誘い・4
この日は朝から天気が良かった。晴れ間の陽射しがいつもより明るく、森中を白く塗り潰した雪の照り返しがきらきらと眩しい。皮膚を刺すような寒さがお手柔らかなかわりに、陽射しが瞼の上から目を刺す。
勢いこんで家を出た私は、束の間眩む目を馴染ませるために立ち止まる。ぬう、光って結構攻撃力あるな。
午前の仕事を終え、もう日も高い。
これから来る春に備えて雪目対策を講じておかなければ、おちおち散歩もできなさそうだ。
「やあ、シオネ。一人でどこまで行くのだ?」
家の真向かいの木に繋がれたオルソンさんのマズリが、馬そっくりの耳をパタパタさせながら挨拶をしてくれる。
あれから7日、ゆきわたりの月が過ぎはるかぜの月に入った。
オルソンさんはまだうちにいる。帰る気あるのかな、あのおっちゃん。
「エルマー、こんにちは。カテキョに会いに行きます」
「かてきょとな?」
マズリのエルマーは、鎧のように黒光りする毛皮とそれに複雑な陰影を刻むがっしりとした筋肉に覆われた首を傾げ、拍子を取るようにばかでっかい蹄の足を踏み鳴らした。雪の足場では、ぽくぽくというお決まりの音はしない。
首をもたげ歯を剥くとその歯はやはり……立派な牙だ。私の頭くらい簡単に食い千切れそうな。さすがに真冬の森で生き延びられる適応力を持つだけある。エルマーが繋がれている場所の周囲の木々は、皮を執拗に剥ぎ取られすっかりスリムになっている。この調子だとおっちゃんが帰る頃には、この運の悪い数本の木たちは食べ尽くされているかもしれない。
お兄さんのマズリたちは無愛想だったけど、このエルマーは人当たりがよく、向こうから話しかけてきてくれる。
あれかな、主人の性格が反映されるのかな。
人間に色んな性格の人がいるように、マズリにだって個性がある。私は今までマズリとは意思の疎通が難しいと漠然と思いこんでいたが、エルマーのおかげでそれが思い込みだったとわかった。言葉の聞き取りやすさや疎通のしやすさは、種の壁ではなくて、要は個々の性格と相性なんじゃなかろうか。
エルマーの場合は特に、年季が入って性格が丸くなっているというのもあるかもしれない。エルマーは主人のおっちゃんと足並みを揃えて仕事をしてきた、それなりの歳のお馬さんだ。競走馬じゃないからトップスピードの最盛期を過ぎたからといって引退の運びとはならないし、私の目にはまだムッキムキの働き盛りに見えるんだが、マズリ的には軍用馬として働いてもらうにはそろそろ難しい肉体年齢らしい。
それに反比例して中身は経験豊富みたいで、エルマーと話していると、小学校のおじいちゃん先生のような印象を受ける時がある。
「ええと、一対一でわからないことを教えてくれる先生のことです」
「ふむ、家庭教師のことだね。そういう人間は私の周りにもいたよ。君の場合、それはもしや、ケーンの翁かね」
「そうです。知っているのですか」
「彼は君の群れの主が来るまではこの場所の主だった。別の場所に移ったが、最近またこの近くに現れたものだから不思議に思っていた。君のためだったのだね」
「はい。私の群れのおとうさんが特別におじいさんに頼んで、来てもらいました」
おじさんは毎日忙しいので私に授業を施せるほどの時間を取れないし、ウルリカに知られたくないのはおじさんも同じのようで、彼女の目と耳がないTPOをなかなか見出せない現状、誰かに委託するのが手っ取り早いと結論したらしい。
そんなわけで、私が外に一人でいる時にふらりと現れたおじいさんは、私の知りたいことを教えに来たと言ったのだ。
以来、話し相手になってくれている。力の使い方についてアドバイスをくれたり、気が乗った時は私が聞かないことまでも教えてくれる。
おかげで色々なことを知ることができたし、私たち姉弟に魔法らしき能力が備わったことをウルリカに打ち明ける気になった。
ウルリカには、オルソンのおっちゃんとイズリアルさんたちに私が魔法を使えることを口外しないでねと頼んである。お兄さんには今更だが、少なくとも他の人には黙っていてくれてるので、イズリアルさんに知られなければ予想外の展開になることはないだろうと踏んでの判断である。
ウルリカは隠し事や嘘が上手ではなさそうだから賭けの部分もあったが、ある程度でも本当のことを話して理解を求めたいという気持ちがあったし、行き詰った折には知恵なり力を貸してもらえる下地を作っておきたいという打算もある。なにより、たった一人の同性の家族を信頼しきれないままこの家で暮らしていくのがつらかった。彼女がとてもいい人だから、尚更に。
ウルリカは外部と完全に遮断されたこの環境で、どうやってこんなに健やかに育ったんだろう。
天然気味だったり絶対に他人を悪く言わない性格は、人との交流が乏しかったせいで世間ずれしてないと好意的に解釈できる。
けど、男家族ばかりの暮らしでは、不測の事態というものが多々発生するもんではないだろうか。
例えば初潮が来た時なんて、前知識もなしにどうやってパニックを免れて対処できたんだろうと思ってつい訊いてしまったら、平然と『父様に事前に教えていただいたわ』とのたまった時の私の衝撃たるや。
おじさんは、何の照れも気まずさも感じられない調子で、生き物の、女性に備わった機能とその活動に付随する避けて通れない現象について非常に論理的に説明してくれたという。だからウルリカも、特別な抵抗なく必要な知識としてその教えを吸収したんだそうだ。この家族は私なんかとは器が違った。
私はこの時ほど保健体育の意義深さを噛み締めたことはない。小学校ありがとう!
エルマーは思慮深い黒い目で私を見つめながら肯定的に言った。
「彼と一緒にいれば危険はないね。私も安心できる。行っておいで」
エルマーに見送られて私は家を回り込んだ。
今、家では、朝の訓練を終えた敬清とおっちゃんが一服中だ。
敬清はたくさん汗をかいたので冷えないように体を拭いてたところ、ついでに新しい服を作るからまた採寸させろと巻き尺を手に迫るウルリカと、面白がって事態を煽るおっちゃんの二人を相手に劣勢に立たされているところだ。まあ、3分も持ち堪えられれば健闘したと言える方だろう。
私としても楽しく眺めていたい状況だったのだが、折角の天気だし外に誰もいないタイミングだしで、皆が上の空であることをいいことに「ちょっと出てきますねー」と言い置いて出てきた。
こんなコソ泥みたいなやり方じゃ、ウルリカが探しに来ちゃうかもしれないな。あんまり時間はなさそうだ。
毎朝男衆が雪をかいてくれる歩きやすい小道を足早に通過する。
以前フォルクが出てきた森の縁の茂みを右手にそこも通り過ぎる。
家の周りは雪かきがしてあるけど、森の向こうは私の腰ほどまで雪が積もり、木の幹が唐突に突き出している。その中に一筋だけ抉れている、おじさんが今朝仕事に行きざまに雪をかいた小道を、僅かに拓けた視界の端に我が家がかろうじて引っかかる距離まで進む。
後足が長いウッサの足跡がおじさんのかいた道を横切っている。まっすぐじゃなくて蛇行しているから、猛禽にでも襲われてしゃにむに逃げ惑った跡と思われる。
足跡を辿れば彼だか彼女だかが逃げ伸びたか捕まったかは確かめられるだろうが、私の用事はそちらにはなかったので、ウッサの足跡を跨いで通り過ぎた。
雪が降るようになってから注意して見てみたけど、この家の周りで見られる足跡は、小動物や鳥のものしかない。大型の生き物は晩秋に迷い込んできたフォルク一頭を除けば、ケーン……キツネで最大級だ。
ウルリカによればある程度森に深入りすれば熊やイノシシに相当する動物もいるそうなので、まるで結界でもあるかのようにこの家の周りだけに大型動物が近寄らないのは、やっぱりおじさんとの間に何か取り決めがあるのか、よほど恐れられているかのどちらかと見て間違いない。ほんと、ただ者じゃないな、うちのおじさんは。
おじさんが掻き分けていてくれたおかげで進みやすくはなっているが、足元はそうでもない。
おじさんの歩幅は私のより随分広いので、足跡に沿って歩くのも無理だった。柔らかい雪を踏み抜いて膝上まで埋まる足をズボズボと垂直に引き抜いては踏み下ろすという地味に筋力を問われる移動を続けながら進んだ距離は100メートルにも満たない。それでも道なき道を行くのは時間と労を食う。
実家の裏山歩きで慣れていると思っていたけど、それも人の手が入った里山だった。人が過ごしやすい環境に整えられていたのだなあとこの森での暮らしで気付いた。
それをしてくれていたのはじいちゃんだった。晩年は持ち山や畑の全部に手が回らなくて、せめてとばかり裏山にだけはこまめに入っていたのは、そこによくおやつを漁りに入る私たちのためだったのかもしれない。
学校から帰ると、曲がりかけた腰に鎌とかゴミを拾い集めた袋とかを提げて歩いてきて、おうお帰り、じいちゃんも今帰ったんじゃと笑った顔。入れ歯を入れるのを省略することも多々あった歯抜けの口元から出てくる言葉は不明瞭になることも多かった。自前の歯がほんの数本残っているだけの口を大きく開けて笑うと、間の抜けた可愛さがあったっけ。
私はがむしゃらに雪をかいて歩き続けた。さっきまでうららかな午後の風情だったのに、風が強まり、雪がちらつき始めた。
笛を吹き鳴らしているような風の音が、泣いているようだと思った。
両脇に常緑樹が深々と黒ずんだ葉も豊かな枝を頭上にさしかけていて、この地点だけは雪で埋め尽くされていないという箇所がある。
そこまで来ると、私は右に曲がって茂みに踏み込んだ。埋め尽くされちゃいないがまるきりないわけでもない雪と枯草に足を取られながらざかざか音を立てて奥に踏み込んでいくと、ウルリカがここまでなら一人で家を離れてもいいですよと許可してくれたぎりぎりの範囲に……今日も、いたっ!
こちらでミルルと呼ばれているモミに似た木の下に積もった雪を掘って、こじんまりとした毛玉が埋もれている。
その姿を認めた途端、動悸がしはじめた。食い入るように毛玉を見つめる。
ぴくりともしない。
「……おじいさん」
恐る恐る声をかける。
聞こえているだろうか。応えてくれるだろうか。
応えてくれなかったら、動かなかったら、どうしよう。
でもその心配は杞憂だった。毛玉がもぞりと蠢き、確かに生きている証としての動きを刻み始めたからだ。
もんのすごく歳を取って骨の浮いた体をはげちょろけの毛皮で包んだキツネが、尻尾の陰から顔を上げた。白髪の目立つ顔面の中で一際目立つ目やにの黒ずみに縁取られた瞳は白内障が進行しているらしく、曇り硝子のように白んでいる。でも、その視線は真っ直ぐ私に向いていた。
……よかったあ、今日も生きてる。
この瞬間は、ほんとにいつも心臓に悪い。
あの豊かとはいえない毛玉が、今日もこの場所にいてくれるだろうかといつもドキドキしている。ピクリとも動かずに丸まっている姿を認めても、近づいて動きを確認するまで死んでるんじゃないだろうかと気が気でない。朝の冷え込みが厳しい日には、朝の支度をしながら今頃おじいさんがミルルの木の下で冷たくなってるんじゃないだろうかと胃に石でも詰め込んだみたいな気分になる。何よりちゃんと食べられているのかどうかが気になって仕方がない。
今にも死んでしまいそうな風情なのに、おじいさんは私の手を断固として拒む。
おじいさんと落ち合う所がここに決まってから、私は敷物や食べ物を持ってきたりした。けれどおじいさんは毛なし猿の手が加わったものには触れぬと言って一切手を着けない。
当然私もおじいさんに触ったことはない。おじいさんは明確な線引きをしている。こちらからそれを侵してはいけないことくらいは分かっているつもりだ。
自力で狩りができているとも思えないのに、今にも凍えそうなのに、空気に溶け込むようにして、ひっそりと生きている。
晩年のじいちゃんもこんな風だった。手を伸ばしてももう届かない。
おじいさんは大きく口を開けて獣らしい欠伸をした。そして長い鼻づらに、加齢とは関係のない皺をいくつも寄せて歯を剥く。
「やめんか」
「えっ?」
「おまえはいつまで経っても力の使い方がうまくならんな。空気を冷やすのを今すぐやめよ」
言われてふと我に帰ると、周囲に溜まった粉雪が不規則に風に舞い、視界が急激に狭まっている。障害物の多い木々の間でこんなに縦横無尽に盛大に吹き荒ぶのは自然なことではない。気温もさっきより下がっている。帽子とマフラーとコートと長靴でがっちがちに固めてもまだ沁みる寒さを感じていた体が、とうに末端の感覚を失っていたことに気付いた。
慌てて自分の中を探り始める。冷たさが吹き出してくる方向を遡ればほどなく、さっきまでぬくもりを失っていた心の一角が、隙間風――というには猛烈すぎる勢いだったけど――みたく寒々しい風を吹き出していることを発見した。
そこに蓋をするように寄り添う。止まれ、止めと一心不乱に念じた。
「引っ張り寄せて自分の中に戻すでないぞ。逆流を起こすと余計な負荷が生じる」
おじいさんの声に頷きながら、既に生まれてしまった冷気は体外へ逃がし、生産だけ止めることに専念する。私が生じさせた風が出尽くしてしまうと、どっと疲労が体に沁み渡った。
おじいさんは喉の奥で唸り声を転がしながら私に説教する。
「ばかもんが。無意識の所業であろうが、言い訳にはならんぞ。力は軽々しゅう使ってはならんものだ。頭で繰り返すだけではなく、体に刻みこむのだ」
「すみませんでした」
私は小さくなって謝った。
おじいさんは出会ってこのかた、何度も繰り返し説明してくれていた。
魔法は――これは毛なし猿風の都合のよい分類をしたうえでの言い方であるとして、おじいさんは魔法という言葉には否定的だ――万能ではない。水を得るために川の流れを堰き止め、無理やり流れを変えれば、本来水が流れるはずだった土地は枯れる。土を盛れば、土を掘って来た別の土地では大穴が開いて生き物が迷惑する。火を招けばどこかからぬくもりが失われる。人間が魔法と呼ぶ力の乱用は世界のバランスを歪める。歪みは水が下流へ流れるようにこの先の魔境へと吹き溜まる、と。
長い時間と言葉を費やして、行きつ戻りつしながら話してくれた内容は、概ねこういうことだった。
私には歪みとか魔境とかいったことの意味が、全部は分からない。事の重要性もこの世界の住人ほどには浸透してないだろう。
でもおじいさんや、おじいさんを紹介してくれたおじさんや、ウルリカやお兄さんやイズリアルさんにオルソンのおっちゃん、この世界の人たちにとっては別の深刻な意味を伴うことに違いないと思って、それを我がこととして受け止めようというつもりでいる。
それなのに、おじいさんから教えを受けるようになってから一月近くが経とうとしているのに、まだそれを有意義に活かせていないのが不甲斐ない。
「すみませんでした。おじいさんが寒くておなかが空いていそうに思ったので、私の心も寒くなりました」
しまった。自分で言っといて何だが、言い訳よくない。しかも微妙に責任転嫁しようとしている。言ってから気付いた。
案の定、おじいさんはくわっと口の端を捲れ上がらせて、黄ばんで所々虫歯と歯抜けの見える口腔をかっ開いた。
「ばかもんがっ!」
冬の森に、ケーンと一際大きな鳴き声が響く。
見た目はともかく、おじいさんは今日も元気だ。
つい頬が緩んでも、おじいさんには毛なし猿の表情などわからない。私は嬉しくてニヤニヤしたまま、心置きなく叱られた。
それから少しばかりお説教を頂戴して、私は家への道のりを引き返した。あんまり長くは居座れないとわかってたしね。お天気は元に戻したけど、ウルリカは心配性だから長くは姿をくらませられない。
「ん……?」
何の前触れもなく、空気の震えが目に見えない波となって伝播し、私の頭の中をざわりと撫でていった。
そんな気がするとしか表現できないような異音が、圧力となって私を包み込む。
何かを伝えようとしているそれの正体や内容をはっきりさせるために集中すると、わかることにはわかるのだが、闇雲に出所不明の声が飛び込んで来て頭の中が非常に混雑する。お兄さんからも乱用はよせと半ば脅されているので、今ははっきりさせたい気持ちをぐっと堪え、意識して聞き流しながら家に急いだ。ちゃんとした音声で話しかけられると気が紛れて楽になる。敬清やウルリカと会話がしたい。
うちの角を回り込むと、いきなり人口密度が跳ね上がっていた。
おっと、そうか。前回お兄さんが帰って行ってから、そろそろ一月経つ。定期便が来たんだ。おじさんが今朝、出かける前にそのことについて触れていたっけ。
私は気付いた。さっきの四方八方からの物言いたげな圧力は、森がお客さんの来訪を知らせてくれようとした校内放送みたいなものだったようだ。
おじさんがお客さんの訪れを的確に知ることができているのも、これを正確に聞き取ることができているからだったのだ。
私に背中を向けて立つウルリカが正面のお兄さんに縋るように、切々と何やら訴えている。
その隣でイズリアルさんがいつもの三頭のマズリの手綱を預かって真面目な顔をしていた。
数歩離れたところでおろおろした敬清がウルリカの背を見つめていて、更に後ろにおっちゃんが佇みなにやら様子を窺うように辺りを見回している。ぐるりと巡った顔がこちらを向き、おやというように表情をおどけさせた。
それとほぼ同時に、平静な顔でウルリカを宥めていたお兄さんが、こちらに意味ありげな一瞥をくれた。
「案ずるな、彼女ならそこにいる。探しに行かなくてもいい」
「えっ? ……ああ、シオネ! よかった」
ウルリカが声を上げると、皆が一斉に私を見た。思わず怯んで背が海老反りになる。
幸いというかなんというか、お客さんまで巻き込んでの捜索隊が組まれる前に滑り込むことができたようだ。




