婚約者に値踏みされ続けた文官、堪忍袋の緒が切れたのでお別れしました。私は、私を尊重してくれる人を大切にします!
婚約者に値踏みされ続けた文官、堪忍袋の緒が切れたのでお別れしました。私は、私を尊重してくれる人を大切にします!
王城の事務室で、リディア・フィアモントは今日も山積みの書類と格闘していた。
二十一歳、文官として三年目。
インクで汚れた指先を見つめながら、彼女は小さくため息をついた。
婚約者のロデリック・フォン・エーベルハルトは、三歳年上の二十四歳。
亜麻色の髪と濃い青の瞳が怜悧な印象の、整った顔立ちの人だ。
リディアは栗色の髪に琥珀色の瞳という平凡な印象で、
婚約当初は彼の美貌に気後れしたこともあった。
だが、自分の容姿を謙遜したリディアに、ロデリックは
「目に優しい色だから、派手さがなくてもいいじゃないか」と言ってくれた。
その言葉が嬉しくて、この人となら、と思ったのだ。
婚約してから三年。
あの時以来、彼が自分を褒めてくれたことも、評価してくれたことも、一度もなかった。
それでもリディアは婚約者としての務めを怠らなかった。
ロデリックの好みを覚え、社交の場では常に控えめに振る舞い、
彼の家族への手紙も欠かさなかった。
伯爵家の夜会があれば必ず出席し、
ロデリックが忙しい時には差し入れを届けることもあった。
だが、それらすべてに対して、彼から感謝の言葉が返ってきたことはない。
「その書類、まだ終わってないのか」
ロデリックは書類の山を一瞥して、鼻を鳴らした。
「申し訳ございません。量が多くて……」
「君の要領が悪いんだろう。僕ならこの程度の仕事など朝のうちに片付けるがね」
リディアは黙って頷いた。
何を言っても無駄だと、もう分かっていた。
「ところで」
ロデリックは腕を組んだ。
「君は本当に僕と結婚したいのか?」
唐突な問いかけに、リディアの心臓が跳ねた。
「急にどうして……」
「いや、ただ確認したいだけだ。嫌なら断るという選択もあるだろ。
僕も結婚を無理強いしたいわけじゃない」
(三年、婚約しているのに、今更何を……)
婚約は父が決めたこと。
でもロデリックが望んでくれるなら、リディアも応えたいと思っていた。
多少冷たいところがあるとはいえ、暴力を振るうわけでもない。
婚約者としての義務もきちんと果たしている。
「いえ、私は……喜んで」
「そうか」
「ただ、そのような言い方をされると、私の気持ちを試されているように感じます」
ロデリックは軽く笑った。
「そんな、試そうだなんて思ってないよ。心配してるだけさ。
まあ、君程度の仕事は誰でもできるのに頑張りすぎじゃないかと思ってね。
体を壊したら元も子もないだろう?
僕の妻になるのは誰でもいいわけじゃないから。
君だって伯爵家の人間を配偶者に出来るんだ。お互い利はある。」
笑顔なのに、その笑顔が嫌なものに見えて、リディアはそっと目を逸らした。
なぜこんなことを言うのだろう。
本当に私と結婚したいなら、こんな言い方はしないはずなのに。
*
午後、扉がノックされた。
「失礼します。騎士団三番隊のフィリップです。
騎士団からの報告書をお届けに参りました」
顔を上げると、見慣れない若い騎士が立っていた。
爽やかな笑顔、まっすぐな緑の瞳。陽だまりのような雰囲気。
「ご苦労様です。お持ちくださったんですね。ありがとうございます。
申し付けていただいたら取りにまいりますよ?」
書類を受け取る時、彼の手が傷だらけなのに気づいた。訓練の痕だろうか。
「ああ、大丈夫です。お手を煩わせるほどでもないので。
すごくたくさんの書類があるんですね」
フィリップが周囲を見回して、少し驚いたように言った。
「ええ。毎日これくらいは……」
「すごいですね。俺には難しそうで……こういう仕事があってこそ、
俺たち騎士も安心して任務に就けます」
リディアは息を呑んだ。裏方の仕事を、こんなふうに評価してくれる人がいるなんて。
「ありがとうございます。でも、書類仕事くらい……」
「いえ」フィリップは真剣な顔で言った。
「俺、十六歳から働いてますけど、
こういう仕事の大切さ、身に染みてわかります。戦ってるのは騎士だけじゃない。
支えてくれる人がいるから、俺たちは剣を振るえるんです」
誠実で真摯な言葉だ。
この人は、ちゃんと人を見ている。
フィリップが去った後、リディアはしばらく呆然としていた。
それから慌てて仕事に戻ったが、フィリップの言葉が頭から離れなかった。
その夜、自室で一日を振り返っていた。
フィリップの言葉が、何度も胸に蘇る。
裏方の仕事を、ちゃんと見てくれている。
価値を認めてくれている。
(ああ、こんなに嬉しいものなのか)
尊重される、ということ。
認められる、ということ。
それがどれほど人の心を軽くするか、初めて知った気がした。
ロデリックは一度も、自分の仕事をそんなふうに言ってくれたことはなかった。
いつも「誰にでもできる」「要領が悪い」と下に見る言葉ばかり。
(婚約者に対してだとしても言っていいものではないよね……)
ロデリックのことを思い出すと辛くなることが悲しい。
こんな状態で結婚して、幸せになれるのだろうか。
リディアの心に迷いが生まれ始めていた。
窓の外の星空を見上げる。
これからのことをもっときちんと考えようと思う。
そして仕事もがんばるのだ。
***
ある日、王城で広く貴族を集めて夜会が開かれた。
リディアは控えめな青いドレスを着て、ロデリックの隣に立っていた。
彼の態度は相変わらず冷たかった。
でもこれが日常だ。
リディアは諦めにも似た感情を抱きながら、グラスを持つ手に力を込めた。
しばらくして、貴族たちの輪の中で、ロデリックが口を開いた。
その前に、リディアは隣にいるはずのロデリックが、
いつの間にか数歩離れた場所にいることに気づいていた。
社交の輪に加わる時も、彼はリディアの手を取らなかった。
エスコートの手を差し伸べることもなく、まるで一人で来たかのように振る舞っている。
「ああ、先ほどマリアンヌ嬢とお話ししたんだが、素晴らしい方だった。
社交にも長けているし、会話も洗練されている。
ああいう女性こそ、社交界の華というものだ」
ロデリックは目を輝かせて語る。
その表情は、リディアに向けられたことのないものだった。
リディアは少し離れた場所で、一人グラスを持って立っている。
婚約者の隣ではなく、まるで付き添いの使用人のように。
周囲の貴族たちは社交の輪を作っており、その中心にロデリックがいた。
貴族たちが、気まずそうにリディアの方をちらりと見る。
視線が痛い。でもリディアは笑顔を保ったまま、グラスを握る手に力を込めた。
「ロデリック様……」
小さく声をかけたが、ロデリックは振り向きもせず続ける。
「ああ、リディアとの婚約? まあ悪くはないよ」
リディアの心臓が跳ねた。
社交の輪の外側から、婚約者が自分のことを語るのを聞かされる。
「でも正直なところ、もし彼女が望むなら解消してもいいと思っている。
僕も無理強いはしたくないからね」
周囲の貴族たちが興味深そうに聞いている。リディアの頬に血が上った。
「リディアは真面目だから、きっと断らないだろうけどね。
まあ、婚姻後は家政に専念してもらう予定だ。
文官の仕事など、女性には荷が重いし、僕の妻には相応しくないだろう」
笑顔で、わざとリディアに聞こえるように話している。
周囲は微妙な表情で曖昧に頷く。
リディアは何も言い返せず、ただ笑顔を保つので精一杯だった。
喉が、胸が、苦しい。
(……また、言っているわ。「解消してもいい」なんて)
その場を離れ、人目のない廊下に出た時、リディアは壁に手をついた。
息が苦しい。涙が溢れそうになる。
「フィアモントさん?」
振り向くと、騎士の制服を着たフィリップが立っていた。
夜会の警備担当なのだろう。
「大丈夫ですか? お顔色が悪いようですが……」
「いえ、大丈夫です」
声が震えている。駄目だ、泣きそう。
フィリップは何も言わず、少し離れた場所に立った。
でもその距離が、リディアには救いだった。
「あの……フィリップさん」
「はい」
「……文官の仕事って、女性には相応しくないんでしょうか」
フィリップは驚いたように目を見開いた。
「とんでもない! 文官さんたちの仕事は立派だと思ってます。
フィアモントさん始め、事務の仕事をしてくれる人たちがいてくれるから、
俺たち騎士は安心して任務に就ける。
国のこと、国民のこと、いつも真剣に考えてくれる」
フィリップは一歩近づいた。
「俺は心から尊敬しています」
その言葉に、リディアの堪えていた涙が一筋、頬を伝った。
「ありがとう、フィリップさん……」
帰宅後、リディアは一人で泣いた。枕に顔を埋めて、声を殺して。
でも不思議なことに、フィリップの言葉が胸に残っていた。
*
夜会の日から数日後。
ロデリックが呼び出してきた。
王城の中庭、二人きりになれる場所。
「リディア、僕たちの婚約について、改めて考え直した方がいいかもしれない」
リディアの表情が、わずかに曇った。でもすぐに元に戻る。
「……どういう意味ですか」
「君も感じているだろう。僕たちは合っていない。
君は真面目すぎるし、仕事ばかりで社交はさっぱりだ。
僕は……社交的な女性の方が合っているかもしれない」
「ロデリック様……」
「だから、ね、婚約を解消してもいいんだよ? もし君が望むならだけど」
(ああ、これで三度目だ……)
ロデリックは分かって言っている。
私が彼の言葉を否定して、彼が必要だと縋るのを見たいのだ。
そして今も、その言葉と行動を待っている。
リディアは静かに、深く息を吸った。
そして、はっきりとした声で言った。
「承知いたしました」
「……え?」
「婚約解消、お受けいたします、ロデリック様」
ロデリックが凍りついたかのように硬直した。
まさか、という思いがありありと表情に表れている。
「待て、リディア。俺は……」
「三度です」
リディアの声は落ち着いていた。
でもその目は、これまでになく強い光を宿していた。
「一度目は婚約直後、文官室で。
二度目は夜会で、大勢の前で。そして今日、三度目です」
「それは……」
「あなたの期待通りに動くのは、もう疲れました」
その言葉を口にした瞬間、何かが胸の奥から溢れ出した。
「私は、あなたともう付き合っていけません。
婚約者として、あなたを支えようとしてきました。
でも、あなたは一度も私を認めてくれなかった」
リディアは真っ直ぐにロデリックを見つめた。
「私の仕事を、私という人間を、尊重してくれなかった。
いつも試して、値踏みして。それにもう、疲れたんです」
「リディア……俺は、ただ……」
「すぐに婚約解消の正式な手続きを進めましょう。
両親には私から連絡いたしますので。では、失礼します」
リディアはきっぱりと踵を返した。
ロデリックが何か言いかけた気配がしたが、振り返らなかった。
もう、振り返る必要はない。
文官室に戻ったリディアは、自分の席に座り、深く息を吐いた。
手が震えている。でも後悔はなかった。
不思議なほど、心が軽かった。清々しいとさえ感じる。
婚約解消が告げられた日から、リディアはすぐに両親に手紙を送り
両親から伯爵家へと連絡を入れてもらった。
伯爵家からは謝罪と慰謝料の申し出があった。
ロデリックが夜会で婚約者を蔑ろにしていたという噂が耳に入っていたようだ。
耳に入った時点で諫めてくれていればと思わないでもなかったが
謝罪だけは受け取って、婚約は解消ということで落ち着いた。
仕事の集中が途切れた頃、丁度フィリップが報告書を届けに来た。
「こんにちは! フィアモントさん、これを……。
あれ? 何か良いことありました?」
「こんにちは、フィリップさん。
収支報告書ですね。ありがとうございます」
リディアは笑顔で答えた。
「実はここ最近の悩みが解消したんです」
「ああ、それは良かったですね。すっきりした顔してますもん。
ちなみに、何にお悩みだったか伺って大丈夫ですか?」
踏み込みすぎないように配慮しつつも、気になっているというのがわかる。
思わず笑ってしまった。そしてリディアは心のままに答えた。
「婚約者とお別れしたんです。」
フィリップは驚いて目を見開いた。
「え! あ、俺……その……大丈夫、ですか?」
「ええ! 前向きなお別れなので、何も悲しいことじゃないんです。
むしろ、自由を得た感じですね。
もっと自分の好きなことをやっていこうと思ってます」
「なら、……良かったです」
その優しい瞳を見た時、リディアの胸が締め付けられた。
自分が嬉しいと思うことを一緒に喜んでくれるんだ。
「そういえば」フィリップが少し照れたように続けた。
「俺、実は文官さんの仕事に興味があって。
どんなふうに書類を整理してるのかとか、優先順位をどうつけてるのかとか」
「本当ですか?」
リディアは目を輝かせた。自分の仕事に興味を持ってくれる人がいる。
「はい。騎士の仕事って体力勝負なところもあるんですけど、
文官さんたちは頭を使って、たくさんの情報を整理して。
それってすごく難しいことだと思うんです」
「難しいというより……慣れですよ。でも、そう言っていただけると嬉しいです」
「いえ、本当に。俺なんて、報告書書くだけで四苦八苦してますから」
フィリップが苦笑いを浮かべる。
「もし良ければ、今度報告書の書き方、教えていただけませんか?
もっと分かりやすく書けるようになりたくて」
「もちろんです。お役に立てるなら」
リディアの声は弾んでいた。
誰かに頼られる。必要とされる。
それがこんなにも嬉しいものだとは。
「ありがとうございます! じゃあ、また来ますね」
フィリップが去った後、リディアは胸に手を当てた。
温かい。ずっと冷たかった心が、少しずつ溶けていくようだ。
***
季節が一つ巡るころ、王城の事務室にはいつもと変わらない朝が来ていた。
リディアは机に向かい、積み上げられた新しい案件の書類を丁寧に仕分けていく。
瞳は静かに輝き、手の動きに迷いがない。
婚約解消からしばらく経ち、ようやく胸の奥に溜まっていた重しが
すっかり消えていることに気づいた。
今は、ただ自分の仕事に向き合える。
誰かの評価のためではなく、自分の意志で。
(ああ、やっぱり好きなんだ、この仕事)
書類に向かう時間が、以前よりずっと心地いい。
苦しいと思っていた忙しさが、不思議と今は自信に変わっていた。
「失礼します。三番隊のフィリップです」
扉の向こうからよく通る声がして、リディアは顔を上げた。
フィリップが報告書の束を抱えて立っている。
陽の光を受けて緑の瞳が柔らかく揺れた。
「書類をお届けに参りました。フィア……」
一瞬、彼が言葉を飲み込む。
リディアは「?」と首をかしげた。
「……いえ、リディアさん。こちら、三番隊の巡回記録です」
名前で呼ばれたのは初めてだ。
その声音はいつも通り明るいのに、どこか慎重で、でも嬉しそうでもあった。
「ありがとうございます、フィリップさん。助かります」
「いえ。こちらこそ。リディアさんが受け持ってくれるなら安心だと思ってました」
「そんな、買いかぶりすぎですよ。ただの事務仕事ですし」
「いえ、本当に。いつも丁寧に確認してくださるじゃないですか。
だから……お願いしたいと思えるんです」
不意に向けられた真っ直ぐな眼差しに、心が軽くなる。
以前なら戸惑いの方が大きかったかもしれない。
けれど今は、素直に嬉しいと思えた。
「これからもがんばりますね」
「はい。是非。……それと、また話しかけてもいいですか? 書類のついでにでも」
「ええ、いつでも」
返した瞬間、フィリップは少し照れたように笑った。
その笑顔につられ、リディアの心からの笑顔を浮かべた。
仕事に戻った机の上には、朝よりも少しだけ積み上がった書類。
でももう、圧迫感はない。
むしろ、この書類の向こうにある誰かの仕事や暮らしを想像し、力になれることが誇らしかった。
(今日も、頑張ろう)
ペン先を走らせながら、リディアは軽やかに息をついた。
窓から差し込む光の中で、リディアは新しい一日を迎える。
前を向いて、胸を張って。
これからは、自分の足でしっかりと歩いていける。
***
-ロデリックの末路-
婚約解消から三日後、ロデリックは父である伯爵に呼び出された。
「入れ」
重々しい声に促され、執務室に足を踏み入れる。
父は机の向こうで、腕を組んで座っていた。
その表情は、これまで見たことがないほど険しい。
「父上、お呼びでしょうか」
「座れ」
促された椅子に腰を下ろすと、父は一枚の書状を机に叩きつけた。
「これは何だ」
見れば、リディアの父からの手紙だった。
婚約解消の経緯が丁寧に、しかし毅然と記されている。
「……婚約解消の件でしたら、既にご存知かと」
「知っているとも!」
父の怒声が室内に響いた。
ロデリックは思わず身を竦めた。
「だが、貴様が三度も、三度もだぞ、婚約者に『解消してもいい』などと
言い続けていたとは知らなんだ! しかも夜会の席で、大勢の前で
彼女を貶めるような発言をしていたと!」
「それは……」
「黙れ! 喋るな!」
父は立ち上がり、窓の外を睨んだ。
「フィアモント家は子爵家だ。我が家より格下ではあるが、決して軽んじてよい相手ではない。
何より、あの娘は真面目で優秀だと評判だった。
王城でも信頼されている。そんな娘を……貴様は何だと思っていた」
「私は、ただ……彼女が望むなら、という……」
「嘘をつくな」
父が振り返った。その目は冷たく、まるで他人を見るようだった。
「貴様は試していたのだろう。どこまで自分に従うか、どこまで耐えるかと。
そうやって相手を値踏みし、優越感に浸っていただけだ」
図星を突かれ、ロデリックは言葉を失った。
父は深くため息をついた。
「私は貴様に期待していた。いずれ、子爵家をリディア嬢と盛り立て
伯爵家に利を齎してくれる者として、
相応しい人物になってほしいと願っていた。
だが……貴様は人を見下すことしか知らない」
「父上……」
「これ以上、我が家の名を汚されるわけにはいかん」
父は再び席に着き、別の書状を取り出した。
「貴様を勘当する」
「な……!」
「既に女男爵との縁談を進めた。先方は了承済みだ。
貴様はそこへ婿として入り、二度とこの伯爵家には戻らぬこと」
ロデリックの顔から血の気が引いた。
「父上、それは……女男爵とは、あの辺境の……」
「そうだ。配偶者を亡くし、領地経営に苦心している家だ。
だが女主人は聡明で、領民からの信頼も厚い。
貴様にはもったいないほどの場所だろう」
「私が、男爵家に入り婿など……!」
「貴様に選択権はない」
父の声は氷のように冷たかった。
「これは処分だ。貴様の今後の生活の面倒は女男爵家に委ねる。
伯爵家の名は名乗るな。財産も、称号も、すべて剥奪する」
「そんな……」
「出て行け。すぐに荷をまとめ、女男爵家へ向かえ。
それまで、私の前に姿を見せるな」
立ち上がろうとするロデリックに、父は最後にこう告げた。
「人を尊重できぬ者に、人から尊重されることなどない。
それを、身をもって学ぶがいい」
扉が閉まる音が、やけに重く響いた。
***
一週間後、ロデリックは荷馬車に揺られていた。
向かう先は辺境の女男爵領。
かつて自分が「格下」と見なしていた土地。
胸に去来するのは、後悔とも諦めともつかない感情。
そして、リディアの最後の言葉が蘇る。
『私の仕事を、私という人間を、尊重してくれなかった』
彼女が欲しかったのは、ただそれだけだったのだ。
自分を一人の人間として、認めてほしかっただけ。
でも自分は、それすらできなかった。
荷馬車が大きく揺れた。
ロデリックは窓の外に広がる見知らぬ景色を、ただ眺めていた。
そして彼は気づいていなかった。
これから向かう場所で、自分がかつて他人に向けていた視線を、
今度は自分が浴びることになるのだと。
*
ロデリックは邸に着いた日のことを、きっと一生忘れないだろう。
かつてなら誰もが道を開け、従者が慌ただしく迎えに出てきたはずだ。
だがここでは違った。
荷馬車の御者でさえ彼を手伝わず、荷を降ろす様子を無言で眺めているだけだった。
「自分の事は自分で、がここでは普通ですので」
案内の男は淡々と言い、さっさと歩き出す。
足並みを合わせてくれる気配すらない。
屋敷の女主人は柔らかい微笑で迎えたが、その笑みは絹で包んだ刃のように冷たい。
彼をただの道具とみなす視線。
決して伴侶ではなく、扱いに困らぬ“手”の一つとしか思っていない距離感。
その後の日々、彼は嫌でも思い知ることになる。
今まで「自分の存在だけで価値がある」と信じていたすべてが、
この地では何ひとつ通用しないことを。
与えられた仕事は容赦なく重い。
手を抜けばすぐにわかり、周囲の者は淡々と叱責する。
誰も彼の出自に気を遣わない。
むしろ元の立場を知っている者ほど、遠巻きに興味深そうに観察するような目を向けている。
「……本当に、何もできないんだな」
ある日、運搬作業で派手に転んだ彼を見て、若い使用人がつぶやいた。
悪意は薄い。ただ事実として のことを 言っただけ。
だがその一言が、彼の胸にもっとも深く突き刺さった。
ある日、運搬作業で派手に転んだ彼を見て、若い使用人がつぶやいた。
悪意は薄い。ただ事実としてのことを言っただけ。
だがその一言が、彼の胸にもっとも深く突き刺さった。
***
数日後、女男爵がロデリックに仕事を任せた。
「領地の農作物の収穫記録と、各村の人口動態を照合して、
来年の作付け計画を立ててちょうだい。
伯爵家の御子息で、王城の文官だったあなたなら、このくらいはできるでしょう?」
書類の山を前に、ロデリックは凍りついた。
農作物の種類、土壌の状態、天候の記録、村ごとの労働力……
見慣れない専門用語ばかりが並んでいる。
王城では、儀礼関係や貴族間の書簡整理が主な仕事だった。
だが、領地経営の実務など、やったことがない。
三時間後、彼は頭を抱えていた。
どの村にどれだけの労働力があり、どの作物が適しているのか。
データはある。だが、それをどう活かせばいいのか分からない。
「まだ終わらないの?」
女男爵が覗き込んだ。その目は冷たい。
「こ、これは……専門的な知識が必要で」
「あら、言い訳? この領地の文官なら半日で終わらせるわ。
あなたの要領が悪いだけじゃないかしら。
それとも、王城の文官様は実務ができないのかしら?」
女男爵の笑顔は、かつてロデリックがリディアに向けていた笑顔と同じだった。
憐れみと軽蔑の混じった、冷たい笑顔。
ロデリックの顔から血の気が引いた。
「すみません、もう少し時間を……」
「結構よ。あなたには期待していないわ。
別の者に任せます。あなたは今日から厩舎の掃除ね」
「厩舎の……」
「ええ。あなたにできることは、それくらいでしょう?」
---
その夜、寝台に沈む前、ふと手を見る。
今まで丁寧に整えられていた肌は薄汚れ、指先はひび割れている。
インクの染みもある。厩舎の掃除で爪の間には泥が詰まっている。
(インク染み……リディアの手も、こうだった)
ふと、婚約者だった彼女の手を思い出した。
いつもインクで汚れていた指先。
書類を扱いすぎて、少し荒れていた細い手。
あの時、自分は何と言った?
「もっと手入れをすればいいのに」
そう、嘲るように笑ったのだ。
(俺は……何も分かっていなかった)
ここでは誰も自分に期待もしなければ、特別扱いもしない。
ただ働く者として扱われ、失敗すれば笑われ、成功すれば最低限の評価だけをもらう。
それは、自分がリディアにしてきたことと、まったく同じだった。
彼女の仕事を「誰にでもできる」と貶した。
努力を「要領が悪い」と嘲笑した。
存在を「解消してもいい」と軽んじた。
そして今、自分が同じ扱いを受けている。
いや、もっと酷いかもしれない。
女男爵は、自分に何も期待していない。
使用人たちは、自分を戦力として数えていない。
誰も、自分を必要としていない。
(リディアは……あんなに優秀だったのに)
真面目で、誠実で、責任感が強くて。
どんなに忙しくても、弱音を吐かず、文句も言わず、ただ黙々と仕事をこなしていた。
婚約者として、自分を支えようとしてくれていた。
自分の好みを覚え、家族への手紙も欠かさず、
社交の場でも控えめに、自分を立ててくれた。
それなのに、自分は一度も感謝しなかった。
認めなかった。尊重しなかった。
(ああ、俺は……取り返しのつかないことを)
今なら分かる。
リディアがどれほど貴重な存在だったか。
どれほど自分を支えてくれていたか。
だが、もう遅い。
彼女はもう、自分の手の届かないところにいる。
きっと今頃、自由になって、笑顔で仕事をしているのだろう。
自分を値踏みし続けた男のことなど、もう思い出しもしないに違いない。
胸の奥が、ずしりと沈む。
逃げる場所も、守ってくれる人もいない。
そんな現実が、じわじわと彼を囲い込んでいく。
――これが、自分の選んだ結果なのだ。
いや、選んだのではない。自分が招いた結果なのだ。
人を尊重できなかった者は、人から尊重されない。
父の言葉が、今になって胸に突き刺さる。
静かな溜息が、暗い部屋に落ちた。
もう二度と、戻れない場所がある。
もう二度と、取り戻せないものがある。
それを知るには、あまりにも遅すぎた。
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