第2話 『遠い思い出と、好きな人』
「こんにちは。君が***くんね」
見覚えのある、優しそうな顔をした女の人が、温かい手で、ぼくの頭を優しく丁寧になでた。
その女の人を、どこで見たのだろうかと、記憶を探してみるけれど、思い出すのは、ずっと一緒に暮らしていたおじさんと、“彼”の顔ばかりだ。女の人の記憶なんて、これっぽっちもない。
「***くん?」
女の人が、名前を呼ぶ。それが、ぼくの名前を呼んでいるのだと気付くのには、しばらく時間がかかった。
だって、女の人が呼んでいるのは紛れもなくぼくなのだけれど、彼女が呼ぶ僕の名前は、おじさんや“彼”が呼んでいたものとは違っていたから。わからなかったんだ。
しおんのばか。なんで、どっか行っちゃうんだよ。
ぼくを置いて、どこかに行ってしまった“彼”に心の中で文句を言う。納得できないことばかりだ。その中でも特に、理由も言わずに、見知らぬ場所に置いていかれたことが、納得できない。
なにか一言くらい、言って行ってくれたっていいはずだ。
「***くん、大丈夫よ。……そうねぇ。あのね、この家には、君のお友達になってくれる子がいるのよ」
だから、寂しくないわよ、と。心細さが顔に出ていたらしく、女の人が困ったように笑いながら言う。温かくて、優しい声……。
「おとも……だち……?」
気になった単語。多分、ここに来てから初めて声をだすと、女の人は嬉しそうに笑った。ほっぺたに出来たくぼみが、とても可愛らしかった。
「えぇ、そうよ。君と、年が近いのよ。おいで、あおい」
「はーい? あ! こんにちは、あなたが***くん?」
女の人に呼ばれてやって来た“あおい”と呼ばれた女の子。その子は、ぼくを見ると、にっこりと笑った。その顔が、すごく女の人……“あおい”のお母さんにそっくりで、すごく優しそうで可愛かった。
「はじめまして。ひなたあおいです。よろしくね!」
そして、言われなくてもその子は、自分から自己紹介をして頭を下げた。
それに比べてぼくは、どうすればいいのかわからなくて、なにも言わずにうつむいた。
彼女たちの呼ぶぼくの名前と、ぼく自身が認識している名前とが違っているというのも、原因の一つだ。でも、それ以上に……。
“死にたくなければ、他人に簡単に名前を教えるな”
“彼”に言われ続けてきた言葉。それが、ぼくの中に強く根付いていたから。名前を名乗ることに、抵抗があった。
“彼”がここにぼくを預けたということは、きっとこの人たちを信用してもいいということなんだろう。……けれど。
「だいじょうぶ? ぐあい、わるいの?」
あおいが、ぼくの顔を心配そうにのぞき込む。背の低いぼくよりも、あおいの方が少しだけ背が高い。
ぼくは、ぼくを襲うよくわからない感情のせいで、彼女の言葉に反応できなかった。
「***くん?」
知らない声が、知らない名前で、知らないぼくを呼ぶ。
ぐらりぐらりと、視界が揺らぐ。気持ち、悪い……。
「ねぇ、だいじょうぶ?」
「……さい」
「え?」
「うるさい!」
「きゃっ!?」
小さな悲鳴と、机の動く、がたんという音で目が覚める。どうやら、眠っていたらしい。
うっすらと目を開けた先にあるのは、夕日の差し込む見慣れた教室と……
「葵?」
驚いたのか、目を丸くして硬直している幼なじみだった。
大丈夫だろうかと声をかければ、ぴくりと肩がはねた。
「なんでお前が、教室にいるんだ?」
「……はぁ? 誰かさんが下校時間過ぎても、部活に顔出さないから心配して見に来たんだよ? まぁ、予想通り寝てたけど」
俺の口にした疑問で、我に返ったらしい葵が、むっとした表情で言う。
まさかと思い、時計を確認して目を見開いた。……一般下校どころか、部活下校まで過ぎてやがる。
今日はもう、部活には行けないな。むしろ、昇降口開いてるのか?
「あー……、悪い。わざわざサンキューな」
いろいろ考えてみるが、隣で唇を尖らせている葵に、礼を言うのが先だろうと、頭を軽く撫でる。
俺の身長は未だに低いが、それでもいつの間にか、葵より高くなっていた。何となくそれが、嬉しいよりも寂しく感じる俺は、変なのだろうか。
「み、翠っ!? ……いつまで、撫でてるつもりなの……?」
少ししみじみとしながら、ずっと撫でていた俺の手の下で、葵が呟いた。怒っているというよりも、戸惑っているような声だ。
その声に葵を見ると、うつむき気味のその顔は、長い髪のせいでよく見えなかったが、露わになった耳は真っ赤に染まっていた。
驚いたり、怒ったり、照れたり。ころころと変わる表情に、可愛いと思う反面、無表情で怖いとよく言われる俺は、それに少しだけ嫉妬する。羨ましいというよりも、妬ましいかもしれないな。
「ああ、悪い悪い。ほら、さっさと帰ろうぜ」
最後に、名残惜しさを表すかのように軽く、一度だけぽんと頭を叩いてから、撫でるのをやめた。もう少し、撫でていたかったなんて、言えるわけがない。
葵に背を向け、ろくに物の入っていない潰れた鞄を、肩にかけた。葵を振り返ると、ペースを持って行かれたのに不満があるのか、頬を膨らませて俺を睨んでいた。
「……そんな変な顔してると、その顔になっちまうぞ」
「うるさい。変な顔なんてしてないもん」
「いや、してるね。むすーっとしてる」
そう言って笑うと、葵は更に頬を膨らませて、顔をそらした。その顔はその顔で可愛いけれど、こんなふくれ面の奴を連れて、家まで帰りたくなんかない。
「……そうだなぁ。あ。なぁ、葵」
どうしたものかと少しだけ考えると、名案が浮かんだ。それを知らせるべく葵を呼ぶと、ふくれ面のまま、なに? と言う代わりにこちらを見た。
「お前が、にっこり笑うっていうなら、久しぶりに手ぇ繋いで帰ってやるよ」
考えた直後は名案だと思ったが、改めて考えると、子供扱いをしすぎたかもしれない。……怒るかな、これは。
そんな心配をよそに、葵はパッと表情を輝かせ、俺の腕に抱きついた。まるで、子犬みたいだ。背後に、しっぽが見える気がする。
ぎゅうっ、と抱きつかれた腕は、葵の温もりと鼓動を運んでくる。心地よいが、腕を組んでやるとは言っていない。
ため息をつく俺を気にする様子もなく、葵は満面の笑みを浮かべている。つられて、口角が上がってしまうのは、仕方がないことだろう。
しかし、よくこうも素直に好意を表に出せるものだ。葵の俺に向ける思いは、一途で、真っ直ぐで、眩しい。
俺は、違う。自分の感情を、幼なじみに向ける親愛や、兄弟愛なんかだとごまかし続けている。自分の、勝手な都合で。
「翠?」
「あ、……悪いな、ぼーっとしてた」
心配気に俺を呼ぶ葵の声で、我に返った。
“翠”と。名前を呼ばれて、安心できるようになったのは、いつ頃からだっただろうか。昔は、この名前が嫌でたまらなかったのに。
それに、いつからだっただろう。彼女たちの家、“日向家”の一員となって暮らし始めたのは。
覚えていないわけじゃ、ないはずなのに。なのに、思い出せずに、もやもやする。
「……葵。今日の夕飯、なんだと思う?」
くぅ、と鳴いた腹の虫にが、思考を遮る。
どうせ、考えたところで答えは出ないだろう。考えたら、それだけ腹が減る。なんだか馬鹿らしくなって、考えるのをやめた。思い出さなくても、別に困りはしない。
「え? 夕飯……、んー。多分、ハンバーグじゃないかな?」
「やった! スミレさんのハンバーグ大好きなんだよな。早く帰ろうぜ」
そう言って、葵の手をぎゅっと握りしめた。強く握りしめすぎないように、気をつけながら。