2 婚約破棄
「医者を呼んで! 早く!!」
静かな屋敷に、悲鳴のような声が響く。
急いで医者が呼ばれ、クリスティーンの部屋へ駆けるように入っていく。
「お前は、なんてことをしてくれたの! あの子になんの恨みがあるの!!」
ばしりと頬に鋭い痛みが走った。
爪が頬をかすり血が滲んでも、母親は気にもせずジョアンナの胸を叩きつけた。叩かれた勢いで座り込んでも、しつこく拳を突き上げて、頭や肩にその拳を振り下ろす。
「お前は、なんてことをしたの! 妹を、殺そうとするなんて!!」
「私は、なにもしていません!」
「嘘おっしゃい! だったらなんで、あの子があんなことに!!」
崖下に落ちたクリスティーンは、意識を失ったまま運ばれた。
頭から血を流し、手足はおかしな方向に曲がり、まるで人形が壊れたみたいに横たわっていた。特に顔半分は火傷をしたように真っ赤になり、クリスティーンとは思えないほど膨れ上がっていた。
「あの子が、なにをしたと言うの!? あの子が美しいからと、恨みでもあったのでしょう!? 突き落として、妹を殺そうとするなんて!!」
そんなことはしていない。そう言いたかったが、母親がジョアンナの髪を引きちぎらんばかりに引っ張って、勢いよく床に倒してきたので、悲鳴しかあげられなかった。
「お前が、お前が崖から落ちれば良かったのに!!」
「やめてください、お母様!」
「やめなさい。見苦しい!」
母親がジョアンナに馬乗りになって、頬や頭を力一杯叩き続けていると、ピシャリと父親の声が届いた。
父親は母親とジョアンナの間に割って入ることはせず、口だけでそれを止めて、蔑むような視線をジョアンナに向けた。
「お前の婚約は破棄だ。連絡が来た。婚約者の前で、妹を崖から落とすなどと」
「そんなことはしていません。私を突き落とそうとしたのは、」
「うるさい! 口答えするな! クリスティーンが崖から落ちたのは事実だ! クリスティーンは意識不明で、お前は妹を殺しかけた! なんという、愚かな真似を。お前たち二人とも、家を継ぐこともできぬ女でありながら! あの顔の傷では、治っても嫁に行くのは難しい。まったく、なんて余計なことをしてくれたんだ。クリスティーンの結婚が叶えば、それなりの援助が得られるはずだったのに!」
父親はクリスティーンの心配はまるでしておらず、利益にならなくなったことを悔やむだけ。父親の言葉に愕然としたのは、母親の方だ。
「あなた、クリスティーンがかわいくないのですか!?」
「うるさい! ジョアンナ、お前は部屋に戻っていろ。大人しくしているんだ!」
「あなた!?」
母親は噛み付くように返したが、父親は話を聞こうともせずに部屋を出ていってしまった。
床に崩れるように座り込んだジョアンナを置いたまま、母親はジョアンナを睨みつけ、その後を追った。二人が出ていけば、メイドたちも困ったようにしながらその場を後にした。
頬が痛い。ジョアンナはゆっくりと立ち上がる。ずきりと足首が痛んだ。先ほど突き飛ばされたせいで、足首も痛めたようだ。
なにを言っても、相手などしてくれない。
母親はクリスティーンばかりを気にして、ジョアンナの言うことなど聞きもしない。
父親はいつも通り、子供の心配などしもしない。
けれど、こんな状況でも、ジョアンナの話を聞いてくれないとは。
いや、こんな状況だからこそ、ジョアンナの言葉など聞きたくないのだろう。
ずきりと胸が痛む。慣れた対応とはいえ、ジョアンナを憂いる気持ちなどほんの少しも持ち合わせていないのだと、思い知らされる。
「お嬢様、大丈夫ですか!? 首にも引っ掻き傷が。手にも、ひどい傷です。手当てをしないと!」
足を引き摺りながら部屋に戻ると、メイドが一人、走り寄ってきた。
その顔にホッと安堵する。ジョアンナを心配してくれる、唯一の人が手を差し伸べてくれた。
ジョアンナの専属メイド、マリアンだ。三人で出かける際にマリアンは馬車でクリスティーンの専属メイドと待機していたが、そのメイドがショックで動けなかったため、クリスティーンの側に付き添っていた。騒ぎに気づいて部屋に戻ってきたようだ。
「マリアン、クリスティーンは?」
「まだ、どうなるかわかりません。お医者様がついていらっしゃいます」
「そう」
「お嬢様がクリスティーン様を突き落としただなんて、信じていませんからね! 一体、何があったんですか?」
「クリスティーンに、殺されかけたの。私を崖から落とそうとして、揉み合いになって。そう、なにかを投げてきたのよ。でも、それが跳ね返ってクリスティーンに当たって。まぶしさに目をつぶれば、クリスティーンが足を滑らして、崖下に落ちそうになって」
どうしてあんなことになったのか、思い出してもよくわからない。クリスティーンが滑り落ちるのを見て、咄嗟に手を伸ばし、その手をつかんだ。
クリスティーンはなぜか、腕や顔に火傷のような傷を負っていた。その腕をつかんだため、悲鳴を上げた。その腕だけでクリスティーンの体重を支えることはできず、血に濡れた腕も滑り、ジョアンナの手からすり抜けて、落ちていったのだ。
ぞわりと背中が泡立つ。クリスティーンが落ちた、あの瞬間。恐怖に歪んだ顔が、頭から離れない。
ゆっくりと落ちていったクリスティーンの体は、地面にたどり着くと跳ねるように転がった。人形のように、あり得ない方向に腕や足を曲げながら。
寒気に震える体を押さえれば、手足がカタカタと揺れた。
「マリアン。なにが起こったのか、私もわからないのよ」
涙が流れてくる。どうして、こんなことが起きたのだろうか。
「お嬢様。落ち着いて、しっかり聞いてください。クリスティーン様は、高熱で顔や腕を火傷していたんです。その、なにかを投げてきたというものは、魔道具の可能性があります」
「魔道具?」
「クリスティーン様が投げた物は、魔道具に違いありません。ですが、なにかに失敗し、クリスティーン様が火傷をおったのです。医者が言ったんです。魔法の痕跡ではないかと。崖から落下して、火傷なんてしません!」
たしかに、腕をつかんだ時には、クリスティーンはすでに出血していた。それは発光の後で、崖下に落ちる前だ。
「でも、あの光は、私から跳ね返ったようにも見えたのよ。あれはなんだったのかしら」
「それはわかりませんが、クリスティーン様がお嬢様を呼び出したのは、お嬢様を殺すためだったということではないですか!」
事実を口にされて、ジョアンナは息が止まりそうになった。
クリスティーンは、父親を説得できないと考えたのか、ジョアンナを殺そうとしたのだ。
魔道具を使ってまで、崖下に突き落とそうとした。
「なんて恐ろしい。旦那様はなんとおっしゃっていたんですか?」
「なにも。大人しくしていろとだけ」
「そんな。お嬢様はなにもしていないのに。あ、ここにも、ひどいあざが。奥様に殴られたのですか?」
「ここは、クリスティーンが」
手首にくっきりと指の跡が残っている。クリスティーンの腕をつかんだ時、クリスティーンが握ってきた手の跡だ。クリスティーンは、離さないでと、何度も懇願した。
それなのに、
「お嬢様、気を落とさないでください」
「私が、クリスティーンの手を、離してしまったのよ」
握られた手首が、今さら、ひどく痛んできた気がした。
母親は子供の頃からクリスティーンを可愛がっていて、祖母に似ているジョアンをあまりよく思っていなかった。祖母はジョアンナを可愛がり、母親を嫌っていたからだ。
家族でも、血が繋がっていても関係ない。
クリスティーンがジョアンナを殺そうとしたなどと言っても、母親にとってはただの言い訳にしかならない。
騒ぎの中、いつの間にかいなくなっていたレオハルトは、婚約破棄を申し出ていた。父親はきっと受理することだろう。
ジョアンナとレオハルトの婚約破棄が決まったとしても、クリスティーンは意識を失ったまま、目が覚めない。二人が婚約するかは、まだわからなかった。
「ひどい悪夢だわ」
なにが起きているのか、未だ理解できない。魔道具を使ったとなれば、どこでそんな物を手に入れたのか。
「魔道具なんて高価な物、購入すれば、すぐにお父様に気づかれるわ」
「他のメイドに聞いてみます。いつ、どこで手に入れたのか。あの、でも、言いにくいことを言いますが、あの男が渡した可能性は?」
マリアンは名前も呼ぶのも嫌だと、レオハルトをあの男呼ばわりする。
(クリスティーンのことに気づいてから、私以上に怒ってくれていたものね)
あの頃に、父親に告げていれば良かった。そう思いながら、今さらだと心の中でかぶりを振る。
クリスティーンはジョアンナが邪魔だった。レオハルトも同じだろう。
レオハルトがクリスティーンに魔道具を渡した。その可能性はあった。けれど、そんなものを購入しなくとも、クリスティーンと一緒にジョアンナを突き落とせば良いだけだ。男の力であれば、ジョアンナは簡単に崖下へ落ちただろう。
「では、関わりはないってことですか」
「私を崖下へ落としても、婚約消滅となるだけよ。さすがのお父様も、私が滑落死したからといって、その婚約者を妹に、とはならないと思うの」
「それもそうですね。旦那様は、世間体を気になされますからね」
父親は、自分がどれだけ有能で金を稼げるかを見せるのに躍起で、娘たちはその道具に過ぎなかった。いかに良い家に嫁がせ、その繋がりを得るのか、そればかりを考えていた。
レオハルトとの婚約が簡単に進んだのも、そのためだ。
レオハルトは王の祖母の家系の生まれで、知名度がある。その知名度だけでも、父親には有益なのだろう。王族ではなくとも、その関係に嫁いだ娘がいるとなれば、それだけで他方への繋がりを付ける自信があるのだ。父親は事業に長けた人で、自らの財力を増やすに手段は選ばない。
だが、名前のためだけに、死んだ姉から妹に婚約者を鞍替えさせる真似は避けるはずだ。そこまでレオハルトの家名に加わりたかったのかと噂されることを、父親は好まない。レオハルトの家、セディーン家の財力が余程のものであれば違っただろうが、クリスティーンを後添いに望んでいる男に嫁がせた方が得だと考えるはずだ。
「でも、あの男がそう考えるでしょうか」
「レオハルトも、死んだ姉から妹に婚約者を変えたと噂されるのは本意ではないと思うわ」
「見えばかり気にする男ですから、そうかもしれませんね」
だからこそ、婚約破棄の動きは早かったのだし。口にせずとも、マリアンもそう思っただろう。ジョアンナも同じ気持ちだ。妹を突き落とした姉と、婚約していられないと考えたに違いない。
「それにしても、魔道具まで用意してお嬢様を突き落とそうとしただなんて。いつもお嬢様のものばかり欲しがっていましたが、とうとう婚約者まで欲しがって、その上! ……ですが、婚約破棄されて良かったです。あんな男、最初からおかしかったんですよ!」
「けれど、こんなことになるなんて」
「はっきり申し上げますが、自業自得です! 婚約破棄もお嬢様にとって良いことですよ! どうか、気を落とさずに! お嬢様が無実であることは間違いないんですから!」
なにもしていないのだから、クリスティーンの目が覚めればすぐに訂正できるだろうと言うマリアンの慰めに、ジョアンナは頷いた。
しかし、妹を殺そうとした姉として婚約破棄をされたと噂されるのは、すぐだったのだ。