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由無し一家  作者: しめ村
22/43

兄ちゃんの平日

 領主の私有地ということになっている森と辺境の森の区別は曖昧だ。

 地元ヴォジュリスティの住人ならば、辺境の森を領主の森が取り巻くかたちで存在し、立ち入りを制限されていることを知っている。だが概ね世間一般には、領主の森と辺境の森は同一の物として捉えられている。偉い人の私有地だから勝手に入るなと言われるのと、危険だから勝手に入るなと言われるのとは、無関係の者からすれば大差ない。

 森の入口そのものは、ぱっと見にも容易だ。

 道なき荒野の果てにくっきりとその存在を刻むリュストン川を、遠くに赤い煙を噴き上げる黒い山の影を目指して遡るうち、道中の激しい気温の変化と凶暴な野生動物や盗賊や時たまどこからともなく現れる魔物の襲撃を掻い潜って生き延びさえすれば、やがて壁のように新緑が立ちはだかっており見渡す限り地平を覆っている様に出くわす。緑の壁に到達すれば、そこが森の入口だ。

 しかしながら広大な森の境界全体を壁や柵で仕切って逐一出入りを見張ることなど不可能。



 そんな森の境界を線引きする数少ない明確な印の一つが、森の縁に何箇所か存在する辺境領警備隊の詰め所。

 ヴォジュラ最大の都市ヴォジュリスティより北にまっすぐ、徒歩で17日~10日、馬で半日~5日ほど進んだところにあるこの詰め所に辿り着くまでの日数にばらつきがあるのは、ヴォジュリスティから森の入口までは道一つなく、野宿して生き延びるのも厳しい荒野の悪路であることと、一口に馬といってもマズリやオドゥラやダングなど基礎的な能力が異なる様々な種類があり、同じ騎獣を操っても騎獣の能力や乗り手の実力によって進み方がかなり異なってくるからだ。

 ジェオフレイたちの場合、人も獣も森と街の行き来に慣れた手練のみで占められていて、更に足早に往復するので、運ぶ荷の種類や状態に若干左右されるものの、大抵は片道半日~1日で済んでしまう。

 表面を焼いた頑丈な丸太の柵で敷地を囲い、石と丸太で組み上げられたかなり田舎くさい佇まいのその詰め所は、現役の騎士隊長が十数人の駐在兵士とともに預かっている。

 辺境の森の全区域へと通じるこの地点で、魔境監視官たちへの定期配給を行うフェルビースト家の担当者とその部下たちは、ここに荷車を残して森の深部へと踏み込む。荷を置いておける拠点が必要なのだ。


 ちなみに、一応は領主の森の管理人という名目で森の中で暮らしている監視官らもまた、世間の人々からの認知度の低い存在だ。一般の兵士たちでは対応しきれない事態に備えている選りすぐりの精鋭だが、彼らがどんな風に必要な存在であるかを正確に知る者は少ない。詰め所の兵士たちの中にさえ、十分理解している者は少ないだろう。

 だが少なくとも、自分たちの目を掻い潜って森に侵入した者を始末する最後の砦が彼らだという共通認識を持ってもらえている程度には、管理人たちは確かな仕事をしている。



 さて、辺境警備の任に就く魔境監視官への配給と視察を事とする当代のフェルビースト家の者たるイズリアルは、ヴォジュラ辺境の森中央区域の4か所の管理人を担当している。

 一つ所を訪ね終えると、再び詰め所まで戻ってきて、新たな荷を携え別の地点を預かる管理人への荷運びを行う。

 それを合計4回繰り返し、この月の分担を終えた。

 それぞれ別の担当区域に散っていた部下とも合流すれば、あとは街から持ち込んだ荷車十数台分の食料や生活物資を吐き出して身軽になった車を引き連れ、ヴォジュリスティに帰還するだけだ。

 だけと言ってもそれで仕事が終わるわけではない。遠足ではないので、彼には家に帰ってからもやるべきことが目白押しだ。

 他領の者には理解されにくいが、魔境と接するこのヴォジュラにおいては代々領主一族の者にしか任じられない重要度の高い仕事なので、それだけに専念させてもらえる。

 逆に言えば、この仕事に就いたが最後、世を捨てたも同然となる。引退したオルソンが何かにはっちゃけてしまったのも無理はないと思えるくらいには、拘束の強い仕事だ。

 各管理人たちからの報告全てに目を通し、その要点をまとめて領主への報告書を作成する。また次回の巡回に持っていく物資の内訳と管理人たちからの要望を取りまとめて目録を作り仕入れ価格他経費を試算して、それが適切かどうかの裁可を領主より受ける。並行して物資の手配をしておき、欠品や遅延を可能な限り回避する。また各管理人の健康状態や能力の加減、叛意の兆候などがないかにも気を配り、助手や後継者を欲しがっている者に人材を選んで紹介する。

 最後のが一番難しく、人手の都合がつかないことを謝り、領主の息子である彼自らが管理人の滞っている仕事を手伝うこともままあった。滞在時間が延びるとその分あとの予定がつかえていくわけで、ヴォジュラ領主家にとって信用のおける人手の確保は、本当に深刻な問題なのだ。それこそいったん現役を退いた50超えの叔父を引っ張り出さねばならないくらいに。

 イズリアルにのんびりしている暇などない。


 実際、彼はここ数年、すっかり世情に疎くなっている。努めて情報を集めているのは、王国中の穀物の取れ高とか肉や塩や香辛料や武具の価格相場とか、魔物の発生地点や規模や被害報告くらいのものである。それらに関してなら、統計が取れるほどきっちりと頭の中に畳んでいるのだが。

 王都の友人からの手紙も、一月二月ばかり放置してからふと気づいて慌てて読むという体たらく。いつどこで誰それの婚約披露パーティがあるから、都合がつけば君も来てほしいと招待状を送ってくれているのに、手紙の封を切った時にはもうパーティが終わっている、なんてこともざらにある。忙しさは確かに一因だが、こういうことを何度もやらかすから、フェルビースト家の奴は付き合いが悪いとか言われるのである。

 肩書だけだがイズリアルの側近であるジェオフレイには、イズリアル宛ての届け物を受け取り選別してから渡すという役割があるので、来たそばから差出人と中身から不穏な気配がしないかどうかをちゃんと確認して、本人に渡している。それを読むかどうかはイズリアルの判断にかかっているので、とりあえずジェオフレイは自分のせいではないと思っている。

 そもそも彼の上司に届けられる書簡は、選別の必要もないくらい少ない。

 イズリアルが王都の高等学校を卒業して4年。今もイズリアルに定期的に手紙をくれる学生時代の友人はもはや一人だけ。他人の私生活に口を出さない主義のジェオフレイでさえ、差出人の名前と素性を覚えてしまったくらいだ。

 だからこそ、余計な世話だと思いつつも、つい心配してしまう。

 イズリアルは手紙の返事だけは、時間差でもしている。しかしたまには休暇を取って会えないものかと。

 これだけまめに便りをくれる女性が、単なる友情から辺境領に引き篭もっている異性との接点を維持し続けようとするものだろうか。多分そうではない。イズリアルと同年代ということは件の令嬢はまだ若いが、貴族子女としては適齢期も後期にある身。周囲とて、いや周囲こそ焦っていよう。

 くどいようだが、イズリアルが忙しいのは確かなのだ。しかし嫁を取る努力くらい許されてもいいのではないだろうか。この調子で独身のまま歳を重ねれば、オルソンのように糸の切れた凧みたいな傍迷惑な老紳士になってしまう。

 もちろん、オルソンは独身だ。結婚などしている暇がなかったからだ。



 詰め所の駐在兵士の手本のような礼と挨拶に出迎えられたイズリアルの後について、ジェオフレイは三頭のマズリの手綱を牽いて詰め所内に入った。兵士の一人が手綱を預かろうと申し出たが、すぐに積荷を移し替えるから結構と断る。

 ヴォジュリスティとの行き来に使っている荷車に近づくと、車の荷台の上で寝ていた四十がらみの小男が片手を上げた。

「お、大将、お帰んなせえ」

 敬清が見れば、盗賊や斥候あるいはアサシン風と表現するであろう、武器防具ともに身軽さを優先した出で立ち。

 薬草類を厳重に梱包した包みに上体を預け、毛布を引き被って昼寝を決め込んでいたようだ。単にだらけていたわけではなく、魔境監視官たちから預かってきた、貴重な魔境産の物資の見張りも兼ねている。

 仮にも上司に対する態度ではない気安い挨拶に、イズリアルは気を悪くした風もなく返す。

「シーヴァー、君も無事で何よりだ。我々で最後か?」

「いんや、ハルとジェスロとザンがまだっす。ま、そのうち来ますよ」

 フェルビースト家の次男の八人の部下の内、ジェオフレイを含む五人がこの合流地点に集まっていることになる。

「丁度いい。こちらの荷を荷台に移すので手伝ってくれ」

 イズリアルが辺境の森深部から戻ったと知らされた他の部下たちがぼちぼち現れ、荷の移し替えを始めた。


「ジェオ、父上は変わりないか」

 八人のうち最年長のアンスガーが、荷車の傍でジェオフレイから魔境大角鹿の角の束を受け取りながら尋ねた。

 敬清なら重戦士と評するであろう見た目は、ジェオフレイと同じくらい高い身長と厚い体に重厚な板金鎧をまとった打たれ強く倒れにくい壁であり、一撃がとてつもなく重い攻撃力を備えるまさしく重戦士、あるいは重騎士か。物腰も穏やかでそこはかとない品があり、装備が実用一点張りの傷や凹みに彩られた鋼色ではなく白塗りの鎧であれば、聖騎士などと言われても違和感のない姿だ。

 さもあらん、彼はヴォジュラで代々続く騎士の家の出だ。八人のうち、ジェオフレイの家族との面識があるのは彼とシーヴァーだけだった。それもウルリカが生まれて間もない頃、17年近くも昔の話だ。

「ありがとうございます。皆息災で過ごしております」

「父上が元気なのは何ら不思議ではないな。妹御は、今年の春で17歳か? 母上に似てさぞや美しくなったことであろうな」

「……」

「そうだ! ジェオ、たまには実家に行く時、俺も連れてけよー。いつ妹と会わせてくれるんだよ」

 唐突に会話に割って入ったのは、ジェオフレイの唯一の後輩であるヒック。

 こいつもヴォジュラ貴族の出身で、見た目だけなら育ちのよさそうな好青年という、黙っていればなんとやらいう性格が残念な男の見本のような若者だ。敬清なら人柄の前に装備品を見て、中距離にまで対応できるオールラウンダーと評するだろう。

 まだ19歳という年若さと就職するまで苦労知らずで育ったためか、よく言えば無邪気で素直、悪く言えば無神経で落ち着きがない。これでも一応、ヴォジュラ領内唯一の高等学校を好成績で卒業した将来性ある人材のはずなのだが。細剣と短弓を適宜使いこなす小器用さと状況判断力は中々のものなのだ。

 彼とジェオフレイ以外の6人は皆、先任の配給巡回役のオルソンの現役時代からこの仕事に従事してきた玄人揃いだ。イズリアル含め、彼ら若手は先輩たちに温かく見守られ時にどつかれ辛辣なことを言われながら仕事に追われている。

「俺の口から妹に会わせると約束したことなど一度もない。今後もない」

 ジェオフレイは素っ気なく返した。彼の口ぶりだけでは内心を推し量るのは、付き合いの短い者には難しい。台詞の中に妥協が一切含まれていない時点で、彼の本気を察する方がまだしも容易だ。

「大将ー、いっぺん俺もジェオん家に連れてってくださいよー」

「ん、ああ? 仮に私の都合がつかずとも、君にお願いすることはないだろうね」

 にっこりと微笑みながら繰り出されるイズリアルの返答はにべもない。

 彼もまたジェオフレイと同じ評価を、この少年期を脱したばかりのヒックに対して抱いている。

 性格は単純でお調子者だが正義漢でもあって、仕事にはまじめに取り組むしこれでも公私は区別する分別を持っている。ところがその私の部分がいただけない。

 かわいい女の子と見れば軽薄な声をかけずにはいられない――それも街を歩いていて通りを変わる毎に一人くらいの頻度でだ――この後輩なんぞに、ウルリカの姿を一目でも見せようものなら最後、ジェオフレイは仕事仲間を血の海に沈めねばならなくなるだろう。

 敬清のように下心が芽吹く下地のない幼いうちから心の交流を積み重ねてくれるならともかく、いったん雄の本能に目覚めた若者に引き合わせるのは危険でしかないと、彼と父は考えている。

 どういうわけか彼の実の妹は、男の下劣な欲望をかき立てる類稀な容色に、余計なほどに恵まれている。

 数年前、たまたま実家まで辿り着いてしまった外部の盗賊が、それまでの目的が何だったのかは知る由もないが、当時12歳の妹を一目見るなり目の色を変えたのは未だジェオフレイの記憶に新しい。手心を加えて長期戦になれば余計な知恵を働かせてくる、その前に禍根は絶たねばなるまいと、茂みの奥で息を潜めていた奴まで一人残さず引き摺り出して叩き斬ったのは杞憂でも何でもないと彼は信じている。

 彼と父と、フェルビーストの血を引く男は例外で、美しい妹を見ても心惑わず相対することができる。アンスガーとシーヴァーは、生まれたての妹しか知らない。

 だから実家への配給には、ジェオフレイとイズリアルしか行かないのだ。

「アンスガーどの、あなたがそのようなことを口にされるから、ヒックがうちの妹に要らぬ興味をかき立てるのですよ。これでも困っておりますので、若い者を煽るのはやめていただきたい」

「君とて若いだろうに」

「嫌味か」

 アンスガーとシーヴァーが苦笑と呆れに満ちた突っ込みを入れる。


 アンスガーの言葉をきっかけに、ジェオフレイはウルリカの誕生日が近いことを思い出した。次に来た時には何か祝いを持参しなければ。

「……しまった」

 去年増えたもう一人の妹も、初夏の生まれだと言っていた。時期的にウルリカとさほど違わない。

 更には、新しくできた弟の誕生日はとっくに過ぎていることに思い至る。冬生まれだと聞いている。12歳になったと話していたではないか。なんということだ。

 愕然としたジェオフレイを労わって、近くにいたマズリが鼻面を寄せてくる。

 巨大な馬面に上から小突かれながらもつんのめることもなく、上の空で短い毛に覆われた鼻面を掻いてやっていると、ここまで沈黙を守っていたあと一人の仲間がその様子を見咎め、心配そうに声をかけてきた。

「ドウシタ」

 ジェオフレイよりも縦に大きなリスは、でっぷりとした横幅の広さもまた仲間内では一番で、それを頑丈な鎧などではなくつぎはぎの革鎧に包んでいる。敬清なら(以下略)バーバリアンとかバーサーカーとか、あるいは自信なさげにオーク? などと例えるだろう。その合間から見える肌は焦げ茶色の毛皮に覆われている。下手な鎧よりも頑丈な自前の毛皮だ。彼は妖霊人の牙の氏族なのだ。

 一口に牙の氏族といっても様々な形態の者がいる。リスはその中でも特に立派な鬣と下顎から天に向けて生えた牙を持つ、直立する猪に似た姿の牙の氏族である。その目の奥の光は鈍重そうではあるが優しく、人間社会の中で恐ろしげな外見で損をしてきた不器用な人となりを端的に表している。

「妹の生まれ日が近いことを忘れていた。次に来る時には土産をどうしようかと思ってな。今年は増えたので、どうしたものかと。あれもこの時期だった。弟に至っては何もやっていないことを思い出した」

 ジェオフレイは、一回り以上年嵩のリスには対等に話す。彼には難しい言い回しが通じにくいからだ。したがって敬語もなし。

「増エタ? 妹? 弟?」

「お前の妹は増殖するのか? 性転換したのか?」

 ヒックの失礼な軽口は無視。イズリアルとアンスガーとシーヴァーは、仕事についての簡単な報告と今後を睨んだ実務的な会話を始めている。

「妹と弟、両方だ」

「家族増エル、ヨイ。メデタイ」

 リスは真率に喜ばしいことと捉え、祝ってくれる。

「親父さんが後添えでも貰ったのか?」

 ヒックのあからさまな意見は、今度ばかりは突飛ではない。ジェオフレイの実家は、現役管理人の父と妹の二人暮しであると、同僚たちは皆知っている。兄弟が増えたというなら、当然そう思うだろう。

「いや。縁あって父が引き取った子らだ」

「ちなみにその新しい妹と弟はいくつよ?」

「妹は妹と同い年で、弟はその5つ下」

「ぐはっ」

 ヒックが呻いた。重たい一撃でも食らったかのように胸を押さえてのけぞり、わなわなと震えながらまくしたてる。

「お、お前、その歳で突然血の繋がらん妹ができるとか、そりゃどんなご褒美……しかも17歳?! 蕾ほころぶ17歳! けしからん! こんなむさくるしいとこで仕事してやがるくせにそんな無駄な幸運に恵まれやがって……! くそっ! その女運を俺に分けろ!」

「お前の嘆きの要点がわからない」

 悲憤に満ちた口吻とともに掴みかかられたので、とりあえず羽虫をはたき落とす要領で迎撃してから、こいつはシオネにも会わせない方がいいとジェオフレイは思った。

 リスは地べたにいじけた模様を描き殴るヒックを不器用に慰めている。

「オナゴハ強イ男ヲ選ブモノ。ひっくハ若イ。コレカラ強クナレバ、沢山ノオナゴガひっくニ振リ向ク」

 慰め方が、野生動物の掟に則った群れ作りの価値観を基準にしているのはどうかと思わないでもない。

 しかしここで大事なのは仲間を慰めようとするリスの真心であってその内容ではないのだから、いいのだ。



 考え事の最中でも、マズリたちに水と飼葉を与えながらでも、ジェオフレイの知覚は、こちらに接近する存在を伝える森の息吹を正確に聞き分けた。時同じくして、別方向からこちらに向かっている独特の気配も彼の感知網に引っ掛かる。ハルとジェスロ、それにザンも無事に戻ったようだ。

 わざわざ口にしないのは、他の誰もそんなことには気づかないのが普通だからだ。敵襲であればさっさと迎撃態勢を整えるためにも遠慮しないが、平時に事上げするのはわざわざ奇異の目で見られる機会を増やすだけだ。

 いずれは森の奥に引き篭もって父の跡を継ぐなり、引退した別の管理人の後釜に座る。そうすればこんな窮屈な思いをすることなく暮らしていける。それが今ではないだけで。

 本格的な隠遁生活に入る前にと与えられた社会学習の機会が、貴重で大切なものであることは理解している。それなりに新鮮な驚きや楽しみもある。

 ただ、人里での生活は、どうしても本来の力を隠し、自己を抑制しながらになる。それが息苦しい。父はそれを、若いがゆえと笑う。それもまた、よい思い出となろうと。

 ジェオフレイは溜息を飲み込み、仕事に戻るためにマズリたちを促し、仲間たちのところに戻る。



 父と兄は、娘であり妹の幸福を何よりも願っている。

 年頃になったウルリカのためには、いつまでも他人との交流のない森の奥の家に置いておくのは心ないことながら、しかし無策で人里に出すのは更に酷だろうと、父ともどもその身の振り方を思案していたところだった。

 なので、ここで敬清がやってきてくれたことを、天の助けとばかりに歓迎している。

 彼は健康で運動能力と平衡感覚に恵まれ、素直で向上心があり、何よりウルリカに健全な好意を抱いている。ウルリカより強くなったら求婚してもよいと父が許したら、それを励みに一層訓練に打ち込むようになった。これなら、妹を独力で守れるくらいに成長してくれるかもしれないと期待が持てる願ってもない人材だ。

 潮音は姉の嗅覚で、彼らの思惑に勘づいているようだった。

 そのせいばかりでもあるまいが、未だ一家に心を開いていないように思われる。

 ジェオフレイとてお互い様なのでそれを責めはしないが、新しい住人がもたらす不協和音が一家に不利益を呼び込みはしないかと、一応の警戒は続けていた。

 一歩引いた目線で一家を観察しているあの娘は、余計なことにまで気付いている。本人は詮索の意図はないと声を大にしていた。

 ジェオフレイとしてはその言葉を信用したいと思っているものの、潮音自身に悪気がなくとも、彼女が扱いかねている強力かつ不安定な力がいつどんな風に暴発しないとも限らないし、それが彼の非力な妹にどんな影響があるか想像もつかない点が怖いのだ。

 非力なことにかけては潮音と敬清だってそう変わらない。戦闘力に関していえば、今はウルリカにも劣る。

 しかし敬清は順調に腕を上げている。武芸の訓練はもちろん力の行使に関しても非常に安定していて、こちらが口を出すまでもない。

 ウルリカと敬清が手がかからない子供である分、潮音は群を抜いて弱々しく感じられる。生まれたての子犬よりも繊細に扱わねばならなさそうで、正直怖い。子犬ならどこをどのくらいの力で触れればいいかがわかるのだが、いかんせん今度の相手は下手に刺激すれば何かの拍子に壊してしまったり更に不安定にしてしまったりしそうだ。だからどのように接すればよいのかわからない。

 魔境の真の番人にして墓守たる最長老によれば、あの娘は意思が弱いうえに心が捻くれているので、それが力の使い方にまで悪影響を及ぼしているとのことだ。彼にとっては人間はみんな二心も三心もあって面倒ということになるので、潮音の心がどう捻くれているのか結論はできないが。

 父からの依頼通り力の使い方と森の掟は伝えてやるが、毛なし猿の教育の仕方なぞ知らんと最長老に言い放たれては、それ以上は期待できない。

 父と彼とでなんとか機会を作って、相談に乗ってやらねばなるまい。

 父の甘さゆえの成り行きとはいえ、我が家に迎えた以上は我が家の住人、家族の一員なのだから。それに相応しくあれるように、できることは努めるべきだろう。

 ウルリカが敬清を婿に取れば、本当の縁戚ともなるわけだし。

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