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由無し一家  作者: しめ村
34/43

ある地方公務員の一日

 辺境と魔境の境に居を構える名もなき一家の大黒柱たる父の朝は早い。

 彼の一日の活動の大半は仕事先であり、彼の庭であり、人の領域にあらざる辺境奥地から魔境の表層、時には中層から深層で行われる。

 複数人いる辺境の森管理人の中でも、彼の担当範囲は殊に広い。彼自身の忙しさと、容易には行き来できぬ物理的距離は、他管理人であれば適度にある休暇と管理人間を隔絶させる要因ともなっているが、彼にはその方が都合がよいのだった。

 長い年月をかけて自ら踏み均した森の小道を辿り、足を速めるうちに、彼の足は板金で補強された頑丈な革靴に包まれたまっすぐな二本の脚ではなく、ごわごわとした灰色の毛に覆われた太い四足に変わる。

 人の足でなら三時は要する距離を、彼は朝日が昇り切る前に走破し花池に到着した。ざっと見渡し異常なしと判断するとすぐに次の地点に移動を開始する。

 秋の気配を感じて枯れ始めもつれ合う下草は、人間の二本脚で力任せに前へ進むだけではすんなり道を開けてはくれない。それどころか足場はどんどん悪くなる。

 それだけの日照を適度に通す頭上の樹冠は、うまく梢の層を分けて効率よく日の恵みを享受できるように枝打ちをしている彼自身の仕事の結果だ。

 獣道と見紛う茂みの隙間を通り抜け、食べごろの甘やかな香りを振り撒くシェラ林を突っ切る。希少な原種のシェラを食い荒らす魔物や獣の気配はない。

 深い断層を繁茂で覆い隠している生命力旺盛なチュリアの上を飛び越えて対岸に渡り、その向こうに集落を作る妖霊人の領域との境界に変わりはないことを確認。集落の外周にいた妖霊人がうやうやしく礼の仕草をとったので、彼も丁重な返礼をしてからその場を後にする。

 人の足ならば迂回しなければ登れない切り立った急斜面を一度だけ壁面を蹴って跳び上がる。崖のてっぺんに一本だけ生えている香木に住み着いている霊鳥のつがいにも、この鳥の住む木の根元にしか生えない薬草にも、人為的な介入は認められなかった。

 南部の都を通り抜けるリュストン川を遡った本流沿いに出て、一通り南北を走り回って侵犯者の足跡や臭いや隠された小舟などないことを確かめる。

 厳しい辺境の冬を積雪に守られることで乗り切るしなやかなソティアの一斉林や、寒さに耐えるため面積の小さい葉をした逞しい孤立木の傍らを、あるいはトゥリフの群落をかき分け、巣立ちを済ませた若鳥が無邪気に鳴き交わしている下を、ティフォアの糞だめが順調に更新されている横を。おっかなびっくり彼の姿を見送る獣たちの遠巻きな視線を背に、彼は彼の庭を、飛ぶように走り抜け、見回りを続けた。

 隠れた段差や穴や泥濘に足を取られることもなく、道が道の体をなしていない森を突破する頃、魔境に突入した。

 しばらく進むと、異臭が鼻を衝き始める。生臭さと腐臭が入り混じるその臭いの原因は、視界がぽかりと拓けたところにあった。

 黒の血沼と、その存在を知る限られた者だけが呼ぶ黒い池。

 色は真っ黒で、相当の高温であることを証明するかのように、湯気で周囲が曇っている。ぼこぼこと中心部が泡立っているのは、南の火山地帯では見られる温泉などが湧いているからでは決してない。

 大きさは彼の人の時の足で外周を回って100歩ほど。

 池の縁は泥濘と見分けがつかないほどにぬかるんでおり、定かでない境界内に一度踏み込めば底なし沼よろしく引きずり込まれ、救助がなければ這い出ることはできない。

 周囲には草一本たりとも生えておらず、その沼は上空から見れば、森の只中にぽかりと真円を描いているように見える。

 彼は慎重な足取りで一周した。くまなく見回り、やがて納得してその場を後にする。

 魔境の境界に沿って一通り走り、黒の血沼のような特に注意を要する危険箇所をいくつか見回った。それらのいずれも、異常は見られなかった。

 たまに、深奥から気まぐれに現れた強力な魔物を追い払うなり倒すなりしたり、こんなところにまで監視の目を掻い潜って侵入してきた密猟者をとっ捕まえ口を封じたり、突然変異を起こした挙句放置すれば周辺地域や自分の子供たちや果ては森の外にまで悪影響があると判断した物事に対処することもある。

 それらの全ての事象に、彼は彼の裁量で処理することが認められているが、何も起こらないに越したことはない。喜ばしいことである。

 歪みが高じて全く別の土地と繋がり、そこにいた生き物が現れるなどという事態も、たまにはある。

 大抵は彼が到着するまでに歪みに中てられて死んでいるか、既に魔物化しているかのどちらかだ。後者の場合、既に管理人の誰ぞに遭遇して倒されているか、自分の意思でそこを立ち去ったかのどちらかになる。

 生きていて、意思の疎通が可能な人間の子供が二人も紛れこんだのは、彼の17年の管理人歴のみならず、長いヴォジュラ辺境警備の歴史の中でも初めてのことだ。

 最初の内こそ、人の知性を残した狡猾な魔物か、それになりかけている歪みに染まった人間という考えを抱いたが、あの子たちは魔境の歪みを体内に蓄積し独自の潜在能力を獲得してはいたものの、極めて無力だった。放っておけば、やがては多くの魔境への侵入者と同じ末路を辿ったであろう。

 むしろ適切な監督と指導が必要だと彼は思った。

 そうして連れ帰った子供たちは、彼の推測を裏切らなかった。決して邪悪ではないし、独自の文化に基づいた価値観に戸惑わされることはあれど年相応の感受性を持ち、素直に自分たち父娘に懐いてくれる普通のかわいい子供たちだ。早とちりして殺さなくてよかったとつくづく思っている。

 余計な考えに耽った自分を内心で叱り、巡回に意識を引き戻した。

 道すがら、魔境の希少生物の巣や生息地も点検した。侵入者の通過の痕跡がないことを確認する。嗅ぎ慣れない臭いも物音も気配もしない。

 今日も万事平穏だ。



 家路をのんびりと辿りながら、帰路の見回りをしていた時、彼の感覚の網に引っ掛かった存在がある。本来ならばそこにいるべきでない存在だ。

 この時彼は、家から北東に一時ほど走った場所にいた。

 家から北西にまっすぐ進み、そこから北東へと角度を修正して魔境に入ってだいたい昼頃。

 魔境の真っ只中で弁当を食べ、来た道を戻り、魔境に踏み入ったのと同じ地点から今度は南東へ向かって、縄張りの東端に達すると右に曲がって南西に進み、家に帰る。彼のお決まりの行程だ。

 森の住人と行き合うことはあまりない。向こうの方で彼の接近を察知し、隠れるなり逃げるなりするからだ。姿を認められる時は大体遠目に窺える程度に離れているのが普通だ。彼はこの森で敬われているが、同時に恐れられてもいる。

 力を使って獣や鳥を呼び寄せることはできる。しかし彼にそんな必要が生じた例は未だかつてない。

 向こうの方から非常事態を知らせてくれることならままあった。主に侵入者や魔物流出の報告で、大変助かっている。

 今回は、そのどちらでもない。向かう先にいる鳥たちは彼の存在に気付いても逃げようとしないし、彼を呼んだわけでもない。常ならぬ騒ぎに、彼の力とは無関係に五感の働く範囲で気付いただけである。

「おとーうさーん」

 ギャアギャアという鳥の喚き声に混じって、この場で聞こえるはずのない声が、哀れっぽい抑揚を帯びてその場に響いた。

 聞き覚えのある声に彼が行ってみると、中型の鳥が三羽、何やら悶着を起こしている。

 地べたに一羽が転がっていて、近くにいる一羽が頻りに羽ばたいて何やら叱咤しているようだ。上の枝に、つんと澄ましたのが一羽。

 色鮮やかな青い羽毛のトゥトゥの雄が一羽と、雌が二羽だ。もう火灯し頃の到来も早まり、周囲は薄暗い。鳥たちは陽射しの中で見るよりも黒ずんで見える。

「どうしたんだ、シオネ。こんな時刻に、こんなに家から離れていては危ないだろう」

 呼びかけると、転がっていたシオネがよちよちとまろび出てきて、フォルクの姿で茂みを割って歩み寄るジェドの前脚にひしと縋り付いた。他の二羽と比べて一回り小さく、ころころと丸っこい、幼鳥のような姿だ。

 この娘は人の姿をしていない時は思考が直截に――つまり獣寄りに――なる傾向にあり、素直に甘えてくれる。それが嬉しいジェドである。

「このトゥトゥたちが意地悪を言います」

 子どもの喧嘩を親に言いつける口調のシオネに、背後で地べたに立っていたトゥトゥの雄が、ばさばさと羽ばたいて甲高い声で鳴いた。

「なんて恩知らずなんだ。何の益もない練習に親切に根気良く付き合ってあげてるっていうのに!」

「どうしたんだね」

 ジェドはトゥトゥの言葉でゆっくりと尋ねた。説明してもらわないことには、状況がわからない。

「私は鳥の姿に変わっても飛べないので、トゥトゥに頼んで、体の作りをよく見せてもらいました」

「今はトゥトゥの姿を模す練習か。よくできている」

 シオネはしっかりと羽根の生え揃った翼を広げて胸を逸らした。確かに、見た目はちょっとばかり太った巣立ち直後の若鳥そのものだ。

「よくできているだって? いっぺんその子の着地を見てごらんよ。碌に枝を掴むことすらできないでいるんだ。羽も付いてるだけで風に乗る役に立ってない。形だけ似せてどうなるっていうんだい?」

 雄トゥトゥがフンと鼻でも鳴らしそうな口吻でまくしたて、嘆かわしげに天を仰いだ。

「そうよ。あたしがわざわざ毛なし猿の手で触らせてあげてまで姿を貸してあげたのに、こんなみっともない身形になっちゃって。あたしはこんなちんちくりんじゃないわよ!」

 枝の上にいた雌トゥトゥが――雄トゥトゥの伴侶だろう――たいそうご立腹の様子で甲高くさえずった。

 シオネは大仰にうなだれ、僻みっぽい口調で呻く。

「ずんぐりむっくりしているのは飛べるなら許容範囲だって言ってくれたじゃありませんか!」

「ほう、飛べるようになったのか」

 シオネはぱっとジェドを振り仰いで、地べたに垂らしていた両翼を持ち上げた。

「羽根の付き方と形と枚数をよく観察しました。骨も軽くしました。トゥトゥ達の助言をたくさん聞いて、飛び上がるコツを体得しました。木よりも高く飛び上がれました!」

「維持できなくて何度も落っこちてるじゃないか。だから羽が付いてるだけだって言ってるんだ」

「私は滅びません! 何度でもよみがえります! 毛なし猿の夢だからです!」

「滅ばれては大変だ。ウルリカとケイセイは泣いてしまうだろう」

「真面目に取り合わなくていいよ。その子の言うこと、時々意味がわからないんだ」

 雄トゥトゥが、何やら熱弁を揮い出したシオネの抗議を無視してジェドに説明した。

「あんまり何度も落っこちるから、その前に着地の練習をしているんだ。足の作りはちゃんと真似したのに、枝を掴めないんだよ!」

「ふむ。足の関節は同じように動くのか? 力の入りは? 趾の向きは……正しいな」

「トゥトゥ達にはしつこくお願いして足を曲げ伸ばししてもらって、よく研究しました。何度も添削してもらって、やり直しを重ねて変身しました。毛なし猿の時に手に止まってもらって、爪の食い込み方も体験しました。模し具合は完璧です! 今の私はどこから見てもトゥトゥです! 二人もそれは納得してくれました」

 下生えとリスが食べ散らした木の実の殻が転がる地面をじたばたと踏み鳴らして、シオネは己の正当性を訴える。

 飛ぶだけなら、一時ほど人の足で歩く程度の距離なら、同行者に叱られながら飛べるようになったらしい。が、トゥトゥが言うように、気流に乗るのが下手で、長続きしないのだとか。それに、着地ができないという。

「必死に羽ばたきながら地べたに不時着するのが精いっぱいなのよ。無様だわ」

 雌トゥトゥがあくまで枝の上から見下ろしながらつんと澄まして言えば、シオネは気炎を上げてむきになる。

「間合いを量れないのです。何度も練習あるのみと思って、慣れます! きっと慣れます!」

「だからさあ、趾を開くのが早すぎて、早さを緩める頃合が遅すぎて、激突する勢いで枝に突っ込むのがいけないんだよ! おまけに目を閉じているじゃないか!」

「それはいかんな」

 ジェドは真面目に相槌を打つ。

「何度も繰り返すより、確実にコツを身に刻むべきだ。本物の木の枝に止まろうとするのではなく、まずは手近な低いところに手頃な枝を身立てて、危険の少ない状況で練習しなさい。試行だとてその方が回数をこなせよう。おまえの場合は家でやったっていいんだ」

「トリゴヤですか! その発想はありませんでした」

 シオネはジェドの提案に感激し、ピヨピヨしば鳴いた。

 ジェドは人型に変わった。

「父さんの手に止まりなさい。このまま家まで帰ろう。もう日も暮れる。これ以上暗くなる前にトゥトゥたちを塒に帰してやらねばいかん。動く物の上で止まったままでいられればまず大丈夫だ。今のおまえにはそれも訓練だろうな」

「はっ、そうでした! なんか色々な物が見えにくくなったと思っていたのです」

「そうだよ、もっと早く気付いてほしいもんだね!」

「毛なし猿上がりは気が利かないんだから!」

「ああ、すまない。この子に付き合ってくれてありがとう。気をつけて帰りなさい」

「長い間ありがとうございました。申し訳なし!」

 二人して、盛大に文句を垂れる付きあいのいいトゥトゥのつがいに丁重に礼を言い、恙無く飛び去るのを見送った。


 シオネはふん、と気合の息を吐き、脚を撓めてぴょんと飛び上がった。見るからに必死の様子で忙しなく羽ばたいて滞空時間を延ばし、また体を浮かせる。ふらふらと左右に傾ぎ、真下に落っこちかけと波乱に富んだ飛びっぷりだ。本業の鳥の導きあったりとはいえ、よくぞ家からここまで飛んで来られたものだ。

 ジェドが身を傾げて手を迎えに伸べて、どうにかその上にしがみつくように着地。軽く肘を曲げ、その腕を腹の前に引き寄せる。

「へえ、はあ……生まれつきの鳥は、上手に飛びます。お兄さんも上手に飛びます。お父さんも、上手に飛びますか?」

「まあ、そうだな。彼らと遜色ない程度には飛べる。ジェオはもっとうまく速く飛ぶ。力の使い方は父さんよりジェオの方が上手いんだ」

 少々言い訳がましい一言を付け加えながらトゥトゥ姿のままのシオネを腕に乗せ、家に向かって歩き始めた。

 トゥトゥ姿の娘に合わせて、彼もまたトゥトゥの言葉で会話を継続している。厳めしい大男の口から鳥のさえずりが流れ出すのはなかなかに奇怪だが、幸いそれを指摘する第三者はいない。

「ちゃんと腹をつけて座りなさい」

「とっ、はっ、はいっ」

 シオネは珍妙な掛け声をこぼしながら彼の腕の上を行ったり来たりして、落ち着く位置を探した。動く足場の上で安定を図るのは彼女には高度すぎる訓練だったかもしれない。上体がゆらゆら傾いで今にもころっと落っこちそうで大変危なっかしい。

 しばらくふらふらした末、なんとか彼の手首の上に落ち着いてお腹を着け、深い溜息をひとつ吐いた。悲しげだ。

「力の使い方が、中々上達しません」

「シオネはがんばっている。父さんだって、最初はそんなものだった。シオネよりもっとたくさんの時間をかけて、少しずつ慣れていったんだ。それに比べれば、目を瞠る上達ぶりだぞ」

「お父さんは、どれくらいの時間、修業しましたか?」

「長い長い年月をかけてだ」

 トゥトゥ姿のままの娘は、真っ黒な目を瞬いて彼を仰いだ。鳥目だから、もはやよく見えているまい。

「お父さん、私はたまたまですが動物や鳥の言葉を聞き取れるようになったので、お父さんとお兄さんが力持ちだと知りました。それから、犬になった事故でフェルビーストの知っていることやにおいを嗅ぎ分ける力をその時だけ、束の間……一時的? に、感覚が繋がりました。それで、お父さんとお兄さんがただの毛なし猿とちょっと違う人だとわかりました。そうでなければ、二人とも、ずっとそのことを黙っていたままだと思います」

 言葉を選びながら語る娘の声は、よく推敲した事実を述べているばかりの淡々とした口吻ながら、自分の考えを相手に伝えようと努める純朴さがあった。最後に付け加えられた主観による推測を口にして、窺うように見上げてくる。

「そうだな。ではあの時から、我々が何者かを知っているというのかな」

「いいえ。普通の毛なし猿と違うということと、フェルビーストと深い関係があることくらいしかわかりません。あと、想像ですが、お父さんとお兄さんは、見た目より長生きをしているように思います」

 彼は頷いた。シオネの言葉は概ね間違ってはいない。

「おまえの想像で、一つだけ間違いがある。ジェオは見た目通りの年齢だよ。まだまだ小僧だ。前の冬に22歳になったと聞いているだろう?」

 シオネは、ジェドの息子『は』という婉曲な言い方を、はぐらかしとは受け取らなかった。神妙な目をした鳥の首が、彼が歩く振動以外の力が加わって、こっくりと上下する。

「そうでした。果たしてそれは本当なのかと、ちょっと疑問を抱いたりしたのです」

「本当だとも。父さんはおまえたちに嘘は言わん。それでも嘘をつくならつき通すか、本当のことを言いたくない時には黙っておくさ。だから、おまえが黙っていてくれることに助かっているよ。それも、結果的におまえをこの森に縫い付けることになってしまったかな」

「キミツホジは大事なことです。私も、毛なし猿がたくさんいる所でヘマをしでかさずに暮らしていける自信がありませんので、この森で生きて行く方がいいです。フェルビーストの女王様に、私は暴走癖を持っていると言われました。人がたくさんいる所では色んな魔法の気配が入り乱れているので、私にはあんまりよくないだろうとのことです。毛なし猿のまんまだったら限界がありますが、これからは何か困ったことがあっても適宜変身して対処できると思います。そのために、変身できる動物の種類をがんばって増やしています。だから私のことはこれで終了しましょう」

 シオネは一度言葉を切ると、考え深げに首を傾げ、ずばりと切り込んだ。

「本当は、お父さんに色々と質問するべきではないのです。だから、私はお父さんのことを詳しくは訊きません。たった一つ、これだけ、お父さんに言える限りのことで訊きたいのです。これからも、ケイセイとウルリカには教えないですか?」

 逡巡らしきものを見せたのはほんの束の間だ。人間の姿でいる時には考えられない率直さは、自分の欲求に素直な本能のなせる業だろうか。

 ジェドは少し黙った。高く足を持ち上げてチュリアの茂みはびこる斜面を跨ぎ越え、ややして、困ったように言う。

「それは、父さんの身上のことかな。それとも力のことかな」

「私が想像するに、お父さんの力は前提で、それから家族が増えたのです。だから、どちらも関係があると思います」

「その通りなんだ。知らずとも暮らしていく分には支障はないし、必要もない」

 珍しく踏ん切りがつかぬとばかり言い淀む養い親の阻喪した様子に、青い鳥の姿をした娘は力強くピヨピヨ言い募る。

「そうかもしれません。でも力持ちのことだけはケイセイにだけは必要です」

「それではあの子に隠し事を強いることになる。いずれ森の外へ出ると言っているのに。おまえのように、何らかの契約を必要とするだろう」

「…………」

 シオネの沈黙は、主に隠し事という一点において、自分の弟を信用しきっていない本音を物語っていた。ふと、我知らず糸口を見出した者の独白のようにぽつりと呟いた。

「ああ、わかりました。お父さんは、暮らしの平穏を失うかもしれないと思うのが嫌なのですね」

「そうだな。結局、己が可愛いのだよ。父さんがフェルビーストに拾われてそこそこ経つが、ここ十数年の暮らしが一番充実しているからな。人の中で生きるには少々疲れてしまったが、全くの孤独というのもまた耐えがたいものだと知ってしまった」

 そこそこと言ったものの、彼がフェルビーストの使い魔となって、数百年が経つ。彼の記憶違いでないなら、具体的には430年になるか。ここで言うフェルビーストとは、ヴォジュラ一帯に根を張る領主一族のことではなく、その礎となる血統を遣わした祖の獣のことである。

 彼の肉体が衰え始めるより前のことだった。以来ずっと壮健を保っている。先任者は推定彼の倍以上の歳月着任していて、その間外見が一切変わらなかったそうだから、彼もこれからもずっと変わるまい。

 現在の名が与えられたのも、この時、主によってだ。ちなみに、ジェドというのは略称である。先日息子が義理の息子に説いていたように、使い魔の名というものは、重要な意味を持つのだ。

 そんな彼が最近頭を悩ませていることが、子供達の扱いなのである。何と人間的な、ささやかな悩みであろうか!

 先代領主から勧められて娶った妻との間にまさか生まれるとは思ってもみなかった息子に対しては、至って理性的に、勤勉に仕上がるよう容赦なく厳しく教えを詰め込んできたというのに、娘に対してはどうにも甘さが抜けないのが悪い癖だ。

「ウルリカを嫁に出すまでは持つと思うのだ。ケイセイが組合員暮らしに区切りをつけて戻ってきたら、あの子に任せようと思う」

「なんですと!? 本当に我が愚かな弟をウルリカのお婿さんにするですか!? 買い被りも甚だしくありませんか!? アオタガイニモホドガアルのです!」

「これ、羽ばたいてはいかん。落ちてしまう。心配せずとも、あの子はおまえが考えているよりも見込みがある。まだ子供なんだ。無理なく鍛えてゆくよ。本人にもやる気がある。あの子は強くなる。必ず強くする」

「へー……お手柔らかにお願いします……わっぷ」

 シオネは思わずといった風に後ろに仰け反って、危うく後ろに転げ落ちそうになった。もう片手でその背を支えて押し留めながら「しっかり踏ん張りなさい」と小言を一つ。

 シオネはとても羽ばたきたそうに、肩をぶるぶるさせて耐えながら、しかし頑強に主張した。

「ケイセイをお婿さんにするなら、やっぱりケイセイにはお父さんとお兄さんのことを教えておいた方がいいと思います。ウルリカのことは、ご家庭問題に口を出す道ではありませんので、私にはどうした方がいいのかはわかりません。でもケイセイは、お父さんとお兄さんはただの毛なし猿ではないと薄々気づいています。レベルすら見えないとかなんとか、思うところありげに言っていたのを聞きました。意味は分かりませんが、きっと碌なことではありません。ケイセイが何か誤解をしてしまう前に、話した方がいいと思います。知らずに森の外に出したら、悪気もなしにお父さんたちのことを人に言ってしまうかもしれません」

「ううむ……」

「弟はどんどん魔法に詳しくなっていきます。ずっと魔法を知らないふりをしているのは難しいと思います。毛なし猿が言う魔法と、お父さんたちの力との違いをわかってもらうのも、早い方がいいです」

「……そうだな。ジェオとも相談して検討する」

「ぎょぎょ、それはいけません! お兄さんには言わないでください! 私が叱られます!」

「なぜおまえが怒られるんだね」

「お兄さんと、詮索しないと約束をしました。私がお父さんの判断に口を出したことは判明してはなりません! キミツローエイノカドでオテウチです!」

 震え上がるシオネの言動は多少芝居がかっていたが、本心であることは間違いないようなので、彼は同意した。



 夕食の臭いが漂ってくるところまで自宅に近付いたところで、二人の視界の端に小さな明かりがぽっと現れた。ゆらゆらと揺れていたそれが徐々に近づいてき、松明を掲げたケイセイが不安そうな面持ちで走り寄ってきた。

「お父さん」

「ああ、わかっている。シオネが帰って来ないというんだろう? これがシオネだよ。飛ぶ練習をしていて、少々遠くまで行きすぎてしまったようだな」

 ケイセイは、長々と養い親の腕に留まっている鳥を眺めた。

 陽は森の梢の縁をかすかに空から切り抜かせているばかりで、辺りはとっぷりと暗い。ケイセイの手にする松明だけが光源という状態だ。火の色の照り返しを放つ一部の他は、トゥトゥの姿は今や真っ黒に見える。

 シオネは気まずそうに身を縮めながら、窺うように面を上げて「カア」と一声鳴いた。

「トリ……ダト……!?」

 ケイセイがなぜか衝撃を受けた様子で呻いた。

 シオネは得意げに胸を逸らして羽を広げて見せつけている。ぴょんとジェドの腕から跳び下りると、人に戻り、

「あいたっ!」

 膝から着地して崩れ落ちるように前に倒れた。板切れでもひっくり返したように彼女が地面と激突した音がえらく小気味よく、滑稽ですらある光景である。

 一歩半前方にいたケイセイは、咄嗟に倒れかかってくる姉の体をひらりと避けた。着実に身に刻まれつつある無意識の防御本能の成せる業か。回避してからしまったという顔をして慌てても遅いが、この場合は愛嬌だ。

 ジェドはといえば、シオネの着地寸前で形容しがたい不快な音が脳髄にねじ込まれてくるような感覚と鈍痛、一瞬シオネの体の輪郭に沿って膨れ上がる歪みが夕闇を圧して波紋を投げかける光景に気を取られていた。

 力の使い方が下手だ下手だと聞いてはいたが、これは想像以上にひどい。相当量の歪みが発生したにも拘わらず、その全てを独力で引き寄せ相殺しきってのけた技量は及第点を与えてもいいはずだが、どうしてだか、殆ど力技だったせいで褒める気にならない。

 祖の獣を模した赤犬に変わったり戻ったりする時には、こんなことは起こらないのだが。前にイズリアルが来た時に言った通り、あれは一種の後遺症だからだろう。

「これ、どうしたんだ。突然そんなことをしては危ないぞ」

 我に返り急いでシオネを助け起こしながら、この子は何をしたかったのだろうとしばし考え、これが野生のトゥトゥ達が言っていた着地下手ということかと推測し、次いでそうではなく、地面に降り立った頃合を見計らい立った状態で人の姿に戻ろうとしたのだろうと悟った。化身の術を昨日今日体得したばかりの娘には難易度の高い技術だ。あとでそのことを教えてやろうと思いつつも今は黙っておく。

「くう、オニタイミング……」

「ああ、安定のお姉様です」

 鼻面を押さえて呻く姉を見下ろすケイセイは、妙に静まり返った表情に安堵を湛えてそっと呟いた。

 姉の体当たりを回避した直後の愕然とした目つきからして、恐らく彼もシオネの規格を逸した歪みの大きさと処理の強引さを感じ、また見て取れたのだろう。

 三人並んで徒歩で家に帰る途中、ケイセイは故郷の言葉でシオネに質していた。

『まさかほんまに犬以外になれるとは。ところでねーちゃん、なんでよりによってカラス?』

『カラス違う! トゥトゥっちゅう青い色の鳥じゃ! 大きさがカラスと同じなだけ! 色は青! ……うんにゃ、雌じゃけん保護色じゃけど、まあ後で見とれや、明るいとこで化けて見せちゃるけん』

『いや、ええ。変身って、けっこ高度な魔法なんじゃろ? 一度の相殺でかかる負担も大きいんじゃし、あんま無理すなや』

 家の周りの空き地に踏み入ると、家から夕食のにおいを漂わせるウルリカが走り出て来て、全員の無事の帰りを喜んだ。シオネが赤犬以外の姿に変身できるようになったことが判明したと伝えると、素直に手を打って感心する。

「まあ、すごいわね。今度私にも鳥の姿を見せて頂戴ね」

「もちろんです。観察と研究を重ねて、トゥトゥに変身することができるようになりました!」

「ウルリカ、お姉様を褒めちぎってはいけません。甘やかすとつけあがります」

 ケイセイがどこかぴしりとした調子でウルリカに釘を指した。

 ウルリカはたちまちしゅんとして、完璧な輪郭を描く頬を、日々の労働の蓄積が及ぼした不格好な形の爪に飾られている荒れた指先で押さえた。

「まあ、ケイセイったら。姉様のことをそんな風に言ってはいけないわ」

「いいのです。ウルリカはどんなことでも甘すぎます。締めるべきところは厳しく締め上げなければ、集団の規律と秩序は保たれません」

 ケイセイがウルリカに苦言を呈するという事態も珍しい。もっともらしい言葉で誤魔化しているが、姉に立て続けの変身をさせてはよくないという考えが、その言動からは滲んでいる。

 ケイセイにつけあがるなどという言葉を教えた覚えはジェドにはない。なぜ彼は日常会話を修了してもいないうちから、悪態が達者になってしまったのだろうか。

 いや、まあ、自分でなくウルリカでもないのだから、息子かイズリアル、もしくはオルソンの置き土産のいずれかだ。今度ジェオフレイ達が来た時には、厳重に注意しておこうと彼は思った。

 折角一から言葉を覚えてくれているのだから、ケイセイにはもっと品の良い言葉遣いを身に付けてほしいものだ。

 いずれ組合員になって現役の組合員に揉まれれば、習慣などすぐに上書きされてしまうものであるという事実は、とりあえず予定の脇に置いておいた。


 やはり彼の一日は、今日も平和なまま終わりそうだ。

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