魔境の森
姉弟揃って穴に転がり落ちて、這い出ると異世界だった。
互いを除けば最後の肉親だったじいちゃんのお葬式で、初めて存在を知った遠縁の親族や村の大人たちが額を突っつき合わせて私たちの引き取り先を検討しているのを意見を求められることもなく黙って聞くことに私より先に耐えられなくなった弟が、叩きつけるようにリュックにアウトドア用品を詰め込んで裏山に飛び込んでいってしまった。
そこは勝手知ったる庭代わりの場所。中腹に農具入れの小屋があるし、どうせそこに籠って過ごすつもりなんだろうとは思った。
それなら一晩放っておいてもどうってことないんだけど、後を追った私もやっぱり捨て鉢になっていたんだと思う。
普段ならライトと救急キットと雨具と防寒着くらいは持って山に入るのに、自分の道具を何一つ用意しなかったどころか、光源の一つも持たずに日が暮れようとしている山に突撃してしまったのは、ほんと自殺行為としか言いようがない。
弟とはすぐに合流できた。
「ちょっと頭冷やそか」と、二人でしばらく小さい頃からの遊び場だった裏山をそぞろ歩いた。
そしたら、突然足元の抵抗が失せて束の間の浮遊感に包まれ、冒頭に至る。
最初は、異世界に来ていたなんて気が付かなかった。
思いがけず穴に落ちて呆然とし、弟と二人で爆笑し、なんだか涙も出てきて、ひとしきり二人でわんわん泣いた後には頭も冷えていた。
じゃあ家に帰ろうかと夜の森を歩き始めたものの、いくら歩けど下れど麓の我が家が見えてこない。
いくら日が傾いていて、うちが田舎の山際のLED蛍光灯すらないおんぼろ木造建築だからって、まだ大勢の弔問客がいるはずの家に明かりの一つも点いてないなんてことがあるだろうか。
というかさ、周りの生態系が違いすぎてた時点で察するべきではあったんだ。
なんか、空気も違ったし。常に変な鳴き声みたいなのが聞こえるし。
「こんなん見たことあったっけ?」
弟が眉根を寄せて斜め前方に生えている木をまじまじと眺めている。
ただでさえ日照に乏しい森の中。日も陰って暗くなってきたから、近づいて目を凝らさなければ細部を見て取れないのだ。
「見たことも聞いたこともねえよ、こがん血管浮いた木の幹」
「切ったら真っ赤な液体が噴き出しそうじゃ」
ぶっちゃけ脈打ってるし。幹も葉っぱも、葉脈と言うには主張の強すぎる管みたいなのがびっしりと走って蠢いてて、動物的でさえある。
この木に限らず、幹は見慣れた松や杉じゃなくて、写真でしか見たことない外国の巨木に似てるのが多い気がする。それも珍しい系の。あえて例えるなら、大木並みの大きさの気根とか、右手にずっと続く壁を形成してるように見えるバニアンツリーらしきものとか。
地べたは下生えはなく、落ち葉と縦横無尽に張り巡らされた木の根で覆われでこぼこで、転ばないように慎重に足を運ばなくてはならなかった。
走ることなんてまずできない。バナナの皮よろしく、落ち葉で滑って転ぶだろう。
上を見ればこんな状況でなければ見入っていたいくらい樹冠が立派な木が多い。
それで日照がほとんど遮られているというのに、幹部の多いそれらに混じって長寿そうな低木も入り乱れている。
その幹が唐突に縦にパカッと開いて、粘液質な何かに包まれた何かを吐き出した。
……うん、そう、吐き出した。そうとしか言いようがない。
そして、その低木の幹は、何事もなかったかのように閉じる。
「……弟よ、ありゃ何ね」
「紫色の木。見るからにぬるぬるしとる」
「今出てきたん、虫の殻?」
「殻……かなあ。犬くらいある昆虫が存在するとすりゃ」
それが肉食性だとして、群れで襲われたらひとたまりもないとはどちらも言えなかった。言霊ってあるよね。口に出して現実化したら嫌過ぎる。
「枝葉のとこが、なんかがさごそしとんじゃけど。あっこで捕まえて中身を食べるんじゃろ……なんか言うた?」
あぶない、と声がしたかと思うと、キョキョキョキョキョっと突然耳障りな声が耳朶を打って、ぎょっとして身を竦める。眼前を異臭を放つ何かが落ちて地面にぶつかった。
近くで、それなりの大きさの何か生き物が、ぱっと私たちから離れて木立の向こうに駆け去っていくのが見えた。犬くらいの大きさのマイマイカブリに見えたのは気のせいだと思いたい。
11歳の弟が硬直しかけながらも私の前に一歩進み出て庇う素振りをしてくれるさまに元気づけられ、なんとかパニックは回避できた。
「ありがと」
「ええよ。けんど、これ、木陰にもうっかり近づかれんなあ」
何の変哲もなさそうな幹と梢だからと真横を通り過ぎようとしていたソーセージツリーっぽい木からぶら下がっていた、多分果実か種子の莢が、不自然な収縮を繰り返している。その動きが、喋っているように見えなくもない。少なくとも、奇声の発生源は間違いなくこれだもん。
そしてそれが粘液の塊を吐き出して私を狙ったのだ。狙ったに違いないよ。
足元の落ち葉がじゅわっと音と煙を立てている。
今逃げてった虫、これ嫌がって逃げたんじゃね?
ふと思って、その可能性はある気がしたので、念のため、変な煙を上げている湿った葉っぱを持ち歩くことにする。
そそくさとそこを離れた私たちは、半ば途方に暮れながらも下り方面に歩を進めて行った。
さすがにもう、うちの裏山じゃないと私も弟も悟ってた。でも口に出せない。おかしさが決定的になるから。
あてどなく下り道を歩きつつ、どんどん言葉少なになる私たち。
水場も見つからないので、喉が渇いてきている。まずい。このまま遭難したら本気で命に関わる。
弟のライト一つを頼りに、徐々に薄暗くなってくる見慣れているはずの見慣れない光景。
この状況はいくらなんでもおかしいと思いながら互いに口には出せずにいた微妙なタイミングを見計らったように、なにやら獣の遠吠えらしきものが聞こえた。それも会話でもしてるかのように複数。
その間も、あぶないよ、気をつけて、と囁きかけてくる声。ほんと誰さ?
さっきは弟が警告してくれてるんだと思ったが、お互い黙って久しいし、それにこれ、弟の声じゃない。
なんだろう、現実逃避のあまり幻聴? 他に何をするでもなく、どこへ逃げろと教えてくれるでもない。明確な指針が得られないのは、ここでどうすれば助かるかとんと見当のつかない自分の本能の限界なのか。
弟に確かめてあり得ない答えが返ってくるのが怖かったので、結局謎の声については言及しなかった。
「……この辺、野犬の群れとかおったっけ?」
「聞いたことないわー。むしろニホンオオカミとかだったらロマンじゃのにのう」
「虫が犬ほどでかいんなら、犬でも怪獣くらいあっかもなあ」
いやいやいや、まさかそんな。
……獣の遠吠えは響き合い続けている。こころなしか、発生源が近づいているような。
耐えかねたのか、唐突に弟が沈黙を破った。
「……ねーちゃんごめん! さんざっぱら謝ったけどもっかいごめん! やっぱこれわしのせい? わしのせいじゃよな!」
「混乱すな! 気弱なこと言うなや、たわけ!」
こっちだって無理やり自分に言い聞かせて平静を保っていたのに!
「食物連鎖の底辺に転落して土に還る死に様ならむしろ本望! じいちゃんの裏山の獣に食われて死なば、かくなるうえは裏山の神として君臨し、末長くじいちゃんの裏山を守ってくれよう! 私ら姉弟が遭難死しようが世界は何にも変わりゃせん!」
「それどっちかっつーと地縛霊! ねーちゃんもなんかおかしいぞノリが! 何に酔った?!」
失敬な。私は酔ってなどいない。お通夜やお葬式の手配に骨を折ってくださった近所のじじばば様方も、お通夜の時はともかく、お葬式にはお酒なんぞ供しなかった。
つまり、この時の私は……やっぱり自棄っぱちだった。後から回想してみて初めて分かったことだけどね。
突然裏山で遭難してさぞかし心配をかけたことと思う。
大人には色んな思惑があって、長らく疎遠になっていたじいちゃんのお葬式に来たんだろうけど、そうでない人たちだっていたはずなのに。
その時の私たちは自分の心の平和のことしか考えられなかった。
身内はいない人間でも、行方不明になれば公の処理だか手続きだかをする人がいるはずで、今日集まった親族かもしれない誰かがその貧乏籤を引くことになるんだろう。
少し冷静さを取り戻すと、見えなかったものが見えるようになる。
また近づいている気がする咆哮が生存本能を後押ししたのか、またしても、あっちだよ、と聞こえた気がした。
見れば、何の変哲もないながら、それまでやり過ごしてきたあれこれと比較してみればとっても安全そうな場所がある。
「……ねえ敬清くん、あそこにとても丈夫そうな木がありますよ」
「……そーですね潮音お姉さん。一晩過ごすにはもってこいのいい枝ぶりの木ですね」
平板な口調で胡散臭い標準語を交わしながら、私たちは自分の認識能力が緊張のあまり逸脱していないか、話相手が正気を失ってはしないかを量っていた。
ちなみに激しく動揺した時やショックを受けた時に口語が標準語になるのは、私たち姉弟の共通の癖です。
「変な物質分泌してないし」
「動かなくていいとこが動いてないし」
「妙な色も発光もしてないし」
「奇声もあげてないし」
私の知ってる『樹』に近い安定感のある大木だ。見た目は樫に似ている。
陽が沈みきる前に見つけられて幸運だった。
私たちの会話の最後らへんはお互い引き攣った棒読みで、後は脇目もふらず競い合って巨木によじ登り、できるだけ高くて潜り込める梢の茂った枝の股に各々落ち着く。
恐恐としながらも、張り詰めていた気と体を休めるべく目を閉じ、寝た。
時々聞こえていた声は、結局何だったんだろう。
すっごい物音と振動と臭いに一挙に見舞われた気がして目が覚めた。
朝になったら、歩き慣れた家の裏山のはずだった場所が、深ーい森の姿を余すところなく披露してくれていた。苔生した巨石に巨木、陽が昇ってなお仄暗い幾重もの梢の傘。
現在の日本国内にこんなどこの世界遺産かと言いたくなるような樹海がどんだけあるか知らないが、少なくとも私たちの家の近くにはない。
今更だけど納得だけはできた。
ここはじいちゃんの裏山じゃあない。その事実を認めることができた。
じゃあどこさ? と考え込む暇はない。
自分たちが登っていた木の根元に、ばかでっかい毛皮の塊がすさまじい鉄の臭いを放ちながら横たわっている。
音と振動で目が覚めなくても、このむせ返るような血臭では寝続けることなんてできなかったろう。
そいでもってその毛皮の傍には、弟の友達が持ってる携帯機の中の怪物狩人みたいな格好をしたおじさんが一人、立ったまま巨大な肉切り包丁を死んだ動物の毛皮で拭っていた。
しゃがみ込んで砥石を使っていれば山姥だと思ったかもしれない。
それっくらい剣呑な光景だった。
頭巾みたいなのをすっぽり被ってるから顔ははっきり分かんないけど、あんな図体であんな武装をしてるなら、それなりの歳の男の人に決まってる。
拭き取られているものが真っ赤な色をした何かだということは、早朝の森の乏しい光の下でも見えた。
ああ、怪物も血は赤いんだな。そう思っていたら、私の視線に気付いたおじさんが、手を止めて顔を上げた。
駄目だ、こっち見んな。何も気づかずそのまま立ち去るんだ、おじさん。
祈る私の視界の端で、敬清が身じろぎもせず私を非難の眼差しで見つめている。
そうか、弟よ、お前はちゃんと気配を殺しきっていたのね。昔っから、かくれんぼ上手だったもんね。今度はお姉ちゃんがしくじったんだね。
ごめんね、猛獣なんかよりもっとタチの悪い舌切りおじさんに斬り殺されるかもしれない。
そして私と山姥おじさんの目がばっちり合った。
「っぎゃーーーーー!!!!!」
喉元からせり上がる恐怖から、私は衝動的に絶叫した。
敬清が枝からずり落ちた。
おじさんは平静に私を見ていたが、敬清が梢を揺らして落っこちると、目を見張ってそちらを向いた。
かと思うと、でっかい包丁をくるんと回して逆手に持ちかえつつ、敬清の落下地点にひとっ飛びし、ぶっとい両腕を差し出して危なげなくキャッチするところまでの複数の動作を、一挙動でやってのけた。
巨体にも拘わらず、実に俊敏かつ軽やかな動きだった。
私は心臓が石になったような気分で、弟の行方を見た。
私が唐突に喚き声を上げたから、うまく隠れおおせていたあの子が驚いて落ちたのだ。
そして、山姥……ではなく巨大肉切り包丁を片手でぶら下げるおじさんの手の内に落ちた。
このままだと、何をされるか。
駆け付けたところで自分に何ができるかわからない。でも、行かなくてはと思った。
しがみついていた枝から、手を放す。知らず、指が強張るほどに力を籠めて縋っていたらしい。指先を解くのに意識して力を入れなければいけなかった。
弟の方へ身を乗り出すと、おじさんが弟をそっと地面に下ろしている。
その薄い色の目はこちらを見て、低い声が短く漏れた。何を言っているのかわからない。
その分敬清が喚いた。
「ねーちゃん危ねえ! 落ちる!」
行かないとという一心にとらわれ、他が見えていなかった私は、弟の声に正気に返った。
途端、枝に跨っていただけの体勢からあっけなく落ちた。
そしてすぐに、待ち構えていたように差し伸べられたたくましい二本の腕に受け止められた。
腕の持ち主は、薄い色の瞳で私を見下ろしている。
想像していた通りの、年季の入った無骨な壮年男の顔が頭巾から見えていた。感情の窺えない静かな目からは、剣呑さも窺えなかった。無事を確かめるように観察してるみたいな。
すぐに納得したのか、私が何かアクションを起こす前に、するっと下ろしてくれた。丁寧な手つきだった。
「ねーちゃん」
敬清がおじさんの巨体を回り込んで駆け寄ってくる。思わず互いに手を取り合っていた。
おじさんが、また何事か言った。低い音の連なりはおどろおどろしくはないが威圧感満載だ。
いつどこから取り出したものか、彼は、革でできた袋を手に提げていた。
とぷん、と音がする。
水だ!
私たちが凝視する中、おじさんは長い腕をおもむろに差し出した。
後から思い返すと、なるべく私たちを脅かさないよう急な動きや大きな動作は控えていてくれたんだろう。
敬清がおっかなびっくり手を伸ばしかけ、私を見た。
私は頷いた。だって、昨日午後から飲まず食わずだったんだもん。
目の前に現物を差し出されて、水への欲求に抗えない。
笑うなら笑え。実際に袋の中身がただの水なのかそれ以外の液体なのかも分からない状況で、よくも不用心に見知らぬおじさんの誘いに乗ったもんだと。
敬清が袋の口元を掴むと、おじさんはそっと指を緩めてゆっくりと手を放した。
予想より重かったのだろう、弟は慌ててもう片方の手を差し伸べて袋を支える。
「先、もらうで」
「あ、待ち」
弟が毒味をするつもりなんだと気付き、慌てて止めようとしたものの、敬清は縛り口の側に飲み口がついているのを見つけ、先に一口含んだ。
目を見開き、飲み込んで、今度は大きな一口を含む。
しばらくして、袋を私に手渡す。
大丈夫、ってことか。
私もゆっくりと口を湿らせ、体に沁み込ませるようにして飲んだ。
中身は、紛うことなき水だった。
田舎住まいの私たちは、水にも味の違いがあることを知っている。
けれど、今ほど水の味をおいしいと感じたことはなかった。喉を潤して心が震えたことはなかった。狂おしいほど懐かしく、切ないほどに滋味に満ちて感じられた。
「ありがとうございました」
言葉が通じないのはわかっていたが、ひとまず枝から落ちた私たちを助けてくれたことと、水を分けてくれたことへの礼を述べて袋を返す。
恐る恐る差し出すと、おじさんは何も言わずにぬっと片腕を伸ばしてそれを受け取った。
ううむ、なんという上背。なんという筋肉。
手を伸ばして触れ合える距離に立つと、首を垂直に上向けなければ顔を見られない。上腕の太さなんか私の頭くらいありそうだ。
おじさんはゆっくりとした動作で背を向け、歩いていった。
私たちはどうしていいかわからず、ただ見送る。
かと思いきや、おじさんはやや離れたところで立ち止まり、振り返って私たちを見た。
私たちが顔を見合わせている間に、再び向こうを向いてしばし歩いて離れていく。
そして、また立ち止って振り返る。
「ついて来いって言うとんじゃねえかな」
弟が言い、私もそんな気がした。
こんなふうにして遭難者を救助した賢い犬の話を思い出した。
本当について行っていいのかと思わないでもなかったが、かといって他に当てもない。
私たちは、おじさんについて行くことにした。
道中おじさんにお弁当を分けてもらった。おいしかった。
パンはなんというか、リーンパンっていうやつかな。
添加物も何にもない、最低限の素材だけで作られたであろう味気ない代物だったんだけども、挟みこまれていた具材がおいしかった。
お肉をローストしたものと、歯ごたえのある木の実を細かくしたものを汁気の少ないほのかに酸味のあるソースで和えて、凹凸の少ないサンチュみたいな大きな葉っぱで包んである。
それをまずいパンで挟んであるので、却って調理されたお肉のうまみが引き立っているのだ。
これを、このおじさんが手作りしたのだろうか。それとも愛妻弁当というやつだろうか?
もっとも、本来はおじさん一人分のはずだろうお弁当を三分割したので、物足りない感は否めなかった。
でも一番物足りないのは一番たくさん食べなきゃお腹が満たされないだろう体格のおじさんなので、文句の出ようもない。
奇天烈な植生が段々普通の森の光景になっていったので、どうやら昨夜いたのは相当に特殊な場所だったようだ。
おじさんは何を言うでもなく、時折立ち止まっては私たちがちゃんと付いてきているか確かめるように振り返るだけだったが、少し驚いているようでもあった。
半日かけて歩いた末に辿り着いたのはログハウス風のお家で、おじさんが無造作にがちゃりと開いた――建て付けは良好のようだ――ドアの向こうから笑顔で出迎えたのは、目が眩むような金髪の美少女だった。