潮音、森に帰る
ねーちゃんが出て行ってから三カ月が経った。
芋虫の日が来て、流れ花の日が来て、黒い水の日が過ぎて行った。
芋虫の日は、ウルリカの言った通りカオスで、兄ちゃんの言った通りすげえうるさくて臭くて、イズリアルさんの言った通りエグくて全然楽しくなかった。いくらウルリカの言うことでも、あれを年に一度の祭り感覚で楽しみにする気にゃなれねえや。
流れ花の日は、花池周りの木が咲かせた毒花が花池を埋め尽くし、それが池から繋がっている川の支流に流れ込んで、わしらの家の近くの小川が真っ赤に染まる期間を指す。期間は半月ほどで、春の恒例行事であることといい、見た目のきれいさといい、桜の代わりと言えば向こうの感覚でも納得しやす……くはならない。
こうなると水から花の毒素が抜けるまで飲めなくなってしまうので、別の支流の遠い小川まで水を汲みに行った。昔アナログテレビが生きてた頃に見た番組で、毎日何時間もかけて水汲みをしていた子供はわしより小さかったよなと思い出しながら歩いた。
ちなみに、毒水は毒水でなんかしら使い道があるのではないかというとそんなこともなく、ひたすら花の季節が過ぎるのを待つのみだった。
魔法ってのは必要に迫られれば編み出せるもので、わしは水を浄化する魔法を組んでみたが、人と家畜の喉を潤す水を確保するのが精一杯で、料理や洗濯や風呂に行き渡るほど豊富な水を用意するのは無理だった。わしのMPにも限りがあるため、一日に浄化できる水量にも限りがある。
それにこういうところでの暮らしだから、何かあった時のために魔法を使える余力を残しておいた方がいいと思い、最低でもMP10は常に残しておくようにしている。
黒い水の日は、花池とは別の、うちからかなり離れたとこにある黒い水の池から特殊な魔物が這い出して来る、らしい。多分、なんかの周期的な問題なんだろう、年に一度、なつかれくさの月の11日に決まってその現象が起こるという。聞いた話なのではっきりしたことは言えねんだ、これが。
父ちゃんは、今まで何度かあったように、この日は絶対家の外に出るなとわしとウルリカに言い含め、いつものように出て行って、翌朝近くに帰ってきた。魔物が湧いて来なくなるまで、黒い池に張り付いていたと言ってた。
兄ちゃんとイズリアルさんはいつものように月一で来て、その都度ねーちゃんはまだ帰れないとすまなさそうに言われる。
必ず帰してくれるという心づもりはあるんだろう二人のことは個人的には信用しているが、現実がどう世知辛く働くのかは二人の善意の外なわけで、どういう事情でねーちゃんが帰って来られないのか、今どうしてるのか、それが気になる。そして二人はそれについちゃあ説明してくれないのだ。
わしの声変わりは終わって、喉の痛みや声の掠れも引いた。
とりあえず誰も何も言わんから胴間声にゃなっとらんと思うが、自分で自分の声って、案外はっきり評価できねーもんなんだよな。
家の増築はちまちまと進んでて、畳二畳ほどの小部屋を完成させた。これはわしの部屋だ。寝る時くらいしか使わねーからスペースに不満は言わない。
今作っているのは風呂場。ねーちゃんが帰って来たら喜ぶだろうと思って、水周りを丁寧に拵えているところだ。
ねーちゃんが名前を付けたヤギのビタとミン――どんだけ菜食恋しいんだっての――の間には、仔ヤギが生まれた。わしの一存でゴーディアスと名付けた。向こうにいた頃友達が持ってた狩りゲーの上級モンスの名前である。勿論栄養素とは何の関係もない。ヤギっぽい見た目のモンスがそれしかいなかったんだからしょーがねぇじゃん。
ミンからは素人なりにちょろちょろと乳が搾れるようになったわけだが、これが超絶エグい。とても飲めねえ。
てなわけで絶賛餌模索中。元々野生種だったからか、放し飼いにしても結構タフに生きてくれるところはいいんだが、そうすると勝手に乳の味が悪くなるもんばっか食ってくるので、ミンだけは紐を付けて家の側に繋ぐようにしている。
なお、仔ヤギは母親の側を離れねえし、ビタは時折フラッといなくなるものの日が暮れる前にちゃんと帰ってくる。特に躾けた覚えはないので、ビタが賢いのか、うちをちゃんとうちと認識しているのかは定かでない。
父ちゃんは時々仕事に連れて行ってくれるようになった。
といえど、警備の一環の森歩きと、罠のチェックと回収、食肉確保の狩りの部分だけだ。魔境にまでは同行できないし、戦いになるようなこともない。父ちゃんはその辺、実にうまく立ち回り、そもそもイレギュラーとは遭遇しないようにする。
稀に何かあっても、野獣を剣も抜かずに追い払い、魔物の痕跡を認めればわしを家に連れ戻ってから出直す。その余裕がない時には、わしを隠して単身特攻する。
例えば、父ちゃんの縄張りの最南端で、外部から侵入したモグリ魔術師を発見した時。
父ちゃんは魔法を使えないのに魔術師なんかとサシで戦って大丈夫なのかと思い、手伝えることはないかと大分食い下がったが、父ちゃんは断固拒否してわしを茂みの中に押し込み、もののついでみたいにさくっと魔術師を落としてきた。
魔術師は三人の護衛を連れていたが、父ちゃんはそれぞれ全くペースを落とさず歩きながら、一人を剣の鞘で引っ掛けて大木の幹に腹を打ちつけて気絶するように放り投げ、返す刀でもう一人の喉を突いて悶絶させ、残る一人を反対側の腕でラリアットをかまして卒倒させた。
それらの作業を多分3秒とかけずに終える間、魔術師に向かって歩く速度も歩調も全く変わらない。
子猫くらいのトカゲ姿の使い魔を「しゅっ!」の一息で尻尾を巻かせ、恐れ戦く魔術師が護衛の稼いだ時間でなんか魔法を使ったがものともせず、まっすぐ行って一発拳を当てておしまいだった。
魔術師と護衛のレベルは17から26で、4人いてこれだもんな。父ちゃんつええ。そしてやっぱ後衛が単独になるとよええ。
魔術師が使ったのは目眩ましか幻覚かの対象の気を逸らす系の術だった。こっちの世界の魔法にどんな系統のものがあるのかをわしがしっかり把握できてりゃ、もっと絞れたかもしんねえんだけど。
その後父ちゃんはすぐさま家に取って返してドバを飛ばし、侵入者を転がしておいた現場に舞い戻って、引き取りに来た警備の人に引き渡したそうだ。その様子を、ドバを飛ばした時点で家に置いて行かれたわしは見ていないので、どういうやり取りがあったかは知らない。
魔術師は気絶しただけってのはわしにもよくわかったが、護衛の一人目はもしかしたら背骨に異常が出たり内臓が破裂したかもしれない。二人目は喉が破れて命を拾っても声は出せなくなったかもしれない。三人目の首が折れて即死してたとしても、わしは驚かない。
後に父ちゃんが言葉少なに説明してくれたところによると、侵入者との戦いは生け捕りが望ましいが展開次第では殺してでも仕留めることもあるのだという。
うん、まあ、そうだろうなぁ。
父ちゃんは、ある程度わしの身体能力と腕前が伴い、手頃な標的を見つけたら魔物退治にも連れて行ってくれるそうだ。
正直、楽しみだ。だがそれはまだ先の話になりそうなんだよな。
なんとなれば、わしを連れていくと、ウルリカが家で一人になる。
家事も家畜の世話もウルリカ一人で賄える仕事量だが、ここで問題なのは一人ぼっちで留守番という立場をウルリカが貧乏籤だと感じているらしいことにある。
寂しがって見るからにしょんぼりし、自分も一緒に行きたいと言いだしたので、父ちゃんはそれを突っぱねるのにいかにも心を鬼にしていると言わんばかりの対応で苦慮していた。わしよりはるかに強いウルリカを、父ちゃんはどうしても仕事に連れて行きたくはないようだった。
わしらが来る前はずっと父ちゃんの留守を一人で守ってたはずなのにな。わしらが来たことで、ウルリカは人の増えた暮らしに慣れちまったんだ。
一人の時間が増えたことを寂しいと感じるようになったのは、メンタルが弱くなったというのとは違うだろう。素直に寂しいと伝えて家族に甘えられるのは、わし的にはすげえ度胸のいることだと思う。
「おとうさん、ごめんなさい。ぼくに気を配ってくれているために、ウルリカに寂しい思いをさせています」
「そんなことはない。おまえたちが来てくれたことは我が家にとって幸いなことだと思っているよ」
父ちゃんはいたって穏やかに答えた。
「……そうでしょうか」
足先で茂みに隠れている穴や溝を探りながらわしは呟いた。考え全部を口にするのは、決定的な溝を生みそうでできなかった。
どうにかこうにか履き慣れてきたこっちの革靴で立ち止まらないように進むのにも慣れてきた。この世界の靴がみんなそうなのかは知らねえけど、わしのも父ちゃんやウルリカが普段履きにしてるのも煮固めたもんなので形が一定で固くて重い。安全靴並みだ。
せめてとばかりに屋内では不格好な手作りの草鞋スリッパで過ごすのは、抑圧からの解放なのだ。ウルリカ達からは未だに理解されないが、そうといったらそうなのだ。素人仕事ゆえのちくちくには目を瞑ってでも、煮固めた革ブーツ履きっぱは辛い。窮屈だし、蒸れるし! 嫌だぜ、こんな若い身空で水虫とかなったら!
「とはいえ、口では何とでも言える。父さんが何と言ったところで、おまえが信じたくないならそれが全てだ。信じられないなら、それがおまえの本心ということだ」
父ちゃんがさらっと言い添えた言葉は、わしの心胆寒からしめた。
「いいいいいえ! そんなことはありません!」
ぎょっとして、慌てて派手に首と手を振ったら、頑丈な蔓を張り巡らせた茂みに足を取られて転びかけた。どうにか踏み止まる。
「外敵のいる場で注意を失うのはいかん。どんな時でも、いや、動揺した時にこそ気を抜くな。さっきの話だが、それならそれでいいんだ。おまえはおまえの直感を信じなさい。こう言ってはなんだが、父さんは理屈より直感を信用する性質でな。本能の囁きが身を助けることはままある」
父ちゃんは別にわしを突き放そうとしてるわけじゃなく、自分の考えを静かに説明しているだけのようだった。一家の関係に亀裂が走ったと思ったのはわしだけだったみたいだ。
わしだって別に、父ちゃんたちを頭っから疑ってかかってるわけじゃない。好きだからこその不安というか裏返しの臆病さというやつを説明できない心情を察してほしい。
というか、父ちゃんにとって、信用のあるなしはそれほど重大なことじゃないのかもしれないと気付いた。
わしら姉弟が意思の疎通もままならない頃から、父ちゃんはわしらを保護して世話してくれた。多分、わしらが父ちゃんたちを嫌っていたとしても、父ちゃんは困りゃしないし、わしらが自活できない非力なガキでいる間は淡々と面倒を見てくれたのだろう。そこに信頼とか楽しさの共有とかが加われば、より豊かな時間が過ごせるという考えは、できればいいという程度のオプションなんだ。
それでいて、わしとねーちゃんを可愛がってくれてもいる。それには全部、父ちゃんなりのやり方で、という前置きが付くんだろう。
なんだろな、はっきり説明できねーけど、この色んなものを度外視してる感じ。
「おまえの信頼を勝ち得なかった我々の力不足だった。あるいはおまえの心が少しばかり疑り深いというだけのことだ」
そんな風に言われると身も蓋もねえ!
「おまえが納得できるかどうかだな。それで判断してくれて構わんよ。ウルリカも同じだ。おまえたちが来たせいだと思っているかどうかは我々にはわからない。おまえがそうであればいいと思うように思えばいい。事実と相違あるかどうかはすり合わせを行わない限りわからない。どうしても確かめたいならあの子に直接質してみなさい。あの子は包み隠さず答えるだろう。虚偽や誤魔化しとは縁のない子だ。さて、ケイセイ、おまえはウルリカに恨まれていると思っているのかな? それとも、あの子に恨んでほしいのか?」
「いいえ! とんでもないません!」
「そうだろう。あの子が恨みつらみなど、父さんだって考えられない。それでいいじゃないか。そうだろう?」
父ちゃんは器用に片眉を上げて厳めしいウインクをした。
珍しいものを見てしまった。しかもそれが、意外にもお茶目に見えた……
わしは結局、ウルリカに懸念をぶつけることはしなかった。よくよく考えてみれば父ちゃんの言う通りだと思ったからだ。むしろわしらを恨んでいるかもしれないなんて発想は目から鱗を落として、ウルリカに余計な気まずさを植え付けるかもしれない。そういう感情と無縁に育ててきたものにいらん入れ知恵をするべきじゃない。
とりあえず、ねーちゃんが帰ってきてくんねーことには、わしは父ちゃんと遠出がしづらい。
がむしゃらに修行して、わしのレベルは9になった。アナリシスで見られる項目と目視可能時間も増えた。
相変わらずウルリカと父ちゃんの能力値は見えねーけど。わし、まだウルリカのレベルの半分にもなってねーかんなぁ。おまけに、この四カ月の間にウルリカもレベルを一つ上げている。これ以上差をつけられたら堪らん。
父ちゃんと兄ちゃんのレベルすらわからんままなのは変わらねーし。
名前・年齢/江見敬清(12) 種族・所属/地球人・ヴォジュラ辺境の森中央区域第6地点管理人預かり
レベル/9
HP/15
MP/27
生命力/11
魔力/14
体力/12
敏捷/11
知力/10
装備
布の服/1
革の靴/1
技能
剣/1 短剣/1 弓矢/1 格闘/1 軽業/1 探索/1 登攀/1 警戒/1 追跡/1 罠/1 騎獣/マズリ/1 応急処置/1 狩り/1 解体/1 木工/3 水泳/2 釣り/3 採取/2 調理/1 動植物知識/辺境/1
装備品とスキル? を見られるようになっていた。こっち来てから手ぇ着けたスキルが軒並み1ってのが、いかにも素人くさくてわくわくするね!
そして目にも初々しい布の服とか! ここから無限の彼方に飛び立とうって具合に心浮き立つ定番の初心者装備!
ふと思いついたことがあって、父ちゃんからもらった木刀を手に取ってみる。改めてアナリシスしてみると、装備品の欄が増えていて、『レスツルの木刀/4』と表示された。おおっ。
更に向こうの世界から持ち込んだアウトドア用ナイフと、兄ちゃんとイズリアルさんからもらった誕生日プレゼントの籠手を装着してから、もっぺんステ表示。『鋼のナイフ/5』と『籠手(?)/7』と出てきた。
スラッシュの後の数字はなんじゃろ。服と靴は1で木刀は4。籠手が7。籠手の後ろには括弧して?マーク。特殊能力でもついてんのかと思ったが、木刀の名前に素材名が付いてるとこから判断するに、素材名をオープンできるレベルじゃないのかもな。
父ちゃんが選んでくれたレスツルはけっこいい素材みたいだし。まあ金属と同じ重さだっていうし、少なくともただの木刀より数段攻撃力は高いはず。それ以上に籠手がいい素材だってことは分かってるから、こりゃ攻撃力と防御力(暫定)てとこか? けどスキルの後にも同じスラッシュと数字があんだよな。アイテムレベルとかスキルレベルって可能性もある。
まあ想像だし、これを見るに、まだまだオープンにしていける要素は多そうだ。
しっかしステータス伸びねー。着実に数値を伸ばしているのはMPだけで、あとは1レベルアップでどっか一か所が1上がるか上がんないかってとこだ。わし一応成長期じゃけ、上昇補正あるはずなんじゃけど。こりゃあガンガン数値がインフレしていくタイプの表示形式じゃないな。
ねーちゃんがいなくなって四月目。なつかれくさの月からたいうふる月に変わった。
なつかれくさの月を日本語変換したら多分夏枯草の月となるんだろうが、ここの暦はもっと南東の大きな都基準で設定されてるらしいので、そこでは夏草が枯れる時期なのかもしれないが、こっちではまだ下生えが青々と茂っている。
もうすぐわしらがこっち来て一年になる。
早いなと思っていたら、その日仕事に行く父ちゃんが、家を出て、何かに気付いた風に立ち止った。屋内のわしらを振り返った顔は、労わるように緩み、声は弾んでいた。
「ウルリカ、ケイセイ。今日は晩飯の支度は多目にな。イズリアルどのがおいでになる。シオネも戻ってくるぞ」
あまりにさらっと告げられるので、一瞬情報処理が追いつかなかったが、父ちゃんが言うんだから間違いじゃない。
「……お姉様が帰ってくる?!」
「ほんとう、父様、ほんとうですの?!」
食いつくわしとウルリカに、父ちゃんは自信たっぷりにどしんと構えて肯定してくれた。そして今日は早めに帰る、と言い残して仕事に出て行った。
夢でも見てるみたいな心地でいつもより盛大な晩飯の支度をウルリカと二人でしていると、兄ちゃんとイズリアルさんが、いつものように三頭のマズリを連れてやって来た。
わしらが知ってる並の馬よりでけー騎獣に蹴られない程度に離れた足元を、ちょろちょろと軽快な足取りで歩く赤い四足の動物がいた。
ねーちゃんだ。
四か月前、同じように二人の人と三頭の馬と一頭の犬を見送った時と同じ顔ぶれが、こっちに向かってくる。
ウルリカが小さく叫ぶようにねーちゃんを呼んだ。ふと思い直したように、それ以上進み出ようとする足を止め、わしの肩をそっと抱き、自分より前に押しやる。
わしは数歩進み出たけど、逆にウルリカの気遣いによって、感動の再会をすべく走り出る自分というのがなんか恥ずかしくなったので、それ以上進めなくなった。
平静を装って迎えようと思うのに、つい情けない声で呼んでしまいそうになって、何も言えずに唇を引き結ぶ。
心配しなくても向こうから来るじゃんか。帰って来たんだからさ。
前に見た時のまんま、赤い毛皮のでかい犬の姿をしたねーちゃんは、なにやらお伺いでも立てるように、マズリに跨る兄ちゃんを見上げた。
兄ちゃんは頷いたみたいだ。
ねーちゃんは一目散に移動の列を抜け、わしの前まで走ってきた。立ち止まり、尻尾をばたばた振りながらまっすぐわしを見上げてくる。その顔つきはまるっきり犬だ。考えなしに見える白目の目立たないくりくりした目。長い舌がだらんと垂れた、間抜けそうな半開きの口。
なんでまだ犬なんだろう。
魔法の使い方を習得し、変身を制御できるようになるために森を出て、イズリアルさんの知り合いに預けられることになったはずだ。帰って来たってことは、人に戻れたからじゃないのか。修業は失敗したんだろうか。
でもねーちゃんだ。たとえ人に戻れなくても、ずっとこのままでも、わしのねーちゃんだ。それは確かだ。
わしはなんて言っていいかわからなかった口を意思の力で動かし、唾を一度飲み込み、束の間忘れていた言葉を押し出した。
「……よう。おかえり。ねーちゃん」
普通に言えただろうか。強張ってたり掠れてたりはしてないと思うけんど。湿っているなんて論外だ。そんなことを考えながら、自分が日本語で喋ったのかこっちの言葉で喋ったのかも覚えてないことに気付く。
「シオネよね……? おかえりなさい。これからは、ずっといるのよね?」
ウルリカはわしよりずっと率直だ。既に涙ぐんでいて、膝を着いて赤犬に手を差し伸べる。
そんなワシらを見比べたねーちゃんは。
犬顔でニヤッと笑って、にょろっと縦に伸びた。
かと思にきや、四つ足で立って尻尾を振っていた犬が、いつの間にか二本足で立つ人間に戻っていた。
いつの間にか、だ。ぱっと消えてぱっと現れるとか、光に包まれて見てくれが切り替わるとかそんなんじゃなくて、瞬きこそしてたが目を逸らさなかったわしの視界の中で、いつの間にかとしか言いようのない印象に残らない変身をねーちゃんは披露した。なんの前兆も感じさせない、魔法の予備動作とか魔力の動きとかも感じさせない、唐突な変身だった。生まれた歪みはわしが練習で使う魔法に比べてかなり大きかったが、それを全部自分の体から出さずに相殺しきって、急激だろう疲労をうまくやり過ごしているように見えた。
人型に戻ったねーちゃんは、RPGの魔法使いが着るような地味な色のローブを着てて、髪が大分伸びてるのをスカーフで一つ括りにしている。顔はわしが見る限りでは太っても痩せてもなく、ただ健康そうな顔色と大きなことをやり遂げた人特有の生き生きした目で――一言で言うならドヤ顔で――わしらを見ている。
わしもしっかとねーちゃんを見返した。10秒くらいものも言わずにじっと見た。
名前・年齢/江見潮音(17) 種族・所属/地球人・フェルビースト家直属管理人見習い兼ヴォジュラ辺境の森中央区域第6地点管理人預かり
レベル/3
HP/15
MP/30
生命力/10
魔力/18
体力/11
敏捷/10
知力/11
装備
布の服/1
運動靴/3
技能
木工/2 水泳/1 応急処置/1 釣り/2 採取/3 調理/5 洗濯/3 掃除/3 服飾/3 庭師/1 礼儀作法/ヴォジュラ/2 動植物知識/辺境/4 栄養学/1 練丹術/1 地理/辺境/1 特殊知識/???/5
突っ込みどころはいくつもある。あるけんど、でもそりゃ後回しだ。
だって、ねーちゃんは帰って来たばっかだ。そんなこと訊き出せる雰囲気じゃねえ。ほれ、今だってじわじわ笑み崩れて、両手が上がって、爪先に力が入って踵が少し浮いて。
「ただいま!」
そして、満面の笑みでそう言って、まずはウルリカに抱きついた。
当然、次の標的とされるところだったわしは、事前に慎重に距離をとることで、慎んでハグだけは辞退した。んな公開処刑、むざむざ引っかかってたまるか。
「ところで、大きな顔をしているが、おまえが任意で変身できるものは、いまだにその犬の姿だけだということは隠しておくつもりだったのか?」
「ああー! なぜ暴露してしまわれましたかお兄さん! ひどい!」
「なんじゃそら。全然使いこなしてねーんじゃん! なん今のドヤ顔! ちょっとでも見直して損した、あー損したー!」
「ち、違うし! 他にも色々できるようになったんじゃけえな!」
「ほー。なん、見してみ?」
「やなこった! 力は目的ものう使ちゃいけんのじゃけえな!」
「負け惜しみか! 負け惜しみじゃな! やーいやーい」
「きー! おのれ愚弟! 姉を指差すとはなんたることか!」
「ああ、ケイセイ、シオネ、どうか落ち着いて……、ケイセイったら、あんなにシオネのことを心配していたのに。折角帰ってきたのに、どうしてそんな心にもないことを言うの」
「いやあ、心にもないとは限らないよ。性別年齢状況を問わず、照れ隠しをしたい気分というのは唐突に襲ってくるものだ。少年期には尚更、些細なことでも引っかかるものさ。特に内輪ではね。微笑ましくていいじゃないか」
「イズリアル様はそうでしたの?」
「私に限らず、女性と相対する男は皆そのようなものだよ。反抗期というには、ケイセイのはかわいいものだがね。なにはともあれ、めでたしめでたしということかな」




