潮音の伏流
芋虫の日。
それは、今シーズンで羽化した蛹の中身のチョウチョ達が、春を謳歌した末に次代を残そうと森の各所に産みつけた大量の卵が孵化する日。
この辺境の森でのみ起こる特殊事態で、チョウチョが卵を産む時期はまちまちなのに、なぜか孵化だけは決まって同じ日に森中いたるところで一斉に起こるという。森中足の踏み場もないくらい芋虫で溢れ返るんだそうな。
そして、森で暮らす他の生き物たちもそれを知っている。孵化した芋虫たちに、森中の幼虫を好んで食べる鳥たちが一斉に襲いかかる。
越冬するために南へ渡っていた鳥たちもこの時に間に合うように帰ってきて、大小色彩様々な鳥たちが乱舞し羽ばたきと喚き声が響き渡り色とりどりの羽根を舞い散らかしながら芋虫を貪り食う様は、ウルリカによれば血沸き肉躍る幻想的な光景らしいが、イズリアルさんによると阿鼻叫喚の地獄絵図。
どっちが正しいのかは未確認なのでまだ結論は出せないが、個人的にはイズリアルさんに一票を投じたい。
そして、その悪夢の一日を生き延びた運のいい――運も実力の内とはよく言ったもんだ――一握りの芋虫は、夏中もりもり栄養を摂りしっかりと太って、やがて羽化し、短い夏の終わりに適当なところに卵を産みつける。成長に時間を要する虫は、幼虫のまま無雪期を過ごし、秋に頑丈な蛹になって、翌年の羽化に備え冬を越えるのだ。
「……お兄さん、芋虫の日は、いつ来るかわかりますか」
私はお兄さんに二重の意味を込めて尋ねた。予め知る手段があるのかどうかということと、あればそれがお兄さんにはできて他の人にはわからない、つまり私にもできる方法でなのかどうか。
お兄さんはお茶を二口で飲み干してしまうと、感情の乗りにくい薄い色の瞳に今日ははっきりと見て取れる面白がるような色を刷いて私を見返し、あっさりと頷いた。
「わかるぞ。前夜は一斉に孵化に備える虫のざわめきが、気配で伝わってくるからな」
うげっ。
お兄さんよ、人が盛大に頭を抱えて藁にも縋る思いで質問したというのに、なぜに面白がる。
「そんな超人はお前とお前の父親くらいだよ。この寒い中あんな薄着で雪を漕げるのもな」
暖炉の前で悴んだ手足を温めていたイズリアルさんが、呆れ返った表情で振り返った。
なるほど、『聞こえる力』はある程度なら勘の良さレベルで誤魔化せるのか、な? 体が非常識に丈夫なのは、『力』とは別次元の問題な気がするので、考えないことにする。
私が自分の力を使いこなせるようになったとして、お兄さんみたいに腰まで積もった雪を休みなしでかいて森を突っ切ったり、おじさんみたいに巨大肉切り包丁を振り回せるようになるとは思えない。
……しかし、芋虫の日か……心構えをさせてくれようとしたお兄さんとイズリアルさんには感謝しなくてはなるまい。その日をどう迎え撃つかな。
「ああ、ところで。はるかぜの月17日の日報の追記についてだが、乳を絞れる家畜を増やしたいというのは、誰の意見かな」
イズリアルさんの誰にともなく投げかけられた問いに、しゅたっと挙手する。
「それは私です」
だって、牛乳が欲しいんだよ。カルシウムを摂りたいし、シチューにコクが欲しいし、プリンを作りたいんだよ。牛に相当する動物が家畜化されていることは確認済みだ。イズリアルさんたちからの物資にはチーズもあることだし。
「この辺りの凶暴な獣たちにとっては格好の獲物でしかない生き物を連れてここまで来るのは骨が折れる。連れてきたところで、環境の激変や捕食者の危機を逃れて長生きできるだろうか。この近くで野生のハヌやハルンを捕えた方が早くないか?」
「近くにはいないのです、イズリアル様。ハヌもハルンも、生息圏はここより魔境寄りの、かなり遠くなのです」
これについては、おじさんに頼んで日報に書き添えてもらう前に、ウルリカとおじさんに予め相談したのだ。秋に蜂の巣を採りに行ったくらいの距離ならモノともせず踏破する健脚のウルリカがそう言うなら、本当に遠いんだろう。それにおじさんが言うには、野生の牛もヤギ(ハルン)も結構な悪食で、お乳の味とにおいはエグいらしい。辺境では特にそうだという。
「難しいな」
イズリアルさんが唸る。
この人たちは、徒歩で数日かかる距離を、突出した脚力を持つマズリに乗り車を牽かせて、ごく短時間で往復している。家畜を連れてくるなら、その歩みに合わせなければならない。道中物取りや野獣に襲われる確率も高まる。車に乗せて運ぶには家畜は大きすぎる。仔ハヌや仔ハルンを連れてくるにはなお過酷な道のりだ。
「無理ですか……」
私はがっくり肩を落とした。
こうなると、一度捨てた選択肢を再度検討するしかない。野生の牛なりヤギなり捕まえてきて、気長に食生活を改善させてお乳の味とにおいを整えていくしかないかあ……現代の地球で、専門家がやっても、遺伝子操作でない品種改良は途方もない時間のかかるもんだった。素人が試みるならそれ以上の手間暇をかけねば結果は出せまい。
そこで困難だからと諦めるのは、利益を出さなきゃ生きていけない商売の人でも、片手間の時間しかかけられない忙しい立場でもない私の場合言い訳にはならない。うん、ここは腹を括って挑んでみよう。
となると、後でまたおじさんにハヌを捕まえる相談だ……まるごと当てにするわけじゃないよ。でも一人じゃ作戦も立てられないしハヌの居場所も探せないし捕まえられないし連れて来られないもん。頼りにできる人がいるってなんてありがたいことなんだろう。
「さてケイセイ、少し魔法の出来を見よう」
イズリアルさんが両手で結んで開いてを繰り返しながら徐に立ち上がり、敬清を呼んだ。
「はい」
我が弟はいそいそとやってくる。戦い方ばかりでなく、魔法の修練も楽しんでいるようで結構なことである。
「そういえば、あんた音立てずに歩いたり気がついたら近くにいたりしとったっけ。あれももしかしてそっちの能力なん?」
「おう。ステータス変化とかパラメータ強化系らしいで」
えへんとばかりに胸を張る弟の言ってることは半分くらいわからないが、毛なし猿流に事細かく分類・命名されている魔法の学習は、敬清には向いているらしい。
「補助をする分類の身体を動かすことや物に言うことを聞かせる、あとは移動に関わる魔法だね。叔父の話では、彼の能力は自由度が高いようで、鍛えれば探しもの・追っかけ・隠すこと・気を付けること、更にその他の系統まで幅広く使いこなせるようになる見込みがあるとのことだ。魔境で一晩生き延びられたのも、彼の力が何らかの作用した可能性は十分にある。逸材だよ」
やはり専門用語が多くて、丁寧に解説してくれるイズリアルさんが何を言わんとしているのかさっぱりわからない。ウルリカがまあすごいわ、なんて持て囃しているから、きっとすごいんだろう。
「補助魔法。肉体操作、物体操作。移動。探索・追跡・隠蔽・警戒系。他にも分類は色々とある」
話についていけずに困惑しきりの私に、お兄さんが一語ずつ区切った聞き取りやすい言い方で言い添えてくれた。
ああ、うん。なんとなく意味は通じた。単語だけ切り取ってみると、なるほど冒険家とかハンターっぽいな! どこまで願望に忠実に反映されてるんだ弟の能力! その適応力を私にも分けてほしい!
「組合員としても高度な経験を積めるだろうが、名が売れると依頼での指名が引きも切らなくなる。正式に組合に登録する時が来たら、仕事の優先順位を常に我が家を一番にすると取り決める特別な約束をしなければならないな」
また私の解釈が無難な言葉に置き換えて並べ直した感がする言い回しだが、つまりイズリアルさん家との専属契約みたいなものを結べ、さもなくば森の外に出て組合に入れぬと思えって感じだろうか。うわぁ、取り込みにかかってるよ! お役人様、青田買いも甚だしいよ!
弟、鼻高々で胸を反らしてるんじゃない! お前の人生にレールが敷かれようとしてるんだぞ、わかってんのか?!
弟の将来を案じる内心をおくびにも出さず、膝の上で握った拳を震わせていると、イズリアルさんがふと私を見た。
「シオネにも、魔法の素質のある可能性が大きいとのことだ。ちょうどいいから、どのくらいの力があって、どの分野に向いているのか調べてみよう」
へっ?
「……ええと、私は結構です。魔法を使いこなしたいという望みは持っていません」
慌てて首と手を横に振りたくる。制御できるようになる必要性は感じているんだよ。
前にお兄さんと話をして以来考え続け、おじいさんとの話を繰り返すうちに、私たちの力というのは森の生き物と会話できること自体が重要なわけではなく、それができるくらい強く自由度の高い――強く柔軟でなければ異種族の声は翻訳されて聞こえないらしい――能力であることがばれるのがまずいらしいとわかってきた。
限定的な魔法イメージで自分の幅を狭めている敬清でもその汎用性を尊ばれているくらいだ、特に枠組みを拵えていない私は更に便利な何かとして扱われるだろうことは想像に難くない。
「私はふつーに、魔法なんて使う機会のない時と所で、穏やかに生きていければいいのです。森から出る気もありません」
ウルリカが心配そうな顔で私を見ている。彼女には一応魔法的な力の適性があることは伝えてある。私が抱いている不安を、彼女も漠然とわかってくれているんだろう。
「ねーちゃん、魔法って、そんな怪しいもんじゃねーよ? ちゃんと段階踏んで覚えてけば危なかねーし、便利じゃで?」
困惑も露に取り成そうとする敬清の、魔法に関して何の危機感も抱いていないらしい発言から推測するに、彼の魔法の練習は暴走の心配もなく順調のようだ。歪みのことは教わってないのだろうか?
身に余る力を行使した者は、反動で生まれた強すぎる歪みに呑まれて、魔物化してしまうことすらあるらしいと、おじいさんが教えてくれた。
それを聞いた時の私の衝撃たるや。魔境で一晩生き延びて適合体になったという私と弟は、それに近い状態なんじゃないだろうかと想像するまでに、そんなに時間は要さなかった。
魔術師という肩書を資格化して厳しく取り締まっている森の外の人間であるなら、イズリアルさんやオルソンのおっちゃんは、歪みの生き物への影響も知っているはずだ。それを教えていないんだろうか。
確かめようにも、何で知ってるのかと突っ込まれた時に本当のことを説明できない。でもこのまま有耶無耶にはしておけない。弟の歪みが許容量を超えてからでは遅いのだ。ここでの躊躇いが、一生の後悔に繋がることになる。たった一人の弟をそんなことで失えない。
私はイズリアルさんを見つめて、思い切って口を開こうとした。
しかし、わずかな機先を制し、イズリアルさんが話し始める。なんか、強硬に抵抗されるとでも思ったのかもしれない。
「自分にどのような素養が眠っているのか確かめることは大切だよ。特に魔法はリスクのある技術だ。見極めも学びも、早い内がいい。この国の人間は皆、10歳前後で魔術師から魔法の素養の有無やその傾向を見定められ、適切な使い方ができるように教えを受ける義務がある。君たち姉弟は、遅いくらいなんだよ」
イズリアルさんは宥めるように優しく言ってくれる。でも目は痛いくらい真剣だ。
目つきとか気迫とか以前に、火花がすごい。焦げ茶色の瞳の中で着火直後の線香花火みたいに小さな流星が乱れ飛んでいる。イズリアルさんの目はもはやオレンジ色に発光しているみたいだ。
何考えてるのかわからない。これは怒っているんだろうか。
美形にひたと見据えられるとこんなに怖いなんて知らなかった。アイドルへのときめきだとか熱狂だとかいうものは、他人事の距離でこそおいしく堪能できるものであって、射程内に入れるべきもんじゃない。
私が通っていた近隣の市町村で唯一の高校は田舎の少年少女ばかりだったので、皆そんなに垢抜けてなかった。地元の村ときたら過疎化が進行中で、若者が少なく日ごろ顔を合わせるのは近所のご年配ばかりだった。
つまり何が言いたいのかというと、私は華やかな美形に耐性がないのである。
ウルリカのおかげで今後どんなきれいな顔を見ても動揺することなんてないだろうと思っていたのだが、やはり親切心が満面に出ている優しげな女の子の顔と、威圧するように目を眇める成人男性の顔では、一口にきれいな顔と言っても種類が違う。
なお、これだけは声を大にして言っておきたい。同じ美形といっても、美形度合いではウルリカの方がはるかに上だ。彼女よりきれいな顔を見ることは、私の一生のうち金輪際ないだろう。
ともかく、そんなわけで、私は蛇に睨まれた蛙さながらに、恐怖に射竦められてしまった。助けを求めようにも首も巡らないので誰ともアイコンタクトできない。
今のところ、私のできること。
森の生き物の声が聞こえる(制御不能)。こっちの意思を言葉で伝えられる(限度未確認)。敵意の発生源の位置を突き止める(反動でダウンする)。周りの空気を冷やす(天気も崩す。反動でどっと疲れる)。魚や肉を捌いた時、臭いが手に移らなくなる(願望が正確に反映された唯一の効果。反動で以下略)。暖炉の薪の持ちがよくなった(能力なのかどうか判然としない)。
うん、なんて大したことないラインナップ。
おじいさんが言う通り、ほんと力の使い方がうまくない。私に強い力があるってことは、おじいさんもお兄さんも確信ありげに言ってたのでそうなんだろうけど。今のままじゃ宝の持ち腐れだ。
それを思うと、やはり自分にどこまでのことができるのか確かめてみたい気持ちもあるのだが、お兄さんからの『消えてなくなる』という脅しが効いている。おじいさんからもお兄さんの警告を肯定するお言葉を貰っているし。
自分の上限と向き合って見極めるというのは、まだ怖い。
せめて、もうちょっと、自分で自分の能力を把握して、制御できるようになってからにしたい。
とりあえず、対象を特定の個体に限定して声を聞き取り伝えることだけであれば、おじいさんと話好きのトゥトゥの協力のおかげで誤差もほとんどなくできるようになっている。
少し範囲を広げてしまうと、たちまち周りの動植物の声が一時に頭の中に雪崩れ込んできて聞き分けどころじゃないので、範囲拡大は今のところ棚上げ中だ。いわゆる探索も同じで、前に手負いのフォルクが襲ってきた時、とにかく圧倒的な敵意だけを意図せず拾ってしまった。出所を突き止めようとすると、知りたいのは敵意の発生源だけだったのに周りの木々のざやめきが際限なく入ってきて、拾う気配と声の区別も付けられない状態。
空気を冷やしたり暖めたりといった芸当には、かなりの思い込みが必要で、無意識化で発動してしまうことが多い。意図してやろうとすると、ちょっと雑念が過った時点で強制終了してしまって、一気に反動が来る。まだまだリスクが大きい。
意思の力で現実を変容させるには、途方もないエネルギーが要る。それを人間一人の心身で賄おうなんてことがどだい無茶なのだ。
だから大昔の人は偉大なる存在から力を借りうけるとして、大仰な儀式を行って生贄を捧げたりとかしてたのかもしれないなー、と思ったりもする。つまり生贄を身代わりのエネルギー源として、魔法を行使するわけだ。
実際、この世界でもその手のことはよくあることだったみたいで、前にイズリアルさんがくれた寓話集には、儀式とセットのように生贄とか捧げものとかいう単語が頻出している。
行われた魔法が作った歪みも、生贄に肩代わりさせる。選ばれた巫女だの資格を持つ者だのときれいな言葉で飾って。
殺してしまうから魔物化してしまう心配もない。供養の仕方を誤ると、日本で言うお化けとかになったりもするようだけど、生かしておくより断然後顧の憂いは少ないのだ。なんとまあ、合理的且つ胸糞悪いやり口だろう。
正直言って私は、もっと色んな事ができそうな気はしているのだ。
強く望めば、それに応じてどんどん自分の中の力を注ぎこんで自分の望むように現実を変容させ、大抵のことは叶えてしまえると、私の中で本能が囁いている。何もないところから物を生み出すことと、あるものを名残すら留めず消し去ってしまうこと以外は。それがおじいさんから教わった、絶対不変の力の有効範囲だ。
確かめる気はないが、外の畑を一気に解凍したり、枯れ草しか残っていない土に栄養素豊富な野菜を生やしたり、家の裏に水脈を引き込んで温めて人工の温泉を掘ることが、恐らく私にはできる。なにもいない所に牛やヤギを登場させるようなことはできないけど、現物がそこにいれば、そのお乳をおいしく作り変えることはできると思う。
そして引き替えに、限度や止め方を身に付けられないばかりに自分の体が生命活動を維持する力すら一滴残さず使い切って精根尽き果てるに違いない。巨木の声を読み取ろうとしたら許容量オーバーして破裂するだろうと察知したのと同じで。
それに併せて生じる歪みはいかほどのものか。
何より、力加減がわからない。
漠然と想像できるようになったばかりのことだけど、お兄さんが言わんとしていたのはこのことではないだろうか。
今の状態のままどこまでできるか試し始めたら、うっかり取り返しのつかないことをやらかしそうだった。
自分がオーバーヒートして死ぬのも怖いし、周りのみんなに危害を加えたりするものであるかもしれないのが怖い。弟を残して死ぬのも、ウルリカ達に怪我をさせたり心の傷になるのも嫌だ。
だから、望まない。
強く望むと、例えそれがしょーもないことであっても、無意識に何かを発動して意図せぬ時と場所で力尽きそうで、恐ろしくてたまらない。
それを率直に表明できず、かといってどう当たり障りのない表現に変えられるかもわからず黙って俯いていると、お兄さんの静かな声が、ぽつりと落ちた。
「『魔法』を恐れているんだな」
無感動に近い抑揚のその声が不思議と、痛ましげに聞こえた。
がちがちに強張っていた私の体が、緊縛から解き放たれてどっと弛緩する。
「……はい……」
意外なことを聞いたと言わんばかりの溜息が複数、場に広がる。
おずおずと顔を上げる。イズリアルさんの目は、少し落ち着いた焦げ茶色を取り戻そうとしていた。
「なら君は、やはり魔法の素質があるんだ。潜在的に恐れを抱くことができているということは、それが孕む危険性をより正しく察知しているということだから。だが、過剰に恐れてもいけないんだよ。恐れは目を曇らせ、修練を妨げる。誤作動の要因となったりもする」
ぐうの音も出ない。
私の様子を慮って穏やかに話してくれているが、イズリアルさんの声音は硬く深刻だ。
「イズリアル、彼女に時間をやれ。機会はまたある」
お兄さんが助け船を出してくれた。
「……そうだね。だが、近いうちに見極めはしなければ。すまないね、シオネ。もっと早いうちに済ませておけば、抵抗も負担も少なくて済んだだろうに」
そうかもしれない。
何が何だか分からないうちに事態が横で起こっていて、周りの人が何もかも取り決めて、弟ともども、自己責任を問われない環境下で、諾々とそれに従って生きることになっていただろう。きっとすごく楽な生き方なんだろうけど。
でも、その可能性は、すごく怖いことになっていた気がするのだ。自分を見失ってしまいそうな。
イズリアルさんがこの話はこれで終わりとばかりに苦笑を深めて手を広げてみせる。
「……ケイセイも、魔法の腕試しをする気なんてなくなってしまったかな。本当に悪かった。次の機会にしよう。それまでに考えを整理しておいてくれ。質問があればなんでも訊いてくれていい」
「調べるとは、どんなことをしますか? 痛怖かったりですか?」
「魔術師によってやり方はまちまちだが、対象を苦しめるようなことはしないよ」
イズリアルさんは少し表情を緩めて、自分の場合は自分の目の前で念を凝らしてもらって、魔法の動きだとか、その性質だとか、効果を見定めるだけだよと言った。
すると脇で白湯を啜っていた敬清が、がばっと顔を上げて素っ頓狂な声を上げた。
「ええっ、そうなのですか?! ぼくはオルソンさんにこの森のどこかに隠した靴下を見つけなさいと言われました」
靴下て。
「どんなやりかたでもいいから、見つけてくださいと言われて、一日かかりました。オルソンさんはなんにも言わずにぼくの後ろをついてきて、ぼくのすることを見ていました」
これにはイズリアルさんも苦笑する。
「あの人は行動力があり余っている人だから……しょうもないことが好きだったりするし、からかわれたかもしれないね。代わりに謝るよ」
「それで、靴下、見つかったん?」
思わず素が出て日本語で尋ねると、敬清は渋面で首を縦に振った。
「うちから10キロくらい離れた狩り場の跡で、踏み荒らした雪の下にこっそり埋めとった。何がよかったんか知らんけど、とりあえず合格って言われた……本人の気配がちゃんと残るようにとかなんとかいう理由で、洗ってねえ靴下だったし、意味分からん」
うわあ。
「そりゃまた……お疲れさん」
微妙な心持で無難な相槌を打つと、敬清は塗り替えたみたいに表情を一変させて、掠れた声で囁くようにおずおずと訴える。日本語で。
「ねーちゃん、何が怖いんじゃ? 何見た? 何聞いた?」
私は、既に知っていることを悟られないように、感覚的な言い方を探して束の間口を噤んだ。
「だって……周りが歪むじゃろ? 時々空気がやな感じになるの、わかるんよ」
「そりゃ聞いた。いっちゃん最初に聞いた。でも、でかい儀式でもない限りは、自分で反動を受け止めりゃ相殺できるってオルソンのおっちゃん言ってたぞ。普通にMP消費して、足りんけりゃHPとかLP削れるし、休みゃ回復するし。ライフ切れたらマジで死ぬってのと、マスクステータスが初期化不可ってのと、魔法全部コストがでかいってのがちとネックじゃけんど」
「すまん弟。言ってる意味がわからん。姉ちゃんゲームよう知らんから。あと無理して長いこと喋んなや。大声も出すな。お兄ちゃんたちが言うとったろ」
歪みについてはちゃんと聞いてたのか。それだけは安心した。
しかしどうも、魔法を行使する対価への認識が軽い。
ん? でもちょっと待て。自分で反動を受け止めるってことは、うまく相殺し切れなかった身の程知らずがキャパオーバーすることで歪みに負けて魔物化するってことじゃないのか……?
だとしたら既に上限値近いんじゃないか私たち? うっかりなんかの力を使っただけで溢れちゃうんじゃない?!
「し、しかしな弟よ、魔法なんぞという不確かな力に傾倒して闇雲に使うべきではないと姉は思うのですよ!」
「なんならそら年寄りか。使わんけりゃ訓練しようもなかろうが……心配すんなや。わし全然平気じゃし。ねーちゃんはねーちゃんで、焦らんと自分のペースで慣れてきゃええ」
弟の目に満ちた余裕と自信はいったい何が根拠なんだ。ゲーム知識は理解の助けにはなってるみたいだが、こんなんで大丈夫なのか?
それとも歪みへの耐性ができてて、案外持ち堪えられるとか?
なあ、ほんと大丈夫なの敬清?!




