して飛んで行った。なにぶん空高くにいて、日を背にしていたから細部は見て取れなかった。だから私がその生き物についてわかったのはとにかく大きいことと、私たちの敵ではなかったということだけ。
あれはなんですかと問うた私に、父様はこの土地の古老だと答えられた。私たちは今、その方のおうちの庭先を見物させていただいているのだと。
父様と兄様が、古老が飛び去られた方向に敬意を表したので、私も倣って礼をした。古老はとっくに山々のたたなわりの合間に見えなくなっていたけれど、心から感謝すればきっと通じると信じられるような、厳かな心持がした。
その時の、ただただ楽しく驚きに満ちた思い出が、俄かに蘇ってきて。
私ったら、不謹慎にも浮かれているのだわ。ケイセイの大事な修行の一環だというのに。
そして、やはり自分は物足りなかったのだと自覚してしまう。
父様と兄様から愛情深く守られて育てていただいて、私自身は健康で、暮らしに足りない物なんてなくて、毎日が穏やかに過ぎる幸せを知っているのに。私は心の底では刺激を求めているのかしら。
それとも欲深になったのかしら。
満ち足りていたと思っていた私を満たしていたものを、もっと欲しいのかしら。
そんな風に考えてしまうのは、大切に育ててくださった父様と兄様への裏切りのように感じてしまう。
私が一番嫌なのは、その懸念が取り越し苦労などではなかった場合だ。それを父様と兄様が知った時、悲しまれてしまったら、私はそんな願望を抱いた自分を許せなくなる。
「大丈夫ですよ、ウルリカ。私が作った覆面を被っていれば、万が一にも部外者に見咎められても大事にはなりません」
私の束の間の沈黙をどう捉えたものか、シオネが自信満々に胸を叩く。
「初見で素顔を見抜ける人はいないでしょうね」
ケイセイは生真面目に頷いていたけれど、ふと何かに気付いたように口を噤んだ。
「……お姉様、もしや、あの覆面には魔法がかかっていますか?」
「ふふふ、よくぞ気付きました弟よ! しかし遅いですぞ、イズリアルさんは最初に見た時から気付いていましたよ。君もまだまだ青色ですねえ!」
「なん……だと……!」
「メ……エ……!」
なにやら衝撃を受けた表情でのけぞるケイセイと、共鳴しているのか単に真似をしてのことかゴーディアスも呻き声を上げて顎を逸らしている。本人たちには不本意かもしれないけれど、その様子はとてもかわいい。
どうやら、シオネは私のために作ってくれた覆面に、更に保険をかけてくれているようだ。
「どんな魔法なの?」
「そうですよ、お姉様。ウルリカに悪い影響が残るようなふるまいは慎んでください」
「失敬な! 私はそんなことはしません! 被った人は印象に残らなくなるようにしたのです! 本当は顔変えができるくらい完成度の高いものにしたかったのですが、難しくてできませんでした。もっと腕を磨いて改めて挑戦する心づもりです」
まあ、そうなのね。
私は目鼻口に穴が開いた簡素ながら機能的な覆面は素敵だと思う。顔の造作なんてさっぱりわからなくなるあの被り物は、知人ですらふいに遭遇したなら私だとわからないかもしれない。
「この覆面のおかげで、父様も兄様も、私が家から離れても大丈夫だと思ったの?」
「ちょっとだけなんですよ? 森を出たりしてはいけません。やっぱり不特定多数の人がいるところに長い間いるのは心配だからです。ウルリカはとても美しいので、心ない人間に見出されてしまったら、必ずや捕まって連れて行かれてしまいます。人間は、そのためにあらゆる努力を払うでしょう。辺境警備の人とか、あってはならない侵入者から、遠目に一見したくらいでは大丈夫なようにです」
この話題になる度に思うことだけれど、私の顔というのは、そんなに面倒の種になりかねない代物なのかしら。
「きれいすぎるのも考え物ですね。あっ、でも、きれいじゃない方がいいというわけでもなくて、ぼくはウルリカはいつもきれいでいるのが好きです! いや、ええと、きれいだからというのが全部の理由ではなくて、きれいでもきれいでなくてもどっちでもウルリカだと思います!」
「メエ! メエエー!」
言葉を探し、尽くしてくれるケイセイがかわいい。余程いっしょうけんめいに考えてくれているのだろう、作業の手が止まって熱の引いた頬に、また赤味が差してきている。
ゴーディアスは主人を励ますように、背伸びをしたり飛び上がったりして足元にまとわりついている。ああ、かわいいわあ!
「落ち着くのです弟よ。でもウルリカ、私とケイセイは、ウルリカの顔が何に見えても気にしません。一般論として、何事もほどほどが生きていきやすいと思うだけなのです」
そう言うシオネは、フェルビースト家の方々曰く、癖の強い魔法の素質をふんだんに持っていて自他共に危険が伴うような事態を引き起こしかねないので、人里での生活は不向きという理由から森に帰ることを許されたという。
私の場合は私自身が危険だから街へ行ってはいけないそうなのだけれど、シオネの場合は周りの人々にとって危険だから街へ行ってはいけないんだとか。
シオネに言わせると、社会不適合者というそうだ。なんて悲しい響きの言葉だろう。
「ほんとうはお父さんもお兄さんも、ウルリカにもちょっとくらい冒険が必要だと考えているのです。いつも窮屈な、不自由な思いをさせていると反省しきりです」
「まあ、初耳だわ」
父様も兄様も、私に一度もそんなことは言われなかった。
「ウルリカに渾身のお願いをされたら、お父さんもお兄さんも断りたくないのです。断るために心を魔物にしなくてはいけません。心の中では泣いているのです」
「そ、そうだったの!?」
「顔で怒って、心で泣いてですね」
呟きながらケイセイがあらぬ方を見詰めていた。まだほんのり赤い頬に掌で風を送っている。まるで何かを誤魔化すかのような素振りだと後から思ったものの、その時には気づかなかったので、そのまま流してしまった。
ゴーディアスはそわそわと落ち着かない素振りで視線を泳がせていた。やはり何か隠し事でもしてるような態度だった。
いよいよ年が変わろうかというある日、突如玄関が開き、身を刺すような冷たい風雪が吹き込んできた。
同時に踏み込んできた大きな人影。父様ではない。
床に転がって体作りの運動をしていたケイセイが、即座に跳ね起きて警戒態勢をとった。跳び起きて、傍らに置いてあった木刀を引っ掴み、戸口から適度な距離を保ちつつ誰より前へ飛び出る、それらの動作をほぼ半呼吸の間に全部完了している。
彼は、持ち上げて姿勢を固定するにも苦心していたレスツルの木刀を、片手で振り回せるようになっていた。まだ停止状態で安定したり連続で振りかぶるには両手を必要としているものの、咄嗟の挙動としては上等の反応だ。
ああ、ケイセイったらもう、すっかり頼もしくなっちゃって。
欲目を抜きにしても彼は成長したと思うのよ。
ゴーディアスは、非常事態で役に立つことがまだないので、足手まといにならないように言い含められていたのか、ぴょんと跳んで離れて、部屋の隅の椅子の下に潜り込んでいた。
「まあ、兄様! お帰りなさいませ!」
兄様は、昨年と同じようにケイセイがナマハゲと称した着脹れたお姿で、総身に氷の粒を纏って頭や広い肩に厚い雪を被っていらした。私はもう見慣れているし気配も慣れ親しんだ兄様のものだから、顔が見えなくても誰かわかる。
「ワン!」
前脚を器用に使って書物を読んでいたシオネは、人の状態より鋭くなるという視覚以外の情報に頼って兄様を認めたのだろう、腹這いの姿勢から起き上がって尻尾を振った。
「お兄さん? すみません、顔が見えないと誰かわかりませんでした」
この身形の兄様を目にするのは数えるほどのケイセイが、嗅覚や第六感に頼らずにこの耐寒装備の兄様を識別するのはまだ難しいのは仕方ないと思うの。そんなに落ち込まないで。
「メエ……」
ゴーディアスも椅子から這い出て来て悄然と頭を垂れている。
「いい反応だ。いついかなる時も油断するなよ。知り合いを装って近づいてくる輩や、愛想良く取り繕った裏でよからぬ目論見を巡らせる悪党も人間の中にはいる。おまえはそれでいい」
淡々とケイセイを褒められる兄様のお言葉は、聞くだに怖い。
ケイセイには外界で生き抜いてもらうために、うんと強く、うんと注意深くなってもらわなくちゃ。私もお手本になれるように、日頃から用心深い振る舞いを心がけよう。
「ところで、物資を積んだ馬をすぐそこに待たせてる。運び込みはついでに俺がやるんで、すまんが受け取りだけ玄関まで来てやってくれるか」
慌てて荷の運び込みに奔走し、終わってマズリたちの縄を解いた頃には、開け話していた戸口から吹き込んだ風雪で、居間と土間が白くなっていた。
今度は雪をかき集めて戸口の隙間から捨てる。弱っていた暖炉の火を起こしてみんなで集まって温まった。
兄様の外套と蓑の雪と氷を払って火に翳すと、たちまち滴が幾筋も伝い落ちて床に敷いた雑巾に染みを増やしていく。
兄様は外套を脱がれれば、秋口の服装と大差ない装いでいらっしゃる。父様と同じく、お体の頑健さがずば抜けていらっしゃるのだ。
外は家を一歩出れば一歩先すら白く塗り潰されてしまう猛吹雪で、耳を聾する風の唸りとあっという間に表皮から沁み渡る冷気で、視覚も聴覚も触覚も役に立たない。
私たちも、今兄様が勝手知ったる様子で入っておいでになるまで、帰って来られたことに全く気付かなかった。
そんな中父様は普段通りにお仕事に行ってらっしゃるし、兄様はマズリたちのために雪を掻き分けての無事のご帰郷である。よかったこと。この頑健さと磁石も形無しの方向感覚は父様譲りに違いない。
……私も、もう少し父様に似たかった。
そうしたらもっと体格にも体力にも恵まれて、水狼を一撃で仕留められるかもしれないし、狩りに行っても持ち運べる部位だけ切り取ってくるのではなくて獲物を丸ごと担いで帰って来られるだろうし、夏の水汲みだって桶を手に何度も家と小川を往復することなく樽を一度運ぶだけで済んでしまうし、兄様のように一人で別方向の見回りを任せてもらえたかもしれないし、魔境に踏み込まなければならないお仕事だって手伝えるのに。
ケイセイとシオネを、もっと自信を持って守ることができる。
今更ないものねだりをしても詮無いことなので、小さい頃はともかく今はそんなことを言って父様と兄様を困らせるのはやめたものの、時々忸怩たる思いに沈むことがある。
ああ、もっと大きくて逞しい女の子になりたい!
「三本牙岩の巣のやつが冬眠していないようだ。餌を探し回って塒の近くの梢を根こそぎ食い荒らしている。こちらに流れて来るやもしれん」
「ここ数年コンサク病は予防できているし、棘葉虫が増えすぎたってこともない……特に餌が激減する原因はなかったはずですよね。今月10日に血潮山が噴火したとゲルトルートどのが報せてこられてました。こりゃ、途中で目が覚めたかな」
「恐らくな。赤煙がいつもより広範囲に降り注いだ。魔物の活性も上向きになってくる。キキリの孵化数と蛹の数が例年より多い。これを孵化させると翌年は更にキキリが増える。間引いた方がいいだろう」
「じゃあ俺も奥に行って間引いてきます。お父さんの仕事順路外を東から西へ浚います。三本牙岩のやつと出くわしたら倒しますか?」
「ああ、そうした方がいいだろう」
父様が戻って来られると、兄様は当然の如く父様のお仕事のお手伝いの話をまとめられ、翌日から早速父様とお二人して、早朝に出て行かれるようになった。
勿論私とケイセイとシオネも、何か手伝わせてくださいと粘り強くかけあった。でも、私たちにお願いしたいことは特にないからと丁重に頑強に断られてしまった。今が雪深い時期でなければ、私にも調査や採集くらいは任せてもらえるのだけれど。
しょんぼりする私たちを見かねてか、一度父様がケイセイだけを連れて出て行かれた。ケイセイはその日6体ものキキリを倒したそうだ。ついでに複数の傷と毒をもらって、マズリの背にぐんにゃりと引っ掛かった状態で帰って来た。
持ち合わせていた解毒剤をすぐさま飲み、父様も付いてらしたことだし処置は的確だったため大事はなかった。
自力で下馬したものの膝が崩れて、それでも駆け寄った私に、大丈夫ですと血の気の引いた笑顔で励ますように言ってくれた声の調子が忘れられない。
ケイセイは、体調不良の度に気安く霊薬を頼るのはよくないという考えを持っていて、解毒に関しては素直に霊薬を飲んだものの、外傷については自然治癒を待つことにすると表明した。傷の痛みや予後を体験するのも、油断から怪我をしたらどんなに日常生活に不利を及ぼすかを思い知る必要があるということで。
さすがケイセイ、思いも付かない方面にまで向上心を持っている。きっと無駄にはならないと思う。
そんな風にのんびりと新年を迎えてしばらくしたある晩、床にお座りして後ろ脚で首を掻いているシオネを見た兄様が、ふと思い出したように仰った。
「そういえばおまえ、犬のままで家の外のどの辺りまで行ってる?」
「わうっ?」
シオネは後ろ脚を上げた姿勢のままぴたりと動きを止め、束の間考えるような沈黙を置いてから、ぱっと四つ足で立ち上がり熱心に犬語で喋り始めた。
「わおーう、わん、わお、うぉーんおんおんおん!」
「そうか、もういい。で、ウルリカの言いつけを破る程遠くには行ってないんだな」
兄様のお言葉の後半は、私の方に振り向かれての確認だった。私は首肯した。
「はい。一緒に外に出る時には私の目につくところにいてくれますし、一人で出かけても、半時もしないうちに帰って来てくれますわ。何かお気にかかることでも?」
「その時期になったらお父さんが気をつけてくれるとは思うが、おまえ、春になったらその姿で家から遠出するなよ」
「ワギャッ!?」
シオネは目を剥いて悲鳴を上げた。言っていることはわからない私にも、『なぜですか?』ではなく『なぜですか!?』の響きを帯びていることだけはよく伝わってきた。
「おお、そういえばそうだった。ケイセイの巣穴探しに同行するのだったな。人の姿で行くのが無難だろうな」
「お父さん、去年話したでしょう。事と次第によってはケイセイの修業どころではない騒ぎになりますよ」
「いや、忘れたわけではないんだ。急を要する事態でもないと思ってな」
「お兄さん、お父さん、ぼくの修業は中止ですか。事件発生ですか?」
父様と兄様がシオネについて取り交わされていらっしゃるお話の重苦しさを察して、ケイセイが心配そうに尋ねた。自分の予定が白紙になるかもしれないという心配よりも、姉の身に不穏な出来事が降りかかることを危惧しての心配だろう。
「ああ、まあ、シオネの心づもり次第では事件になるかどうかもわからないが」
「ワン?」
「シオネとケイセイの故郷では、初対面の異性と結婚するのは珍しいことかな?」
「珍しいですが、ありえないほどでもないと思います。お知り合い結婚が主流だった時代もありましたけど……?」
父様の突然の問いかけに、姉の代わりにそう答えたケイセイは、犬のままのシオネと怪訝そうに顔を見合わせている。ええと、お見合い結婚って言いたかったのかしら?
「お父さん、ただでさえ言葉の壁があるんです。婉曲な言い方では通じませんよ。はっきり警告しておきましょう。いいか、春には次の繁殖期が来る。シオネは厳密にはこの森のどの種とも合致しない生物の形態を取っているから、繁殖に適した相手がいるかどうか定かでないが、いないとも限らない。その場合、たぶんその種の身軽な雄がこぞって求愛に来る」
「ギャフッ!?」
「野生動物の雌の奪い合いは熾烈だ。求愛も同様にな。初夏には、仔犬が生まれているかもしれないな」
「ギャギャン!?」
シオネは兄様の説明の一言一言に逐一反応して、珍妙な鳴き声を上げている。
逆にケイセイは絶句している。
「この辺にいる雄はみな、自力で群れを持てない若造ばかりだ。だから軽々しくそんな輩の求愛に応じるな。せめて一端の群れの主を張るくらいの雄を薦める。この北で一番大きな地狼の群れに入るのが、群れの女子供の暮らしの安定度合いも後見の立場的にも一番いい。群れの主は人間年齢に換算すれば4・50代だが実力と統率力を兼ね備えた立派な雄だ。彼が代替わりするまでに仔を一人前にする猶予はあるだろう。水狼で一番勢いのある群れの主は少し若いが戦闘能力は申し分ない。新進気鋭の少壮だな。仔犬を産むなら相手はこのどちらかにするべきだ」
淡々と言い聞かせる兄様に、父様と私はうんうんと頷く。
「氷狼種も能力の高い種だからシオネのつがいとしては有望だが、生憎この一帯には生息していないからな。まあ、なんにせよ、シオネの産む仔犬なら、どの雄の子でもかわいかろう」
「そうですわね。狼種の雄は子育てに協力的な部類の動物ですし、何より子どもが一度にたくさん生まれるのが賑やかでいいですわね」
仔犬は可愛い。私はこの森で狼種の幼生を数えるほどしか見かけたことはないけれど、ころころとしていてとっても愛くるしかった。そんなかわいらしい子どもたちが我が家の庭先を駆け回る姿を想像すると、心が和む。
「ワウ、ワウッ! ウォーン! ウォーン!」
シオネはじたばたと四つ足を踏み鳴らして忙しなく首を巡らし、なにやら挙動不審だ。
「待ってください! 待ってください! というか、どーしてお姉様の子供が仔犬に決まっているんですか!? お姉様は人間です! 忘れているかもしれませんが人間です! 仔犬が産まれては困ります!」
「メエ! メエエエー!!」
ケイセイもかなり焦って、さかんに両手を振り回して懸命に反対主張をしている。
その膝の上で、ゴーディアスまでも机に前脚を付いて身を乗り出し、我が身を切られるかのように辛そうな鳴き声を張り上げている。
彼らがどんなに本気で反対しているのかが、嫌でもわかる状況だ。肉親にそこまで強硬に抵抗されては、私たちもこれ以上は言えない。
でもねえ、私がケイセイとの結婚を真剣に考えているように、シオネだってそろそろ縁組を考えてもいい年頃なのよ。彼女のお婿さんはできれば意思の疎通ができる人間の男性がいいという気持ちもあるけれど、そこは連れ合い同士が通じ合うなら最低限やっていけると思う。
まあ、結局は本人が円満な家庭を作っていけるかが重要だし、当事者以外の者が自分の好みを押し付けても仕方がない。
「それに、お姉様はまだ17歳です! ぼくたちの故郷では、人間が結婚するにはまだ早いです! 二十代半ばくらいが適齢期です!」
まあ、そうだったの?
……では二十代のちょうど真ん中の25を目安と考えることにしましょう。ケイセイが25歳になるまであと12年。私はその頃29歳で、その半年後には30。かなり待つことになるし、子供も沢山は望めないかもしれない。けれど、それが彼らにとって安心して結婚できる年齢基準であるのなら、なるべく尊重したい。
それにその間こそ、森の外で組合員になるという夢を叶えてもらえばいいじゃないの!
私が一人納得している間に、話は進んでいた。
「まあとにかく、春になったらおまえたち三人で南へ遠出をするというから、念のために予定外の面倒事を呼び込む要素は絶っておくに越したことはないということだ。巣穴破りの巣穴を探すどころではなくなる」
「シオネが結婚をまだ考えていないのなら、繁殖期は人の姿で過ごすのが安全だろうな。フントクイの巣穴探しもそうしなさい」
「そうしてください、お姉様!」
「……わう……」
シオネは力なく鳴いた。がっくりと項垂れた後姿はすごくやるせない。私は彼女を力づけようとして、
「人間用の服と靴を残しておいて良かったわね、シオネ」
そう言ったら、シオネはどうしてか不貞腐れて壁の隅っこに鼻面を向けて寝そべってしまった。彼女は機嫌が悪い時にしか壁と仲良くしないので、これは私が言葉の選択を間違えたということだろう。どうしましょう、何がいけなかったのかしら。
「ああそうだ。いい例えを思いついた」
そこで突如、兄様が明るい声で掌を打たれた。にこ、と笑って私を振り向かれ、得々と仰る。
「あのなウルリカ、今の話は、ウルリカにも当て嵌まるんだぞ。シオネは大型犬科動物に対して虫を付けん用心がいるが、おまえは人間相手に同じ危機管理をせねばならんということなんだ。おまえは同種の雄を惹き付けやすい性質なんだと言えば、わかりやすいか? シオネは別の生き物に変身すれば回避できるが、おまえはそうはいかん」
……ああ! なるほど!
「兄様、わかりましたわ!」
そういうことだったのね! ようやく理解しました!
シオネがなにやら恨みがましい目で私を振り返っている。えっ? 私、何をしたの?




