第3話 『嫌いなそれと、不安なそれと』
「お前の目の色、なんかおかしいよ!」
「なんで***くんの目は、緑色なの?」
「何だ、その目。カラーコンタクトか? さっさとはずせ」
「本物じゃ、ないよね? 普通の色じゃないもんねぇ」
違う。
「***って、少し気持ち悪いよね。笑わないし、すぐ物壊すし」
「しっ。あいつ、耳良いから聞こえるぜ」
「嘘!? うわ、こっち見てるし」
違う。違う。
「あの子、また窓ガラス割ったらしいわよ」
「怖いわねぇ……。日向さんとこも災難よね、あんな子預かって」
「うちの子には、あの子に近づかないよう、言っておかなきゃ」
違う。違う違う違う違う!
なんでだよ、なんでなんだよ!?
ぼくじゃない。ぼくのせいじゃない。ぼくは、何も悪くない!
ぽこぽこと、吐き出した息が白い泡になって、緩やかに水面へと浮上していく。ドルフィンリングでも作ってみようかと思ったけれど、面倒だからやめた。無駄に酸素を使う必要もないし。
「休憩時間だぞ、全員あがれー」
「水分補給忘れるなよ」
「あれ、桜庭は?」
ぼんやりとしていると、水音に紛れてプールサイドの話声が聞こえた。どうやら、休憩時間になったらしい。が、俺の存在なんてどうせ忘れられているので、自分から動く気は微塵もない。
俺がいるのは、無駄に広いプールの隅の方に(なぜか)設けられた、潜水用のスペースだ。しかし、部員の大半が泳ぐ方が好きらしく、実質ここは俺専用スペースになっている。一人で沈んでいるせいで、存在を忘れられていることが、しょっちゅうある。時々、忘れたフリをされてるだけなんじゃないかとか、嫌われているんじゃないかと思うことがあるが……まぁ、あながち間違ってはいないだろう。
「桜庭ァ! 休憩時間だぞ、上がってこい!」
「今日はマネージャーが、クッキー焼いてきたぞー!」
今日もどうせ忘れられているのだろうと、ぼんやりと水にかき乱された光を眺めていると、新田と部長の声が聞こえた。水の中まで聞こえるように、という配慮だろうか、大声で叫んでいる。だがしかし、俺には叫ばずとも普通に聞こえるのだ。……でも、その小さな心遣いが嬉しかったりする。仕方がないから、プールの底を蹴った。
「クッキーとか。すげぇな、マネージャー」
ざぶり、と水面に顔を出してから言うと、部長と新田がひどく驚いた表情で、俺の方を向いた。呼んでいた場所と、俺がでてきた場所が、若干違ったらしい。
「桜庭お前っ……! 驚かせるんじゃねえ!」
部長が、こわばった表情のまま叫んだ。せっかくの美形なのに、表情のせいで全て台無しだ。ファンの娘が見たら、さぞがっかりするだろうな。なんて思いながら、小さく謝罪を述べる。
ちなみに、驚かせるつもりなんてこれっぽっちもなかったから、少し腑に落ちなかったりするのだが、まあ良いとしよう。とりあえず、プールサイドへと上がる。少しだけ、新田が身構えていたが、今日は別に水をかけるつもりはない。別に俺は、そこまで意地は悪くない。
「え? 桜庭くん? ……忘れてた、どうしよう……」
とりあえず、パラソルの下に移動しようかと歩き出した時、遠くからマネージャーと他の部員との会話が聞こえてきた。やっぱり、俺の存在は忘れられていたらしい。がっかりだ、俺の分のクッキーはないようだ。どうしようかという話し合いの声が聞こえる。別にそれくらいで怒るほど、俺は短気じゃないんだけど。それより、忘れられても構わないと思っていても、いざ本当に忘れられると、悲しくなる。
「……? 桜庭? どうしたんだ?」
部長と新田には、当然ながら聞こえていないらしく、思わず足をとめた俺を不思議そうに見ている。羨ましいよ、ごく普通の聴力を持っている人間は。俺だって、こんなのいらなかったのに。
「……いや、大丈夫。悪いけど、マネージャーに伝えといて。クッキーもお茶も、俺の分はいらねえよって」
声が震えて細くならないよう、吐き捨てるように言う。事情のわからない普通のやつには、俺がただの失礼な奴にしか見えないだろう。実際、部長にはそう見えたらしくて、彼は何か言おうと口を開きかけた。
「あー、ほら、ストップ。菊池、行くぞ。桜庭も、死なない程度にな」
俺の聴力について知っている新田が、部長をとめてくれる。部長は、まだ言いたげな表情で俺を見ていたが、一応教師の言うことだ。しぶしぶといった様子で、新田とともにマネージャーのいるパラソルの下えと去って行った。
「……はぁ」
大きく息を吐き出して、今度は大きく息を吸う。塩素の匂いが鼻につくが、むしろそれが、俺の心を落ち着かせた。心地いい。俺は、気合を入れるために、ゴーグルをかけた。色つきのレンズで、景色が青色に変わる。あぁ、うん。きれいだな……。
「 」
水の中に飛び込もうとした時、校舎のほうから悲鳴が聞こえた。とても小さいもので、俺でさえも聞き逃してしまいそうなほどだった。だから、当然誰一人として気がついた様子はない。
どこかから悲鳴が聞こえてくるなんて、俺にとったらよくあることだ。いつもなら、平然と聞き流してしまう。でも、今回は違う。
「葵っ……!?」
聞こえてきた悲鳴は、明らかに葵のものだった。聞き間違えるはずがない。
なんで美術部の葵が、悲鳴をあげてるんだ、とか。他の奴の声が全くしない、とか。ちらほらと顔を出す違和感について、いろいろ考えるよりも先に、走り出していた。
「おい!? 桜庭、走るな! 危ないだろ!」
「ああ! わかってる、悪いな!!」
休憩をしていた部長が、そんな俺を見て少し驚いたように怒鳴る。ほかの部員たちも、普段プールサイドを走らないどころか、プールから上がってくることが滅多にない俺の姿を、呆然と見つめている。それでも、走るのはやめない。否、やめられない。止まってはいけないと、本能が言っている。気のせいや、勘違いならそれでいい。それなら、笑って済ますことができるから。でも……。
頭に浮かんだ悪い考えを振り払うように、乱暴に部室の扉をあける。抗議するように軋んだ音を上げる扉は無視して、自分の着替えを適当に引っつかむ。ばさばさと、乱暴に着替えを進めていく。シャワーを浴びている暇なんかない。
「早く……、早くしないとっ……!」
いやな予感は、消えてはくれない。また、乱暴に部室の扉を開けて……息を、飲んだ。
扉を開けた先に、見慣れた景色はない。目の前に広がっているのは、闇。人はいないし、音もない。墨をこぼしたような、べっとりとした、一面の暗闇だけが、そこにあった。
「どうなってんだよ、これ。ここ……、どこだよ」
当然、答えるものなんていなくて、俺のつぶやきは闇の中へと呑まれていった。後に残ったのは、耳が痛くなるほどの静寂だけ。何も聞こえない。何も見えない。体験したことのない本当の“無音”に、心細さを覚えた。
「やぁ、やっと来てくれたんだね。待っていたよ、ミドリ」
そんなときに、空気を震わせて俺の耳に入ってきた、どこか無感情な少女の声。ここには、俺と闇以外に何もなかったはずなのに。どこから聞こえている? 辺りを見回してみてみるが、やはり人の姿はない。
「落ち着きなよ。君は今、“どこを見ている”? 私は、君の眼の前にいるよ」
もう一度、さっきの声。今度は、楽しんでいるような呆れているような、少しだけ感情の含まった声だった。その声が言った言葉に、目を細めた。どこを見ているのか、だって? 俺は……、俺は、どこを見ていた?
じわじわと襲ってくる違和感を振り払うように、目をつむる。そのまま大きく一度、息を吸う。水に潜る前と同じだ。塩素の臭いはしないけれど、それでもなんとか心を落ち着けた。さぁ、目を開けろ。そこにある現実を見るんだ。
「ほら、見えただろ?」
目を開けた俺の正面で、そう言って笑ったのは、先ほどまでは見えなかったはずのもの。アニメのような、黄色の髪と瞳をした少女だった。