夏の日
夏の日。
蝉の声。虫取り編みを持って走り回る小学生。
自分達の背より高いたばこの葉の茂み。
蝮を踏んだ川。冷たい水。
眩し過ぎた夏の太陽。
『今日は帰られないから、家のことちゃんとしておいて』
仕事から帰った夕方。いつもと違う、真っ暗なリビング。
電気を点けた途端に鳴った電話。
母は今日帰らない。すぐわかった。
ああ、伯母さん、死んだんだ・・・
ぽつぽつと仕度を始める。そこに弟が帰ってくる。
私は言葉少なに伝える、何か、何を。
でも弟もすぐに気づいた。同じ気持ちだったのかもしれない。これから頭上に降ってくる嵐の大きさ、そして守りきれなかった後悔に深く沈む足元の水溜り。
伯母さんは、しばらく心を病んでいた。
誰が見ても明らかだった。話を聞くだけでも、もうそれは伯母さんひとりの力でどうにかなるものじゃなかった。
心に色んな思いが巡るのに、何ひとつ正体を得られないでいた。時間は規則正しく過ぎていたのだろうか。時計の針だけがそこで響いていた。
このまま眠って明日を迎えて、母に会って私はどうすればいい?
目の前で人が計り知れない悲しみに直面していて、こんな時上手く対処する力がない、情けないけど私には重すぎて、何も生まれない、感情さえも。
明日、何もかも聞かされるだろう。私は母を支えなければならない。しっかりしなきゃ、しっかり・・・
夜があれほど冷たかったことはなかった。
『伯母さんね、家族で行った思い出の場所でね、明け方見つかったんだって』
『そのまま夜が明けてたらねえ、本当に、もしかしたら死のうなんて考えもなくなってたかもしれないのに』
『ウチに来るって言ってね、家を出たんだって。でもそのまま反対の方向へ行っちゃって』
『あんなに車の運転怖いって言ってたのに、何考えてね、あんな真っ暗な道、ひとりで』
淡々と母は言葉を綴った。
私は安心し、しかし驚いた。母はこんな時強くなくていいのに。こんな時まで強くなくていいのに。
でもそうさせたのは私達かもしれない。
そう気づいて耐えられず目を背けた。
変死体、になった伯母は警察で司法解剖される。
お葬式はその後になるね、と母は小さく言った。
今まで、私にとって母は母だった。
そう考えて不思議もなかった。私を育ててくれた母、母は母だった、ずっと。
でも、いまここにたったひとりの姉妹を亡くした母がいる。これは母じゃない。母じゃなかったのかもしれない。
私が甘えて、いつまでもそうさせなかった。私も本当はずっと前から、母と同じ女性だった。母の人生を理解できる同じ女性だったのに・・・
こんな時まで泣けない悲しい女性にしてしまったのは、あなたが私を守ろうとしてくれたことに私がずっと甘えてしまったせい。
もっと色々あったはず、こうなるより前に、この結末に辿りつくより前に、いくらでもどうにかできたはず。
私が感じることを、あなたが感じないはずがない。むしろ身を裂かれるより激しく悲しく、後悔しているはずなのだから。
その罪は私も背負うべきものなのに、ああ、きっとあなたはひとりで背負うでしょう。笑うでしょう。ずっと、そうするでしょう。
でもその覚悟より強い気持ちを持つことが出来なくて、私はただそこにいることすらやめてしまった。
いられない、いられなかったよ。近いはずなのにこんなに遠くなってしまった、あの夏の日。
ごめんね。
本当は見えてた。いつか見た古い写真の少女がそこにいたのに。
路地裏でボールで遊んでいる女の子達。
あれが母じゃない理由なんてなかったのに。
逃げ出した夏は悲しい絵ばっかり私に映して責める。
通り過ぎようとした和室で、従兄弟達は何も言わず、母の目に涌く蛆をつまんでは潰していた。愛しそうに・・・何も言わないで、ただ、横に座って。
葬儀が始まると、私達兄弟は従兄弟達と一室に集まってずっとゲームをした。いつもそうしていたみたいに。まるでいつもの夏休みだった。時々わからなくなるくらい、騒いで遊んだ。
でもみんなわかってた。二度とあんな夏は来ないこと。変わってしまったこの夏がその証拠。今遊んでいるこの部屋の下では伯母さんが口や鼻に綿を詰められて横になっている。どんなに写真が笑っていても、誰も笑えない。懐かしく思い出話なんて出来ない。
なんで、死んでしまったんだろう・・・
私はおばさんを恨んだ。
日常に悲しい波を立てて、ひとりで死んでいった伯母さんを。
勝手だよ。みんなつらいのに、みんな生きてるのに。
でもその気持ちもすぐに手から離れてしまう。
何も残らない。何も考えようとしない私の心。
どんなものでも、その正体を知りたくない。私が一番勝手で弱かった。
火葬されて、伯母さんは小さくなった。
良かったね、もう蛆も涌かないよ。
私は無責任に従兄弟の背中に思った。
それからすぐ、祖父が死んだ。
30年以上癌と闘って生き抜いて生き抜いて突然訪れた死だった。
よく、おじいちゃんのお腹、線路みたい、と言ってからかった。それだけの手術をして、最期まで凛と生き抜こうとした祖父だった。
あんなに強かった祖父が、娘が自ら先立ったことでどれだけの悲しみに打ちひしがれたろう。そしてまるで守るように後を追って死んでいった。ひとりにはさせないって、聞こえてくるみたいだった。
ねえ、ここまでして。
それでも何も残せないの、人は。
生きるしかないの、どんなにつらくても。
伯母さん、どうだったの?
聞こえる?
今はどう思ってるの?
今も、答えの出ない問いをずっと問いかけています。母は強く、祖母も強く、私だけが事実にこだわり弱いのかもしれません。一度文章に書き整理したいと思って書いたものでした。