第8話 元老院議長と皇帝陛下
元老院で議決された案は、議長であるゼネクスが登城し、皇帝に上奏される。
ここで皇帝が承認すれば、その案は晴れて成立することとなる。
ゼネクスが謁見に使用される皇帝の間を訪れる。
「陛下、本日の議会で出た案を上奏いたします」
「うむ」
玉座に座るのはグランメル帝国皇帝アーノルド・グラン。
金髪で整った顔立ち、青くゆったりとした皇帝服を身にまとい、その目つきは鋭い。
年齢は三十代で大国の君主としてまだ若いが、すでに十分な貫禄が備わっているといえる。
ゼネクスから渡された上奏の書面にじっくりと目を通す。
「なるほど、職人ギルドへの助成金、及び人間の常識を学びたい異種族に対し、そのような教室を開く、か」
「はい」
この時ばかりはさしものゼネクスも緊張する。
議会でまとまった意見でも、皇帝の承認を得られなければ、それは議会に差し戻されることになる。
実際にそうなったことも一度や二度ではない。
ゼネクスがかつて言った「皇帝陛下を飛び越えたことはない」というのは真実なのである。
アーノルドは書面から目を離し、おごそかに告げる。
「よいではないか。これらの案に基づき、余の名前において正式に発布しよう」
「ありがとうございます」
ゼネクスが一息つく。
「ふぅ、上奏の時にはやはり緊張いたしますな」
「余も同じだ」アーノルドが返す。
「何をおっしゃいます、陛下」
「いやいや、ゼネクス、余とて同じ。ゼネクスからの上奏を受ける時は緊張しているぞ」
「ご冗談を……」
「いや、本当だ」
アーノルドが右の掌を見せる。汗でじんわりと濡れていた。
「だいぶ緊張しておりますな!」
「だろう?」
アーノルドが笑う。
「しかし、余も皇帝として少しは成長できた実感がある。これというのも、やはりゼネクス、お前のおかげだ」
「もったいないお言葉です、陛下」
「陛下……か。余も、そうやって呼んでもらえるようになったのだな」
「おっしゃる通りです」
若き皇帝アーノルドと元老院議長ゼネクス。
二人の中で同じ記憶がよみがえる。
あれは十数年前のこと――
***
アーノルドの父である先代皇帝が崩御した。
帝都が深い悲しみに包まれる中、帝国上層部はすぐに次の仕事にかからねばならなかった。すなわち、皇太子アーノルドの即位式である。
すみやかに後継者を立て、新たな皇帝の元、帝国の舵取りをせねばならない。
ところが――
「アーノルド様は?」
「また街に出向かれたそうだ」
「何を考えているんだ、あの人は……」
家臣たちがざわついているところへ、ゼネクスが通りかかる。
「どうしたんじゃ?」
「それが……」
家臣たちが言うには、次期皇帝であるアーノルドと打ち合わせをして、即位式の日程などを決めたいのだが、本人にまるでその気がないという。それどころか、今夜も街に遊びに出ているという。
「なぜ誰も殿下を諫めないのじゃ?」
「なにしろ気性の激しい方で、特にお酒が入ってしまうと……」
弱腰の家臣たちにゼネクスはため息をつく。
「分かった。ならばワシが行こう」
「ゼネクス様がですか!?」
「このままでは他の皇子たちが『兄にやる気がないのなら自分が』と手を挙げて、後継者争いになってしまうぞ。それでもよいのか」
「いえ、それは……」
「とにかくワシが行ってこよう。帝国のために、殿下にはしゃんとしてもらわねばならぬ」
ゼネクスはそのままその足で、馬車も使わずにアーノルドの元に向かった。
アーノルドがいると聞いたのは、帝都中心部にあるパブであった。
宮殿を模した外観と金銀をふんだんに使った派手な装飾がウリの、貴族の御曹司御用達の高級店である。
ゼネクスは眉をひそめつつ、中に入っていく。
アーノルドは一番奥の席にいた。白い開襟シャツを着て、赤いスラックス、周囲にはホステスたちをはべらせている。
美男子といえる男なので、その構図は不思議と様になっていた。
ゼネクスはその前に立つ。
「……ん?」とアーノルド。
「元老院議長のゼネクスです」
「……ああ、どうりで迫力があると思った。なんの用だ?」
「城へお戻り下さい」
酒に酔い、へらへらと笑っていたアーノルドが真顔になる。
「なんで?」
「お父上である先代皇帝が亡くなられ、次に帝国を舵取りするのはあなたです。そのために様々な手続きを取らねばなりません」
アーノルドは答えず、テーブルの上にある酒を飲む。
「殿下!」
「この俺を見て分からないか? 俺は次の皇帝になるつもりなんてないんだよ」
「しかし、あなたが後継者であることは前々から決まっており、そのための教育も受けてきたでしょう」
「受けてきたさ。だからこそ、分かったんだよ。俺があの父上と同じように皇帝をやっていくなんて不可能だって」
アーノルドの父は確かに名君だった。
即位からその最期の時まで、特に大きな問題を起こすことなく、皇帝としての使命を果たし続けた。
ゼネクスとて、その手腕は認めていた。
「皇帝なんてのは、俺ならやれるって自信がある奴がやればいい。それだけさ」
「もちろん、皆も殿下をサポートします。むろん、この私も。そうして少しずつ皇帝として自信をつけていけばよいのです」
これにアーノルドは「ケッ」と首を揺らす。
「そして事あるごとにこう思うんだろうさ。『あーあ、先代ならもっと上手くやってくれたのに』ってさ」
「そんなことは……」
アーノルドの目つきが鋭さを増す。
「もういいから放っておいてくれよ! 帝国はあんたみたいな有能な人が勝手に動かしてくれりゃいいんだよ! 俺はここで酒飲んで楽しく暮らすからよ!」
「いい加減にしろ、アーノルド!!!!!」
店中に響くような一喝であった。
声の主はむろん、ゼネクス。
「な……!?」アーノルドも狼狽する。
「帝国を動かせるのはお前だけだ。なんとしても動いてもらわねばならぬ」
「俺のことを“お前”だと……?」
「なんだ、不服か」
「当たり前だろうが! 俺は皇族だぞ!」
「皇族ゥ? ワシの目には赤ら顔でくだを巻いているダメな兄ちゃんにしか見えんがな」
アーノルドの眉間にしわが寄る。
「おい、ゼネクス。グランメル帝国には皇族に対する不敬の罪ってのがある。時代遅れのカビの生えた法律だが、今だって適用しようと思えばできるんだぞ」
「ほう? 適用したらワシはどうなる?」
「処刑だ!」
アーノルドが立ち上がり、皇族用の剣を抜く。名剣だが、本来は儀礼の時以外、まず抜くことはない剣である。
周囲のホステスたちが逃げるように離れる。
「少しは皇帝っぽいところもあるではないか、アーノルド」
「まだ言うか!」
「じゃ、やってくれ。ワシの首を刎ねてくれい」
ゼネクスは床にあぐらをかいて座り込む。
「なにい……!?」
「これでもワシは元老院議長。その首を刎ねれば、少しは皇帝として貫禄も出るじゃろう。自信を持って、皇帝になれるかもしれんぞ」
「……ッ!」
ゼネクスはまっすぐ前を見据える。
「ワシの命が帝国の礎になるなら本望。さあ、やってくれい」
アーノルドは剣を構え、振り上げる。
周囲から悲鳴も湧く。
ゼネクスは目を閉じない。遠くを見つめる。そして、本気でこう思う。
(ジーナ、リウス……すまん。ワシはここで死ぬ。しかし、これも殿下が一皮むけるため、帝国のため。許してくれ)
だが、刃は振り下ろされない。
「ぐ、ぐぐ……」
「どうなされた」
アーノルドの手は震え、剣を落としてしまう。
「う、ううっ……」
アーノルドはそのまま膝をつき、うなだれる。
「無理だ……俺には……!」
ゼネクスは黙って見守る。
「俺は……首を斬る、だなんて偉そうに言っておきながらこうしてビビってしまう。この程度の男なんだ……。俺には皇帝なんて無理なんだよ!」
だが、ゼネクスはにこやかに笑う。
「そんなことはありませぬ」
「え……」
「今ワシはあなたに命を救われたのです」
「へ……?」
「ついさっき、ワシは死を覚悟しました。しかし、あなたは処刑をおやめ下さった。おかげでこうして生きている。また妻や息子に会うことができる。そのことにワシは心底ホッとしとります」
アーノルドは首を横に振る。
「それは、俺が怖気づいただけで……」
「だとしても、ワシは救われたのです。元老院議長であるこのゼネクスの命を救う。それは先代皇帝でもできなかったことです」
「……」
「立って下され。あなたなら、きっと立派な皇帝になれる」
アーノルドはしばらくうつむいていたが、やがて顔を上げ、立ち上がる。
「ありがとう……ゼネクス。俺は皇帝になるのが怖かったが、ようやくほんの少し勇気が出てきたみたいだ」
ゼネクスは嬉しそうに目を細める。
「だから、もし……俺が皇帝に相応しい男になれたら、その時は“陛下”と呼んでくれるだろうか?」
ゼネクスはうなずく。
「承知しました。アーノルド様」
アーノルドはニヤリとする。
その後、アーノルドは城に戻り、重臣らと打ち合わせをし、即位式を迎えた。
皇帝となってからも、ゼネクスはしばらくアーノルドを「アーノルド様」と呼んでいた。
だがいつしか、どちらも気づかぬうちに、自然と「陛下」と呼ぶようになっていた。
***
皇太子時代の記憶を振り返り、アーノルドはゼネクスに向き直る。
「あの時の一喝があったから、今の余がある」
「でしたらワシもあの時、命を差し出した甲斐がありましたな」
「余はゼネクスを殺そうとして、同時に命を助けた男になるわけか」
「そうなりますな」
ハッハッハと二人で笑う。
「ところでゼネクスよ。家臣から耳にしたのだが、近頃自分の威厳で悩んでいるそうだな」
陛下までご存じだったかとゼネクスは苦笑する。
「ええ。町を歩いていると、市民を威圧してしまうようで……できればもっと親しみのある議長になりたいのですが」
「ふうむ、お前らしい悩みといえば悩みだな。なにか協力できることはあるか?」
この問いに、ゼネクスは少し考えてからこう返す。
「でしたらワシの柔らかいエピソードなどを、陛下の口から広めてくれるとありがたいのですが」
「分かった。善処しよう」
「ありがとうございます……!」
ゼネクスはアーノルドに心から感謝した。
***
数日後、議会でゼネクスはフレイヤとデクセンに話しかけられた。
「議長殿、聞きましたよ!」とフレイヤ。
「何をじゃ?」
「皇帝陛下がまだ皇太子だった頃の逸話を……」
「え」
ゼネクスは驚く。
「皇帝になりたがらない陛下を一喝し、さらには命まで差し出し、陛下の心を開かせる! 実に劇的なお話に感動いたしました!」
隣にいるデクセンもうなずいている。
「ワタシも聞きましたよ! いやぁ、それを聞いた時はワタシの鱗もビビビッと反応しました!」
「な、なぜそれを……」
「数日前から城内で広まってるらしいですよ、このお話」
デクセンの答えにゼネクスは愕然とする。
広めたのは誰か、一人しか考えられない。
「や、やられたッ! おのれ、陛下~~~~~!!!」
その頃、皇帝アーノルドは玉座にて“してやったり”の笑みを浮かべていた。
「ゼネクスには感謝していると同時に、一度やり返したいとも思っていたのだ。これからも威厳ある議長でいてくれよ、ゼネクス」