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2 忘却と朝の教室

 どうして

 どうして、こんなこと

 どうして…

 壊れたロボットみたいに、繰り返す。


 何が、どうして、なのか。

 何が、こんなこと、なのか。

 わからないけど、ただ繰り返す。

 胸が締め付けられる。

 でも、理由なんて知らない。


 どうして、

 それでも、ただただ繰り返す。

 繰り返す事で少しでもこの苦しさが消えてくれるかのように、



 ピピピ…



 どうして

 世界が急激に変貌していく。

 その答えを知りたいのか、知りたくないのか。

 それすらも判然としないまま、



 ピピピピピ…



 掴みかけてもいない答えと共に、問いかけの言葉すらも指の間をすり抜けていく。

 締め付けられる様な胸の痛みさえも失われていく。



 ピピピピピピピピピピピ



 執拗に鳴り続けるアラーム音に無理矢理夢の中から引き出される。

 夢の残滓ざんしと言えば甘酸っぱいんだかほろ苦いんだか、はたまたえぐいんだかわからない胸の奥に微かに残る感傷の痕ぐらいのもの。

 どんな夢を見ていたのかも覚えてないのはいつもの事。


 うつ伏せのまま腕をのばし目覚ましを止める。暫くはそのままのポーズで固まっていた身体をモゾモゾと動かす。

 身体を起こし顔面に掛かった髪を振り払うように頭を動かすとようやくほんの少しだけ意識が鮮明になる。


 小さく伸びをしてベッドから下りると、ふらふらと洗面所に向かう。顔を洗いまた少しだけ眠気を飛ばし、適当に手櫛で寝乱れた髪を整える。

 鏡の中に映るのはまだ眠そうな糸目の寝ぼけ顔。

 細いアゴに薄いクチビル。

 高くも低くも無い雀斑そばかすの浮いた小作りの鼻。

 少し吊り気味の一重目蓋に細い眉の酷薄そうな愛想のない顔の小娘。

 肩甲骨の長さまで伸びた髪が無ければ男の子と言われても信じてしまうかもしれない。


 歯ブラシを機械的に動かしているうちに鏡に映った右腕の異変―という程のものでもないけれど―に気付く。寝間着の七分袖から覗いた腕に身に覚えのない擦り傷。袖を捲って改めて検分すると、二の腕の裏側にもおおきな青痣が見つかる。

 どうしたんだろ。まだ半分以上は眠った頭で考えるけど、どっちも全然記憶に無い。夜中にベッドから落ちたのかな、そういえば肩とか背中とかが微妙に痛いような気もするけれど、それにしても青痣ってのはダメージが大きすぎない?

 …まあ、でも制服着れば隠れるか。


「大丈夫なの?」

 洗面所に篭ったままの娘を心配したのか母親が顔を覗かせた。

「ん、なんかね、痣できてる」

 寝間着の前を開けて肩口からずり下ろして背中を鏡に映しながら答える。案の定背中にも青いのや赤いのが並んでる。ベッドから落ちた位ではここまで酷くはならないような気がするけど、とは言えそれ以外に心当たりも無い。

「…覚えて無いの?」

「んー全然」

「どうした?」

 鏡の中にひょいと現われた影―普段ならとうに出かけているはずの父親―に慌てて寝間着の前を合わせて叫ぶ。

だ、何で居るの、覗かないでよ!」

「何言ってるの、お父さんあなたのこと心配して」

「心配?何で?」

 聞き返すと何故だか母親は黙ってしまう。何だ?

 父親がダイニングに引っ込んだ事を確認して、もう一度寝間着をずらせて背中を検分する。

「何かやったかなぁ」

 何かにかったか、けられたとしか思えない痕だけど、てんで記憶に無い。


「ご飯食べられる?」

 微妙に不自然な問いかけに首を傾げながらも、頷いてダイニングテーブルに着く。父親は相変わらず着替える様子も無く何となく遠慮がちにこちらを見ている。さっき叫んだから拗ねたのかな。

 トーストとバナナにホットミルクといういつもの朝食を食べているといつの間にか時計の針はいつもならもう出かけている時間に近い。洗面所で無駄に時間を使ってしまった所為だ。

 慌てて冷めたミルクを流し込むと部屋に戻り寝間着を脱ぎ、爪先でベッドの上に蹴り上げながらクローゼットを開けると真っ白いセーラーカラーが目に入った。

 そうだ、今日から夏服、衣替えだ。半袖じゃあ腕の痣も隠せない。とは言え冬服を着て一人で悪目立ちするのも気が引ける。

 他に選択肢もなく、三月に試着して以来の夏服に袖を通す。成長期なんだからとひとサイズ大きいのを勧められたのを断固拒否して買ってもらった夏服は三カ月前と変わらずジャストサイズで、当然二の腕の青痣を隠してはくれない。

 まあ、一サイズ大きくても痣が隠せた訳ではないので、選択は間違っていた訳でもなかったんだろう。


「学校、行くの?」

 スクールバックをぶら下げて部屋を出ると母親が的外れな質問をしてくる。後ろには父親まで控えて真面目と言うか深刻な表情を見せている。

「行くよ、あたり前じゃん」

 その答えに二人は顔を見合わせる。何なのこれ。

「何、今日って何か特別な日だっけ?」

「…そうじゃ無いけど」

 だったら二人して変な顔してんのは何さ

「本当に大丈夫?」

 後ろから付いて来た母親が訊ねる。セーラーの半袖から丸見えの青痣と、見えないけれど背中に見えた打撲の事だろうか。

「平気だよ、痛くも無いし」

 ひじを上げてもう一度青痣を見るが、やっぱり記憶に無い。

「そう…」

 そのきっぱりとした言葉に妙な口調で母親が呟く。

「何?」

「ううん、行ってらっしゃい。車に気を付けるのよ」

「ん、行ってきます」

 何か誤魔化されたような気がするが、時間も無いので追求はせずに家を出た。


 六月の空はひたすらに青い。

 洗面所で手間取って、出かける前の奇妙な問答にさらに時間を取った所為で家を出たのはいつもより随分と遅れてしまった。

 自宅マンションを出ると小さな児童公園抜けるいつもの通学路に向かう。

 すべり台とブランコにジャングルジム。定番の遊具と古ぼけたベンチが広場の周りを囲んだ小さな児童公園には人影も無い。

 公園をショートカットしてみても徒歩十五分の道程がそれほど短くなる訳じゃないけれど、少しばかりの立ち木が初夏の日差しを和らげてくれる。

 公園を出て古い家とマンションの混在した住宅街の裏通りを抜けるとバス通りに出る。

 信号待ちの間に向かい側のガードレールの下に置かれた小さな花束に目が留まる。何だか新しそうだし先週は見た記憶が無いから最近置かれたのだろう。

 バス通りを渡って暫くでまた路地に入り、道なりに進んで行く。

 目隠しになった大きなマンションを過ぎると長いフェンスの向こうにグラウンドを挟んで学校が見える。

 ラッシュアワーには少し早いのか前後に登校する生徒の姿は疎ら。知り合いに会う事も無かったので歩みを止めることも急ぐこともせずに校門に辿り着く。

 時間ギリギリになると立っているという生徒指導の教師や風紀委員の姿も見えない。

 もっとも、毎日予鈴ギリギリに飛び込んで来て、生徒指導や上級生の風紀委員と顔見知りだって言う誰かさんと違って、この眼で見たことの無いから単なる噂でしかない。学校の怪談とか七不思議ってのと同じ。


 上履きに両足を突っ込み、スニーカーを靴箱に放り込むと昇降口に近い階段に向かう。

 遅刻する時間でもないけれど、普段通り軽い早足で三階までの階段を上がっていく。両肩で結んだ髪がリズミカルに揺れ、セーラーカラーの上で踊る。

 肩より長い髪は結ばないといけないという校則の定めに従って、この春からは定番となった髪型。

 本当は毎朝結ぶのが面倒で切ってしまいたいのだけど、せめて見た目だけで女の子らしくという母親のたっての希望を無碍むげにもできず、二ヶ月我慢を続けている。

 まあ、中身をなんとかしろと言われても叶えられない不肖の娘としてはせめてもの親孝行といったところ。

 息も乱さず階段を昇りきり、そのままのペースで廊下を進むと開けっ放しの前扉から教室に飛び込んだ。


「おはよう」

 教室を見回すと、ほぼ定番のメンバーがそろった教室に珍しい人影を捕らえる。

 軽く片手を上げて合図するのは小学校からの友人、親友と言ってもいい根岸美也。窓側の最後尾の自分の席に座っている。

 普段なら先に来て出迎えるのは此方の役割なのだが今朝は役割が逆転してしまったらしい。

 なにかあったのかな?

 そんな事を思いながら並んだ机の間を抜けていく。

「早いじゃん」

 声を掛けてからスクールバックを自分の机に掛けると、椅子に横座ると、ニッコリ笑顔と飴玉を持った右手を後席の美也に差し出す。

「食べる?」

「せんせーに怒られるよ」

 美也はいつもの様に明るい笑顔を見せて答える。

「あっそ、要らないんだ」

「うそ、いるってばー」

 スカートのポケットに仕舞う振りをする手首をがっしりと掴んで、美也はその紙包みを奪い取る。目の前に持ち上げてしげしげと眺めると一言呟く。

「なんか大っきー」

 改めて手元で見ると普通の飴に比べるて一回りも二回りも大きい。そう、ピンポン玉は大げさだけど、多分五百円玉ぐらいの大きさはある。

「大玉だもん、早く舐めないと」

 そんな美也に訳も無く得意そうに言う。けれど摘んだ飴玉は短いホームルームでに舐め終わるのは無理なサイズに見える。

 美也はそれでも勧めに従って紙包みを開けて現れた白い飴玉を口にほうり込む。

 目を細め、うっとりと幸せそうな表情を浮かべる。

 まあ女子中学生なんて安上がりなものよね。飴玉一つで幸せ気分に浸れるんだから。

 何だかにまにまと不気味な笑みを浮かべ始めた美也の指先から、包み紙が落ちる。何惚けてんだかって思いながら落ちた包み紙は拾ってポケットに仕舞い込む。

「どうしたの、随分早いじゃん」

 いつもならもう十分は遅く登校している親友に訊ねる。

「どうって…別に…」

 大きな飴玉に片方の頬を膨らませた美也が視線を彷徨さまよわせる。

「早起きしちゃった?」

「うーん、そうかなぁ。あんまし憶えてない…」

 何だか曖昧に答える。何日も前の事ならともかく今朝の事をそれもまだ十分に朝と言って良い時間に訊いているのにこの答えは無いだろうと思う。実は言いたくない事があるのかと疑ってみるがそれならハッキリとそう答えるだろう。ほわほわしている様でそんなところはハッキリしっかりとしているのだ。

「なにそれ、若年性健忘症アルツハイマー?」

「そんなんじゃないもん、ただ…先刻さっきまで夢の中に居たみたいな感じで…」

「中間試験が終わったからって気が抜けたんじゃないの、しっかりしてよ」

 右手を伸ばして美也の頭を小突くと、話題を変える。

「そういえばバス通りに花束置いてあったけど事故とかあった?」

「え、ううん知らないよどこら辺?」

 首を傾げて逆に訊ねてくる。美也の家の方がバス通りに近いので警察や救急のサイレンもよく聞こえるし、幼い弟がいるからか食卓の話題にも上がりやすいのに。

「バス通りから路地に入るちょっと前の処」

「ふーん、気付かなかったなぁ」

「寝惚けてたんじゃないの?」

 結局また戻ってしまうようだ。



「何見てるの?」

 美也の視線を追ってグランドの向こうに目を向ける。

 グランドを挟んで見える通学路に人影が増えてきた。白シャツと白いセーラーの集団。

 その中を一人の女生徒が人波を縫う様に駆けて来る姿が見える。

 まだ遅刻する時間でもないの急いでいるのはどんな理由があるのだろう。

「…和ちゃん」

 そう言われてみると確かに走る女生徒は和美―本多和美、隣席に座る美也の幼なじみ―のようだ。だけど、和美の通学路はあっちじゃ無かった筈だし、それに…

「珍しい、何急いでるんだろう」

 普段なら遅刻ギリギリに登校するので生徒指導の先生や風紀委員と顔馴染みのだという『誰かさん』が、まだ予鈴まで十分はあるこんな時間に走ってるなんて何が有ったのだろうか。

「今日何か有ったっけ?」

「ううん、別に」

 美也といい、和美といい、いつもより早く学校に来るには何か理由がある筈だと思い訊ねる。

 けれど、そもそもそんな心当たりがあれば先刻さっきそう答えている訳なので、当然ながら美也の答えは否定的なもの。

 そうなると乏しい想像力では朝練に遅れそうなのかなってぐらいしか思いつかない。けれど今朝のグラウンドにはソフトボール部の姿は無いし、そもそも朝練なんてそろそろ終わる時間だ。

 かといって他に思いつくことも無い。美也の助けも期待できないとなると直接和美に訊ねるのが一番確実だろう。

いかがでしたでしょうか、切りの良いところまで連投していますので引続きご覧ください。

感想お待ちしています。

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