潮音、森を出る・3
にじあらわる月のある薄曇りの日、フェルビースト家の末娘アンジェリンは、叔母のご機嫌伺いに行くことにした。
数日前から下の兄のイズリアルが帰還していて、この兄がいる間は屋敷がいつもより騒がしい。
父と上の兄も併せて忙しいのだろう、食事の時間が噛み合わず、ずっと姿を見ていない。
イズリアルと館の中で遭遇する時には大抵は近くにいる側近のジェオフレイにも会えなかった。
アンジェリンは、いわゆる美男子ではないが独特の雰囲気を持っていて大きくて精悍で強い彼のことを、この世で一番かっこいい男性だと思っていて、彼に会える月に一度の兄の帰還を殊の外楽しみにしていたので、とてもがっかりしていた。
イズリアルがいる時はいつもそうだが、いつも以上に忙しくなるような出来事があったのだろうと察せられた。
ならアンジェリンにできることは、父と兄の仕事を邪魔しないことだけである。
初等学校の卒業を控えた11・12歳となれば、早ければもう家業の手伝いや弟子入り先の見習いとして働き始める子供もいる年齢ではあれど、領地運営や防衛をはじめとする様々な重大な決定を下さねばならない大人の仕事を手伝えると考えられるほど過剰な自信の持ち合わせはアンジェリンにはない。
なので、邪魔にならないよう過ごす目的も兼ねて、街の校外に暮らす叔母の家を訪ねようと考えたのだ。
叔母の下には10日に一度出向いて魔法を教えてもらっている。
叔母もまたフェルビーストの例に違わず自宅でできる仕事を持っているが、決まった時間の魔法量と歪みの観測で、四六時中予定が埋まっているような性質のものではなかったはずだ。
体が弱い人で、時折体調不良を理由に定期学習の予定を延期したり断られたりすることもあったので、お見舞いに伺うことも何度かあった。
今回もそうしよう。
アンジェリンは背に流していた長い赤毛を一纏めにし、普段着のドレスから街娘のような簡素なズボンに着替え、厩舎に向かった。
身の回りの世話をする侍女なんてものは、自分で自分のことができない幼少期か、独力では着付けられない凝った仕立てのドレスを着てそれに相応しい髪形をしなければならない時くらいしか必要ないのがフェルビースト家の習慣だ。王都から嫁いできて久しい母とまだ新婚の上の兄嫁も、初めのうちは随分戸惑ったと聞く。
「おや、お嬢様。お一人でどちらへお出かけになられるので?」
厩舎勤めの使用人を監督するミュー爺がしわくちゃの顔を更にしわしわにしてアンジェリンを出迎えた。
往時は実働型の戦士として軍に籍を置いていた彼は、矍鑠たる骨太爺様である。とっくに引退して子や孫に囲まれて過ごしているべき年齢のはずだが、働かなければ体が鈍って死んでしまうと言い張り、苦笑する父領主から厩を宛がわれることとなった。
アンジェリンは、幼少期によく肩車をしてくれたり腕にぶら下がらせたりして遊んでくれた彼のことが大好きだ。無論今は彼の足腰に負担をかけるような遊びは自重している。
イズリアルが戻っているので、厩舎では兄が連れていた十数頭のマズリたちの世話に大わらわの馬丁たちが総出で立ち働いていた。兄が再び辺境の森へ出発するまでに、マズリたちの体調を万全に整えておくのは彼らの仕事だ。
「忙しいところに押しかけてごめんなさい、爺や。叔母上のお見舞いに伺いたいの。どの子でもいいからダングを一頭出してくれる? 馬具だけ着けてもらえたら、後は自分でするからいいわ。仕事の邪魔をするつもりはなかったの」
「供はお付けにならないので?」
「必要かしら?」
「必要ですとも」
「でも今は皆忙しくしているし、予定外の付き添いに対応できる暇のある者なんていないでしょう。叔母上のお家まで寄り道もしないし、一人で行けてよ。それでも駄目というなら今日のところは諦めるわ」
わざとしょんぼりした素振りで聞き分けのいいことを言ってみると、ミュー爺は良心が咎めたような顔をして折れてくれた。
「寄り道はなさらず、お夕食までにはお戻りくださいませ」
主家一族の子供の中でも一回り幼い末娘のアンジェリンを、家人たちは殊に可愛がってくれる。彼女の我が儘にも甘かった。
無論、その根拠となる程度には、彼女の自立性を信用してのことだ。
ほっとしながら馬を牽いて館を出ようとしていたら、今度は警邏部隊長のミルンに捕まった。
「お嬢様、それはなりません。それがしがお供いたしましょう」
ミルンは頬に傷跡のある屈強な中年で、野盗の頭領か歴戦の傭兵かといった頼もしい外見をしている。一隊の隊長を務める腕っ節も小山のように盛り上がった筋肉を裏切らない。もじゃもじゃの髭と地を這う低い声がまた男らしさを引き立てているのよねと、アンジェリンは彼の男性的魅力を高く評価している。
「まあ、アリスったら、何を言うの。あなたはあなたのお仕事があるのでしょう。それを放り出させるようなことをさせられないわ。あたくしなら一人でも大丈夫よ。叔母上のお家まで何度も行って戻った道なのよ」
ミルンの氏名はアリステア・ミルンという。アンジェリンは物心つく前から自分の家で働いている彼のことを屈託なくアリスと愛称で呼んでいる。
「ありがたき御配慮にございます、お嬢様。しかしながら御心配には及びません。それがし只今交代を済ませまして、非番に切り替わったところにございますれば、業務になんらの差し障りもございません」
「余計だめじゃないの! 仕事が終わったのなら休んでくれなきゃ」
「なんの。お嬢様のお供をして郊外の叔母君宅に行って帰るくらい何ほどの労でもございません。自宅に戻るまでのちょっとした寄り道でございますよ。さあさ、手綱をどうぞ」
結局、アンジェリンは根負けして、ミルンの同行を許した。
今後予定外の行動を思い付きで始めて使用人を巻き込むことはやめようと固く心に誓い、おおいに反省もしたのであった。
館を突き当たりにして伸びる目抜き通りと垂直に交わる大通りを右に折れ、自宅の石積みの塀を右手に眺めながらずっと進む。
左側には倉庫が立ち並ぶ。フェルビースト家所有のものと農林漁業組合が管理する倉庫が大半だが、裕福な個人が地代を領主家に払って借り受けているものもあった。
やがて塀が更に右に折れて途切れ、道の右沿いに続くものは新しい柵に取って代わる。
柵の向こうは領主軍の兵士の訓練場で、むさくるしい髭もじゃの男たちがきらきらと汗を振り撒きながら訓練に勤しんでいる。混じっている新兵の細っこさが頼りなくも初々しい。
その右端では領主館の塀の終点も兼ねて聳える古めかしい兵舎が住人の訓練模様を見守っている。
アンジェリンはうっとりと彼らの様子を眺めながら通り過ぎ、少し曲がる道に沿って西南に進んだ。
倉庫街が途切れてからのヴォジュリスティの西区の主な構成は住宅街となる。
塀や倉庫と同じように石と煉瓦で作られた景観よりも防衛力重視の作りは、この地が戦時代の要衝だったという名残でもあろうし、建材の種類に乏しいせいでもあるだろう。一部の民家や詰め所の中には、大きな岩を丸ごと削り出して中身をくり抜いたものまである。
辺境の森は現在のように警備態勢も整っておらず魔物が日常的に湧き出る危険地帯であったため、人は森の恵みの享受を諦め、岩と土以外何もなかったこの地に、リュストン川の豊富な水量を頼りに砦と集落を築いたのだ。
その川すら時折水棲の魔物が飛び出してくるという綱渡り生活だったらしいが。
結果的に森に広く分布する妖霊人との早期の住み分けを実現でき、他領と比べて両種の争いが格段に少ない歴史を築くことができた。
そのため、ヴォジュラでは妖霊人との交流が細々とではあるが続いている。
目抜き通りに出れば50人に1人くらいの割合で、根や鱗の氏族、翅の氏族の交易者や牙の氏族の戦士を見ることができる。フェルビースト邸でも、数人の妖霊人が働いている。妖霊人と人間との混血の子供も、珍しいがありえなくもないという程度には存在し、認知されていた。
「ほら、アリス、不審な者や危ないことなんてないでしょう。供なんて必要ないのではなくて?」
アンジェリンは、自分が乗る馬と自分の馬の手綱を牽いて歩くミルンに訴えた。
この区域の住人は、叔母の家の南に広がる田園の世話をする農家がほとんどで、規則正しい生活をしている彼らは昼下がりに畑に出たり、急な雨や魔物の襲来でもなければ仕事場から引き上げてきたりはしないので、人通りも今はほとんどなかった。
「何を仰います、お嬢様。有事というのは常にはあらざる非常の事態を申すのです。99は万事滞りなくとも、1の変事に備え未然に防ぐことこそ我々の仕事でございます。たった一度の気の緩みが、その1を看過してしまうやもしれぬのでございます」
ぐうの音も出ない。
西門の門衛に誰何されることもなく通過し、街を出るなりアンジェリンは手綱をミルンから回収し、街中では宥めすかして歩かせていた馬を思いっきり走らせた。ミルンも騎乗してついてきた。
馬は喜んで均した土の道を走り抜け、道を外れることもなく叔母の家まで彼女を連れて来てくれた。
「あら……?」
叔母の家の側の立ち木に、マズリが二頭繋いである。うち背筋が茶色の一頭は、兄イズリアルの騎馬であるマーちゃんだ。
マーちゃんというからにはマから始まる何らかの名前がついているはずだが、アンジェリンは未だ兄の馬の本名を知らなかった。ミュー爺を始めとする馬丁たちも、この馬のことはマーちゃんと呼んでいて、うっかりアンジェリンも質し忘れていたからだ。まさかマズリだからマーちゃんなどという安直な名前ではあるまい。
もう一頭は、フェルビースト家所有のマズリの一頭だが、イズリアルがここに来ていて、騎馬が二人分ということは、今一人の客はジェオフレイである可能性が高い。
アンジェリンは思いがけない幸運に小躍りしたい気持ちで、いそいそと手綱をミルンに預け、意気揚々と叔母宅の戸口に駆け寄った時、扉が向こうから開いた。扉を叩く前に立ち止まって髪を撫でつける暇もなかったため、少しばかり焦る。
「お嬢様。いらっしゃいませ」
扉を内から開いたゲルトルート叔母宅の大柄な老執事が、折り目正しく礼をした。イズリアル達を送り出そうと玄関扉を開けたらアンジェリンが一人で立っていたのでさぞ驚いたことだろうにおくびにも出さず、さもお嬢様をお迎えするためにここにいたのですと言わんばかりの佇まいはさすがである。
「やあ、アンジー。今日は君の勉強の日だったかな」
脇へ下がった執事のグラントの横を歩み出てきたイズリアルが、笑顔で妹を迎えた。
数歩後ろにジェオフレイがいて、無言のまま礼をした。いつ見ても大きくて厳めしくて野性的だ。それをいつ見ても素敵だわと内心思いつつ、アンジェリンは満面の笑顔で二人に駆け寄り愛嬌を振り撒いた。
後ろでグラントが音も立てずに扉を閉める。
「イジー兄上、ジェオフレイ、グラント、ごきげんよう! 今日は叔母上のご機嫌伺いに参りましたの。兄上ったら、お戻りになられたのになかなかお目にかかれなくて寂しゅうございましたわ!」
そこまで言ってアンジェリンははたと気づいた。家族との交流も碌にできないほど忙しい仕事帰りの次兄が、その合間を縫って叔母に会いに来た理由とは。
「ご、ごめんなさい! もしかして、お仕事の話をしにいらしてましたの? あたくし、突然来てしまってお邪魔なのでは」
「いや、我々はもう帰るところなんだ。叔母上もお休みになられたところだから、君も待たせてもらうか出直すかした方がいいだろう」
「まあ、そうですの? 先触れもなく突然訪ねたものですから、待たせていただくのも恐縮ですわ。兄上にご一緒させていだたきます」
アンジェリンは手土産がてらに自宅の厨房からくすねてきた、まろやかな味わいだと聞いている――アンジェリン自身には飲酒経験がない――果実酒をグラントに手渡した。叔母は度の強い酒は飲めないのだ。
どこからともなく料理人と侍女を兼任するグラント夫人が現れて、それを受け取り、恰幅のいい体形に似合わぬ影のような密やかな動きで引っ込んで行く。
グラントは何事もなかったかのように、いつでも扉を開けられるよう玄関脇に控えた。立ち話を続ける限り待機し続けるだろう。
そして、ここで交わされた会話が、彼の仕事ぶりは勿論、私生活にも影響を与えることなどないのだ。
叔母宅を三人揃って出るなり、はたと思い当たった風でイズリアルが振り返った。
「すまない、ミルン。もうしばらくそこで待っていてくれ。急用を思い出してしまった。ああ、グラント、閉めてくれていい。中には戻らない」
叔母宅を囲む背の低い石垣沿いで二頭のダングの手綱を持ってぴしりと直立していたミルンが、イズリアルを認めて礼を取ろうとする前に、兄は物柔らかくそれを遮った。
「アンジー、おいで。折角だから、アンジーにも紹介しておくよ」
彼は石敷きの道を逸れ、下生えがくるぶし丈に整えられた庭地へ踏み込んで行った。長い脚を十歩分も動かさないうちに叔母宅の角まで行き着いて、後は曲がるばかりのところでいったん立ち止まり、アンジェリンを手招く。
アンジェリンが小走りで追いかけると、兄は家の角に消え、数歩分の距離を保ってジェオフレイが付き従ってくる足音が後方から聞こえ始める。
ジェオフレイも一緒なのだと思うと、兄と彼と、限られた者だけの秘密を明かしてもらえるような気がして、アンジェリンは少しどきどきした。
角を曲がると、イズリアルは既に向こうの角にいて、更にその角の陰にいる誰かに声をかけている様だ。
兄は紹介すると言っていたので、誰かと引き合わせてくれるつもりなのだ。誰だろうか。
急いで兄の側に駆け寄ると同時に、向こうの角からアンジェリンより少しばかり大きな人影がひょこりと進み出てきた。
アンジェリンより年上の10代半ばから後半と思われる少女だ。
珍しい鳥の子色の肌をした異国風の顔立ちに、年若さゆえの中性的な無邪気さを漂わせている。濡れたような艶のある深い色の目を瞠って、アンジェリンを興味深そうに見ている。その目つきは遠慮なく観察する風ではあったが、好意的だった。
「しばらく叔母上のもとで行儀見習いをすることになった、シオネという。異国の出身でヴォジュラの習慣に明るくない。アンジーとはこれから会うことがあるだろうから、わからないところは大目に見て教えてやってくれ。シオネ、この子は私の妹のアンジェリンだ。時々叔母上に魔法を習いに来ている。また会うこともあろうから、よろしく頼むよ」
アンジェリンは敵意と武器を持たないことを示す、ヴォジュラ式の婦人の礼をした。
「ご紹介いただきました、アンジェリン・フェルビーストと申します。どうぞよろしくお見知りおきくださいませ」
「エミ……シオネ・エミです。無礼者ですが、どうぞよろしくお願いいたします」
シオネ嬢はヴォジュラの習慣ばかりでなく、言語も少々心許ないようだった。指先を揃えた両手をお腹の前で重ね深く腰を折るという珍しい礼の仕方からは一定の節度が感じられるというのに、たった一言で台無しだ。
何と言ったものかとアンジェリンはしばし思案した。
突っ込みどころは色々とある。
しかしジェオフレイが詮索を嫌う性格なので、彼の前であまりにたくさんのことを一時に尋ねて、詮索好きな女の子と思われるのは避けたかった。
結果、次に彼女の口を衝いたのは、具体的にいずこの国から来たのかとか、どうして叔母の世話になることになったのかとか、どういう経緯で兄が彼女を紹介してくれる立場の知り合いになっているのかなどという至極無難な選択肢を避け、今最も気になったことだった。
「行儀見習いにいらしたご令嬢が、どうしてそのような出で立ちをなさっているんですの?」
これだって至極もっともな疑問ではある。
シオネは、アンジェリンの家の庭師のような作業着を着て、頭に布を巻いて髪をひっ詰めにしている。眉毛の色から判断するに黒髪なのだろう。髪を覆い隠した作業着姿でも一目見て少年ではなく少女だとわかったのは、出るべきところが出ているからだ。
「ゴレージョ……?」
丁寧な言い方では通じなかったらしく、幼子のような拙いオウム返しとともに首を傾げたシオネに代わって、イズリアルが苦笑交じりに答えた。
「ああ、それはひとえに叔母上宅の人手不足によるものだね。シオネは行儀見習いばかりでなく、グラント夫人の手伝いや下女の仕事も兼ねることになっているんだ」
グラント夫人も若い頃には、奥様のお世話を嘴の黄色い者には任せられないと、体の弱い女主人の体調管理や掃除や使い走りなども担い八面六臂の活躍でこの家を守っていたが、最近は寄る年波には勝てず小間使いを一人増やしたばかりだった。
護衛を兼ねた組合員上がりの女戦士で、肉体労働を任せるにはうってつけの人材だが、細かい作業が雑だし料理や掃除も単独では任せられないとグラント夫人はこぼしていた。そのくせ仕込み甲斐があると意欲を見せていたから、彼女の今の生活はさぞ張り合いがあることだろう。
ちなみにグラント夫人の料理の腕前は、料理以外の仕事が出来なくなっても料理をするためだけにいてほしいと思うくらい、すこぶるつきにいい。
「お家の周りの草を切りました。これから虫を取って食います。動きやすい服です」
服装についての疑問に対する答えと思しき自分の仕事について、シオネは話した。なぜか楽しそうだ。草刈りや虫採りが本当に楽しいことであるかのように聞こえる。
不思議な言い回しが混じっていたのはアンジェリンの気のせい、もしくは彼女の言語力が途上にあるせいに違いない。
「庭木の害虫駆除だ」
ジェオフレイがシオネの発言を訂正したので、アンジェリンは仰天した。彼が人の会話に横合いから口を挟むところなど、見たことも聞いたこともなかったからだ。
「虫は食えばいいが、言葉は正しく使え」
それどころか、いつもより心持ち険しく見える無表情で言葉を重ねる。彼の発言も何かがおかしい気がするが、今度ばかりはアンジェリンの気のせいだろう。
「はい、ガイチュウクジョをします」
シオネはキリッと表情を引き締めた。本当に意味がわかっているのだろうか。
「そうだね、シオネ、呼び止めて悪かった。仕事に戻っていいよ」
イズリアルがそう言うと、シオネは「はい」と従順に答え、アンジェリンにもにこっと笑いかける。
「お姫様、若様、お兄様、さようなら」
またさっきのような深々とした礼をすると、足元に置いていた鎌と籠を拾い上げて先程出てきた角を曲がって去っていった。鳥が地べたを跳ねて移動するさまを思い出させる、軽い足取りだった。
「お姫様って……あたくしのこと?」
「そうだろうね。お兄様はジェオのことだよ。私のことは小さい若様と呼ぶからね」
呆気に取られたアンジェリンの呟きを拾ったイズリアルがのんびりと補足する。ちなみに父領主のことは旦那様で、上の兄のウェレスは大きい若様、叔母ゲルトルートはなぜか女王様と呼ばれているという。
「……なんといいますか、独特の雰囲気の持ち主でいらっしゃいますわね」
「ちょっと、浮世離れしたところがある子でね。まあ、そのうち落ち着いて人並みの暮らしに適応できるようになると思うんだが」
彼が意味ありげにジェオフレイに目配せする。ジェオフレイは傍目にも明らかな渋面で同意を示した。「なってもらわねば困ります」とでも言いたげな眉間のしわである。
その時点でアンジェリンはシオネなる人物への個人的興味を抱いた。
この忙しい兄と詮索嫌いのジェオフレイの関心を買っている女の子。その関心がどの程度のものであれ、非常に珍しい事態であることは確かだ。
幾許かの対抗心も燃やしながら、アンジェリンは努めて明るく請け合った。
「お任せくださいませ、兄上。あたくし、こちらに伺う時には、シオネさんと色々お話して、少しでもここでの暮らしに慣れていただけるように協力いたしますわ」
「ああ、そうしてやってくれ。今は特に、アンジーの方がよほどしっかりしているからね。君があの子に教えられることは多いと思う」
「お嬢様、よろしくお願いします」
またまたアンジェリンの仰天したことに、ジェオフレイがまたも容喙した。主家筋の人間同士の会話にである。しかも、アンジェリンに向かって喋りかけた。更には、アンジェリンの前で空気のように振舞っていた彼が、アンジェリンに頼みごとをしている。
いったいこれは何事だろうと、束の間恐慌状態に陥り掛けた彼女に冷水を浴びせたのは兄だった。
「ああ、それとね、アンジー。シオネが叔母上の家で世話になっていることや彼女のことは、この家の外で口外しないように頼むよ。父上にだけは、話してもいい」
ついでのように付け加えられた兄の一言は、今この場で交わされた会話の中で、間違いなく一番重要な点だったに違いない。
「理由は訊かないように」
「兄上ったら、叔母上みたいに仰るのね」
「そりゃ、散々言われ慣れてる文句だからだな。うん、実際自分で使ってみると便利な言葉だな」
「兄上! 何を感心していらっしゃるの。あたくし、とっても不完全燃焼ですわ!」
ぷりぷりつむじを曲げてみたりもしたが、これ以上兄の防御を突破することはできなかったし、寡黙なジェオフレイの口を割らせることもできなかった。
それから割とすぐにアンジェリンは、シオネがここに来た本当の理由とその必要性を悟った。
叔母は今までにも増して具合が悪そうだ。学習も、寝台に身を起こした状態でするようになった。
「体調はいいんですよ。ただこの辺りの魔法が濃くなっているだけで、常に悪酔いしているようなものでね。魔法の乱れも大きくなっています。まったく、何のために街を出てつましい暮らしをしているのかわからないわ」
シオネは魔術師だ。少なくとも、資格魔術師となれるだけの魔法の素質を持っている。実際のところ、そんな表現ではすまない鬼才だ。
そこにいるだけで魔法の密度を勝手に高めてしまい、動き回ればその場の空気どころか蟠った魔法をかき乱して波を立てる。本人も抑えようと意識しているらしいが、気負えば気負うほどうまくいかないという残念な性質の持ち主だと判明した時点で、叔母もアンジェリンも小言は無駄だと悟った。
魔法なんて使わせた日には、歪みと魔法の揺らぎがとんでもなかった。
叔母の監督の下、アンジェリンも魔法制御の授業の一環として立ち会わせてもらったのだ。
叔母ほど感知に長けていないアンジェリンでさえ、シオネが魔法を使った時に彼女の体の周りで歪んで見える背景と空間が軋む音に、開いた口が塞がらなかった。頭の中に焼けた鉄の棒でも捻じ込まれたかと思うほどの不快感に、本来ありえないはずの体の痛みすら覚えたくらいだ。
ここで言う音とは、魔法で引き起こされる事象の変化に伴う独特の、頭の内側に響く魔法の振動で、耳で聞き取れる音とは異なる魔法の素質がある者にしか認識できないものであり、音というのも五感の中でそれを受け止める最も説明しやすい感覚が聴覚だということからそのように表しているに過ぎないものだった。
シオネには、行儀見習いも確かに必要なのだろう。それ以上に魔法の使い方が壊滅的に下手くそで、それを矯正するためにヴォジュラ一の魔術師であるゲルトルート叔母に教えを受けているのだった。
こんな人物が在野で暮らしていれば、間違いなく大騒ぎになる。イズリアルは、いつどこでどのようにして、こんな怪物を発掘してきたのだろう。
その疑問に答えが与えられることは、終ぞなかった。




