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コバルトブルーが愛しくて

作者: 冬木みさを

1



 あ~あ、高校受験、もっとちゃんと考えれば良かった、僕はあの時親に全てを頼ってしまった自分を心の底から恨めしく思った。

 

 高校三年・夏。

 

 電車のドアに寄りかかりながら青々と生い茂る木々がサラサラなびく様を、少し伏し目がちに僕はずっと見やっていた。

 車両の中を見渡すと、他校の女子高生五、六人がキャアキャア騒いでいた。地べたに座わりながら化粧する奴や、今夜のテレビ番組にアイドルの誰それが

出るだのと話す奴、ガムをクッチャクッチャと汚らしく音を出しながら噛む奴と、「おいおい、ここは動物園かよ」と呆れる情景が目に映った。

 他に、赤ちゃん連れのお母さんや他校の男子生徒がぽつぽつと一人二人いたけれど、かなり電車の中はガラガラだった。

 今ちょうど一学期の期末試験中で、お昼には帰れる期間だった。この「お昼に帰れる」という期間は、世の中学生・高校生にはたまらない特権だろう。

その間、「試験がある」という最悪な条件を除いては。

後ろに流れていく木々をずっとぼんやりと眺めている倉橋蒼もその一人だった。まあ、家に帰って昼飯食ったら明日の試験に向けて勉強しなくてはいけない

事実は当然あるのだが。


家までは、最寄り駅から更に自転車で十五分かかるところにある。あまり立地条件は宜しくないが、それでも一戸建てはいいものだと僕は、

子供ながらそう感じていた。

橋を渡って坂道が続く。雲一つない爽やかな昼時だった。

 鼻歌でも歌いたくなるような晴天の中、自転車で坂を下りると、僕はぎょっとした。

家の前に林雅徳が立っていたのだ。

唖然としつつも、おそるおそる声をかけた。

「何やってんだよ?」

あまりの驚きに、すっとんきょうな声をあげてしまい、それが自分でも少しばかりおかしくて、言った後についにやけてしまった。

 林は、「あ。」と声にならない声をあげて、一瞬笑ったかと思うと、すぐに顔を曇らせた。

「ああ。いや・・・」

「え?なんだよ?意味深みたいな言い方して。帰るの、早かったじゃんか。」

「ああ。授業終わって即効帰ったからな。」

「まあ・・・中入れよ。」

 話しながら少しウキウキした気持ちになった。

林雅徳は、友人を介して知り合ったのだが、僕よりも一クラス上のいわゆる優等生だった。

僕の高校は、一組から八組まであるのだが、そのクラス分けがひどい。他の進学校にもあるのかもしれないが、クラスは成績順だった。

 つまり、一組が一番成績の良い連中が集まっている「優等生クラス」で、二組がその次、三組はまたその次・・・となると、八組が馬鹿クラスというわけだ。

 馬鹿と言っても、日東駒専クラスには合格しているわけだから、世間的に考えれば馬鹿というわけではないのだが、一組・二組から見れば、「馬鹿」とは

誰しも口には出さないけれど、「自分より下のクラスだな」ぐらいの認識は当然あった。

 今、家の前で待っていた林雅徳はれっきとした一組の理系で、僕は二組の文系だった。

 僕が二組に入って真っ先に仲良くなったのが同じクラスの浅田という男で、入学式の時に向こうから声をかけてきた仲だ。

 その浅田が、林雅徳と“おな中“で一年の秋に紹介された。

偶然にも浅田と林とは同じ街だった為、よく行く商店街の話や夏に行われる花火大会のどこどこの出店がうまいとか、そういった他愛もない話に

共通点があって、気が合う仲間だった。

 特に林とは、僕と背格好が似ていて、(身長は僕が172cm、彼が174cmで、体重は僕のほうが一キロ多い)、なんとなく最初に見た時から

「こいつとは馬が合うだろうな」という予感があった。

 

それから、浅田は一年の時にあまり勉強せずに遊んでしまったもんだから、二年の進級の時に、二組から三組に落ちてしまった。

 それを今でも浅田は、

「あ~、ちくしょう、一年ん時ちゃんと勉強してれば二組だったのによう。」

と悔やんでいる。浅田が悔やんでいるのは、成績とかの問題ではなく、仲の良い連中と離れ離れになってしまったからだ。

 学校とは不思議なもので、最初の一年、特に入学式から一週間の間で誰と誰が仲良くなって・・・とかいう、目には見えない「グループ分け」が自然とされ、

それに乗り遅れた奴や、クラス替えでクラスが替わった奴は、できでしまったグループになかなか入れない雰囲気があるのだ。

 男子はまだそこまでひどくもないが、女子にとっては、かなりそれは深刻な問題だった。

 浅田も悔やんではいるものの、性格が性格なだけに意外と三組の連中とうまくやっているように見えたのだが、当の本人はそうでもないらしい。

 その為、休み時間になってはちょくちょく二組に顔を出しては、

「おーい、くらっち~」

と、寝起きのような声で僕を呼んでは、たむろってるのだった。


 林は、僕の後ろに隠れるようにして、おずおずと家の中に入った。

「こんにちは、お邪魔します。」

律儀に挨拶をしてから、靴をきちんと揃えて上がった。

「今、母親いないんだ、パートで。」

「ああ、そうなんだ」

林は、それを聞いて少し安堵した表情をした。


 二階に二人そろって上がり、林を先に通してからお昼の準備をした。準備・・・と言っても、母親が朝用意してくれたカレーを温めるだけだが。

「ハヤー。食う?」

二階にいる林に大声で呼びかけると、二階から

「いらーん。」

と、間延びした声が聞こえてきた。


 僕はスプーンを口にくわえながら、カレー皿を落とさないように慎重に二階に上がった。

部屋を覗くと、林は窓から見える景色を眺めていた。

(まったく、こういう格好が似合うよな)

と、皮肉っぽく思いながら、声をかけた。

「で、なんだよ。なんか、意味ありげに家の前で待ち伏せなんかして。女だったらストーカーに間違われるぜ。」

僕はガハハと冗談を言いながら笑った。が、林はふっと笑っただけで、すぐに下を向いた。

 僕もなんだかしゅんとなって、「こりゃ、重症だな」と察した。

 カレーをモグモグと食べながら、昼のつまらんテレビを見ているとふと林が話しかけてきた。

「なあ・・・。くらっちは悩みないんか?」

「え?」

かきこんでいたスプーンの手が、一瞬止まり彼を見た。

「うーん・・・。悩みねえ・・・。」

僕はしばし、考えた。悩みがあるかないかなんて考えたことがないなあ。「悩みがあるのかないのか分からないのが悩みかな」なんて冗談を言いたかったが、

林があまりに神妙な顔をしているので、それはやめておいた。

「うーん・・・。まあ・・強いて言うなら明日の試験、苦手な英語があるぐらいだな」

と、ジャブってみた。


林はその言葉を聞くと、なにやら自分の鞄にゴソゴソと手をつっこんで、一枚のA3の紙を出して僕にすっと差し出してきた。

ん?と思い、カレー皿をテーブルに置いて、そのA3の紙を拾い上げた。

それは、先月行われた全国模試の結果だった。

「え?見ていいんか?」

「ああ。」

あっけらかんと答えた。いくら仲が良い奴の成績結果だとしても、高校三年のこの時期の模試結果を見るっていう行為は、さすがの僕もちょっとたじろいだが、

興味本位もあってまじまじとそれを見た。

僕はじっくりと見て、それからどういう顔をして林に声をかけるべきか、悩んだ。

いたたまれなくなったのか、林から切り出した。

「すごいだろ、それ。」

「・・・ああ・・・。」

「やばいだろ。この時期にその成績。」

「・・・ああ・・・。なんで?どうしたん?」

僕は、この状況にぜいぜいと息切れがするかと思うような錯覚に陥った。

彼の成績結果は、あまりにも驚くべき結果だったからだ。

 ちなみに僕の先月の模試の結果としては、偏差値的には、国語が62・英語が58・日本史が68で、まあまあ、こんなもんだろといういつもと変わらない成績だった。

 林は、僕にとってはいつまでも優等生であり憧れでもある立場だと思い、いつか追いつけ追い越せの関係になりたいという願望もあった。

 が、その願望は、今、衝撃的な形で崩れ去った。

(数学58・英語55・化学59・・・)

いつもの彼なら、全教科65以上は必ずキープしているはずだ。そう言えば・・・、と僕は思い出した。

 昨日の放課後、一組の教室をちらっと覗いた時、教室の後ろに毎回貼られる模試の結果ランク表に、いつも載っているはずの彼の名がなかったことが気になったのだ。

 「まあ、いつもトップ10をキープするのも難しいだろ」

と、僕はその時、あまり気にも留めなかったが、それがここまでとは・・・と僕は愕然としてしまったのだった。

「疲れちゃったんだよなあ~・・・」

と、林は窓の遠くを見て、ふぅっと大きなため息をついた。

 僕は、カレーライスを食べる元気もなくなって、呆然とただただ、その模試結果を眺めていた。

「もう志望校決めたんか?」

と、林はその場の空気にいたたまれなくなったのか、空元気のようにワントーン声をあげた。僕も、それに応えるように、わざと笑って、

「ああ、まあ、ぼちぼちな。東京の大学にしようとは思うけどな。でもまだはっきりとは決まっとらんよ。ハヤはどうするんか?」

と言った。

 林は僕の質問を無視したのか、それとも聞いていなかったのか、

「・・・なんで、大学行くんだろうなあ・・・。」

とぼんやりと答えるだけだった。

「なんぜよ。どうかしたんか?」

と、僕は、段々、一体彼が何をそんなに悩んでいるのか気になって仕方なくなってきた。

林はやっと、重い口を開いた。

「うちの父親、リストラされたんよ、先月。」

「・・・え?」

僕は寝耳に水といった感じで、間抜けな顔をしてしまった。

「ほんと、ついてないだろ?この時期にさあ。まあ、世の中不況不況不況の嵐だからな。別に家にきたって、おかしくないご時世だけどな。」

そこまで言って、林はぐいっと、まるでビールを飲むかのように、僕が用意したウーロン茶を一気に飲んだ。

「で、うちの親が言うわけよ。『別に気にせず、大学に行けばいい』て。でも、やっぱり子供は子供なりに考えてしまうわけよ。その結果がこれ。」

と、僕の目の前で、ヒラヒラと風に舞うように模試結果を拾った。

「でもまあ、まだ半年あるわけだし。まだまだ挽回できるんじゃないろうか?」

と、言った瞬間に、はぁっと、僕は息をのんだ。

「まさか、大学行かないのか?」

まさか、と僕がつけたのは、言うまでもなかった。うちの学校で、しかも一組で大学に行かないなんて、聞いたことがないからだ。しかも、彼は今回こんな

成績だったとしても、一年二年、そしてこないだまでは、学年でトップ一〇に入っていた優等生である。そんな男が、大学に行かないなんて、

まるで考えられなかったからだった。

「そのまさかのまさかを今考えてるかもな。」

「まじかよっ?!」

あまりに僕が目を丸くして驚いていたらしく、家に来て初めて彼は、はっはっはと声をあげて笑った。

「面白いな」

と、本当に腹の底から笑っているようだった。

「そんなに驚かなくてもいいじゃんか。」

と、まだ彼は笑っていた。僕は真顔で

「だって、学校史上初だぜ?一組で大学行かないって。」

「まあ・・・そうだろうな。」

林は、いたって落ち着いていた。


 




2



それから、林と僕は少しダラダラした後、明日の試験科目である英語を少しだけ勉強して、15時過ぎには帰っていった。

 夕方になり、母親が帰ってから急に家の中は騒がしくなり、

「蒼~、カレー皿流しに置いといて~」と威勢の良い声が一階から聞こえてきた。はいはい、と僕は重い腰をあげながら、カレー皿を持って一階に降りる時、

ふと林の昼間の言葉が蘇った。

「なんで、大学行くんだろうな?」

僕は、そんなこと考えてもみなかったから、林の言葉は胸にずしんときた。

「なんで・・・かあ。」

なぜ、僕は大学に行こうとしているのか?うちの両親とも名門大学を出ているから?それとも、高校が躍起になって大学進学を目指しているから?

 気がつけば、中学の時から大学には行こうと思っていた。それは、母親が言う、

「今の時代は、やっぱり大学に行っとらんとね。女の子はまだしも、男となるとやっぱりねえ。まあ、学歴で人を判断するのは、お母さん反対だけど、

やっぱりどうしても世の中、学歴のあるないで判断する人もいるのよ。」

という言葉が、身に染み付いていたからかもしれない。

 僕は、その夜、深夜ラジオを聴きながら、いつの間にか三時まで勉強していた。親友の身を案じてはいたものの、とりあえず、今目の前にある課題を

片付けなければいけない使命があったからだった。




 それから、しばらくして夏休みに入った。夏休みといっても、それは名目だけのもので、ほとんどの三年生は夏期講習やら、有名予備校やらに通って、

休みとは言えない休みを送っていた。

 僕の家は、それほど貧乏っていうわけでもないが、かといって金持ちっていうわけでもないし、やはり林と同じく、これからまだまだかかるであろう

息子の学費を思う親の気持ちを察して、大人しく、学校の夏期講習に参加することにしていた。

 それにしても、どうしてうちの高校は、こうも受験だの全国で何位だったのと、そういう話題ばかりなのだろう。

 うちは、両親ともあまり成績についてとやかく言わない環境であったが、母親の美千子は口には出さないまでも、やはり息子には有名大学に行って欲しいらしく、

それで、この進学校へと息子を入れたようなものだった。

 僕も、勉強は嫌いではなかったし、中学時代、あまりどこの高校に行きたいという気持ちもなかった為、母親に言われるがままこの高校に入学してしまった。

 それが、運のツキというものだろう。

なにかあっちゃあ、ほれ誰々は全国で何位だったの、誰子さんは、予備校でトップクラスだの、あの子なら東大も夢ではないだの、そればっかりが学校の話題で

あって、そういった華やかな話題は、高校にとっても景気が良いらしく、次の入学生もさぞかし見込みがあるんじゃないかと、学校側も胸躍るのである。

 僕は、そういう環境に、多少しらけた気分があった。林の言う、「疲れちゃったんだよなあ~・・・」というセリフは、僕にとっても身に染みて分かっていた。




夏期講習は、希望者だけを募る講習の為、いつもの通常クラスもみなバラバラで、違うクラスの奴らと一緒に講習を受けるシステムになっている。

 そこには、三組に落ちてしまった浅田もいて、僕の顔を見た途端、にや~っと僕に微笑みかけてきた。

「おう、くらっちも受けるんか。」

「まあな。せめて英語だけは受けとらんと。」

「くそ~。いいなあ。俺なんか、全教科だや。」

「全教科?それ、毎日じゃん。」

「夏を征する者はなんたらって言うじゃろ。」

「夏を征する者は、入試を征す、だろ。」

「おおう。それそれ。」

 そこまで話して、浅田はなにやらキョロキョロと見回した。

「なあ、おい。」

「ん?」

「お前の相棒、夏期講習見かけんな。予備校にでも行ってんのか?」

「相棒・・・?ああ、ハヤのことか。さあ・・・、どうしたんだろね。」

浅田は、えっという顔をして、

「お前、知らんのか?」

「知らん」

「お前が知らないんじゃ、みんな知らないはずや。」

「なんだよ、それ。」

浅田は、ふむうっと考え込んでいた。

 そこへ、英語の女性教師が入ってきた。高野 悦子というきちんとした名前があるにも関わらず、生徒からは「えっちゃん、えっちゃん」と呼ばれていて、

本人もそれが気に入ってるのかいないのか、あまり気にもしない様子で「なあに?」とのんびりとした口調で返事をする先生であった。

 なるほど、えっちゃんと呼ばれるにはふさわしい、まだ、二五・六歳の先生で、かと言って、派手というわけでもなく、化粧っ気がないわりには可愛らしい顔を

していたので、密かに男子生徒の間で人気があった。

 四組の山本は、まさにえっちゃんにぞっこんで、「高校卒業したら、えっちゃんと結婚しようかなあ」なんて、鼻の下を伸ばす始末であった。それでも、

えっちゃんに好かれたい一心で、英語だけは抜群に成績が良かった。

 えっちゃんもそれを知ってか知らずか、どうもつかみどころのない、のほほんとした様子であった。


 もちろん、英語の夏期講習に山本も参加しており、ちゃっかり一番前の席を陣取っていた。

 僕と浅田は、なるべく指されないように、一番後ろの席に隣り合って座った。

 英語の夏期講習は、一時間半の講義に、三〇分の小テストがある。

 月曜が文法・水曜が英作文・金曜が読解で、英語嫌いの倉橋にとっては、まさに地獄の夏期講習であった。特に金曜の読解はへどが出そうな勢いであったが、

これも半年の我慢だと割り切って、腹をくくって参加していた。

 浅田は英語だけでなく、勉強嫌いだから、倉橋の想像以上のものだろう。

 しかし、浅田はどうもあまり周りの目を気にしないのか、講義中もろくすぽ真面目に受けないで、倉橋の脇をつついては、反応をからかっていた。


 キンコンカンコーンとチャイムが鳴るのを待っていたかのように、浅田は僕に話しかけてきた。

「なあなあなあ。ほんまに知らんのか?」

「なにがやよ?」

僕は、ちょっと疲れたような顔をして答えた。なにしろ、この二十分の休憩時間が過ぎたら、恐怖の小テストがあるのだ。この小テストで九十点以上取れないと、

居残りが決定する。英語嫌いの倉橋にとっては、一大事なのだ。この二十分休憩さえも、だべってる時間がもったいなかった。

「だから、林のことだよ。」

「ハヤがなんだって?」

「親友のお前にゃあ、ちょっと言いづらいけどさあ・・・。いろんな噂が流れとるんよ。」

「え?噂って?」

僕はまだ分からなかった。いや、薄々は分かっていたのかもしれなかった。それは、夏休み前に神妙な面持ちで、僕の家の前で待っていた林の姿が頭に浮かんだ。

 成績下降・親父さんのリストラ・・・。

しかし、あの後特にハヤから何の連絡もなかったし、期末の結果ももちろん、教室の壁に貼られたのだが、ハヤの名前はどの教科にも載ってなかったから、

どう話しかければいいのかも気まずかったっていうのがあった。

 そもそも、あれから会っていないのだ。いくら仲が良いといったって、クラスが違うとそうそう会わないものだ。

 浅田は、少し面食らったような態度を見せたが、ごほんとわざとらしく咳き込んでから言った。

「ハヤさあ~。学年でもトップ10だったろ?それがさ、最近とことん見かけんって、クラスの間でも職員室でも持ちきりだぞ。あいつ、中学ん時からすっげ~頭良くてさ。

女子にも多少はモテてた口だじ。あいつなら、もっと上の高校行けるって、中学の卒業式ん時も話あったけどさ。学費免除でうちの高校入ったみたいだしさ。 

そういう奴がさあ~、この時期にとんと見かけんのって、一体どうしたぞって、みんな噂してるわけよ。

 ま、ライバルが一人減ったって喜んでる奴もいるだろうけどさ。ほら、一組の、荒木とか渡辺とか。分からんけど。」

そこまで言って、浅田はちょっと言い過ぎたかなあと、しまった!みたいな顔をして黙り込んでしまった。

 僕は、どう答えていいのか分からず、

「ふう~ん・・・」

と間の抜けた返事しか出来ず、それでも、親父さんのリストラのことや、ハヤが大学に行かないかもしれないなんて事は、口が裂けても言ってはいけない事態だと

いうことは悟った。

 それから、残り一〇分で僕は必死に英単語帳を広げたり、さっきの講義のノートを目を皿のようにして眺めてはいたけれど、さっきの浅田の話が気になり、

結局小テストでは八十二点しか取れず、浅田はすまなそうな顔をして、次の講義を受けにさっさと別の教室へ行ってしまった。

 僕は、居残り学習として、間違えた箇所をノートに10回ずつ書き、職員室にいる高野先生に見せに行った。

 途中、浅田が数学の講義を受けている姿が目に入ったが、端向かいだった為、浅田が気がつくはずもなく、僕はしてやられたような気持ちになりながら、ノートを握り締めた。


 職員室までは遠く、わざわざ新校舎から旧校舎に行かなければならず、かなりの距離を歩いた。旧校舎はオンボロで、壁の塗装もところどころ禿げていて、

僕が入学する直前に新校舎がドドンとでっかく隣に建てられたのだ。   

それならば、さっさと旧校舎から新校舎に引っ越せばいいのに、面倒臭いのかなんなのか、二年経った今でも、職員室と一組、他会議室などは引っ越していなかった。


「失礼します」

と、黒髪の頭をぺこりと下げてから入ると、高野先生は、一年二組担任の岸と談笑していた。

 正直言って、岸と僕は馬が合わず、僕が一年の時も岸がクラスの担任で、気に食わない奴と気に入った奴との、岸の態度のギャップが許せなかった。特に女子に対しては甘く、

男子生徒の中では、

「岸は女ったらし」

というレッテルが貼られていた程だ。

 岸は、僕が職員室に入ってくるのを見るやいなや、高野先生と話すのをやめ、じっと僕の様子をうかがっていた。

 そんな岸の態度を尻目に僕は、つかつかと高野先生のとこまで行って、

「ハンコお願いします。」

とだけ言った。

あら、随分遅かったわね、今日は英作文だったからかしらなんてブツブツ言いながら、ハンコを取り出し、高野先生はお疲れ様と言いながらハンを僕のノートに押した。

 そこへ、岸が口を挟んできた。

「倉橋、お前、林と仲良かったろ。どんな具合かお前、知らんか?」

やはりそうだったのか、と僕は息をのんだ。浅田の話はほんとだったんだ。

「さあ・・・・何も知らんです。夏休み前に会ったっきりですから。」

「そうか。」

岸は、下を向いてごにょごにょとつぶやいてから、自分の机の上にある書類をトントンっと揃え始めた。

そこへ、高野先生がのんびりとお茶を一口飲みながら、言った。

「いやね。林君、最近元気ないみたいだし、どうしたのかなあって、岸先生も心配してるのよ。あの子、数学は特に得意だったじゃない?だから受験も・・・」

と、そこまで言った後に、岸が高野先生を素早くにらみつけて、まるで焦ってるかのように会話を止めさせた。

 高野先生も、ややっとして、危ないといったふうに、慌ててお茶を飲んだ。

 僕は、その様子で、何を先生方が気にしているのか分かり、ヤカンが徐々に沸いていくように、段々腹がたってきた。

高野先生からノートを奪い取るようにすると、

「僕は何も知らんです。あいつにはあいつなりの考えっちゅうもんがあるんでしょうから。」

と、捨て台詞のように言い放ち、「失礼します」も素早く小さな声で言って、勢い良く職員室を出た。

後ろ目で、「なんやあいつは」て顔をした岸の憎たらしい顔が見えたが、僕はそんなことよりも、学校の策略みたいなものを思い切り肌で感じてしまったような気がして、

ワナワナと震えるような怒りが心頭していた。

その帰り道、電車に揺られながら、僕は

(あいつ、可哀想だな)

と心底思った。

 勉強なんて、あまり出来ないほうがいいのかもしれない。そうすれば、親の期待も、学校の策略にも、クラスメートの噂にも翻弄されずに済むのにな。





3



それから、僕は夏休みの短期のバイトとして、西瓜の収集工場で、せっせと汗を垂らしながら働いていた。

 受験生といえども、お小遣いはやはり必須だ。参考書を買わにゃならんし、文房具やら友達づきあいっちゅうもんもある。

 家は小遣い制ではなく、自分の金は自分で稼げ主義な為、こうして周りが受験の天王山を登り登っている間、時間を割いてでもバイトせにゃあかん。

 ただ、僕としては、このやり方は気に入っていた。僕は小さい頃から何でも、「自分の事は自分でせえ」という環境の中で育ってきたから、自分で何でも

やろうとしてきたし、受験生だからって、涼しい部屋ん中で一日中こもってたら、頭も冷えちまうだろうに。

 たまにはこうやって、息抜きも必要だじ。

 しかも、このバイトのメリットは日払いの為、その日にお金を貰えるもんだから、やりがいっていうのも実感できた。


 その日も僕はホクホク顔で、しっかりと日当五千五百円を腰の鞄の中に入れて、自転車で帰っていた。

 夕方の商店街は、人でごった返していた。しかも、今夏休みの為、小学生の子供だの、女子高生だのがうろついてて、自転車で商店街を通るのは危険だと

察知した僕は、降りて手で押しながら歩いた。

 夏の夕暮れ時もいいもんだ、なんて暢気に歩きながら、ふと横に目をやると、そこには学ランを着た林がずっとこっちを見ていた。

 僕は、ぎょっとしつつも、一瞬のうちに、こないだの浅田の噂話や職員室の高野先生や岸の様子がフラッシュバックのように頭に流れ、

しどろもどろになってしまった。

 その様子を、林に見破られたんじゃないかとヒヤヒヤしたが、平静を装って、林に近づいた。

「よう、こんなとこで会うなんて珍しいじゃん。」

僕は、かなりひきつり笑いをしていたかもしれない。

 そんな僕の様子に全く気がつかずに、林は

「母親に買い物頼まれてな。ぶらっとしてたんよ。」

と、手に持っているビニール袋を僕に見せた。多分、鯵の開きかなんかだろう。うっすらと中が透けて見えた。


「それにしちゃ、何で学ランなん?」

と、僕は不思議に思った事をそのまま口に出した。

林の答えは意表をついたものだった。

「ああ。今日予備校の模試でな。高校最後の夏休みだじ、模試も気合が入るってわけよ。」と、およそ彼の律儀な性格が垣間見れたような気がした。

 それにしても予備校行ってるなんてな。僕はなんとなく、置いていかれたような寂しい気持ちになったが、彼がこうしてまた大学を目指しているのも分かって、

少しほっともしていた。

「なんじゃいな。大学やっぱ行くんじゃんか。」

僕は笑いながら、林の肩をぽんっと小突いてやった。

 林は照れ笑いのような素振りを見せて、

「ん~・・・まだはっきりとは決めてないけどな。とりあえず、勉強しとこうかって。でも正直言ってまだわからんちや。」

と言った。

 僕は自転車をコロコロ転がしながら、

「分からんって、親父さん、やばいんか?」

と、(これは親友と言えども、核心ついた質問やな)とビクビクしながらも、さりげなくぽつりと聞いた。

 林は、笑いながら、

「そう簡単に再就職は見つからんよ。営業一筋二十六年だからな。それ以外のことはなーんもやってきてない四十八歳のおっさんが、そうそう見つからんて。」

と冗談まじりに言った。

 そうか、ふむう・・・と僕は考え込んでしまった。ここで、十八歳の、社会にはとんとペェペェの兄ちゃんが考えたところで、どうにでもなる問題ではないと

分かりつつも、僕は深く考えこんでしまっていた。

「で、結局どうするんか?お前。」

と、(なんか、さっきから堂々巡りみたいな会話だなあ)と思いつつも、やはり気になって何度も聞いてしまっていた。

 林は、天を仰ぐようにう~んっと大きく伸びをしてから、

「ま~あ、将来のことは分からん!」

といきなり、大きな声で言ったもんだから、僕はびくっとしてしまった。

「分からんって、お前・・・。」

と、僕は半ば呆れたように答えたが、でも、僕が林の立場だったらどうするだろうか、とも考えた。


 商店街からは、林の市営住宅のほうが近かった為、林が家の前まで来て、当然のように 「寄ってくか?」

と声をかけたが、僕は、

「いや、明日も恐怖の高野講義があるからな。」

と、にやりと笑って、自転車に乗りながら後ろ手で

「じゃあな」

と、ヒラヒラと手を振った。

 その時、後ろを振り返ってなかったので、林がどんな顔をして僕に手を振っていたのか分からなかったが、きっと今にも泣きそうな顔をしていたんじゃないだろうかと、

僕はずっとずっと後になってから、その時の林の悲惨な事実を聞いて、愕然とした。

 



林があの時、予備校に行けたんは、このくそ厳しい学校の目を盗んで、一学期からずっとバイトをしていたと、後から一組の連中から聞いて知った。

僕はそれを聞いた時、えぇっとかなり驚いた。林はそんなバイトするようなタチじゃないし、いかにも坊ちゃん坊ちゃんしてる感じだったからだ。

 僕は、あいつのことを親友だと思い込んでいたが、僕は、あいつのことを何も知らなかったし、知ろうともしていなかったんだ。

 僕は、その時のことを思い出すと、今でもまだ胸がズキズキと痛んだ。


 


九月・・・といっても、まだまだ蒸し暑い二学期が始まり、また月に二、三回はあるだろう模試と、どんどんと迫ってくる受験戦争というものに、

みんなヒィヒィ言ってるかと思いきや、顔を真っ黒にしてサーフィンに行っていただとか、女子連中は久しぶりに会う級友に向かって、

「きゃあ~元気~?夏休みどおだった~?」

なんて、いきなり抱きついたりして、僕はしらけた気分でそれを眺めていた。

「なんだ、感動の再会ってか。」


 けど、二学期始めの模試で、いきなりトップ一〇から消えた奴や、今まで載ってなかった奴の名前がいきなり載ったりしていて、かなりの入れ替え戦があって、僕は、

「やっぱり、やってる奴はやってんだな」

という、出し抜け戦に、なんだかなあという気持ちになっていた。

 僕はといえば、そういう出し抜け戦で勝ち抜いた奴らのせいで、多少ランクは下がってしまったが、それでも得意の日本史だけはとりあえずトップ5をキープしていた。

 あんなに頑張った英語はというと、やっぱりトップ10には入らず。

「まあ・・・そう簡単に入れるもんじゃないやな。」

と、楽観的に考えることにした。




そもそも、あんな小さなちっぽけな世界で、トップ10がどうの、学年で何位だのと、一喜一憂する様は、今から思えば、なんて小さな世界にいたんだろうと、

僕を多少落胆させたが、でも、あの時は、あれはあれで、あんな世界にいながらも楽しかったし、それよりも僕はまだ子供だったんだ。

それに比べて、林は全然、と言っていいほど大人だった。




 二学期第一回目の模試結果が二組で貼られたその日、僕はふと何気なく一組に行ってみた。

 放課後、誰もいない頃を見計らって、僕は渡り廊下を渡って、向こう側の一組に、キョロキョロと挙動不審に向かった。

 もちろん、林にだけは見つからないよう、細心の注意を払った。

(自分の学校で、なんでこんなコソコソしてんだか)

 僕は、自分で呆れながらも、そろそろと一組のドアを開けた。

 サテライト授業が終わって、オレンジ色の日差しから、青い夕闇へと教室の色が変わり始めていた。

 僕は、一つ一つ、ゆっくりとランク表を一位から一〇位まで見た。

林は、学費免除でうちの高校に行ってる位だから、一年・二年の時の成績は、トップ五に必ずと言っていいほど入っていたし、それがみんなの中で当たり前の事実にもなっていた。

 もちろん、先生の間でも「林は難関国立大に必ずや行ってくれるだろう」と踏んでいた。

一人でも難関国立大に進学してくれれば、学校の株っちゅうもんも上がるし、保護者の間でも評判がよくなる。進学例としてホームページや入学案内に載せられ、

その大学に受かった卒業生のインタビューや顔写真が載ったりして、ちょっとしたヒーローになれるのだ。

 林は、その期待のホープとして、とにかく学校中、いや、この狭い街の期待の星として必ずややってくれるだろうとたかを括られていた・・・はずだった。


 三年の一学期から徐々に林の成績は下降し始め、林をライバル視する嫌な奴らの中では、

「一組にいるのが不思議だ」

とか、

「もう林の時代は終わったな。」

などと嫌味を言う奴もいて、林としては居場所がなかっただろう。


僕は、そういう林にどうしていいのか分からず、かといって、いきなりおたおたと心配する態度を見せるのもおかしいし、とにかく普通に接するように努めた。

 



二学期になって、うちのこのくそ厳しい高校にも運動会というものがやってきた。

 女子はそこで、団体体操を披露するとかで、中には、「一番大事な時になんで体操なんか。」とむくれている奴もいたが、徐々に完成形に近づくにつれ、学級委員の

内田 智美を筆頭に一丸となってやっていた。

 男子は騎馬戦や綱引きに人気が集中し、くじ引きした結果、僕はリレーの、しかもアンカーになってしまった。決まった途端、

「倉橋なら安心だな~!」

と、暢気なクラスメートの声が聞こえた。

 「他人事なんだから」

と僕は、嫌味を言ってみたが、特段、嫌というわけでもなかった。走るのだけは得意だった。

運動会なんて、高校生になってからやるもんじゃないよな、なんて思っていたが、日が近づくにつれ、ちょっと心待ちにしている自分に気がついて、(あぁ、やっぱり僕は

まだ子供なんだなあ)と思い知らされた。

 が、そんな僕でも、当日が来るまで全く知らなかった事実に、狼狽せざるを得なかった。


 運動会の当日、朝六時過ぎまで、シトシトと雨が降っていて天気が心配されたが、九時位にはカラっと晴れ、良い運動会日和になった。いつものように自転車で学校まで

ひぃと行き、自転車置き場に停めると、後から化粧した女子が華麗に自転車から降り、鞄を肩にかけるとすたすたと颯爽に校内に入っていった。僕はそれを見ながら心の中で、

 (なんじゃ今のは。化粧は禁止だぞ。)

と多少の憤慨は持ったが、まあ、運動会だから浮かれてるんだろう、この時ばかりは先生方もあまりガタガタ言わず静観しているようだった。

 どこでもやるような開会式をやり、手始め的に100メートル走だ玉入れだをやり、それをしらけた目で見てる奴も中にはいたが、大概はまあ、真面目にみんな観覧していた。

女子なんかはお目当ての先輩が走る度にキャーキャー言ったり写真を撮ったりしている。こういうとこじゃ女子のパワーは圧倒だ。運動会というたいした企画でもないのに、

きちんと盛りあがってくれるから、多少冷めてる僕でもそれなりの雰囲気ってのは楽しめた。後ろのほうじゃ、女子らが、

 「ねえ、まつげ取れてない?大丈夫?」

なんて他の女子に話したりしている。そしてまた好きな奴とかかkっこいい先輩が通り過ぎると、鏡を閉まってまたキャーキャー騒いでいるのだった。

 僕は心の底からくだらんなあとは思ったが、そういうのが楽しいんだろう。あくびをしながら自分の出番を待った。

 大体、リレーっていうのは、運動会の最後のほうにやる。僕はそれまでかなり暇で、二組の連中と騒いでいた。

 中には、こんなところにまで英単語帳やら古文単語帳を持ってきて、暗記している奴がいて、

「何もそこまでせんでもいいのに」

と、僕を驚き呆れさせた。





4



ふと、一組のほうを見た。林もまだ競技に参加していなかった。

 それにしても、林は、男の僕からしてもかっこいいなあと思う節があった。

 それは、僕だけでなく、他の連中も林には一目置いていた。

 というのも、成績が下がって何だかんだ悪い噂が流れているのは、当の本人も知ってるだろうに、それでも全く気にせず、背筋をしゃきっと伸ばして、

どことなく芯の強さというものが感じられたからだった。

 黒縁メガネをかけていて、枝のように手足が細く白かった為、全く体操服が似合わなかったが、それでも、どこか一目置かれる存在感を放っていた。

 とはいっても、女子からはあまり人気がないというか、もしかしたら隠れファンがいたのかもしれないが、そういう浮いた話もとんとなく、

とにかく男子連中からだけはモテてたわけだ。

 (僕が女だったら、ぞっこんやろうな。林の良さが分からん女子らは、馬鹿だな)

と思っていた。

 

 当時、女子に人気があったのは、七組の柳井 悠という男で、

(お前、それどう考えても茶髪だろ)

と、突っ込みを入れたくなるような栗色の髪をしていて、いつも鏡を覗き込んでは自分の顔をチェックしてるような勘違い野郎だ。

 が、なぜか、うちの高校ときたら、下のクラスにいけばいくほど、校則が緩くなり、先生も茶髪だろと言っても、本人もクラスの女子も

「いや、これは生まれつきです。疑うなんてひどい!」

と、先生を責める始末で、しかも、その生活指導が、あの岸だから女子連中に責められてはたまったもんじゃないと、

「まあ、そうか」

とうなづいてしまうのだった。


 柳井が走れば、女子も走り、柳井が笑えば女子らはきゃあきゃあと騒ぎ、周りの男子は半ば呆れていた。

「・・・。なんか、韓国俳優に六、七〇代のおばちゃん連中が集まってるみたいやな」

と僕は、心の中で思った。

 昼時になって、コンビニに買いに行く奴や、母ちゃんの手作り弁当をこそこそと隠しながら食べる奴が出始め、僕は、後者の母ちゃんの手作り弁当を

ムシャムシャと有難く噛み締めていた。

 そこへ、すっと、二本の足が見えた。

ん?とウインナーを食いながら上を見上げると、林がぬっとそこに立っていた。

 僕は、突然のことで、ウインナーを落としてしまい、まるで恥じらいだ女子のようになってしまった。

 「俺、リレーやんだ。アンカーの。お前もやるんだってな。ま、後程ってことで。宜しく。」

と、笑顔でそれだけ言うと、すっとまた風のように去って行った。

 僕はまだドキドキして、一瞬何が起こったのか分からなかったが、時間が経つにつれて段々驚き始めていた。

 僕はそれからというもの、なんだか落ち着きがなくなり、午後の玉拾いやら綱引きやらにゆっくりと観賞することも出来ず、リレーのことしか

考えられなくなっていた。

(アンカーかよ~・・・)

 僕は、それまで自分がアンカーであることにかなり自信があった。中学時代、陸上部で慣らした足を持ってたし、地区大会で優勝もしていた。

(なんでこんなビクビクしてんだ?)

 久しぶりの胸のざわつきに、すっかり気分が滅入ってしまっていた。

 それは、やはり、林の登場が原因だった。

いや、いくら相手が林といえど、僕が勝つのは分かっていた。林は、運動音痴ではなかったし、どれもそつなくこなしていたが、やはり、地区大会で優勝してる

奴が相手じゃ、さすがに勝ち目はないというわけだ。

 だが、僕としては、そういう勝敗がどうこうというわけではなかった。

 どういう形であれ、林と勝負だけはなんとなくしたくなかった。

 やはり、林は僕にとってはずっとヒーローであり、目指すべきものであり、近くにいてずっと遠い存在でいて欲しかった気持ちが強かった。


 かといって、この状況を逃れられるはずはなく、リレーが始まるというアナウンスの後に、すごすごとアンカーのスタートラインに立った。

 林は、既に先に来ていて、腰に手を当て、よぅっと小さく声をかけた。僕もおうっと答えてはみたものの、まだドキマギしていた。

 他、三組から八組までのアンカーの顔ぶれはまあ、至って「これは勝てるだろうな」というメンツが揃っていた。いや、林にも勝てる自信はあったが、

なぜかその時僕の頭の中では、林だけは除外されていた。

 リレーは最後の種目とあって、異様の盛り上がりを見せていた。林は隣で、

「すげえな。」

とその異様な光景を見ながら感想を述べていた。

 僕は、ああ、と返事ともつかぬ返事をして、リレーの行方を見守った。

 

「なあ。」

と僕は、ふいに林に声をかけた。こんな短い間で何が聞けるだろうと、自分でも思ったが、聞かずにはいられなかった。

「どうなったんか?」

林は、僕のそれだけを聞いて、何を聞かれたのかすぐに分かったらしく、ちょっとだけ笑って、

「今のとこ落ち着いてるじ。一時はどうなるかと思ったけどな。」

と答えた。

 そうか、と僕はそれ以上、聞いてはいけないような気がして膝を抱えて黙り込んだ。

 第一走者、第二走者、第三走者・・・と順番が回ってきて、そこまでで、一位が六組、二位が八組、三位が一組、四位が五組、そして五位が二組だった。

 二組は、第二走者と第三走者につなぐ時に、バトンを落としていた。それで一気に二位から五位に転落してしまった。その時「何やってんだよ~」という

非難の声が二組から聞こえた。

 が、すぐに、アンカーが地区大会でも優勝したことのある倉橋だから、倉橋に一斉に注目の目が向けられた。

「くらっち~!!ごぼう抜きだあ!」

「挽回、挽回~」

と、二組から応援なのか野次なのか分からない声援が聞こえてきた。

 とうとう、アンカーの番がきた。一位からどんどんとバトンをつなぎ、林も黙ってスタートラインに着いたやいなや、さっとバトンをつないで颯爽と走っていった。

 倉橋も、ぼやぼやとしてられず、第三走者の「頼む!」という言葉を背に、バトンをつないだ。

 どんどんと、前に走ってる奴らの背中が近づいてきて、五組を追い抜いた。

 その瞬間、ギャアっと悲鳴のような声援が二組と五組のほうから聞こえた。普通の学校生活でこんなに白熱したことってあるだろうかというぐらいに、

周りは白熱していた。

 あっと言う間に、林の姿が目に映った。僕は一瞬ためらった。が、気がついた時には追い抜いていた。

 そのまま、八組も捕らえて、走り終わった勲章として二位という旗が与えられた。

 林はその後の三位で入ってきた。

 はぁはぁと声をあげ、膝に手をつきながら、林は

「やっぱ、はえ~な」

と笑いながら僕に言ってきた。

 僕は、なぜか不思議で、そして、やるせない気分に陥った。素直に万歳と言えない心境に襲われた。

 二組のところに戻ると、

「やっぱ、くらっちすげ~な!」

「さすがだな~」

と、頭や肩をぼんぼんと叩かれて褒められ、ニヤニヤと

「なんだよ」

と言いつつも、どうも、心の底から嬉しい気持ちというのがこみ上げてこなかった。そして、その日はしばらくハヤの姿をしっかりと見れない自分がいた。




 二学期が終わって、本格的にみな、受験体制に入った。三学期なんて、あって、ないようなものだった。

 僕は、志望校を四つに絞り、挑戦校・希望校・合格圏内・滑り止めに分けていた。

 浅田は、僕と同じ大学に行きたいらしく、しきりに僕の受ける大学を聞いてきては、

「もっとレベル下げろよ~」

と無茶な注文をしてきた。

 浅田が、一〇校も受けると聞いて、僕は、

「そんなに受けんのか?」

と驚いて聞いてみたりしたが、

「心配なんよ~。俺、まだまだ足りないぐらいだと思ってるじ。」

と驚き発言をしていた。

 受験代も馬鹿にならんのにと思ったが、まあ、浅田の家はあの教育ママがついてたら、そりゃ10校も20校も受けさせるだろうよと、変な納得をしていた。


 林はといえば、二学期の最後の模試でやっとランク表に舞い戻ってはいたものの、それでも一・二年ん時の勢いはどこへやら、やっと載りましたという感じで、

まだ全くもってヒヤヒヤものだった。

 浅田も、違うクラスといえども、同じ中学だったというよしみもあり、時々僕に林のことを聞いてきた。

 

それは、二学期の終業式が終わった時、浅田が例のごとく二組にやってきて、「おう、浅田~」「ようよう」なんていう挨拶を二組の連中らと交わしてから、

僕のところにまっすぐに来た。

僕は、放課後のミニテストなるものを鞄の中に片付けていた最中だった。

浅田は、当然のごとく、前の席の椅子にどっかと座り、こっちを向いて、

「お疲れちゃ~ん。」

と、どこぞの芸人の真似かよと思いつつも、僕も

「へいへい。お疲れちゃん。」

と調子を合わせておいた。それから、ぬっと顔を僕のほうに近づけて、

「ハヤ、どこ受けんのかなあ。」

と、聞いてきた。僕も多少は気になってはいたものの、どうもそういう事を本人から聞き出すっていうのは図々しい気がして聞いていなかった。それよりも、

ハヤはもしかしたら大学受けないかもしれないんだぞ。と僕は、衝撃の事実を思い出してしまい、浅田にばれたらまずいと悟った僕は、わざと目線をそらして

何も知らないふりをして答えた。

「さあ~・・・。」

「ハヤのことだから、やっぱ京大か東大かな?」

「さあ~・・・。」

「なんだよ、さっきから、さあ、さあって。お前、ほんとは知ってんじゃないのか?」

僕は、まずいっ、と思い、急にテンションが上がったみたいに大きな声で

「知らんよっ!」

とつい答えてしまっていた。そんな様子に気がつかないのか、浅田は、

「ほんまかや。くらっちにさえも言ってないんかあ・・・。ハヤ、だ~れにも言ってないらしいぜ。」

と、のんびりと答えた。

「まあ~。そういう事、あんまり言うタイプでもなかろうに。」

「あ~、まあそうだけどな~。中学ん時も結局最後までどこの高校受けたのか教えてくれんかったしな~。入学式ん時にハヤの姿見てびっくりしたぜ。

『なんで、ハヤがうちの高校におるわけ?』て。あのハヤだから、もっといいとこ行ってると思ったけどな~。」

浅田はそこまで言うと、昔が懐かしいのか、遠い目をした。

 それにしてもよくしゃべる男だ、と僕は思った。こんな奴と大学も一緒だったら、そりゃやっぱ面白おかしい大学生活が送れるかなとちらっとも思ったりした。

 



ハヤから連絡があったのは、自宅学習が始まっていた一月の中旬だった。

 その日は日曜日の午前中で、国立大を目指している奴らは、センター試験にちょうどあくせくしている時間体だろう。

 ハヤもそのうちの一人だと、僕は別に本人から聞いたわけでもないのに、そう確信していた。大学受けないかもしれないと言ってたけど、やっぱりセンターぐらいは

受けるだろ、と勝手にそう信じていたのだった。

 僕は、初めから私立一本と決めていたから、その日も朝からせっせと通信教育の難関私立大学対策問題集とやらをやっていた。

 倉橋家は、ほとんどといっていい程、親が勉強にうるさくない。その為、逆に自ら勉強しとかないといけないんじゃないかという危機に陥る。親があまり勉強せえと

言わないほうが、返って子供は勉強するんじゃないろうか、と僕は小学校の時から、身をもって感じていた。

 ちょうど、自分の解いた答えにマルバツをつけていた時に、携帯メールが鳴った。

(どうせ浅田だろ)

と僕はなんやと思い、携帯メールを見た。

 それは、思ってもみない人物で、僕は度肝を抜いた。ハヤにはいつもドギマギさせられる。

 短く一文だけあった。


「緑山公園まで、シキュウ頼む」


一体、何事かと、僕は慌てて部屋を出た。椅子から立った瞬間に、それまで解いていた問題集を落としたような音が聞こえたが、気にせず僕は靴を履いて、

自転車にまたがった。


息をはずませて緑山公園に着くと、ハヤは長い足を組んでベンチに座っていた。コーヒーを飲んでいたようで、脇には缶コーヒーが湯気をたてて置いてあった。

ハヤは、自転車の止めるキィッっという音に反応して、こっちを振り向くと「悪いな」と言って、立ち上がった。

僕は、そんなハヤの様子を無視して、

「お前・・・何で?センターは?」

と息をはずませて問いただした。

 ハヤは、あぁ、やっぱりそうきたかといったふうに、また腰を下ろしたかと思うと、

「すっぽかしちゃった」

と、笑いながら答えた。

「えっ!すっぽかしたって・・・。いいのかよ、人生の一大事だぞ。」

と、僕はなんでなんでと、子供のようにハヤを問い詰めたくて仕方がなくなっていた。


 ハヤは、そんな僕の様子を見て、まあ、とりあえず座れよ、と、ポンポンっと隣のベンチを叩いた。

 それから、ホイッとかなりぬるくなった缶コーヒーを僕のほうに投げてきた。このぬるさを見ると、ハヤはだいぶここに座っていたらしい。

 僕はおうっと、タブを開けて少しだけ飲んだ。

公園を見渡すと、ひとっこ一人いなかった。そりゃそうだろう。一月中旬のかなり寒い日だ。僕は、あまりに急いでいたせいか、手袋をするのを忘れていたようで、

缶コーヒーのぬるさを感じて、やっと自分の手がかなりかじかんでいることに気がついた。

それからしばらくして、僕は聞いた。

「やっぱ行かないんか?」

ハヤはゆっくりと説明した。親父さんのリストラ、九月にやっと再就職が決まったものの、前の給料よりは全然額が少ないこと、成績が下がったせいで母親との確執が

あったことなど。

 ハヤは苦笑いを浮かべながら、

「あ~。人生ってうまくいかないもんだなあ。」

と、しみったれたことを言ってきたので、僕は吹き出してしまい、

「どっかの映画に出てくる爺さんみたいなセリフだな。」

と言った。

 しかし、ハヤにとっては確かに、これは一大事かもしれなかった。今までずっと優等生できて、挫折という挫折も味わった事がなかった男が、今ここに来て、

二重も三重も災難続きじゃ、そりゃたまったもんじゃないってとこだろう。

 「お前、いろいろ聞いてんだろう?」

とハヤが突然、言った。僕はドキッとして、「えっ」と言ったが、ハヤは、「別に気遣わんでいいのに」とごにょごにょと笑いながら言った。

「まあなあ~。俺も馬鹿じゃないし、みんながいろいろ言ってんのは、そりゃ分かるよ。母親間でもそういう話題あるって、うちの母親、

恥ずかしいとかなんとか言ってたけどな。」

 そう言うと、ハヤはすっと立ち上がり、飲み干した缶を、ゴミ箱の中にシュッと投げた。それは、見事ゴミ箱の淵に当たって、綺麗に入った。

 僕はそういう林の立ち居振る舞いがなんとなくかっこ良く見えて、うらやましく感じた。


「お前、どこ受けんだ?」

とハヤは、ポケットに手を突っ込んで聞いてきた。ハヤがそういう事を聞いてくるなんて意外だなと思いながらも僕は答えた。

 ハヤは、ふうんと聞いていたが、急ににやっと笑って、

「俺は多分、みんながびっくりするかもな。」

と言ってきた。

 僕はなんだろうと思ったが、なんとなく聞くに聞けず、「なんだろう」と独り言のようにつぶやいた。

「まあ、卒業式間近になったら、大学合格者の名前、職員室のとこに貼られるだろ。それまでのお楽しみってことだよ。」

ハヤはニヤニヤ笑いながら言った。




5



僕は、その帰り道、一体ハヤが何を考えているのか到底見当もつかなかったが、それでも寂しさみたいなものを感じた。それは、親友だと思っていたハヤが、

僕にも教えてくれない事っていうのもあったが、びっくりするってことは、きっと他とは違う将来を見据えているんだという奴の考えを感じ取って、

(やっぱり、あいつは僕ら一般人とは違うんだ)ということをまざまざと思い知らされたからだった。




 二月に入って、怒涛のごとく本試験の連続が始まった。

 浅田はちゃっかり自己推薦で合格したらしく、暢気に僕にメールを時々よこしてきた。それは、本当にしょうもない内容で、というのは、大学に入ったら

可愛い子ちゃんがわんさといるかもしれないとか、いきなりモテちゃたりしてとか、(それはない!)と突っ込みメールを出してやろうかと思ったが、

そんなことよりもとにかく今は、試験直前の真っ最中なんだぞと、自分で自分をを引き締める事だけに集中した。

 

合格通知が来たのは、まだ冬の寒さをひきずった三月の初旬で、受かると思っていたところが落ちていたり、ここは受かんないかもなあと思っていたところが

受かっていたりと、僕にとってはかなりの仰天結果ではあったが、それでも一応希望校は受かっていたので、一安心した。

 母親の美千子は、僕以上に心配していて、合否通知が来る当日はずっとソワソワしていた。そんな様子を見かねて、高校一年の妹に

「ちょっとは落ち着いたら。」

とたしなめられていた。


 あ~、やっと受験終わったよ~と、僕はこの三年間の戦いの終焉に、そこそこ満足していた。これでひとまずはゆっくり出来る事が嬉しかった。

 林のことは当然、頭の中にはあったが、自分が希望校に受かった事を知らせるべきか悩んだ。

 もしかしたら、大学に行かないかもしれない、それとも夜間か?という疑問が脳裏に浮かんで、そういう奴に向かって、希望校に受かったのなんだのと言うのは、

どうも酷な気がして、言えなかった。




 卒業式まで一週間前の月曜日、久々に登校日があった。

 思ってもみなかった大学に合格して自慢してる奴や、女子の中では短大にしか受からなくて涙を浮かべてる奴などいて、教室の中は騒然としていた。

 僕は、学校に着くやいなや、鞄を机の上に置くと、まっしぐらに職員室に向かった。

 相変わらず、遠いよなと思いながらも、足取りは徐々に早足になっていた。

 職員室の前は、三年生の他に一・二年の生徒も混じっていて(一・二年といってもほとんど女子生徒だが)、かなり人でごった返していた。

 僕は人を掻き分けて、職員室の前に貼られている合格一覧者表の前に立った。

 三年は興味深そうにじっと静かに見ては、隣の奴となにやら耳打ちをしたりしていたが、一・二年の奴らは、憧れの先輩の行く大学先にキャアキャアと

色めき立っていた。

 それは、クラス順で、出席番号順に書かれていて、名前の前にはピンクのティッシュで作られた花のバッチがつけられていた。名前の下には、

合格した大学名が書いてあり、大体、どの奴も二・三校は書かれてあった。浅田のところは、自己推薦で受かったにも関わらず、

その後も冷やかしなのかなんなのか、

結局十校全て受けた痕跡として、五校も大学名が書かれていた。

 僕は、胸をドキドキしながらも、平静を装って、一組のところを見た。

 荒木・石井・石川・上野・大沢・・・と順番に左のほうに目線をずらしていき、林 雅徳のところで視線は止まった。

 そこには、一校だけ、しかも聞いたことのない大学名が片仮名で書かれていた。

 僕は、目を大きく見開いた。思わず声に出そうになるのを必死で押さえ、気がつくと一組の教室に向かって走っていた。


 まさか、そんな・・・と僕は頭の中がグワングワンと大きく揺さぶられているような感覚をもった。ハヤがそんな事を考えているなんて思ってもみなかった。

僕は、走りながら少し泣きそうになっていた。

 「おいっ!」

僕は、一組の教室のドアをガラッと開けると、ハヤの姿をとらえるやいなや、思わず大きな声でそう言っていた。その後すぐに、

一斉に一組の奴らがこっちを見たので、あっ、とすぐに自分の声の大きさに気がつき、ちょっと恥ずかしい気がした。

 ハヤは驚いた顔をして、黙って僕のところに来た。

「なんだよ、怖い顔して。」

ハヤは、ちょっと狼狽したような顔をして、メガネを直した。

「いいから、ちょっと。」

と、僕は無理矢理ハヤの腕をひくと、一組の奴らも、なんだなんだ、喧嘩かよと驚き面白がってるふうな雰囲気を見せていた。


 僕は黙って、学生ホールまでハヤを連れ出した。

 椅子に座ることもなく、僕は急にさっとハヤのほうに振り向くやいなや、

「留学するんか?」

と問いただした。

「見たんか。」

「見た。どこ行くんだよ。」

僕は、どうしてか、泣きそうだった。それを見られまいと、少し下を向いた。

 ハヤは、窓の淵のほうに手をかけて、校庭の様子を見ながら言った。

「行くって言っても、二年後だよ。一・二年は日本にいる。」

「え?」

「一・二年は日本にあるんだ。キャンパスが。三年からアメリカだよ。」

「日本てどこの?」

「新宿。別に遠くはないだろ?お前んとこの大学と。」

「まあ・・・。そりゃ同じ東京だけど。」

僕は、少しずつ落ち着きを取り戻してきた。それでもなぜか、まだ気分的には崖から突き落とされたような気持ちであった。ハヤが留学することには変わりない。

 外の校庭では、一年がこの寒い中、走り幅跳びをやっていた。遠くのほうでピッと笛の吹く音や、それに合わせて鳴る靴の音が聞こえた。

 僕は、浅田も林も僕も、それぞれの道に歩き出している事を悟った。ああやって、和気藹々と走り幅跳びをやっている一年の連中も二年後にはバラバラに

なってしまうことを、悟っていた。

 「・・・留学するなんてなあ。」

僕は感慨深く言った。

「びっくりしたろ?」

林は、ニヤニヤと笑った。

「奨学金も出るしさ、アメリカの寮も格安だじ。なかなか良い選択だって、自分でも感心するしな」

と、ハヤは笑いながら言った。

けど、僕はなんとなく笑えず、ああ、と上の空でうなずいた。びっくりするってこの事だったのか、と僕は全くしてやられたような気持ちになっていた。

そして、急激に寂しさを感じた。




 ハヤのこの選択は、学級内でもかなりの話題になっていた。教室に戻ると、わっと僕の周りにみんなが群がった。

「喧嘩吹っかけたんかよ?」

と、ニキビ面の近藤が僕の肩に手を置いて、話しかけてきた。

「・・・喧嘩?」

僕が怪訝そうに顔をゆがめると、後ろにいた奴が、

「林をものすごい勢いで連れ出したって、さっき一組の奴らが、興奮して来たぜ。」

と言ってきた。

 全く、こういう事となると、教室が離れてるといえども情報網が早いよなと呆れながらも、

「喧嘩なんかしてないよ。」

と、ちょっと半笑いで答えた。

「でも、何かは話したんだろ?」

と、近藤は非常に興味ありげに聞いてきた。僕は、いや、たいした話はしてないよとさりげなく交わしたが、周りの連中は、

「それにしても、アメリカの大学なんて林も考えたよなあ。」

「やっぱ、あの男は何かやると思ってたぜ。」

と、好き放題な事を言っていた。

 近藤はもう、僕がだんまりを決め込んでいる事を悟ったのか、もう周りの奴らとガハハと下品に笑い合っていた。




 その日、久しぶりに僕は、浅田とハヤとで夕飯を食う事になった。

 学校が終わった後、商店街の中にある、しょぼい小さなファミレスで落ち合うことにした。

 僕が着く頃には、浅田とハヤは既に来ていて、なにやら楽しそうに談笑していた。

 浅田がめざとく僕を見つけ、大きな声で

「おう、こっちこっち~」

と笑顔で手を振った。僕に対応しようとしていたウェイトレスがあら、という顔をしたので、僕は、ちょっと気まずそうにそそくさと席についた。

 浅田は、僕が席に着くと、とにかく早く乾杯がしたかったみたいで、既に用意してある水を僕に持たせ、

「まあまあ、何はともあれ、合格おめでとう!」

と、勝手に自ら乾杯の音頭をとり、オレンジジュースをぐいっと一気に飲み干した。

 ハヤは、烏龍茶を飲んでいるらしかった。

既に二人は注文を済ませていたようだったので、僕も急いでメニューを広げ、適当に刺身定食とドリンクバーを注文した。

 それからしばらくは、あのモテモテの柳井 悠は、まだどこも受かってなくて、女子から大ブーイングだの、四組の山本は受験が終わって、

意を決してえっちゃんに愛の告白をしたにも関わらず、冗談だと受け取られて、あののほほんとした口調できっぱりと断られて、えっちゃんの為に

英文科にしなきゃ良かったと悔やんでいるだのといった話を、浅田がずーっと、面白おかしく話していた。

 十五分ほど経つと、三人いっぺんに食事が運ばれてきて、ハヤは山菜そばを頼んだらしく、メガネが曇らないようにメガネを外した。

 僕は初めて、ハヤがメガネを外す顔を見た。

そこに、浅田が、僕が今思った事を口に出した。

「なんや、ハヤ、お前、メガネかけないほうが断然男前だぞ。」

ハヤは、そんな事初めて言われたと、ちょっと照れ笑いを浮かべていたが、急に真面目な顔になって、

「ずっと黙ってて悪かったな。」

と、言った。

 一瞬、何の事か僕も浅田も分からなかったが、すぐにややあっと気がついた。

「まあ、お前が決めた事に俺らは何も口出しできんしな。なあ。」

と、浅田が僕に話しかけた。

 それから、いつともなく、ハヤはその日はかなりよくしゃべった。これからの大学生活のこと、アメリカに行ったらメジャーを見に行きたいとか、

ハンバーガーはさぞかしでかいんだろうなとか、ほんとに、どうでもいい他愛もない話だったが、僕には何だか、それがすごくうらやましく、

かっこよく感じられた。浅田はしきりに感心して、相槌をうっていた。

 僕はといえば、こうやって三人で飯を食ったりするのも、もうあまりないんだろうなあと感傷にふけっていた。




 こうして、僕らの高校生活は幕を閉じ、それぞれ別々の道に進んだ。




 三月の後半になると、倉橋家は急にバタバタとなった。妹の加奈は、塾に行きたいと急に言い出して、

「二年になったら、そろそろ塾に行っておかないと。勉強も難しくなるし。」

というのが、建前の理由だったが、実際は仲の良い友達が塾に行くからというのが、本当の理由であった。

 僕は、来たる新しい大学生活に、少しばかり心が浮きだっていた。スーツを買いに行ったり、鞄を新調したり、教習所にも通うようになり、

忙しい日々を送っていた。その間、ハヤの事が気にならないわけではなかったが、もう自分とは全然遠い存在になってしまったような気がしていた。

 教習所には、何人か知ってる顔もあって、

(なんや、考える事はみな同じだな。)

と、ちょっとおかしく思った。その中には浅田もいて、お互いの顔を見た途端、お互いとも吹き出してしまった。

「やっぱ、考えることは一緒だな。」

と、これまた浅田が、僕と同じ事を感じて言ったので、久しぶりに僕はゲラゲラと笑った。


 卒業した今でも、こうやって高校ん時の知ってる奴に会うと、なんかまだ、卒業していないような錯覚に陥る。

 

「あれから、ハヤからなんか連絡あったか?」

浅田が、そう聞いてきたのは、三月も下旬の、教習所からの帰り道だった。その日は偶然、講習が一緒で、けど、人の多さに最初気がつかず、

教室を出る時に、浅田の馬鹿でかい声に気がついて、声をかけたのだ。

 自転車を二人で押しながら、ゆっくりと歩いて帰っていった。浅田の質問に、僕は

「いや、特に何も。」

とあっさりと答えた。

バイトと教習所の両立に多少疲れがあり、あまり頭が回らなかった。




 それから、入学式が終わったかと思うと途端に、大学生活は始まった。たくさんのいろんな人に押し流され、田舎出の僕はそのめまぐるしい

状況についていくのがやっとだった。

 僕が通っている江古田キャンパスは、緑に囲まれ、都心から近い割には、静かな環境で、大学生活には申し分なかった。

 大学なんて、いろんなところから学生は来るから、さぞかし変な奴もいるんじゃないだろうかと思っていたが、うちの大学はそうでもなく、

割と男も女も地味で真面目な学生が多かった。


 一年の間は、専門よりも一般教養のほうが多い。僕は単位取得の為に、さほど得意でもない数学を取ったりして、「なんで政治経済学科なのに、

数学やらなきゃいけないんだよ。」とぶつくさ心の中で文句を言いながらも、大人しく講義に出ていた。

 その講義を受けながら、「ああ、ハヤはもっと難しいことやってんだなあ」とふと思い、改めて感心せざるを得なかった。

 合コンとかサークルとか、よくわかんない催し物に、仲良くなった奴から誘われたりもしたけど、どうも、僕はそういう事にはとんと疎く、

バイトと学業に時間を費やしていた。

 同じ大学に入った一組の荒木とは、高校時代クラスも違うし、会話も交わしたことはほとんどなかったが、同じ高校だったというよしみもあって、

学科は違ったけど、すれ違うと、一応よう、とか、おうとかそういった類の挨拶はしていた。

 荒木という男は、散々ハヤをライバル視していたが、ハヤが留学予定のある大学に進学することが分かった途端、ハヤにはかなわないというか、

そもそも向くベクトルが違うことを思い知らされて、それきり悪い噂をすることもなく、新しい大学の友達とつるんでいた。





6



僕はといえば、特段誰かとすごく仲良くなるということもなく、時々同じ講義でよく見る顔の奴とはちょっとしゃべったりもしたけど、基本的には

単独行動だった。でも、僕は大学なんてそんなもんだろと思った。一年の夏頃までは、浅田もハヤとも時々連絡して、飯を一緒に食ったりってのもあったけど、

それも夏を過ぎる頃には、段々と回数が減り、いつの間にか連絡もしなくなっていた。

 ちょっとそれには寂しさを感じたけど、でも人間関係なんてそんなもんだ。その場その場の新しい奴とつるむっていうのが習性っちゅうもんだと

割り切っていた。。

 そんなわけで僕は、せっせと講義に出ながらバイトに明け暮れ金がたまったら一人旅なんぞを楽しんだりして気ままな大学生活を送っていた。


そんな日々を過ごしてあっちゅー間に時が過ぎて荒木が話しかけてきたのが三年の夏頃、ちょうど前期試験の真っ最中だった。

コンピュータ室で、一人ネットゲームをして、次の試験までの暇つぶしをしていていたところ、隣の空いている席に見覚えのある顔がよっこらしょと

腰をかける姿が目に入った。

荒木は、高校時代の様子とはだいぶ変わって、かなり伸ばした髪を茶髪に染めていっちょまえにウェーブなんかもかけていて、今時の大学生といったいでたちに

変身していた。

一年の頃は、まだ高校の面影があったのに、あれから二年も経つと、人ってだいぶ変わるんだなあと、僕はひきこもごもしながらその変わった姿を見張った。

 久しぶり、とか次の試験何時からとか、他愛もない会話を交わしてから、荒木は本題に入った。

「そういえば、ハヤ、今日本に帰ってきてるみたいだぞ」

僕は、久しぶりにハヤというあだ名を聞いて、一瞬にして、あの高校時代の、教室の古臭い匂いや、一緒に商店街を歩いた時の騒々しい音や、

白い息をはずませながら自転車で緑山公園まで走った息づかいとか、全てが頭の中に蘇った。

 僕は、え?と手が止まった。

「うちのおふくろと、林の母親が同じパート先でさ。そこで、聞いたらしいぜ。」

 「へぇ~・・・」

僕は、それ以上言えることもなく、ただそう答えた。荒木は、パソコンをいじりながら目線はそのままに、話しかけてきた。

「懐かしいなあ。俺、ハヤが留学するって知った時、なんかすっげ~くやしかったんだよなあ。あの時。懐かしいなあ~・・・。」

荒木は、懐かしいという言葉を何度も口に出していた。やっぱり、ハヤは、僕にとっても荒木にとっても、なんとなく手の届かない存在で、

でも少しだけうらやましくて、それでいてくやしいような不思議な気持ちにさせてくれる存在だった。




 ハヤが、アメリカの大学の日本校に進学するというのは、学校としても初だったらしく、先生方としては新実績として嬉しい事には変わりなかったが、

それでも難関国立大の理系に現役合格して欲しかった、という多少の本音もあって嬉しいけど残念みたいなすっきりしない感があったようだった。


 僕は、あの時、ハヤが留学予定の大学に進学を決めた事に、すごく置いてけぼりを食らったような寂しさに陥っていた。

けど、僕も大学に進学して、新しい生活や新しい環境にもみくちゃにされるにつれて、段々、ハヤのやり方に笑いがこみあげてきていた。

(まったく、どこまでも驚かせてくれる奴だな)

ハヤは、全くといっていい程、頭が良いと僕は本当に感心していた。

 学校の重圧にも、クラスの嫌味にも、家族の批難からも、それら全てをうまく交わして、自分一人で決めたのだ。それも、誰も思いつかなかった方法で。

あのセンターも、母親の目をだまくらかして申し込んでおきながら、実は、裏で密かにアメリカ行きの準備を着々と進めていたのだ。

 僕は、声をあげて笑いたくなるような衝動に駆られた。

 やっぱり、あいつは僕にとっては、ヒーローだったんだ。




 僕は、大学を終わると、すぐにハヤの実家に電話した。僕は、まるで子供みたいにウキウキしていた。ずっと、帰ってきたヒーローを待ちわびていたかのように。

 母親の、

「おかえり~。プリンあるよ~。」

という言葉を背に、僕は子機をむんずとつかまえて、二階まで駆け上がった。

 あら、なによ、返事もしないでとかなんとかブツブツと母親の小言が聞こえたが、構わず自分の部屋に直行した。

 懐かしい電話番号をプッシュしながら、僕は一呼吸した。

「もしもし、倉橋ですけど。あの、雅徳君と同じ高校だった。」

電話の声の主は、ハヤの母親のようで、僕のことを覚えていたらしく、

「あら~、倉橋君!久しぶりねえ。元気だったあ?」

と、のんびりとした口調で返ってきた。僕はえぇ、まあ、一応とか、なんか照れくさくてぶっきらぼうに答えてしまった。

 「よう、くらっち、久しぶりじゃんか。びくりしたじ、お前から電話かかってくるなんて。」

母親から電話を代わったハヤは、矢継ぎ早に言った。二年半ぶりに聞いた、懐かしい声だった。久しぶりに旧友と話すっていうのは、少しだけ勇気がいるというか、

気恥ずかしい気持ちがした。

 僕は、なるべく落ち着きをはらった声で答えた。

「お前、日本に帰ってきたって、ちょっと風の噂で聞いたんよ。」

 ハヤのふっと笑う息遣いが聞こえた。

 そうだ、これだったんだ、と僕は泣きそうになるような懐かしさに襲われた。

 ハヤの、ちょっとうつむきながら、メガネを指で押さえながら、ちょっと照れ臭そうに笑う仕草が、僕は好きだった。好き、というのも変だが、

かっこよく感じられる仕草だった。

 「情報、早いんだな。」

ハヤは参ったな、というような感じで笑いながら言った。

「まあ、小さな街だからな。」

その後、電話も手短に切って、緑山公園ですぐに会おうということになった。




 僕は、あの時のように自転車で風をきるように走った。自転車をこぎながら、僕はあの時のことを思い出していた。

 かじかむ手も寒さを忘れて走ったこと、鼻が赤くなっていたことも気がつかなかった位に必死だったこと・・・。

 そう、僕らは、あの時必死だった。ずっとずっと三年もの間、あの小さな狭い世界でもがいていたこと・・・。僕はハヤに話したいことがたくさんあった。

それよりも、ハヤが一体、高校を卒業してどんな二年半を過ごしていたのかを聞きたかった。

 

緑山公園に着くと、あの時のようにハヤはベンチに座って足を組んでいた。

 僕はゆっくりと近づいた。

 あの時と全く同じシチュエーションだったが、僕らは何かが違った。それは、うまく言葉には出来ないけれど、懐かしさと新しさが交じったような不思議な気持ちだった。

 ハヤは、笑顔で僕を迎え、そして立ち上がった。

 あの時と、何も変わっていなかった。黒縁メガネと、色白な肌に、ブルージーンズと白いTシャツといういでたちだった。

 車で来たらしく、公園の壁にぴったりつくように黒い車が停められていた。

 駐禁が怖いので、僕とハヤはそのまま、何かに追われているかのように急いで車に乗り込み、自転車は公園に置いておくことにした。

 そして、話の流れから、高校に行こうということになった。


 ハヤの運転は、まるで模範運転のように丁寧だった。そして、その運転している姿を見て不思議な感じだった。ハヤと車、というのはなんだか不釣合いで

似合わないような気がした。でもどうしてそう思ったのか、すぐに納得した。僕の頭の中では、高校時代のハヤの姿で止まっていたから。

 BGMは、その時流行りの軽快な曲が少量のボリュームで流れていた。シンセサイザーの音が耳に心地よく聞こえる。と、いうか、ハヤがこんな曲を聴くなんて

意外だった。そもそも、ハヤは流行の服とか、流行の音楽とかそういう若者向けな雰囲気が似合わないような気がしていたから、

「ああ、ハヤもこういうのを聴くんだなあ。」と僕は変な感心をしていた。


 高校に着くと、僕らは車を降りた。ちょうど高校も夏休みで、校舎の中はあまり人がいないようで、シーンと静まり返っていた。校庭では、野球部やテニス部の連中が、

時々掛け声をかけながら練習に打ち込んでいる様が見えた。

 事務室で手続きを取ってから、僕らは一組の教室に向かった。途中、岸に会うんじゃないかと身構えたが、

「卒業して二年もたつのに、なんで岸なんかにおじけてんだ?」

と自分をおかしく感じた。

 無事一組に着くと、ハヤは懐かしいなあと言いながら、自分が座っていた席についた。

懐かしい匂いがした。こないだまで、まるでそこに座っていたハヤの姿が思い浮かんだ。

時々、夏草の匂いと共に、白いカーテンがふわりと舞った。

 僕は、ハヤに話したいことが沢山あったが、ハヤの顔を見た途端、それらはどうでも良くなっていた。

 ハヤがアメリカに再び発つまで、まだまだ時間は沢山あるんだ。ゆっくり話していけばいい。

 教室は、段々夕闇に包まれていき、机も椅子も赤く染まっていった。

 僕らは、窓辺に立ち、夕日が沈むのを眺めながら、ゆっくりとそれまでの事をお互いに話した。


話しながら、車の中で聴いたBGMが、まだ頭の中で流れていた。

 おそらく、男性が女性に対して歌った歌詞なのだろうけど、僕には、なんだかその歌詞が、僕の気持ちを見透かしているような感じがして、これは偶然なのだろうか、

それともただ単に自分がそう思っているから、歌詞もそのように聴こえるのか分からなかったが、良い歌だと感じた。良い歌だと感じたのは、

それはやっぱりハヤがBGMとして聴いていたからだろう。そんな気がしていた。


 ハヤは、「やっぱりアメリカのハンバーガーはでかかったぜ。」とか、「大学にはいろんな人種がいて、とにかくびっくりした。」とか、そういった事を、

冗談を交えながら話した。

 僕は話を聞きながら、今までの自分を恥ずかしく感じていた。それと同時に、「もっと頑張らなきゃな」と、いつの間にか奮い立っていて、そんな自分に気がついて

僕は(あの時と何も変わってないじゃないか)と、すごく懐かしくて、おかしくて、そしてそう思えた自分がいたことに嬉しかった。


 そうやって、僕らは辺りが暗くなるまで、ぼんやりと外の景色を眺めながら語った。


 僕は、すごく不思議な感覚だった。

 こうやって、また教室で二年後のハヤと一緒に過ごしていることに。

 そして、言葉少なながらも、ハヤの話を聞いている自分がここにいることも。


 校庭の遠くのほうで、野球部が帰る支度をしている声や音が、うっすらと聞こえ始めていた。

 

僕は、ずっとずっと、どうやってハヤが留学を決めたのか知りたかった。あの憎たらしい岸の鼻をあかし、学校の陰謀を見事に交わし荒木や渡辺の嫌味やクラスの悪い噂を

吹き飛ばし、なおかつ奨学金制度で経済的な面も思慮に入れて、しかも留学という形で自分の進路を決めたこととか、とにかくそういう事が聞きたかった。まるで

子供がヒーローの武勇伝を聞きたがるかのように、僕もハヤに、それらを全て聞きたかった。

 

 しかし、ハヤがアメリカでの刺激的な生活を送っている事や、様々な人種に交じって、僕が出来もしない英語で楽しく話しているハヤの姿を想像して、

そんな昔のことはもうどうでもいいじゃないか、と夕日が落ちていくに従って、そう感じられるようになっていた。


 僕は、全てが終わって、そして、またこれから新しい事が始まるような、満足感とワクワク感が交じったような、不思議な感覚だった。

 すっかり流暢になっているであろうハヤの英会話を、聴かせろよと冷やかしで言ったけど、ハヤは恥ずかしがって最後まで言わなかった。


 それでも僕は満足していた。それでいて、鼻の奥がツーンと痛くなるような気持ちを、感じていた。            



                             了





短編以上の小説を、と思い初めて中編に挑戦し、かつ初めて出版社から連絡があり、

「もう一本書いてみないか」と打診を頂けた作品です。

(その時は自信がなく断ってしまいましたが)


今改めて読み返すと、凄く粗いし主語は多いし表現は稚拙だし勢いだけで書いたなというのが

丸わかりで恥ずかしいのですが、それでも初めて人から認められた作品だということ、

自分の昔の実力を把握して今後もっと成長していきたいと思わせる活力材料として、なるべく

加筆修正せず掲載しました。

題名はその時仮の題名だったのですが、どうしても納得がいかなかったので

出版社に出した時とは違うもので、他の作品で使っていた題名のほうがこちらの作品に

合っていることに気づき、代えました。

その為作品内容からは全く読み取れない題名になっていますが、「コバルトブルーが愛しくて」

という題名自体がすごく気に入っていてどうしても使いたかったということと、青春小説は

文字通り「青い春」という漢字を使っていますが、私の中で高校から大学というのはもうちょっと

深い青のイメージがあったので「コバルトブルー」を使用させて頂きました。


この作品は大学受験をテーマに書いている為、読み手=10代~20前後だということを踏まえ、

なるべく軽快にしつつ学校・親・友人と誰もが通過する狭い環境の中での葛藤を描きました。

大人になれば、「あー、あんなちっぽけな世界で何を悩んでいたんだろう」なんて思う時も

くるかと思いますが、その時その時はその世界が全てであって全力で生きていた―大人になっても

そんな風に懐かしんでもらえる作品になれたらいいな、と思います。


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