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由無し一家  作者: しめ村
27/43

潮音、森を出る・2

 ヴォジュラ領の主都ヴォジュリスティ北西に、ヴォジュラ領主の妹であるゲルトルート・フェルビーストの住まいはある。

 規模としては大きめの民家という程度。二階建てで、居間も厨房も女主人の私室すらもこじんまりとしている。来客を見込んでいないその屋敷は、地上と地下を併せても十に満たない部屋数のうち更にいくつかが書庫や倉庫としての用途を遂行しており、人間の領域の方が狭いくらいだ。古い戦の時代の名残で味もそっけもない武骨で頑丈な石造りで、往時の形を保った物見塔が屋敷に取り込まれるようにして屋敷半ばから頭を突き出し、まるで独創的な煙突のように見える。

 周囲は、北は辺境へ至る荒野。草木の芽吹くこの時期には一面緑色に塗り替わり小さな虫や動植物がうろつく中々に牧歌的な光景を見せてくれる。所々大昔にできた深い裂け目状の谷が脈絡なく落ち込んでいるのが、色の違いで遠目にもわかりやすい。

 西は領主の私有林という名目の、辺境の森と地続きになっている深い森。更にその向こうにはうっすらと雲をまとう山々のたたなわりがはるか南へと続く。

 南は背丈の低い農作物の植わった畑が南西に向かって見晴らしよく、見渡す限り広がっている。

 東は主都ヴォジュリスティだ。

 人の訪れといえば本家の娘が定期的に魔法を習いに来る他は、使いの者が時折行き来するのみで、客らしい客は絶えてない。

 この近辺を歩く人間は、南の畑の世話をするためにヴォジュリスティ西郊外区から勤めに出てくる農家の関係者か、まれに地図を信用せずわざわざ都を回り込んでまで探検に来る土地に不慣れな新米組合員くらいのものである。

 地元の人間ならばゲルトルートの家の周りをうろつくような真似などしない。

 そんな場所に、女主人たる彼女は三人の使用人とともに住んでいる。


 ゲルトルートはちらほらと白髪が混じりかけた赤みの強いキツネ色の髪を豪奢に肩と背にうねらせた、気だるげな雰囲気の美女だ。

 年齢は40代半ば。特別老け込んでも若作りしても見えない。動きやすさ重視の袖を絞った飾り気のないドレスと毛皮の肩掛けにほっそりとした肢体を包み、フェルビースト家の子女の嗜みとして教え込まれる剣を取らなくなって久しい手を薄手の手袋に覆っている。

 いつもその姿で過ごす彼女は、魔女などというありがたくもない二つ名を頂戴していた。

 理由は、領主の美しい妹でありながらこの年に至るまで独身であったことや、日がな一日屋敷に籠っていて何をしているともしれないことや、怒らせると相手を蛙や蜘蛛に変えてしまうなどという事実無根の噂が出回っていることによる。

 前者はともかく後者は、彼女が領主一族の中で最も強い魔法力を備えていて、かつ若い頃に求婚者たちにことごとく肘鉄を食わせてきた鉄火な性格によるものから生じた、関係者のやっかみだとか反感だとかが多分に作用した結果でもあったが、彼女はその不名誉な噂を揉み消そうという努力はしてこなかった。その方が都合がよかったからである。同家の女たちが代々同じような境遇に身を置き同じ称号で呼ばれていたことも関係しているだろう。

 彼女はヴォジュリスティ全体と以北の歪みの密度と流れを観測し、異変あらば即座に詳細を探査し、原因究明や事態解決に際して領主や各組合などからの協力要請に応えるという役目を担っている。

 人が多いとその分大気と大地に満ちる魔法に不純物が混じり込むし、魔法行使による局地的な歪みも頻繁に発生して、自然の状態の観測がしにくくなる。

 彼女自身疲れやすい体質で、人の多い場所では歪みに中てられやすいという悩みを抱えているため、人払いをするようにしてこんな僻地に暮らしているのだ。



 そんな彼女は4日前、辺境の森上空で大規模な魔法行使を観測した。

 ここから辺境の森外周まではマズリで丸一日、そこから問題の現場まで森を北上して丸一日という地点でのことである。かなりの広範囲に渡り、そして強力な力が働いていることまではわかった。

 そのくせ歪みの発生は驚くほど少なく、むしろ皆無と言っていい。

 そして肝心の、何が起こったのかがわからない。有事に備えていつでも使えるようにはしていながらこれまで日の目を見ることのなかった地下室の陣図を起動し、体力の低い彼女の代替魔法力として使える秘蔵の道具や素材の数々を惜しみなく投じ、また彼女自身が修めた奥義の限りを尽くしても原因を突き止められなかった。

 森の中での異変であるから管理人たちがそれぞれに対処しているはずだろうと思うものの、自分に計り知れない事態が進行しているという考えはゲルトルートをひどく焦燥させた。個人規模では最大級の魔法儀式を強行して疲弊した体以上に、ヴォジュラ以北の守りの一端を担う者としての自尊心が傷つけられていたのだ。

 もしかしたらその不可解な出来事は、久しぶりに顔を見る甥の登場と関係しているのかもしれないと彼女は考える。

「……そういうわけで、この子を人に戻すお力添えをいただければと思いましてね。療養中のところに押しかけて叔母上にお願いすることではないとお思いでしょうが、長い目で見ればこの子は人材なのですよ。せめてお知恵だけでも拝借できれば助かります」

 下の甥のイズリアルは、昔の知り合いによく似た面差しの部下を一人だけ控えさせた身軽な状態で、犬を一匹連れてきた。

 彼の説明は知人が犬に変じた経緯に関してのみで、森での怪異については一言も関連付けられていない。

 現場にいたイズリアルはたまたま急な大雨が通ったとしか感じなかったのかもしれないが、時期が時期だけに傍から見れば怪しさは限りない。

 ゲルトルートは険しい目でその犬を見た。

 人の腰ほどもあるその赤犬は、ちょうど後足でばりばりと音を立てて首を掻いているところだった。先程まではイズリアルの横で大人しく座っていたものの、首だけはドバのようにきょときょとと定まらず動かして退屈を辛抱していた。とうとう忍耐が尽きたようだ。

 執事のグラントが犬を屋内に連れて入ろうとするイズリアルについてどう思ったのかは定かでないが、行き届いた使用人らしく主家の人間の意向に反論することなく、表面上は一切動じずゲルトルートに取り次いだ。恐らく、合間を見つけて犬の足を拭くくらいはしただろうが。

 だがゲルトルートが火花飛び散る橙色を通り越して凶色と恐れられる目になったのは、別に獣を家に上げたのが不快だからではない。

 一目でただの獣ではないとわかった。その理不尽さに目眩がしたほどだ。ゲルトルートは体はそう丈夫ではないのだ。

「ジェドが世話していながらこのような事態になるなど到底考えられることではありませんが、現物を見てしまっては疑うわけにもいきません。この娘の有様は見るに堪えませんよ。しかも化身と解除の両方が途中で止まっていて、それが相互にもつれ合い、その構成と解除すらまっとうな手順を踏んでいないときています。こんな見苦しい魔法を見たのは初めてですよ」

「申し訳ありません。不勉強にて、叔母上ほどにこの子の魔法の状態を見て取ることができず、これ以上私からご説明できることはないのです」

 叔母の厳しい追及に、イズリアルは困惑しきった体でそう答えた。後ろに控える部下を探るように一瞥したが、灰色のおどろ髪の青年は自分に言えることはありませんとばかり無言を貫いた。

 明らかに出し惜しみをしている昔の知己そっくりの若者の態度に、ゲルトルートはいらいらと追撃する。

「ジェドに訊けばわかることでしょう。これ以上なく簡潔に」

「勿論、彼の意見も聞きましたとも。化けたものがよくなかったということと、魔法がこの子の中で縺れ合っていて、解除に向けて誘導したもののうまくいかなかったと言っていました」

 ゲルトルートは鼻を鳴らした。

「そうとしか言いようがないでしょうよ。いくら女の扱いが不得手でも、弱気も時と場合によりけりでしょうに」

「は?」

「なんでもありません」

 そんなことだから細君に飽きられるのですよと勢い任せに続きそうになった言葉を飲み込み、目を白黒させる甥を無視して視線をかわすと、ゲルトルートの視線は今し方自分が扱き下ろした男の息子に行き当たった。

 ここに来た時から今まで、一言も口を利いていないジェドの息子はと見れば、先程まではなかった眉間のしわを刻んで沈黙を守っている。

 彼はイズリアルより余程事態を把握しているとゲルトルートは判断した。

 ジェドに似て表情から感情を察するのは難しいが、当惑や憐憫や痛ましさといった感慨を通り越して、現状の消極的な肯定へと飛躍してしまっているのかもしれない。今彼の足元で、お座りから休めの体勢に移行した犬娘のことや、その他の色々なことも。何かを得るためであるとか現実を変容させるために戦うことを捨てて、諦めの中で現実に迎合しながら淡々と生きているに過ぎないのではないだろうか。

 もちろんそれは、ゲルトルートの思い過ごしの可能性もある。そうでなければジェドが気の毒だ。力を受け継いだ息子に見聞を広げ人生経験を豊かにしてほしいと願って、森の外に奉公に出しているのだろうに。

 ジェドは見た目は悪漢そのものだが、愚直なまでに人のいい男だ。勿論、敵味方の別はしっかりとつけたうえでのことだが。

 だからこそ、この犬をゲルトルートの下に寄越してきたのだと彼女は推測した。

 その慎重すぎる態度が、彼の妻を他の男に走らせるというありきたりな結婚生活の終焉に導いたのだと彼女は知っている。

 あれから全く変わっていないとは驚きだ。

(しょうがない男だこと)

 ゲルトルートは心の中で小さく溜息を一つつき、腹を括った。


「わかりました」

 ゲルトルートは頷いた。

「ありがたい」

「あなたのためではありませんよ」

 ほっとした顔の甥に、素っ気なく言い渡す。諾々と厄介事を引き受けたと思われては心外だ。

「さすがのあたくしといえど、これには少し時間が要りそうだわ。この子はあたくしが預かってもよくって? 兄はなんと?」

「父と兄にはまず引き合わせて、説明も一通り済ませています。少なくとも我が家の男では手の打ちようがないという点で意見の一致を見ましたので、叔母上に診ていただいて方策がおありならば、そのようにと。叔母上がヴォジュラにとり無害と判断されたなら、森に帰して元の生活を送らせる運びとなります。ゆくゆくは、いずれかの監視点の管理人を任せたいと考えております。今後十年の間に引退を願い出る予定の者が複数おりますゆえ」

「よろしい。ところで、なるべく人目につかないようにして来たのでしょうね? 気付く者など他にいないと思いますけど、もしも見える者が一人でもいたのなら、この子には気の毒ですよ」

 気がかりを解消すべく、ゲルトルートは尋ねた。

 シオネという名で紹介されたその犬に、別の生き物の姿がぼんやりと重なって見えるのだ。具体的には、現在の姿勢に合わせて四つん這いになっている人間の若い娘。これがこの犬の本来の姿なのであろう。

「気の毒……ですか? 本人はいたって気ままに過ごしているように見えますが」

 首を傾げるイズリアルも魔法の素養を持っているが、ここまでは見えていないようだ。見えていれば、これほど暢気な態度ではいられまい。

「そう……あなたでもこれ以上はわからないのね。ならいいわ。ああ、質問はしないで。あなたにわからないということがわかれば、それであたくしの求める答えは出ているの」

 犬が歩けば透き通った娘も四つん這いのまま掌と膝を床に着いて歩く。犬が前脚を揃え尻を床に着けて座れば、娘は赤子のようなだらしのない仕草で床に脚全体をつけて座り込む。飲食する時には、獣と同じに口で迎えに行くのだろうと、見ずとも察せられる。

 これほど頭の痛い、いたたまれない光景もそうはない。

 娘の顔立ちは異国めいている。顔つきは犬の何も考えていなさそうな暢気な顔と同じで、何の疑問も抵抗も抱いていない屈託のない無邪気な表情を浮かべている。ちなみにその表現はよく言えばの話であって、悪く言うなら頭の緩い間抜け面でしかない。人間らしい知性が幾許かでも働いていれば、とてもこんな表情はできまい。

 フェルビーストで最も強い魔法を持つゲルトルートでも、一瞬しか見えなければ目の錯覚だったかと思いこんでしまいそうなごくごくうっすらとした重なりだから、その辺の魔術師では目にも留まらぬであろうことは察しがつくが、それでも、もしもを案ずるのは、それが杞憂だとは言い切れない根拠と言えるだけの、不可思議としか表現できない出来事の数々や隠れた実力者がこの世には存在することを知っているからだ。

 例えば、先日の森上空での大規模魔法。例えば、ゲルトルートよりはるかに鮮明に娘の人の姿を視認できているであろうが、それをおくびにも出さないジェドの息子。ジェドもきっとこの娘の惨状を見て取れたはずだ。

 誰も彼もが彼らのような分別の持ち主であればいいが、世の中はそんなに都合よくできてはいないこともまた、ゲルトルートはよく知っている。

 だが資格魔術師でありヴォジュラでも上から数えた方が早い魔法力を持つイズリアルがさっぱりわからないと言うなら、たいていの者の目には留まるまい。そこでゲルトルートは安堵の息を吐いた。


 イズリアルはお手上げとでも言わんばかりに嘆かわしげに首を振った。一族特有の、赤みの強い茶の髪は若さゆえか艶やかだ。

「何のことやらさっぱりだ。もう少しわかりやすく仰っていただけませんか」

 世間知らずのお嬢さんなら胸をときめかせついでに口を滑らせてしまうかもしれない涼しげな美貌の青年になったからとて、ゲルトルートは絆されない。

「あなたはこれ以上知らなくていいということよ。この上なくわかりやすい回答じゃなくて?」

 イズリアルは子供の頃のように、『叔母上は勝手だ。ご自分さえよければいいんでしょう』などと感情的な文句を言うこともなく、これ見よがしに諦めきった顔つきで嘆息するに留まった。

 自分の言動は年少者の反抗心を煽りやすいらしいとゲルトルートは気付いていたが、甥っ子たちのために自分を改めようなどと考えたことはない。

「とにかく、この子はあたくしが預かります。元の姿に戻してからも、しばらく経過をみる必要がありますからね。心身に後遺症がなく、ぶり返す心配もないとわかったらお返ししましょう」

「できるだけ早く森へ帰すことになっています。次に辺境の森に向かうまでに間に合いますか?」

 ゲルトルートは、冷え冷えとした視線を甥に送った。『飲み込みの悪い子ね』と目で率直に語っている。決して比喩なんかではない。

 気まずそうに長椅子の上で身動ぎするイズリアルは今年で22歳になるが、彼女にとっては出来の悪いやんちゃ坊主のままである。

 これでも彼は王都の高等学校を栄えある首席で卒業し、魔法特級においても学年一位の成績を保ち続けていた英才として知られていた。卒業直前には王都でも就職最難関とされる王宮騎士団だの王立研究院だのの名だたる勤め先候補が彼に門戸を開いて手ぐすね引いていたのだ。

 イズリアルはそうした勧誘を全て辞しヴォジュラに戻ってきて、今は彼女の目の前で叱られそうな気配を察知してそわそわしている。

 そこでゲルトルートは、遠慮なく叱ってやることにした。

「あなたはあたくしの話を聞いていたの? あなたが次に辺境に向かうまでの猶予は、せいぜい3日から5日というところじゃないの。心身の健常を保証できるだけの経過観察の時間と、二度とこんなことをしでかさないようにきちんと躾ける教育期間がそんなもので足りるわけがないでしょう。あたくしが世界一の教育者だったとしても、そんな奇跡は習得していなくてよ」

 世間一般から見れば十分逸材の甥ではあるのだ。単にゲルトルートが、殊魔法に関しては優秀すぎるだけなのである。

「いえ、教育までは……」

「差出口をお許しください。父ジェドはそこまで当てにしていると思います」

 大きくはないがよく通る低い声できっぱりと容喙したのはジェドの息子だった。場をまとめる収束力を確信に満ちたその言葉は含んでいた。

「なんだ、そうなのか」

「はい」

「ジェドが言うならばそうなのでしょうね。叔母上、お願いいたします」

 イズリアルはあっさり折れた。

 小賢しさを感じてゲルトルートはうっすらと口角を釣り上げる。やはりこの灰色の髪の若者は何もかもわかっている。

 犬は、すぐ側で自分の進退に関わる話が展開されているというのに、退屈し切った態度で絨毯の上に寝そべり、前足に顎を乗せて目を閉じてしまった。まるっきりそこいらの犬と変わらない。それに重なる娘の姿も手足をだらしなく投げ出した死体のような姿勢で床の上に転がる。

 本来化身の魔法を使って獣の姿を取るならば、このように本来の姿を二重写しにしたような無様な状態には決してならない。暴走の副作用といったところだろうか。

 しかしここで、ゲルトルートは何か違和感を覚える。のっぴきならないところまで獣化が進行しているというよりは、抵抗らしい抵抗もなく獣への適合を受け入れているふうに思われたのだ。



 甥たちが帰ろうとすると、犬は起き上がり当然のように彼らについて行こうとした。

「シオネ、君はここに留まり、叔母上から解呪を受けるんだ」

 イズリアルが諭すように優しく告げるも、それは断固とした拒否。

 犬は置いて行かれまいと、身を切られるような声でギャンギャンと鳴いて後足で飛び跳ねながら、自分をここに連れてきた青年二人を代わる代わる見上げた。

 ジェドの息子はゲルトルートとイズリアルよりも多くの情報を読み取ったことだろう。だが彼は断固として言った。

「おまえはここで待て。森に帰る時に迎えに来る」

 そこで一緒に行くことを断念したのか、犬は足を止め、項垂れた。

「時間が空いたら様子を見に来る」

 灰色のおどろ髪の青年が気まずそうに付け加えた。

 途端に犬は三角形の耳をぴんと立て、垂れていた尻尾をくりんと巻き上げると、「またのお越しをお待ちしております」とでも言わんばかりに元気よく一声吠えた。この家はゲルトルートの家であってこの犬の家ではないのだが。



「さて、シオネ。いらっしゃい」

 ゲルトルートは女王の如き威圧感を犬に叩きつけながら命じた。

 犬は群れ社会で主の絶対的主権に忠実に従って生きる獣である。イズリアル達が去った戸口を名残惜しげに眺めていた彼女は飛び上がって、一目散にゲルトルートの足元までやってくると、兵士が直立不動で敬礼でもするかのように、ぴしりとお座りをした。

「早い内がいいわ。あなたを人に戻します。イズリアルの話を聞くに、解呪を阻害する要因となる物事があなたの中に引っかかっているはずです。それを思い出しなさい」

 見詰めてくる犬と、同じ位置に重なり合う娘が瞠る黒々とした目を果たし眼で見詰め、犬の姿より人の姿がはっきり見えるように視界を切り替える。

 ゲルトルートはこの切り替えが恐ろしく巧みで、それを以て魔法の発動の早さと正確さは国内でも屈指の魔術師の一人に数えられている。

「さあ、そんなところに閉じこもっていないで出ていらっしゃい。あなたの生きる場所はそこではありませんよ」

 一瞬後には四つん這いになった娘と向かい合っていた。娘以外のあらゆるものを視界から追い出したゲルトルートの周囲には、色も上下左右の感覚もない世界が広がっているに過ぎなくなった。

「それとも帰り道に迷っただけですか。ああもう、どこを見ているの。こっちを向きなさい。そっちに進むんじゃありません……手間のかかる子だこと!」

 娘は這い蹲ったまま犬の振る舞いを続け、ゲルトルートの誘導の言葉を理解した素振りを見せない。むしろ怯えて遠ざかってしまう。

 ゲルトルートは、娘の領域の縁に立って呼びかけ続けるばかりでは埒が明かぬと近づこうとした。

 途端に狭まる道筋。娘の領域には彼女の精神が満ちており、見えない壁となって異物であるゲルトルートを押し出そうと圧迫してくる。

 慎重に掻き分ける都度泡のように弾けて散らばり、また元に戻る透明な衝撃を伝えるものは、娘の記憶や感情の欠片たちだ。

 ああ、これではジェドにはできないはずだ。娘の思念の波をかき分けながら、ゲルトルートは束の間遠い目をして思った。

 彼は自分では、この娘の魂の内側に潜り込んで強引に元の姿を引き摺り出すことができなかったのだ。それに伴って不可抗力で暴くものを、相手が若い娘であることで憚って。

 探し物をするためには視界を狭めるわけにはいかないが、個人的な内情を読み取っては双方遺恨が残る。ゲルトルートはできるだけ思念をかき分ける過程で触れる精神の面積を少なくし、注視しないよう努めた。

 細々とした暮らし。二人の家族。二次性徴を迎えた多感な年頃の娘なら当然生まれるべき家族との心理的な壁。乖離していない周囲に対して、また自分も変わっていないのに些細な抵抗から歪む距離。それを挽回する機会を失った後悔。行き場のない愛情。その代償行為。無価値感の中で来した変調。忌避感と恐れ。他人に与える影響の自覚、その重苦しさと相反する歓喜。得た力を使えない惨めさ。他者との比較。練習しようにも常に大失敗の危険が付いて回る不安定さ、気安く試せない歪みの問題。自信のなさ。意識せずして受けていた抑圧の自覚。後ろめたさを伴う解放感。変容し周りを傷つける心配。自己を失う恐れ、それだけは回避したいと固執した恐怖。熱さ。

 場面も理由もはっきりしない――見詰めないようにしているからだ――強い感情だけが、ゲルトルートの五感を掠めて流れすぎ、後方で渦を巻く。掠めただけで弾けた娘の抱える感情が、触れたそこからゲルトルートの全身を伝播して通り抜けてゆく。

 その中から彼女は、直撃を避けながら鍵となる何かを探し求め、見出そうと努めた。

 目を逸らしながら目を凝らすという器用な芸当は、相当の魔法を消耗させる。急がなくては彼女といえど危ない。

 時間感覚すら曖昧になっている今、どのくらい時間を浪費しているのかも定かではない。


 ――ああ、もう、毛なし猿の姿に戻れなくてもいいから、とにかく火だけは消えてほしい。このままではただ生きてるだけで周りに迷惑だ――

「これだわ」


 ゲルトルートは我が身の危険を顧みてすべきことを見失いはしなかった。見えない泡を羽虫を仕留めるに似た動作で両手で引っ掴み、ただちに次の段階に移る。

「馬鹿な真似はおやめ。残りの生全てを愚にも付かない自己満足の実行に費やすつもりですか。何一つ産まない不毛の行いですよ」

 気の毒な子だ。その心の弱さに釣り合わぬ強い力を備えてしまった。何の変哲もない普通の少女なのだ。生まれ付いてのものではない。望んだものでもない。ジェドの持つそれとも性質が異なる。全くの偶然によって手に入れた力だった。

 その強い力で自滅しないよう、無意識下で抑え暴走癖を持つ役立たずとなり下がってでも、生き延びようとしていた。

「周りを悲しませ失望させるのが嫌だから、ただ生きるのが辛いというのなら、やめておしまいなさい。でもあなたはそうではないわね。生きることを諦めていないはず。だからこそこんな姿に身を窶してまで、生き残ることを望んだ。その一方で思考を要しない獣の生き方に迎合しているのでしょう」

 ゲルトルートは毅然と頭をもたげ胸と声を張った。相手が人であれば胸に釘打つ痛烈な打撃となることを承知の上で言葉を叩きつける。獣の本能に塗り込められた精神を容赦なく、しかし丁寧に掘り進む。

 犬は手強かった。獣の成分が厚い層を成している。穿っても剥ぎ取っても、中々人の心に行き当たらない。もしや既に手遅れなのではという邪魔な懸念を振り払いつつ、娘自身を捜す。

「それは賢いやり方ではないけれど、馬鹿な選択でもありませんよ」

 蹲ったままの娘が頼りない目で見上げてきた。

 通じたという確信を得た瞬間、ゲルトルートは電光石火の早さで手袋に包まれた繊手を伸ばし、射程を突破する。

 ――捕えた。

「けれどね、そんなところに引き篭もっていられるのは今だけですよ。永遠にそのままでいられるとは思わないことね。長引けば長引くほどあなたの親しい人たちの痛みは錆ついていくでしょうよ。あたくしは何とも思いませんけれどね。あなたのことなんて知りませんし、あなたがどうなろうとどうでもいいことですからね」

 娘の人間性を急速に手繰り寄せながら、縺れた部分をてきぱきと解いていく。固い結び目になっているところには、それを抉る言葉をざくざくと投げつけ、娘が動揺する都度それが緩んで、その隙に一気に引っ張り解く。

「でも、あなたを知っていて、あなたを幾許かでも好いて期待している人にとってはどうでしょうね。幻滅というのは、期待との誤差が大きいほど大きくなるものですからね」

 つんとして最後に突き放す一言を付け加えると、娘の黒い目に罪悪感が奔った。唇がわななき、何かを言おうとするように口が開きかける。

 娘が心身ともに人間に戻ったことをゲルトルートは確信し、ただちに視界を切り替えた。彼女も限界が近かった。



 全てが終わった時、目の前には不格好な犬もどきではなく、黒髪の人の娘が懺悔するような姿勢で蹲っていた。


 成功だ。

 ゲルトルートは荒い息をつき顎の先から汗を滴らせながら、僅かな時間でげっそりとこけた頬に不敵な微笑みを刻んだ。

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