第1話『俺と先生と日常と』
「……ば……、桜庭!」
頭上から、自分を呼ぶ声が聞こえている。それには答えずに、ゆっくりと目を閉じた。
こぽこぽと、水音が聞こえる。それに混ざった、周りの音を聞いているときが、一番落ち着く。なんだか、懐かしい気分になるから。
でも、そんなときに名前を呼ばれると、違和感を感じる。説明しきれない、なにかもやもやっとしたものが、胸の中を支配する。
まるで、それはお前の名前じゃないと、言われているようだ。
「おい、桜庭! 聞こえてんのか!?」
そんなに叫ばなくても、聞こえてるって。
心の中でつぶやいて、息を吐き出す。白い泡が、ゆらゆらと水上にあがっていく。
目を閉じたまま、よく耳をすましてみれば、自分を呼んでいる先生の声以外に、人の声がしない。
そこでやっと、部活の時間が終わっていて、プールサイドにいるのは、呼びに来た先生だけだと気づいた。
本当は、もう少し潜っていたい気分だったのだが、迷惑はかけられない。それに、溺れていると勘違いされては、名誉に関わる。俺にかぎってそんなこと、あり得ない。
「ども、新田センセ。もう時間ですか?」
水面に浮上して、自分を呼びに来ているだろう教師の名前を、ろくに確認もせずに言う。
長時間潜っていたはずだが、息切れ一つしていない。肺活量にだけは、自信がある。
「よお、やっとでてきたか、桜庭。あんまり遅いもんで、溺れ死んだかと思ったぜ」
プールサイドから、俺を見下ろし笑っている白いワイシャツの似合う教師。やはり、思ったとおり新田だ。
やや童顔の彼は、俺のクラスの担任兼、水泳部の顧問だ。
「水の中で死ねるなら、本望ですよ」
と、割と本気で言ってみる。そうすると新田は、やや目を見開く。別に今更、驚くことでもないだろうに。
「うわ、お前縁起でもないこと言うなよ」
「いや、先生が先に言ったんじゃないですか。『溺れ死んだかと思ったぜ』って」
「そうだっけか? てかお前、物真似へたくそだな」
さりげなく話題をすりかえられたが、まぁいつものことだから気にしない。
彼、新田春藤は、持ち前の調子のよさとルックス、それから若さで生徒から絶大な人気がある。
もちろん、それだけじゃなくて、悩みに対してのアドバイスの的確さなんかも、人気の理由の一つだ。問題児たちでさえ、彼にはよく懐く。
まぁ、俺もその一人なわけだが。
「ところで先生。もう1時間くらい泳いでもいいですか?」
「あほか。……ったく、お前は。そんなんじゃ、日向が泣くぞ」
「……なんでそこに、葵の名前が出てくるんですか」
冗談半分で口にした言葉に、新田がため息をつく。
その新田が何を言うかと思っていたら、突然出てきた幼なじみの名前に、思わず顔をしかめた。
新田がなにを言いたいのか、何の意図があって言ったのかが、理解できない。
「いや。日向がよく、おまえが潜るか飯食うかで、勉強はしないし友達は少ないしで心配だ! って、騒いでるからさぁ……」
「そんなの、いつものことでしょう? それに、アンタ俺が学年10位なの、知ってるでしょうが」
苦笑気味の新田に、ムキになって言う。
拗ねたような口調になってしまうのは、自分にも後ろめたいものがあるからだ。
だからと言って、素直に受け入れられるほど俺は、大人じゃない。
「ああ、知ってる。だから、勉強についての心配なんか、これっぽっちもしてないさ」
でもなぁ? と、含み笑いをする新田の眼差しに耐えられず、思わず目を逸らした。
言いたいことは、痛いほどわかっている。わかりすぎて悔しい。
「……うるさいっすよ。俺は、水が友達なんですよ」
「うわ、寂しい奴だな。知ってたけど」
これまた拗ねるように呟いた言葉に、新田が追い打ちをかける。正直、泣きたくなった。
友達はいないんじゃなくて、作らないだけ。水に潜っていられれば、それで良い。
そんな言い訳を心の中で重ねるたびに、気分は沈んでいく。実に見事な自爆だ。
「ま、あんまり心配かけてやるなよ。あいつ、お前のこと好きだからさ」
哀れみを込めた視線で、さらりと無粋な発言をする新田。無粋も無粋、どのつく無粋っぷりだが、彼の言っていることは、事実だ。
そんなこと、言われなくても知っている。
それを口に出す代わりに、乱暴にプールサイドへとあがる。肌を包んでいた水がなくなるのが、なんとなく惜しかった。
「うわ、冷てっ!?」
その勢いで飛び散った水飛沫が、新田の足元に命中する。もちろん、狙ってやったわけだが。
ちなみに彼は今、裸足でしかもスラックスをまくりあげた状態だ。それも視野に入れての攻撃だった。
「無粋なセンセーへの罰ですよ。じゃ、俺はシャワー浴びてきます!」
「ちょ、おまっ、待てよ!」
叫んでいる新田から逃げるように、シャワー室へと走る。本当は、プールサイドを走るなんていうのは、水泳部としては御法度なのだが……まぁ、今回ばかりは仕方がないだろう。
とはいっても、顧問の職員は残留生徒が帰路に付くまでを見送る、なんていう素敵なお仕事がある。
つまり、シャワーが終わったらまた、嫌でも顔をあわせるはめになるわけだ。そんな状況だから、シャワーなんて一時しのぎにすらならないわけだが。
「まあ、新田のことだし、その頃には忘れてるだろ」
むしろ、そうであってほしいと願いつつ、シャワー室の扉を開けた。
湿気のこもった室内で、比較的新しいシャワーを選んで、コックをひねる。
「……はぁ」
熱いお湯が、シャワーノズルから頭へと降り注ぐ。背中を伝って流れていくお湯が、足元のタイルを濡らしていく。
思わずため息をもらすと、口の中にお湯が入る。急なことに対応できずに、思わずむせる。
涙目になりながらも、プールの塩素できしむ髪の毛を、部員共用のシャンプーで強引に洗う。安物のリンスインシャンプーは、余計に髪をきしませる。
「くそっ、面倒だ。もういいや」
途中から面倒くさくなり、シャワーを止めた。水音が無くなった室内に、小さく小さくどこかの喧騒が響いた。
「さて、帰るか」
シャワー室の隣、更衣室で着替えと帰宅の準備を済ませ、さて新田が気づく前に帰ろうか、と外にでた。
「おいまて桜庭」
「うぉっ!? いたんですか、新田センセー……」
「ははっ、そんなに驚くなよ。てか、嫌そうな顔するな。地味に傷つくぞ」
不意にかけられた声に横をみると、煙草をくわえた新田がいた。
驚いて目を丸くする俺を見て、新田はくつくつと喉をならして笑うと、紫煙を吐き出した。いいのか、この教師。生徒の前、しかもプールサイドで堂々と煙草吸ってて。
「ぜんぜん、傷ついてるようには見えないんですけど」
「いやー? 十分傷ついてるって。可愛い教え子に、水ぶっかけられた挙げ句盛大に驚かれたら、誰だって傷つくだろ?」
そう言って新田は、再び煙を吐き出す。
覚えてたのか、と思いながらも口には出さない。正しくは煙にむせて、出せなかっただけなのだが。
「げほっ……、ちょっ、いいんですか、生徒に向けて煙吐いて!」
「あー? お前なら気にしないと思ってさ。信頼してんだよ」
「いや、そんな変なとこで信頼されても、まったく嬉しくないですから!」
未だに咳き込みながらも叫ぶと、新田が目を細めた。
……怒られるか?
そう思って、少しだけ身構えていると、ぽんと頭に優しく手を置かれた。
「気にするな。そんな些細なこと気にしてたら、デカイ男になれないぜ……?」
そしてそのまま、わしゃわしゃと頭をなでると、明らかにバカにした表情で新田は俺を見おろした。
「うるさい! 身長と器のデカさは関係ないでしょうが! てか、俺は小さくないですから!」
と、叫ぶわけなのだが。残念ながら俺の身長は、170cmもないわけだから、高校生男子としたら小さい方なんだろう。
……が、それをネタにするのはどうかと思う!
「はっ! 十分小さいっつーの」
「翠!」
バカにした調子の新田の声に重なり、聞き覚えのある女子の声が重なる。
うるさいのが来たな、と目を細めた俺とは対照的に新田は、笑顔でそいつにひらひらと手を振った。
「あ、新田先生もいらっしゃったんですね。今日も翠が最後みたいですね。いつも、ありがとうございます」
「……お前は、俺の母ちゃんか」
走ってきたらしくて、息が切れている。それでも、礼儀正しく頭を下げるそいつ……幼なじみで、俺の密かな想い人の日向葵の言葉に、小さくつぶやく。
「えー? 似たようなもんでしょ」
「いや、せめて兄妹と言ってほしかった」
笑って言う葵の言葉に、冗談じゃないと言い返す。お前の方が年下なんだから、せめて兄妹だろうと。
こいつより子供なんて耐えられない。……それに、母と子じゃ絶対に手が届かない。
兄妹だって大して変わらないけれど、それでも。
「日向は本当に、桜庭が好きなんだな」
そんな俺の心の中なんて、当然知っているはずがなく、新田が楽しげに笑う。その声が、からかっているときのものよりも穏やかで。
よけいに、残酷さを増す。
「ち、違いますよ!? 仲が良いのは、幼なじみだからだし……! そこに恋愛感情はないんですよ!」
葵は、顔を真っ赤にして叫ぶ。
それが、照れ隠しなのは知っている。葵が、俺を好いてくれてることくらい気づいてる。
だけど俺は、それに応えられない。
愛してる、と言おうとするたび、息ができなくなる。まるで、おまえは人を愛してはいけないと言われているような気持ちになる。
その理由は、俺も知らない。
「と、日向は言っているが。お前はどうなんだ? 桜庭」
「……別に。ただの幼なじみですよ」
新田の言葉に、我に返る。適当に、当たり障りのない返事を返す声が、尖っているのが自分でもわかる。
「そっか……。そうだよね、うん」
新田の隣で葵が、小さくつぶやいたのが聞こえてしまう。
泣きそうにかすれた、細い声。自分の言葉が傷つけたことくらい、理解している。
そんな葵のつぶやきは、新田には聞こえていないらしく、特に気にした様子もなく煙を吐き出している。
こんな時、無駄に聴力の高い耳が嫌になる。どんなに小さな音でも聞こえてしまうこの耳は、いつか人の心の声までも聞こえてくるのではないかとさえ思わせる。
……少なくとも、声に出すか出さないか程度の声なら、今でも聞こえてしまうわけだが。
「空気、読んでくれよ新田先生。……ほら、葵。帰るぞ」
明らかな責任転嫁だが、新田もなにやら空気を悪くした罪悪感があるのか、困ったように肩をすくめただけだった。
「あの、さ……翠。腕、放してほしいな。ちょっと、痛いよ」
勢いで掴んでしまった腕を見ながら、葵が困ったように笑った。思ったよりも強く掴んでしまったらしい。慌てて手を放すと、葵が小さく「ごめんね」とつぶやいた。
やっちまったと思う反面、全力で拒絶されて振り払われなくて良かったと、安堵する。振り払われたらたぶん、俺はしばらく立ち直れない。
「さてお前ら、本当にそろそろ帰れよ。親御さんが心配する」
いつの間にか、2本目の煙草に火をつけていた新田が言う。葵は素直にうなずいていたが、俺は静かに新田を睨んだ。
お前が帰りたいだけだろ!
「腹減ったし、本気で帰ろうぜ!」
喉まで出かかった言葉をごまかすように、思わず大声で言う。
「そうだね。今日の夕飯カレーだし」
そんな俺をみつめて、くすくす笑う葵。こういうとき、絶対こいつは俺をガキだと思っている。
「まじか。急いで帰んなきゃな。じゃ、新田先生。また明日な!」
「おー。また明日な」
しかしもうこの場は自棄だ。精一杯ガキらしく振る舞う。新田はまだ、部室などの見回りがあるのだろう。ひらひらと手を振りながら、プールサイドを歩いていく。
「……いつまで、お前は笑ってられるんだろうな」
小さく聞こえた新田のつぶやきに、思わず振り返る。だけどもう、そこに新田の姿はなかった。
「翠?」
「……いや、なんでもない。さ、帰ろうぜ」
不思議そうな顔をしている葵の背を押す。
見上げた空は、気味が悪いほど真っ赤に染まっていて、なんだか嫌な予感がした。