手紙
やあ、泰山。
お前がこの手紙を見つけてくれたということは、俺の勧めた本をやっと読んでくれたということかな。
下巻に挟む予定だから、上巻が気に入らなければ手に取らないはずだ。
凋落した男の話など読まないと言ってたが、中々面白いだろ?
それとも要らぬ本を処分しようとして気付いたかな。
挟んであったことに気付かずにそのまま捨てられるんでもいいさ。お前の性格だ、古書店には持っていかないだろう。
これはな、俺の、最初で最後の恋文だ。
この手紙を、俺は今、日の出を見ながら書いている。
お前が朝帰りから帰ってきたら告白しようと待ち構えながら、同時に失恋の準備もしてるというわけだ。
お前は何て言うかな。
俺の気持ちにまるで気付いていないだろうから、吃驚して怒り出すかな。
お前は吃驚させられるのが嫌いだからな。
初めて逢った時のことを覚えているか?
俺はよく覚えてるよ。
お前はあの時も怒っていたな。
俺が十二の時に親父に売られるようにして奉公――時代錯誤な言い方だがその言い方が一番しっくりくる、給料は出なかったからな――に上がったあの丸藤屋の、あのボロい社員寮に、十五の時にピカピカの車でお前は捨てられたっけ。
どこだかの金持ちの愛人の息子。
母親が亡くなった途端に下請の会社に押し付けられたお前は、あの時身体中から火が出るかのように怒ってたっけ。
俺は、知ってると思うけど、最初お前が嫌いだったよ。
十二の時から必死で働いてて、十五でやっと居場所ができたくらいの時だったのに、お前がポンと入ってきて、しっちゃかめっちゃかにしたんだ。
おぼっちゃんだったかなんだか知らねえが威張り散らしやがって…。丸藤の旦那も、お前に逆らうなって言うしさ。
俺は実の親にめちゃくちゃに殴られて生きてきて、丸藤に来て、やっと三食食べられて学校にも行けるようになったんだ。
そりゃ日の出前から工場の掃除して、夜は社員全員が風呂から上がってから風呂掃除するまで働きっぱなしで、部屋は他の社員と雑魚寝だったから布団かぶって懐中電灯で勉強して、天国とまではいかなかったが…とにかく三食食べられた。
行儀良くして、旦那様にも気に入られて、奨学金が出るなら夜学の高校に行ってもいいとまで言って貰えて…。
そこにお前が来て、俺の寝る場所を奪って、俺より後に起きて俺の分の飯まで食っちまう。
頭に来たな…死んでくれって思ったよ。飯の恨みは深いんだ。
でも、俺が旦那様の寝室にいるところが奥様にバレて、文字通り裸足で真冬に追い出された時、俺を探してくれたのはお前だけだったな。
お前があの時、あの寒い中、懐中電灯振り回して、他所の家の前のゴミ箱開けながら、植木の陰を照らしながら、「暁月、暁月」って探しながら近付いてくるのが見えて、不思議だったよ。
可愛がってくれてた旦那様でもなく、先輩でもなく、仲が悪かったお前が、「暁月、いるか、暁月…」ってな。
今でも不思議だよ。
何であの時、探してくれたんだ?
お前が裏で丸藤の旦那様に交渉してくれて、俺は奥様の目に届かない下請の工場に移って、遠くなったけど夜学も通い続けることができた。
俺は望んで旦那様のお稚児さんになったんじゃない。
親父にも親父の友達にもヤられてたからそりゃ未通じゃあなかったけど、人格者に見えた旦那様に最初に部屋に呼ばれて首を舐められた時は…まあこの話はいい。
あの日暮里の工場時代は楽しかったな。
寮がないからってんで、近所の安いシェアハウスに住んで…生まれて初めて小遣いじゃない、給料も貰えてさ。
シェアハウスなんて流行りの名前付けてたけど、風呂はタイルが剥がれまくってたし、トイレだってかろうじて洋式だったけど上から伸びるチェーンを引いたら水が流れる方式の、古いトイレだった。でも、雑魚部屋じゃない、俺だけのベッドがあった。嬉しかったな。
そう言ったらお前が羨ましがって勝手に転がり込んで来ちゃって。
あれで俺は、お前に礼を言うタイミングを逃したんだよ。
シェアハウスに居た、佐々重さん、安田さん、吉次さん、覚えてるか?あの三人組がいて、麗子さんがいて、お前がいて、あの時は本当に楽しかったな。
佐々さん達は全員麗子さんに惚れてて、でも表に出せなくて。明らかにお前をライバル視してた(俺は蚊帳の外)。
でも俺達から見たら、麗子さんって佐々重さんにベタ惚れだったよなあ。他の二人も本当のところはそれがわかってるようだった。
平日は全員クタクタでお互い関わらないのに、土日はリビングに引っ張りこまれて安田さんに説教されたり吉次さんの変な歌聞かされたり。
楽しかったよなあ。
生まれて初めて楽しかったのがあの時代だ。
いや、あの時代から、というべきかな。あれからずっと、俺は楽しいよ、お前がいたからだ。
麗子さんが家の都合やらでいなくなって、その後に結城さんが入居してきて。
平日からクッキー作ったり夕食作ってくれたりしてさ。
佐々さん以外は結城さんに世話焼いてもらって最初はデレデレしてたけど、結城さんはあからさまにお前狙いで、なんとなく雰囲気が悪くなってしまった。
結局、佐々重さんが出てったら他の二人もすぐに引っ越しちゃったもんな。
元気かなあ、あの三人組と麗子さん。
三人組の代わりに来た、もう名前も覚えてない大学生達はタチが悪かった。
古民家シェアハウスだの昭和レトロだのいう言葉に踊らされて入居して、不便さに文句ばっか言ってたっけ。
結城さんはあの大学生達と順番に寝て、懲りずにお前にも粉を掛けていたけれど、お前は「貧乏人とは寝ない」なんて言って突っぱねてたな。お前も苦学生だったくせにさ。
んで、結城さんのお遊びみたいな感じで俺はあの大学生達に襲われて…あの時助けてくれたのもお前だった。
あれは忘れられないなあ。俺はこんなだから、男に襲われるとすぐ諦めてしまう。
お前は、そんな俺にも怒ってたな。
怒ってたけど、それをボロボロの俺には言えなくて、女性の結城さんにも手を上げられなくて、大学生達をひたすらぶん殴ってた。変な話、泰山も大人になったんだなあってあの時思ったよ。
「こんなとこ出て行こう」そう言ってくれたな。
「出て行った方がいい」ではなく、「出て行こう」と…。
あの言葉がどんなに嬉しかったか、お前は知らないだろう。
それで二人で、このボロアパートに引っ越した。
アパート決めるのに揉めに揉めたけどなあ。
俺は根っからの貧乏人で守銭奴。お前は上昇志向バリバリの出世欲の塊だ。
いずれこの世に一旗揚げて、自分を見下した者達全てを踏み躙るんだって、そういう気勢でいた。
「こんなボロアパートで出世が望めるか」
というお前に、「立身出世したやつの出発点はだいたいボロ家だ。こんなとこに住んでた奴が、高層マンションのてっぺんに行くようになるから、夢があるんじゃないか」って俺の説得に、単純なお前が段々納得していって…。
それももうすぐ現実になるな。
お前が優香里さんと結婚したら、高層マンションのてっぺんどころじゃない、高層マンションごとお前の……
筆が乱れた。
お前が幸せになるのが、率直に言うと、寂しい。
とにかく、お前は、彼女を手に入れたわけだ。
金儲けするなら不動産だ、って宅建の資格取って、不動産協会に高い金払って登録して、司法書士事務所で修行しながら人脈を広げて。
自分の力で成り上がっていく一方で、後ろ盾になる女性を探していた。
仲間の不動産屋の社長の娘や、顧客になったそこらの地主の娘に秋波を送られながら、自分の評判を落とすような遊び方は決してしなかった。
優香里さんは、バブルの後から手堅く儲けてきたデベロッパーの社長の娘で、美人だし、明るいし、お前は遊んでると言ってたが、結婚したら案外良い妻良い母になるんではないだろうか。
優香里さんを見つけて、今日はデートに応じてもらえた、今日は親に挨拶に行こうと言われた、と浮かれるお前を見ながら、俺が毎日何に悩んでたと思う?
俺はな、お前に一度でいいから抱いてくれって言おうとしてたんだ。
一生に一度でいい、好いた男に抱いてもらえたら、今後は独りでも生きていけると思った。
だが、抱いてもらったらこの胸の間隙が大きくなって、生きていけぬような気もしてな、それで悩んでた。
だがお前が、「優香里さんを抱いた」と言った時に、目が覚めたよ。
俺は自分の欲望ばかりだ。
こんな鶏がらのような男を、抱けと言われても、お前を困らすだけだった。
危なかった。
今となっては、言わなくて本当に良かったと思う。
さて、そろそろ帰ってくる時分かな。
なんて告白しようか、もう決めてるんだ。
「愛してる」と言うつもりなんだ。
愛なんて、とお前は思うだろうな。
肉親の縁が薄いせいなのか、お前は愛だとか情だとかいう言葉を忌避しているように見えた。
優香里さんのことも、金持ちの三女で、本人は社交的、財界にも顔の広い両親のお陰で一気に儲けられるから選んだと言ってたもんな。優香里さんは優香里さんで親にうるさく言われない夫役を探してたから丁度良かったと…。
わかってると思うが、責めてないぞ。
金や権力の為なんて、という奴は、それを持ってる奴らに踏み付けにされたことがない奴だけだ。
金を出してやってるだろうと押さえ込まれて犯されたことが一度でもあれば、そんなこと口が裂けても言えない。
でも俺は、それでも、お前が、いずれ、いつか、優香里さんを愛するようになればいいと思うよ。
そうして、優香里さんもお前を愛するようになってくれればいいと思う。
お前の為ではない。
優香里さんの為でもない。
ただ俺は、この俺の一世一代の恋が、出来れば愛に負けたのだと思いたいのだ。
俺を踏みつけてきた金や力なんかではなく…。
ああ、帰ってきたな。下を歩くお前が見えた。
ドキドキするなあ。不思議な気持ちだ。
言えるかわからないから、手紙で言うよ。
泰山、ありがとう。
これからお前にどんな顔をされて、なんて振られようと、俺は平気だ。
いつも見る夢を楽しみにするよ。
あの痛い程寒い冬の夜に、お前が俺を呼びながら近づいて来る。
「暁月、いるのか、暁月」てな。
さようなら
藪 暁月