潮音、森を出る・4
イズリアルさんの親戚の奥様のお家に来て、もうすぐ一月になる。
敬清とウルリカは元気かな。
あの二人が病気になったところなぞ見たこともないが、うっかり怪我とか……は、なさそうだけど。敬清が魔法の事故でもし……ないよな、私じゃないんだから。とにかく、心身の身の方は元気なものとする。
心身の心の方はどうかなあ。今も、私のことを心配して心を痛めてやしないかが気がかりだ。忘れてるわけはないから、せめてあまり気に病まないで健やかでいてほしい。
お父さんは……まあ、敬清とウルリカ以上に元気に決まってるし、私の療養(?)先を自信をもって推薦してくれたくらいだし、そんなに心配してもないだろう。
ケーンのおじいさんの具合はどうなのかなあ。あの方こそ私の心配なんてしてないはずだから、とにかく体調だけが心配。
ビタとミンだって、お乳がおいしくなるように食べ物を吟味していくところだったのに。名前だって、これから定着させていくところだったのに。森に帰る頃には他の皆の子になってて、私には懐いてくれないかもしれない。発案者は私なのに!
あの時は野生のシンプルなルールが私の中で根を張りつつある頃だった。
弟もいずれは一端の雄となって自分の縄張りと群れを持つなら家族離れの心構えをしていくべきだという考えのもと、巣立ちをする自分と巣立ちに備える弟という構図に特に疑問も持たず森の家を離れることに納得していたのだ。
即断即決の恐るべきドライ思考と、離れがたいと感じる人情がコロコロと入れ替わり立ち替わりしていて、頭の中がかなり混雑してきてて、ぶっちゃけ何言われても深く考えずにイエスと言っちゃえる不甲斐ない精神状態だったことを認めなければならない。
毛なし猿に戻った今は、少しでも早く奥様に太鼓判をいただいて、うちに帰りたい。
できれば、次にイズリアルさんたちが森に行くタイミングで。次を逃せば更に次のチャンスは一月後になってしまう。あんまり時間がない。
イズリアルさんとお兄ちゃんは、自力で元の姿に戻れなかった私を、いったん街の奥の大きなお屋敷に連れていった。
ヴォジュリスティは大きくて、道が整備されてて、色んな臭いが入り混じっていて、石と煉瓦と漆喰の頑丈そうな家とお店がたくさん立ち並んでいて、更にたくさんの人がいる街だった。通り抜けただけの通りは活気に満ち溢れていた。
毛なし猿に戻った状態でそぞろ歩けば、もっと違った感慨が生まれたのかもしれないが、犬の本能にかなり引きずられていた私はすっかり即物的になっていた。
おいしそうなにおいを団扇で煽いでくる屋台に走り寄ろうとしたり、好意的な声をかけてくれたかわいい子供に遊んで欲しくなって飛びつこうとしては、お兄ちゃんに首根っこを引っ掴まれて――親犬が子犬を咥えて運ぶあの部分をおっきな手で容赦なくぎゅむっと――荷台の上に引きずり戻された。
私、ゴールデンレトリバーより二回りくらいでかい犬だったんだけどね。体重も毛なし猿時より確実に重くなってたはずなんだけどね。お兄ちゃん、別に力を使って筋力を強化してるわけでもなさそうだったけどね。ぬいぐるみかなんか拾い上げるみたく片腕で楽々だぜ。いや、うん、もうお父さんとお兄ちゃんに関しては驚いたりしないけどね!
カウントを重ねるごとにお兄ちゃんの堪忍袋の緒がすり減っていくのが、そのうち皮と脂肪の下の肉まで掴まれるようになったことで察せられた。
お兄ちゃん、表情は変わんないんだよ。手の力だけがじわじわ強くなってくの。いやー痛かった。
遊びに行かせてほしいと鳴いても許してくれないし、腹に据えかねたのか、森でおじいさんと意思疎通した時みたいに、テレパシーで叱られさえした。お兄ちゃんは犬語(?)がわかるので会話は成立する。ただ、公衆の面前で口に出して叱ったら、ただの犬相手に大人げない小言垂れてる人にしか見えないから。
お兄ちゃん、力の使い方すごい巧かった。
対象を私に絞って最低限の大きさの声を届けるばかりか、歪みさえ発生させない。いや、力を使って結果を出した以上、歪みはできるのだ。ただそれが恐ろしく小さくてさりげなく処理されただけで。
私は自分が頭の中に話しかけられたからこそお兄ちゃんが力を使ったとわかったものの、それもお兄ちゃんの中でじわりと一滴のインクが淡い染みを作るようにささやかな歪みが生まれると同時に、それが逆行したみたいに密やかに相殺されていくのを呆気に取られて見守るしかできなかった。こんなん、周りの人はまず気付けない。
問題だったのは、そこまでされても学習しない私の鳥頭……いや、犬頭?
しばらくの間はいい子で伏せていられるんだけど、すぐに興味を惹いたものに飛びかかりたくなるもんだから、最後らへんはずっとお兄ちゃんの腕の中でエア犬かきをして過ごしてた。
自分が獣になってみてわかったことの一つに、うちのお父さんとお兄ちゃんが動物にとってすごく偉大で魅力的な存在に感じられるというのがある。
少しイズリアルさん家の人に似たにおいと、ケーンおじいさんに似た気配がするんだな。どちらとも微妙に違ってて、それでいて濃厚な、あの森所縁の王威を放っているのがわかる。
一定以上の格と理性を備えた森の獣がうちに近づかなかった理由がこれでわかった。
森の外の獣には効きが薄い。通りすがりの家畜とかは特に反応が鈍い。
でも一緒に旅をしたマズリたちと、ニャンクスのルクレシアスが、お兄ちゃんのことを自分より格上だと認識しているのは間違いなかった。
イズリアルさん率いる愉快なおっちゃんたちは、それを動物に好かれる才能と解釈してる。まあ本人たちがそれで納得してるのなら、それでいいと思う。
私が根っからの獣だったなら、お兄ちゃんが言うことなら仄めかし程度でも遵守する愚直さを発揮できたのかもしれない。
中途半端に毛なし猿らしさが残ってたのがよくなかったのかも。なんだかんだいって街の賑やかな雰囲気に浮かれてたようだ。
お屋敷でイズリアルさんのお父さんとお兄さんに引き合わされ、私と弟がうちのお父さんに拾われて暮らしてきた経緯とか、私を連れてきた理由とか、今後のことについて色々と話し合った。お兄ちゃんも何度かはっきりした意見を述べていた。
肝心の私は、人語を喋れなかったので大人しく伏せてて、気付いたら寝てた。
まあ、覚えておく必要のあることは多くないし。
森に帰してもらう条件は三つ。まず力を制御できるようになることと、森に帰ったらお父さんと同じ職業に就くこと。イズリアルさん家の言うことをきくこと。
あの森には複数の管理人ポイントがあって、お父さんと同じ警備と調整の仕事をしてる人たちが同じようにひっそりと暮らしてるそうだ。高い能力と機密保持を要求されるその職は高齢化と後継者不足が深刻で、引退を控えた管理人の誰かの後釜として飛ば……転勤してもらうことになるよ、ってのを物柔らかく、しかし断定的に説明してもらった。
別に不満はない。
なんかもうすっかり我が家みたいな言い方してるけど、いつまでもあのままお父さんとウルリカん家に弟ともども子供の立場のままで住めるなんて都合のいい将来設計はしてなかった。いつかは独立する必要は感じてた。むしろ異世界でこんなに早く就職先の内定を取れたことにびっくりだ。
弟も目標を持ってるようだし、イズリアルさんに相談してもいるみたいだから、それなりの年齢になれば収まる所に収まれるだろうと思う。
ウルリカだってあの家でお婿さんを取るなり余所にお嫁さんに行くなりするだろうし。
変わらない気がするのはお父さんだけだ。お父さんは多分、私たちやウルリカがいなくても今と同じように暮らしながら生きていくことができる。ただ、見た目より素直に寂しさを表現できる人なので、ウルリカを大事に育て、私たちみたいなのを拾ってきて養ってくれる。
そのお父さんの心に報いるってわけじゃないが、誰かが巣立ちを迎える時まではできるだけ長く、あの家の子として暮らしたい。その時の思い出を一日でも多く留めたい。
毛なし猿の事情よりも、森の住人たちが森を焼いた私を再び受け入れてくれるかが心配だったけど、お兄ちゃんはそこは気にしなくていいと言ってくれている。おじいさんが許してくれたから皆もそれに倣うのかなと思いきやそういうわけでもなくて、基本獣はあの時はあの時、今は今って割り切ってて根に持たないものだと言われた。大自然の懐の深さを垣間見た。
その後街を出て、なだらかな丘陵地帯の一軒家に住んでいるイズリアルさんの叔母さんにあたるという人のところに引き渡された。
私を毛なし猿……じゃねえや人間に戻し、且つ私の力の使い方を森に戻して自活させても差し支えないレベルまで安定させるために。
まだ思考の所々に獣だった頃の名残があるので、それも払拭するなり切り替えが利くようにしなくては。
イズリアルさんとお兄ちゃんは、私をここに残して一旦出て行った。
その後すぐに、私はイズリアルさんの叔母さんによって人間に戻り、下働きををしながら大人しく次の沙汰を待った。
数日後、二人はこれから森への配達の仕事に行ってくるから、次に森から戻ったらまた顔を出すと挨拶に来てくれた。
また顔を出すと言ったお兄ちゃんの言質の履行を遂げるためでもあるんだろうけど、ちゃんと会いに来てくれたことが嬉しかった。
見慣れたというほどではないけれど、森で暮らしていた頃の私を知る人が気にかけていてくれるというのは、とてもほっとすることだったのだ。それまでの私が知らない人ばかりの環境で、今度は弟もいなくて、どんなに内心緊張していたのかも。
お兄ちゃんにとって私の身内レベルはウルリカやお父さんほどじゃない。でも二人の手前もあるから、私が森の家に戻るまでは責任もって見届けてくれるだろう。本来負う必要のない責任だというところが申し訳ないが。
その辺の負い目もあって、私としても早めに力の正しい使い方を身に着けたいと修練に励んでいる。ほんとだよ!
奥様の体調と仕事の関係もあって、一日一時間にも満たない魔法の訓練をしない時間は、家のことをして過ごす。
元の世界と同じく春はこの世界の大抵の生き物にとっても繁殖期。ヴォジュラは結構北の方にある土地だそうなので、春が来るのも遅め。にじあらわる月の下旬ともなると、地球の暦ではもう五月に入っている。私の誕生日がもうすぐだ。前祝いしてもらっててよかった。
結局、お兄ちゃんとイズリアルさんがくれた祝い品、未開封のまんまだ。開封しないうちに四つ足になっちゃったから。森に帰る楽しみの一つということにしておこう。
一晩で驚くほど家の周りにはびこる雑草を引き抜きまくり、あるいは鎌で丈を揃え、家の景観維持に貢献する。
合間に小指の先サイズのヘゴヘゴ虫を口に放り込んだり、名前は知らないけどお尻に蜜の玉を付けたアブラムシらしき虫を見つけて蜜を吸う。
一週間にも満たなかった犬時代は、私の食のセーフティゾーンをかなり拡大した。
ちょっと前までなら生で虫を食べるなんて考えられなかったというのに、すでにおやつ感覚になってしまっている。あ、キロロ虫発見。緩く掴んで作業着のポケットに滑り込ませる。こやつは生では齧れないけど、乾煎りするとおかきみたいな食感と塩味がしてうましなのだ。
窓開けて掃除して洗濯してお部屋の花を取り換えて、食事の支度だけはグラントおばさんの手伝いだけに留まって――グラントおばさんは奥様の口に入る食事の責任者を自負している――後片付けしてゴミ出しして戸締りして。
更に一日の終わりには、お湯を浴びて体を洗える。お風呂は奥様専用の浴室が一室だけでもちろん私たちには使えないので、水場の近くの空きスペースを利用して作られたと思しき、民家のトイレくらいの広さの石敷きの水場で盥一杯分のお湯を貰って身繕いが出来る。それも毎日だよ! 石鹸もあるんだよ! やったね!
物資に関しては、一日に一度、食料から薪まで届けに来てくれる馬車のおっちゃんがいるので、こっちから街中まで買い物に行く必要がない。受け取りと確認と次回の発注はグラントおばさんがやるけど、それらを所定の位置まで運ぶのは、私ともう一人の下働きの人だ。
フリーダさんといって、海外のアクション女優みたいな大人の色香漂う八頭身の女性だ。歳は訊いてないが、ここに勤めて三月になるという。
甘いモノが好きだけど、ここでは出来合いのお菓子は流れてこないし、グラントおばさんは奥様のために作ったデザートの残り物を時たま分けてくれるものの、基本的に材料を無駄にしないようにきっちり作る職人の仕事ぶりゆえ、その機会もごくたまにしかないと嘆いていた。
こう言うからには、自分で満足のいくおやつを調達できないのだろう。あんまり細かい作業は得意じゃなさそうな人だとは薄々気づいてたので、日頃お世話になっているお礼も兼ねて、あり合わせの材料でプリンを作ったら、フリーダさんはもとよりイズリアルさんの妹さんもめっちゃ気に入ってくれて、お家のレシピに加えさせてほしいと頼まれた。
別に秘伝でも何でもないから構わないけど、それよりもどこの料理なのかと訊かれて答えられないのが困った。『ワタシニホンゴワカリマセーン』的なノリで煙に巻いてなんとか乗り切り、どっと疲れた。
それからはお国が知れるような情報は出すまいと思っていたのに、ある朝起き抜けにラジオ体操をしていたら、うっかり泊まりに来ていたお姫様に見られて、もっともらしい蘊蓄とともに一通り披露することになってしまった。おおお、私の馬鹿!
「シオネは、なぜ私をお姫様と呼ぶのですか?」
またある日、イズリアルさんの妹さんにそう尋ねられて、私は説明に窮してしまう。
私はヴォジュラという土地で一番偉いお家であるフェルビースト家を、お大名みたいなものだと考えている。だからご当主のイズリアルさんのお父さんはお殿様。これを表すこちらの言葉が見つからなかったため、口に出す必要がある時には、一家の主を表す旦那様とお呼びしている。
お殿様の倅なんだから、イズリアルさんとそのお兄さんは若様。娘なら姫様というわけだ。
イズリアルさんは森にいた頃の名残で名前にさん付呼びがデフォだけど、改まった場ではどうもね。
ちなみに、イズリアルさんともどうして知り合いなのか訊ねられたことがあるものの、どこまで話していいのか予め確認しておくのを忘れていたため、正直に話していいことかどうかわかりませんごめんなさいで押し通した。
以来、彼女は私の素性を直接質してくるのはやめてくれた。物分かりがよくて本当に助かります。
「要するに、あなたの知っている言葉の中から一番近い単語を当てはめているだけなのですね? 一番近いというだけで、正解ではないけれど」
言葉を探しながら、自分の考えるお姫様の概念を説明した私の言いたいことを、彼女は一度でわかってくれた。さすがイズリアルさんの妹さん、かしこい。
薄手の手袋をはめた――そういえば奥様もそうだっけ。ここの高貴な女性の習慣なのかね?――ゆるく握った拳の人差し指を下唇に当てて軽く首を傾げる仕草は、あどけない中にも未成熟ゆえのあやうい色気があり、思わずドキッとしてしまう。始めて出会った日のような軽装ではなく、今日のような丈の長いスカート(こういうのをドレスというんだろうか? よくわからないや)姿だと特に。
お姫様には特に若いうちからの教育が大事だろうに、彼女は学ぶべきことがたくさんある合間を縫って何日かに一度ここに来て、私の話し相手になってくれる。
プリンを食べさせてからはその頻度が上がった。『今日はぷりんはありませんか?』と焦げ茶色の目をオレンジ色に染めて言われると、狙いがあからさま過ぎても咎める気にもならない。
だって彼女、かわいいんだよ。さすがにウルリカみたいな人外級の美貌とは比べるべくもないが、誰が分類しても美少女というカテゴリに入れるだろう。
豪奢にウェーブのかかった赤みの強い狐色の髪に縁取られた小作りの顔の中で、長ーい睫毛に縁取られた大きな目が比喩ではなくきらめいている。鼻もすっと高く、艶のある唇から時折鮮やかな白い小さな歯先がちろっと覗くのがなまめかしい。
「私たちはお互いにお金を払っている立場の人ではありませんので、お姫様と呼ばれるのは間違っています。アンジェリンと呼んでください。呼びにくければアンジーと」
私は彼女の家に税金を払っている立場のヴォジュラ領民ではないし、、また彼女の家が私に給料を払っているわけでもないから私から形ばかりの尊敬を受けるいわれもないと言いたいらしい。
じゃあお言葉に甘えて。
「実際の関係のお話ではなく、私の印象の話でもあるのです。アンジーは見た目がお姫様みたいです。かわいくて、ときめきます」
「まあ……」
アンジーは急にぽっと頬を染めて、肩をすぼめスカートを握りしめてもじもじした。うむ、かわゆいぜ。
「女王様も、旦那様も大きい若様も小さい若様もきれいな顔をしています。みんな似ています。美しいです」
私は精一杯褒めたつもりだったが、途端に彼女は顔を曇らせた。
「それは、女性だからよい方向にフェルビーストの血が働いているのです。女性は少しくらい体が小さくて弱くても、許されます。でも男性にとっては不利です。フェルビーストの男性は、ヴォジュラの一般的な男性に比べて、大きさが足りません。顔も、女性みたいで、魅力が足りません」
「えっ、そうなの?」
なんかえらい深刻な顔で告白してくれるけど、そうかなあ?
イズリアルさん、背が高いし、結構鍛えてるように見えるし、美形なのはいいことなのでは……いや、お父さんやお兄ちゃんと比べてしまうと、男らしさとか逞しさという点で見劣りするのは一目瞭然だけども!
思い返せば、犬時代に街中やお屋敷で見かけた街の人や兵隊さんは、ごっついのが多かった。この奥様のお家の唯一の男性である執事さんも、立派な体格の老紳士だ。
ヴォジュラでは、男の人はでかくて角ばってるのがスタンダード且つ魅力的ということなのか、それともこのお姫様の個人的な好みなのか。いや、突き詰める気は毛頭ないけど。
フェルビーストの血かあ。
神話レベルの大昔が起源だというのに、今でも一族皆さんが体色素や豊かな毛髪や無駄な肉のないすらっとした体形なんかで特徴を忠実に再現しているところからして、主張の強い血みたいだ。
オルソンのおっちゃんだけはむっさい感じだったけど。案外おっちゃんも、首まで覆い隠していたもじゃもじゃ髭を剃って、もみあげと一体化していたロンゲをきれいに整えて、服を脱いだら、スマートだったりするんだろうか。想像できない、いや、想像したくないな。
「私のふるさとでは、フェルビーストとは、地獄の番犬といいます」
あや、そりゃケルベエだったっけ? それともケロポンだったかな? 化け狐よろしく、尻尾だか首だかが何本かあったんだよな。神話とか詳しくないから、ついうろ覚えで言っちゃったけど。そういう横文字知識は、幻想世界が舞台のゲームを(友達に借りて)したり見てたりした弟の方が正確だろう。
「ジゴク?」
「あ、こっちにはない単語か……」
日本語の響きのまま口にしちゃった。ええと……死後の世界、悪い魂が落ちる所、裁きを受ける所……まずった、物騒な字面ばっかりだ。そんな関連の名前だと言われても、アンジーだって嬉しかないだろう。
この世界の人にとって、危険で、未知の、明確な境界によって隔てられているところ。魔物が生まれるところ、火の獣が人の世界に種を残し戻っていったところ……魔境がそれに近いだろうか。
「魔境の獣……魔境と人の暮らす場所の中間の地点を守る獣です。端的に、番犬と呼ばれます」
「まあ!」
アンジーは嬉しそうに瞳を輝かせた。胸の前で両手の指を絡めて、うっとりと夢見る乙女の風情だ。ウルリカには見られなかった女らしさを効果的に意識させるしなと気品があって、ああやっぱりこの子はお姫様なんだなあと思う。
「フェルビーストは、かつて魔境から人の世を隔て、その間を守る偉大なる獣だと言い伝えられています。まさしく番犬ですね!」
何がそんなに気に入ったのか、彼女は上機嫌になった。
一つわかったのは、彼女はフェルビーストの子孫として生まれたことを全力で肯定し、誇りに思っているということだ。自分を作り上げた周りのもの全てと、そうして出来上がった自分に何一つ疑問を抱いていない。
ケーンおじいさんの自己への絶対的な自信と肯定に通じるものがある。イズリアルさんも、奥様もそうだ。
なんて羨ましいあり方なんだろうと、少し思った。
奥様の授業は、お父さんやケーンおじいさんのかなり感覚的な教えよりは分かりやすい。箸の正しい持ち方を教える時に、目の前で文句を付けられながら口頭で教えてもらうのと、横から手も添えてくれながら教えてもらうくらいには違う。
ここでの毎日は、奥様にがみがみ言われながらそのアドバイスに沿って感覚に微調整を加えつつ、一定時間力を放出する訓練の時間が取られる以外は、特殊なことなどない。
まあ、その微調整がくっそ難しいわけだが。
力を目標に注ぐために広げた知覚に奥様が寄り添って、あるいはそっと見えない感覚の手を添えて方向を修正してくれたり注ぐ力の分量を絞ってくれたりするのだが、これがもう。
感覚が切り替わった落差に酔いそうになるわ、詰めた息と一緒に力がすとーんと落っこちてってしまいそうになったりして。
そもそも他人の精神が自分の精神に直に触れるという事態そのものが、集中への難易度を上げる。
ケーンおじいさんやお兄ちゃんは、私が力を使った時のフォローも、行使中には干渉せず外部でのアフターケアという形で行っていた。だから他人の気配が自分の内側に入り込んでくる感覚が、こんなに落ち着かない、心をやすりで撫でつけられるようなものだとはわからなかったんだよ。
同調したらお互いの考えてることが伝わっちゃうし、それが嫌で回路を狭窄したら力の流れが阻害されて溜まって暴発しかねない。相手が大人の女性でよかったとつくづく思う。犬から人に戻る時にいっぺん色々読まれてるから、ある意味今更だと開き直れるし。
ともあれ、奥様の尽力で、私も自分の力の使い方のイメージというものを掴めるようになってきた。
いい塩梅に膨らませた風船を結ばずに手放したらどうなるか想像してみてほしい。あるいは外から針で突いたりしたらどうなるかを。
例えるなら、私は空っぽの風船だ。これにバランス良く空気を入れ、うまく結び目を作り、美しい形とバランスを保つ風船として鑑賞に堪え、空気を長持ちさせるためのノウハウを教わっているわけなのだ。
風船に穴が開いてたり薄かったり塗料にムラがあったりとかの私自身の不良は勿論、外部から風船に刺激を与える刺突物とか圧力とか急激な温度変化とか、勿論ざらざらしたやすりなんかも全て、理想的な力の行使を妨げる要因となる。
そしてこれらの要因全て、私自身の修練によって克服できるものなんだそうだ。
今のところ自力で結び目を作る段階にも至ってないが――だからいつも明後日の方向に大暴投するのだと、やっと理解できた――、やり遂げないことには森に帰れない。
うん、頑張るよ!




